カヨコとイブキは買い物を済ませて旅館に戻った。
中庭に面した縁側をイブキが先に歩く。カヨコはぎこちない表情で後を追う。月光が照らす中庭は、荒れていた。流し目で見て、自分の心のようだとカヨコは思った。
手から提げたビニールが歩くたびに音を立てる。イブキのとカヨコのとではリズムにかなりの差があった。カヨコは無音の世界であれば物思いに耽ることができたが、間断なく続く耳障りな音のせいで、それができずにいた。
道中でカヨコに何度も話しかけていたイブキは、いつの間にか無言になっていた。調子の悪そうなカヨコを気遣っているのだ。
カヨコはそれを申し訳ないと思いながらも、可能ならば今日はずっとこのままでいてほしいとも思う。割合を言えば、後者のほうがだいぶ大きい。イブキの声を聞くだけで狂気的な笑みが脳裏をよぎり、それと合わせて、誘惑の魔の手がカヨコの心をがっしりと掴むからだった。
カヨコは今、心の荒波に飲まれながら、信念を形にしたコンパスを見失わないようにして必死に舵を取っている。
「お。おかえり~」
カガリの穏やかな声がした。
冷水をかけられたようにカヨコは我に返った。こめかみを汗が伝ったのが分かった。あたたかい声をかけてくれるほど懐に入れてくれている相手の信頼を裏切るような行為を、誰ができるだろうか。カヨコの矜持にも反する。ビニール袋を握る手に力が入った。
「ただいま~!」イブキは障子を開け放したままで、暖色に満ちた部屋へと消えていった。
ずっと廊下に突っ立っているのも不自然なので、カヨコは深呼吸をしてから和室に入った。よく響くイブキの明るい声が脳を殴りつけてくる。心の波を高くする。マストにしがみついたとしても、船ごと転覆すれば、コンパスを持っている意味がない。
戸を閉める際にうなじに当たった風は、異様なほど冷たかった。外は寒く、中は暖かい。温度差によって瞬間的に風邪をひいたのか、意識が朦朧とした。
イブキに対して適当に返事をしていたカガリが、不思議そうな顔でカヨコを見つめ、その視線に気づいたカヨコは慌てて笑顔を取り繕った。
食事中、カガリは先に風呂に入ったことと、各部屋をもう一度見て回ったことと、自分たちがいま使っている部屋を掃除したことを話した。
見回すと、テレビの画面にはホコリがついていないし、冷蔵庫の上に積もっていたホコリもない。部屋や棚の隅だけ汚れている様子が、いかにも不慣れな人が掃除を頑張った感じを醸し出している。「お疲れ様」と緩んだ口もとから音が出た。
そこではたと、カガリが掃除をしたことに疑問を覚えた。
「どうして……?」
「ん~、気になったから?」
問えば、なんとなくそうしたという感じでカガリは答えた。「何か駄目だった?」と不安になってしまうくらい、カガリは自分の行動を疑問視していないらしい。
「ううん。掃除は嫌いって言ってたから、意外だなって思っただけ」
「あ~……便利屋にいたときにそんな話したっけ。まあここ、ほら、やることなかったし」
ありあわせの食材で完成させたディナーみたいな、粗の目立つ返答だ。
今考えました。そんなカガリの表情がカヨコの内心を裏づけた。
事実としてそれは言い訳だった。カガリは自分の部屋の掃除すら、面倒くさがってやらない。
「そっか。忙しいときはどれだけ散らかってても気にならないけど、暇になると急に気になったりするもんね」
「それ遠回しに僕の部屋が汚いって言ってない?」
「言ってないよ。何、汚いの?」
「いいや? 物を置かないから汚くなりようがないよ」
「……そういう人って引き出しの中とか押入れの中とかが大変なことになってるイメージあるかも」
カガリがすっと目をそらした。
カヨコの周りには、カガリのようなタイプはカガリしかいない。気が向いたときにアルとハルカが事務所の掃除をしてくれるし、ムツキも意外と自分だけのことは自分でちゃんとやるからだ。ムツキが
微妙な表情で菓子パンをもそもそと食べ進めるカガリとの間に、沈黙が漂った。最後のひと口を飲みこんだカガリは、袋をくしゃくしゃにしながら「お風呂はどうするの?」と言った。
カヨコはイブキと視線を交わし、一緒に入ることを告げる。事務所にいたときからの流れだった。
どうやらカガリは確認したかっただけらしい。彼女はビニール袋から覗く明日のパンに目を移してから、一つ頷いたと思うと黙った。
再び訪れた静けさは、カヨコにとって居心地の悪いものだった。
大きな風呂に浸かりながら、ぼうっとカヨコは考える。立ち上る白が天井に当たって横に広がり、やがて冷やされて床まで下りてくる。地球を小さくしたような循環を眺めていた。
「意外と神経質……」
口に出してみると、本当にそんな気がしてきた。カガリのことだ。
追い詰められていると自覚していたカガリの精神は、さらに一段降りたところまで侵食されている気がした。それこそ本人が自覚できない深さにまで。
しかし本人が分かっていないように、カヨコにも当人の気持ちは分からない。想像の範疇では、という注釈をつける必要がある。幽霊に対して手を伸ばしているような感触が悩ましかった。
顔と体、髪を洗ったあと大浴場を見て回っていたイブキが戻ってきた。きゃっきゃと燥ぎながら勢いよく浴槽に体を沈める。
カヨコの胸や二の腕に当たっていた水面が揺れ、肩口に当たる。少し跳ねて顔にかかった。まったく。この子には、そんなところがある。半分呆れたような笑いを浮かべたカヨコは、楽しそうな金髪の少女に笑みを向けた。心の中で、一言だけ謝った。
風呂から上がったあと、カヨコはすぐにイブキを寝かしつけた。寝息が聞こえる和室の障子をそっと閉じて、縁側に出る。蔵書室にいると書き置きを残していたカガリのもとに向かうためだった。
外には、冷たく乾いた深い闇の気配があった。湿気はあまりない。ところどころで板張りの床が軋んで、今からすることを非難されているような気がして、不気味で不快だった。
蔵書室に入って、カヨコはまず初めに寒さに驚いた。
「え。ストーブは?」
「ん? ああ、灯油ないみたいで」
コートの上から半纏を被ってうずくまっていたカガリは、部屋の隅に目を向けた。電気ストーブと反射式ストーブがあったが、どちらも使えないらしい。引きずられたような跡がホコリの上についていた。
「エアコンもないよ」天井の四辺を順に見ていったカヨコにカガリが言う。
「なんでこんな寒い部屋に?」
「ちょっと。調べ物」
「ふうん」
かがんで、彼女が読んでいたものを覗いてみた。何かの図鑑のようだ。
カガリが逃れるように本を閉じて、それから表紙と背表紙とをカヨコから見えないように半纏の下に隠したので、それ以上は見えなかった。「やましいことだから」とカガリは笑った。寒さで頬が赤くなっていた。
「もう、風邪ひくよ?」
第一歩として、カヨコは頬に触れてみる。冷たくて柔らかい。雪見だいふくみたいだった。食べたらおいしいのかもしれない――いいや、おいしいのだろう。
カガリは目を丸くして動けずにいた。カヨコの笑みに違和感があった。敵対意識ではないと瞬時に分かったけれど、じゃあ自分が向けられているものは一体何なのだと困惑して、フリーズしていた。
裏イブキにされたように、カヨコは獲物の急所を見定める。かじかんだ指先とあたたかな手が恋人のように固く結ばれる。
カガリは引きつった笑みを浮かべ始めた。働き詰めでショートした頭が、それでもなんとか、これはなんだか大変な事態だぞと結論をくだしていた。
「かよこ?」
「うん? なに?」
小首を傾げてみる。カガリはますます口もとを引きつらせる。
押せばいける。カヨコには確信があった。しかしその前に、してもらわなければならないことがある。カガリがあまりにも冷たくなっている。
「お風呂、入り直したら? 冷たすぎ」
「あ、う、うん。そうする!」
どたどたと音を立てて出ていったカガリを見送る。半纏の下から本を引き抜いて題名を見た。
「……『妖怪大図鑑』?」
不思議に思ったが、あまり言いたくない趣味である可能性もあったので見なかったことにした。辞典が置いてある棚に戻すと、『架空の生き物図鑑』『外国の神話』などの本にはホコリがついていなかった。
蔵書室を去る間際に、カヨコは丁寧にそこを見回した。
カガリがここに用事があるとは到底思えなくて、何かしらの理由を求めたからだった。
見たところ、相当に古い。紙や背表紙は色褪せており、加えて独特の臭気を放っている。木でできた本棚にはささくれが目立っている。気をつけたとしても刺さってしまいそうだ。カガリの捜し物は、裏イブキが現れたことと何か関係があるのかもしれない。今度出てきたら聞いてみることにした。
カガリが風呂から上がる物音がした。大浴場に近いロビーで待っていたカヨコは、短いドライヤーの音に顔をしかめ、置いてあったそれをコンセントにさしてカガリを待つ。逃げる隙も与えず、ロビーに現れたカガリの髪を乾かした。
「まだ寝てなかったの?」
ドライヤーを止めた拍子に声がした。
乾いたタオルでわしわしと水気を取りながら答える。
「うん。だってカガリ、一人だと何するか分からなかったから」
「そんな二歳児とかじゃないんだから興味のあるものに片っ端から突っこんでいくとかしないよ?」
「でも、髪を乾かすのは適当だったでしょ」
カガリがすっと顔をそらした。カヨコはカガリの後ろに立っていたからそらしたわけではないけれど、そらしたつもりなのだと思った。
「一人だったから、まあ」
「それでまた本でも読むつもりだった? 駄目だよ。髪から冷えていくんだから」
「はい……」
「あとひとまず今日は休むこと。本を読むのは明日でもいいでしょ?」
反論を封じるために、パワーを一つ下げた温風を送る。案の定「えっ――」とカガリは声を上げたが聞き取れなかった。
イブキが寝ている部屋のとなりに二人は腰を下ろした。「あまり眠気がない」と駄々をこねて本を読もうとしたカガリに、「じゃあちょっと話に付き合ってほしい」とカヨコが頼んだからだった。
カヨコはもともとそのつもりで暖房をつけていたので、室内はあたたかい。風呂から出たばかりのカガリからすれば暑いくらいだった。
「あーっと……それで、話って」
全身から警戒を滲ませながら、先にカガリが口を開く。
カヨコは自然体で「ちょっとした雑談だよ。そんなに構えなくても」と言った。
カガリは警戒を解かない。首を傾げている。
「私、なにかしちゃった?」
「そういうわけではないんだけど……」
「じゃあ、どうしたの? カガリが言い淀むのって珍しいと思うよ」
「そういうところ、なんかいつもと違ってるから。不思議だなって。いつもはそんなにぐいぐい来ないじゃん」
「押されるのは苦手?」
カヨコは膝から下は床につけたままでカガリに向かって体を伸ばし、両手を床につける。猫のようにしなやかな体の線ができあがった。
身を引きながらカガリが答える。「ほら、そういうところ」
「お互い様でしょ? カガリだって、普段は本を読まないんだから」
「それはそうだけど」
じりじりと二人の距離が縮まっていく。
カヨコが突然にひょいと体を動かし、カガリを押し倒した。
冷たい床板にカガリが仰向けになった。電灯はカヨコによって遮られている。逆光だったから、カヨコの表情は見えない。
いきなり押し倒されたことで、カガリは目に見えて動転していた。
カヨコが唇を重ね、霞のように消えてしまいそうな赤い輪郭を舐め上げた。
カガリの体が跳ねる。緊張していた。強張っていた。
そのままにしていたらどこかへ飛んでいってしまいそうだったから、優しく力強く抱きしめた。のしかかるようにしてカヨコはカガリの動きを封じた。肺いっぱいに、好きな香りが満ちている。
「え……? え? え?」
耳もとで声がする。カガリはいまだに状況が飲みこめていないらしい。
なんらかの音を発しようとした口をもう一度しっかりカヨコは塞ぐ。湿った音がした。
味は分からない。好きな香りがする。全身に柔らかな感触がある。動揺した赤い瞳がカヨコを見上げている。何に当てられたのかも分からぬままに、カヨコは執拗に口付けを落とした。
「ごめん」カガリの小さな頭部を抱いて、カヨコは謝った。
「なんで謝るの……?」
「分からない。なんだか、抑えが利かなくて。だから」
壊さぬように未熟な手で守ってきた何かが、些細な感情で力んでしまって、壊れてしまった。
特別になりたいという願望かもしれない。あるいはもっと単純な、知りたいという欲かもしれない。カヨコはそれ以上考えるのをやめた。
カガリは普段、コートの前を開けている。それは今日も同様で、カヨコはすんなりとカガリのワイシャツのボタンに手をかけることができた。ネクタイも外してあげて、そうすればあっという間に白い肌があらわになる。
「今日は赤なんだね」とカヨコが言っても、カガリは焦点の合わない目を緩慢にカヨコに向けるだけ。ブラジャーのせいで手を這わせても固く感じた。
カガリは恐怖のあまり、声を上げることもできなかった。まるで痙攣するみたいに、ぴくぴくと指が震えては力が抜ける。
「こ、怖い……怖いから」
口が先に復帰した。しかし感情に体を縛られて、相変わらずほとんどの電気信号は途絶えていた。せっかく復帰したとしても、唇を塞がれてしまうせいで満足に話すこともできない。
「いいじゃん。少しくらい」
「よ、よくないよ」
「なんで? 背徳的なのは好みじゃない?」
「そういうんじゃなくって……」
「……そういうんじゃなくって?」
鉄のような沈黙。室内の空気すべてが凝固してしまったように、二人は固まっている。
焦れたカヨコが、薄く線の入った腹に人さし指を走らせる。道中で形のいいへそを弄ぶと艶っぽい声が出て、カガリは瞬時に、口を手で覆った。
「ふうん……声を出すのが嫌いなんだ?」
「かよこ……? かよこ……?」
身長の高い少女は、今やカヨコよりも小さくなっていた。懸命に首を振る。遅れて金髪が空を舞う。
「否定しないんだ? 否定したら、もっとされると思った?」
「ちがっ。そうじゃなくて……」
「じゃあ何?」
「いや、ね……? もうやめとこ――あッ、ちょっと、ねぇ」
スラックス越しになぞり上げられたせいでもれた声を聞いて、カヨコが笑みを深める。
「どうして、声を出すのが嫌なの?」
カガリは甘い声を上げることが怖かった。そういった行為が怖いのではなく、多少なりとも男としての自尊心が残っている状態で嬌声を上げることが怖かった。
話すことを求められている一方で、話してもいいのか分からなかった。カガリの中に、話したいという欲求はない。一方で、自身を大切に思ってくれる人のために何かをすべきだろうか、という不器用な奉仕の心みたいなものが、内側にあった。
「嫌ってわけじゃ」
「それなら何? こういうことをするのに抵抗がある?」
「それも、ちょっと違う……」
自分が外側から削られていってなくなってしまうのではないか。そんな恐怖が、うっすらと涙を浮かべたカガリの首を横に振らせた。
カガリが必死に目を背けていたこと――破滅的な欲望が意識を支配する。ほんの少しだけ、自分が女に落ちていくことに興味があった。ギャンブルに興味と恐怖を併せ持つことに近かった。もしかしたら、進化と言ってもいいくらいの奇跡なのかもしれない。それでも、怖い。
「初めて?」
優しい声に、カガリは潤んだ瞳でカヨコを捕らえ続けたまま、こくこくと頷いた。
「私も」頷きに応じたカヨコがしっとりとした音とともにキスを落とす。
「もう一回」
再び口づけが降ってくる。舌が入ってきた。
粘液にまみれた弾力のある塊が、カガリの口内を果てまで貪った。琴を二人で弾いているような淑やかな空気が流れる和室に、水音が響き続ける。
ぷはっと、音がした。二人で荒い呼吸を繰り返す。それが整わぬうちに、再び粘液が絡まる。
感情に支配されたカガリが身を引こうとすると、カヨコが両頬を押さえつけて動けないようにする。
やがてカガリの緊張の糸が切れてしまい、全身の力が抜ける。ぼろぼろと涙がこぼれた。仰向けになっているから、こめかみを通って耳の上を通って、床を汚した。嗚咽はなかった。自分が泣く声がカヨコを傷つけるかもしれないと思ったから、カガリは必死でこらえた。
唇が離れるたびに、呼吸を整えるための音だけが室内に広がった。涙もまた、床に広がり続けた。
どのくらいの時間が経ったのか、カガリには分からなかった。
気づけばカヨコの顔が離れていって、唾液が糸を引いていた。じゅる、と何かをすする音がした。次いで、カヨコの喉から音がした。
カガリの口の中には粘性の液が残っている。歯の裏も、舌の裏も、全部ぜんぶどろっとしている。カガリは口の中に残っているものを何回かに分けて飲みこんだ。一回ごとに体が震えた。
「疲れちゃった?」
カヨコの声は陶酔しきっていた。
せめてもの反抗心でカガリは口を開く。飲まれてしまいそうだった。
「もう、寝よう?」
「私は寝ないよ?」
自分の上半身を守っている最後の砦――布一枚に触れられる。カガリの体が、跳ねた。
カヨコの手が伸びてくる前に、カガリは自身の足で股を隠した。スラックスがわずかな衣擦れの音を立てる。触られたくない。もしも、そこが
カヨコの手が太腿に触れた。「だめ?」甘い声。
カガリは必死の形相で首を縦に振る。
それでもカヨコの手は止まらない。優しく焦らすように太腿を撫で回す。
カガリが首をぶんぶんと横に振った。涙をためた目に髪が当たって、顔に貼りつく。「やだ」とたまらず声が出る。
カヨコが笑みを深める。
「いいの?」だめと問われたことに首を横に振った。カヨコはそう解釈しようとしている。カガリは気づいて、でもパニックになって、なんて答えることが正解なのかよく分からなくなった頭で、また首を横に振った。
「だめ……。カヨコ、もう寝よう? だめだよ、怖いよ」
甘い響きを宿した声。こんな音が出るなんて知らないほうが幸福だった。リコーダーの穴を半分だけ塞いで初めて音を出したとき、こんな高い音も出るんだ、と感動した。カガリは生まれ変わってから、自分の新しい音色を知るたびにそれとは正反対のことを思ってきた。
「うわっ」
カガリは力を振り絞ってカヨコの首に両手を回す。抱きしめる要領で身を寄せた。ぐるんと体を回転させて、仰向けからうつ伏せに、カヨコの下からカヨコの上へと、
最後の最後まで、カガリは恐怖に勝てなかった。力が入らなくなったせいでカヨコの体に全体重がかかってしまう。
カヨコは動きを止めていた。
カガリは耳もとに涙声をぶつけた。
「お願い……。もうだめ。これ以上はだめ。本当にだめ。……怖いから、だめ」
「やめてほしい?」
首を横に振る。「分からないけどだめなの。やめてとかじゃない。だめなんだ、怖いんだよ」懇願した。縋った。カヨコの頬に、自分の頬を当てた。
カガリの拍動だけが、切羽詰まっていた。
「ごめんね。怖い思いさせて」
カヨコがカガリの頭を撫でた。カヨコがイブキの髪を梳いていたときを彷彿とさせる、優しい手つきだった。
「しばらくこうしてて。怖い思いさせた罰」
カガリの言葉だ。二人はしばらくそうしていた。
服を着直して、部屋から出て、縁側に腰をかけた。火照った体のまま寝室に行くと間違いが起こりそうだったから、二人で決めた。
「あーあ。振られちゃった」なんでもないことのようにカヨコは言ったけれど、無理をしていることがカガリには伝わってきた。
拒絶したのだという申し訳なさと、どうすればよかったのだろうという後悔と、これから自分たちの関係はどうなっていくのだろうという不安がない交ぜになった不自然な笑顔で、カガリはカヨコの横顔を窺った。
「ねぇ、風紀委員長とは……してるの?」
「してない」
「まぁ、そんなところだろうとは思ったけどさ。腹をくくるなら、早いほうがいいよ。私の歯型がつくかもしれないから」
「カヨコは、勇気とむりやりをはき違えないよ。ときとして勇者が悪によく似た正義を振りかざす可能性を考えられる人だって信じてる」
「それが何? 考慮しても実行しないとは限らないでしょ?」
「――たとえば、今日みたいに?」
涙の跡が残る顔で、自然に笑えていた。なぜだか分からないけれど、少しだけ心が軽くなった感じがした。
「本当にそれしかなかったら、そのときは、僕の涙までおいしく食べてよ」
カヨコは嬉しそうに笑って、返事をした。
翌日は自由行動だった。カヨコはイブキと一緒に娯楽施設でいろいろと遊んでいた。これはイブキの精神状態に気を遣った二人が提案したことで、当然のようにカヨコが遊び相手として、カガリから指名された。
カガリは蔵書室にこもって、ずっと読書をしていた。そして、途中から、明らかに様子がおかしくなった。
「ねえ、大丈夫なの?」
「大丈夫ではないけど、まあほら、今は関係のないことだから……」
夕食のとき、お風呂に入ったとき、そして今、寝る前。繰り返し聞いても、返答は同じで。カヨコは失望を覚えた。それはせっかく家に入れてもらったのにリビングに通されただけで私室には入れてもらえなかったときのような、言い出しづらいものだった。
イブキをまんなかにして、三人は川の字で布団を並べた。冷たいベッドはとっくにあたたかくなるほどの時が過ぎていた。
何かの弾みで眠る権利を剥奪されたかのように、カガリの目は冴えていた。そしてしきりに寝返りをうった。
とうとうカヨコは起き上がって、カガリの布団まで移動した。イブキはすっかり眠ってしまっているから、カガリは大きな声を上げて抵抗することも、逃げ出すこともできない。しかし、そもそもそんな気持ちが起こらなかった。
甘い香りの立ちこめる布団で体をくっつけて、ひそひそと話をする。
「眠れないの?」
「……うん」
煮え切らない声音の返事。カガリは「その」と何度か口を開いて、そのたびに黙った。カヨコがカガリの手を優しく撫で始めてから、ようやくカガリは最後まで話した。
「今日見つけた本があるんだけど。あれ……なんていうかな、とにかく、不安要素が大きくて。ごめん。漠然としてて」
「ううん」
「ひとまずセナとヒナに話そうかなって思うんだけど、現状だと連絡が取れないから……まず、黙って抱えておくよ」
カガリはそう言って、カヨコの手を両手で優しく握った。体温を分け与えてもらうみたいだった。
「話せば落ち着くと思ったんだけど、落ち着いた?」
「……少しは。でも、目下の問題が片づいていないところに、ずっと調べていたものの情報が出てきてどうしようかなってなってる。情報って言っても、ほんの少しなんだけどさ」
「そっか」
怖いかと聞くと、怖いと返ってくる。
「一回飛ぶほど気持ちよくなれば、怖いことも忘れられる。疲れで眠れるようになる」
「もっと怖いもので上塗りするんじゃなくて?」
「あ〜……カガリの場合は、そうなっちゃうかも。ごめん。忘れて。なんでもない」
まとわりついてくる暗闇の中に溶けるような静かな会話を交わす。カヨコはカガリの怯えた様子を思い出していた。
「……しても、いいよ」
歯の隙間から絞り出したような声だった。言われたことの意味を理解しかねて、カヨコの頭は一度止まった。しばらくしてから再起動がかけられたが、「え」と一文字が出てくるのみだった。
薄赤く頬を染めたカガリは続ける。
「だから、して……って言ってる。その、眠れるん……でしょ?」
カガリは泣きそうな声でねだった。
カヨコの腕を抱いた。慎ましい胸に、押し当てる。自身の体をカヨコに密着させ、首筋に熱い息をかける。すっと首を伸ばして耳たぶを食む。湿った音が、闇を乱した。
「…………だめ?」
精いっぱい甘えた声を出した。ヒナなどには出さないようにしてきた、女性を女とする声だった。
昨日とは逆の構図にカヨコの処理が追いつかない。
「ま、まって」カヨコは、できる限り冷静に、魅惑的な柔肌を押しつけてくるカガリの肩をやんわり押した。
「なんで、急に?」
カヨコの肩に、カガリは額を当てる。祈るような仕草だった。神様に何かを告白するときのような楚々とした声でカガリは話した。
「怖いものを怖いままにしておくのは、嫌だった。いつまでもそうしてわがままでいたら、僕はまた、時期を逃しちゃう。できることとできないことがあるのは分かっているし、あんまり頑張りたくもないけど、でも、自分にとってのその……アレな人が一緒にいてくれるなら、頑張ったほうがいいと思った。自分を受け入れるためには、乱暴でもこうするしかなくて」
「無理してない?」
「無理してるよ」
カガリは即答した。そしてカヨコが何かを言う前に付け加えた。「受け止めてくれる人がいるから。ね?」
カヨコは聞いたことのない甘い歌を聞いた。
「お願い。涙までおいしく食べてくれるんでしょ?」
カヨコの心はもうすでに決まっていた。それでも、あえて返事をせずにいた。ちょっとしたいたずら心からだった。
カガリは徐々に焦りを覚えていき、思考のスピードが上がっていった。昨日拒んでしまったから、これ以上何を差し出したとしても、彼女の決定は覆せないのだろうか。かすかな希望が不安で塗り潰されていく。もしも光が差せば、カガリの顔には、それを反射する透明な一つの筋ができる。「ぁ」呻き、カヨコの嫋やかな体全体に縋る。彼女の手首を股で軽く挟み、揺する。
「据え膳なんだよ……? 僕――」
瞬間、カヨコがカガリを組み敷いた。キヴォトスの住人にふさわしい速度と力だった。「ひゃぁ」同室で寝ているイブキに気を使って、できるだけ声を出さないようにした。カガリは弱々しく首を振る。
「だめ……」
カヨコからは見えるはずもないまっ赤な顔を、一筋の証が伝う顔を。隠そうとしても、両方の手首を掴まれていて思うように動かせない。馬乗りになったカヨコが上体を傾けてくる。
「んっ――」
水音が響く。赤くぬめった舌がカガリの口内を貪る。声を出してはいけないし、かといって抑えようとすれば悩ましげな吐息がもれてしまう。カガリの色のある様子に、カヨコはさらに笑みを深めた。手首を握る手に力をこめ、押さえつけ、何度もなんども自分の体液を流しこむ。愛しい人の液を吸って嚥下する。
カガリは内に秘めた理性の衣を脱ぎ捨てた。こわばるカガリの体を押さえつけて、下腹に指を当てる。
ほんの少しの月光だけが、二人を見ている。それ以外には誰にも照らされない。しばらく、夜は明かされない。