カガリとヒナは幼馴染だった。両親が同じ会社に勤めていたことと家が近かったことで、二人の仲が深まるのは自然なことだった。
二人がゲヘナ学園中等部へ進学したことを機に両親は再び外部へ向かった。二家族会議で、ハウスキーパーを一人雇うことと、ヒナがカガリの家に住むことが決まった。高等部に上がってからはハウスキーパーでなく二人で家事をすると決めた。
夕食後、ヒナとカガリは洗い物を済ませて別行動を取った。仕事と風呂だ。
手を拭き終えたカガリはすぐさまリビングをあとにした。
ヒナはダイニングのソファにぶん投げていたタブレットをそそくさと取って、肘当てにため息と頬杖をつきながらそれを見る。スワイプしていく。ゆるい部屋着からはみ出た羽が力なく床まで垂れ下がっていた。
ローテーブルにはコーヒーの入った陶器のマグが置かれている。洗い物の最中にカガリがコーヒーメーカーで用意したものだった。
こと、と中身の入ったマグの音が静寂を破る。
「……面倒くさい」
苦り切った声と表情。これは、飲み物のせいではない。
「風紀委員の仕事なんて、ないほうがいいのに」
どうにもそれはゲヘナ学園の総意ではないらしい。またしてもヒナはため息をつく。
お上品に言って、ゲヘナの皆様方は
「ゲヘナパーク」と揶揄してやりたい。思考がそれる。カガリの文言が晴天を自由に飛ぶ鷹のように言ったり来たりする。
ヒナのため息は止まらない。やっと片付いたと思って次の資料へ飛ぶたびに苦い顔になる。
カガリは以前「エンドレスゴーヤ現象」と言っていた。それを思い出して頬を緩めたヒナは、しばしの休憩を取ることにした。タブレットをソファに置く。まだ温かいマグで両手を温める。飲んだコーヒーはやはり苦い。それでもヒナの表情は柔らかかった。
エンドレスゴーヤ現象ももうすぐ終わる。ヒナは風紀委員の座を降りて隠遁するためにエデン条約を進めたのだ。アコを筆頭に引き止める人はいるだろうが、知ったことではない。カガリとは一緒に暮らしているから、風紀委員を降りても一緒にいられる。自治区内の付属大学に進むと決めている。問題などどこにもない。
ヒナは努めて静かにマグを置く。中身は空になっていた。手近な場所にあった四角いクッションをぎゅうと抱きしめる。空気が抜けて柔軟剤の香りがした。これはカガリと同じ香りだ。無意識に羽が動いた。
疲れた、面倒くさい、もう休む!
三年に上がり風紀委員長になってから、朝カーテンを開けて陽光に目を細めるたびに思っていたこと。爽やかな日差しは、それだけで忌々しい輝きと言っていい。クッションを元の場所に丁寧に戻してから、ヒナは再びタブレットを手にした。それを操作する手つきは少々乱暴なものだったが、咎める人物はいない。
しばらくして、カガリがドアを開けて入ってきた。
「あがったよー」室内に響く声に、瞬間的な返事はない。ヒナは緩慢に振り返ってカガリを見上げていた。
「お? また仕事?」
「まあ……この仕事が片付いたら入るわ」
「それ僕がやっとくからいいよ。入ってきな?」
カガリはソファの背もたれに手を乗せ、ぐぐっとヒナの後ろ――右肩からタブレットを覗きこむ。スプリングが軽く鳴いた。「へえ~」と間抜けな声を出しながら要項に目を通していく。タブレットに集まる手入れが行き届いた二人の手には、マニキュアが施されていない。
ヒナは湯上がりのカガリの色香に表情をこわばらせ、カガリはお日さまの香りに意識が向きかける。
「他にももう少しやることあるならやっておくけど? 予算うんちゃらかんちゃら以外だったらできるよ?」
「……申し訳ないけど、頼んでもいいかしら?」
「はいよー。じゃあいってらっしゃい」
一瞬だけ目配せをしたカガリの視線はすでに、受け取ったタブレットに向いている。ヒナの仕事を手伝っているとアコが嫌そうな顔をするので、表では手伝わないと二人で決めていた。
太陽と月の動きみたいに繰り返されてきたやり取り。部屋着のヒナを見送って、カガリはリビングのテーブルにタブレットを置いた。
ストレッチをして業務をやって、課題をしようとしたところでヒナが上がってくる。
「あーもうまたタオルドライもしてなーい! ちょっとヒナさ~ん?」
適当に髪を拭いて、これまた適当にバスタオルを巻いて固定しただけ。「だって」ヒナはばつが悪くて目をそらす。言い訳をしたいが見つからないときのような幼い反応だった。
「ほら、座ったすわったー! 女の子は髪が命って言うよ? 今この瞬間、ヒナは命を雑に扱っている! 僕の前でそんなことはさせない! さあ、急ぐんだ!」ミュージカル風に動いて対面の椅子を叩くカガリ。
「もう、あんまり調子のいいことを言わないの」
どうしてもヒナの顔は緩んでしまった。ヒナは椅子の背もたれに左半身を向けるような形で座った。テーブルに置かれていたタブレットに自然と手が伸びて、残った業務を始めた。
カガリはそれを見て呆れたように笑う。もはや何も言うまい。「失礼するよ」タオルを解くと、床まで届きそうな白髪が人工の光を受けてきらめく。水分が残っている分だけ艶めかしい。
髪から水が滴らないくらいまで丁寧に拭き取って、カガリは脱衣所に置きっぱなしのヘアオイルを取りに行った。
その間にヒナは二つのマグにコーヒーを準備した。
マグの小さいほうを口に運びながら、戻ってきて後ろに立ったカガリに、ヒナはなんでもないことのように問うた。
「合宿の場所を指定するってことは、何か目的があったの? また友だち?」
ヘアオイルを数回プッシュして、手に広げるついでに温めるカガリ。慣れた手つきに動揺はない。
しんと静まり返った室内には二人が立てるわずかな音しかなかった。穏やかな光が、リビングと繋がっているダイニングまでもを照らしている。
テレビは置物となり、低い稼働音を立てていた水槽や鮮やかな緑を部屋に足していた観葉植物は、ハウスキーパーにすべて譲った。部屋の彩りが減っていくことまで含めて、この家は、二人のものとなっていった。
身に着けている色違いの寝間着は、前側のボタンがきっちりと止められている。それは面倒くさがりな二人が積み上げてきた節度からだった。
ヒナの後ろ髪をそっと手に取り、揉みこむように馴染ませていく。
「そ。なんかヒノム火山で怪しいエネルギーが観測されたから見に行ってほしいって。アコにそれとなく確認したら何もなかったっぽいんだけどね。まあ、あの人のことだからまた何か理由があるんだと思うよ。直接は聞いてないけど」
「……私もアコから特別何か起こったということは聞いていない。その時点で、大規模なエネルギーではないわ。念のため情報部にも確認してみる?」
「いや、そこまではしてもらわなくても大丈夫だよ。おそらくだけど、エネルギーが発生したのは確かだとしても、それを観測する設備がゲヘナにないせいで観測できなかったものだと思っているから。そもそも本当の話か分からないし」
「そうなの?」
「調査してほしいのは本当。でもエネルギーの話は方便。その可能性もぜんぜん疑ってるよ。まあ僕からすればどっちでもいいかな」
カガリはときおり、ヒナの知らない人物から情報を仕入れてくる。ブラックマーケットへの出入りが多く、そこを主な見回りの場所として希望したのはそのためだと本人が言っていた。
ヒナはコーヒーを口に運んでからタブレットをスリープにする。目を閉じて、後ろの手つきに意識を向けた。
カガリは風紀委員に所属する一人である。特別な役を担っていない。それでも、自身の幼馴染であるという一点だけで特殊なポジションにいる。心情を読みきれないからこそ不安に思う気持ちもあれば、安心できる気持ちもあった。
熱いコーヒーにアイスを入れたデザートみたいに正反対のものが、ヒナの心には広がっている。そしてアフォガートは、とても魅力的だとヒナは思う。それは
「その友だちは、どうやって観測したの? ゲヘナでもまねができるなら知りたい。あそこは長らく未知のまま放置されていた場所だから」
「ん~……どうだろうな。たぶんミレニアムでもまねできないよ。あの人の技術ってなんていうか
「それを話す気はないの?」
「……できればしたくないかな~。義理っていうか、まあ……取引みたいなものだしさ。僕自身も詳しくは聞いていないしね。そういうものなんだなーって思ってる。危険な目にはあっていないから、大目に見てほしいな」
カガリの手つきは優しい。
ヒナは間を置いて頷いた。もとより死にものぐるいで知りたいわけではなく、自治区の治安維持という観点で役に立つと思ったり、純粋な知識欲で聞きたかったりしただけだった。頷くまでに時間がかかったのは、カガリの信念になんと返事をすればいいのか分からなかったからだ。
「包丁と同じだよ。使い方さえ間違えなければ効果が担保されている」
「でも、カガリが相手をしているのは包丁ではなくて人間だということを、覚えておいたほうがいい」
「まあね~。人……うーん、まあ人、人か……? 間違いないね、ヒナ」
「間違いしかなさそうだったけど。大丈夫?」
笑顔のカガリ。困惑して聞き返すヒナ。
ヘアオイルを置きに行ったカガリは、今度はドライヤーを持ってきた。ものさし一つ分くらい離して電源をいれる。温風によってヒナの髪が宙を舞った。
「目指すべきものへの信念があって、それで合理的なほうが――たとえそれが悪の方面に振り切っているのだとしても、僕はどっちつかずの人間よりも安全だと思うけどな」
「何か言ったー!?」
「言ってないよー!」
わざわざ大声を出さずともドライヤーを止めて話せばいいのに――淡いほほえみを浮かべるヒナの心境が、カガリには伝わってきた。自身も同じように笑う。
そのまましばらく、カガリはゆっくりとヒナの髪を乾かし、ヒナは優しい手つきに身を委ねた。
「今日は角を磨く日だから」研磨剤と乾いたタオルを持ってきたヒナを見て、げんなりと項垂れながらも頬を緩めるカガリは、とぼとぼ歩いてダイニングのラグの上に座った。
「眠くなっちゃって大変なんだよなー……」
「別に寝てもいいわよ? そうしたら膝枕でするから」
「でもそうしたらヒナ、自分のやらないじゃん。それに僕が起きるまでそのままの姿勢で放置してるし。座ったまま寝てることがあるの、知ってるよ?」
首をできるだけ動かさずに、カガリは頑張って後ろを見上げようとする。
「ヒナもちゃんと休まなきゃ駄目だよ」
平穏な一ページを並んで書き連ねた二人の空気は、穏やかなものだ。ヒナが角を磨いて、雑談で笑いあって、少しだけ課題を進めて、日付が変わるころには就寝した。
秋合宿は目前まで迫っていた。カガリはそれよりも、エデン条約のほうが不安だった。