篝火の消えぬキヴォトスより   作:ぞんぞりもす

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決着の一つ前

 冷気が頬を撫でて耳を通り、部屋に抜けていく。

 ヒナが開けた冷蔵庫には、二人分の食材が入っていた。

 

 かつて二人分が備蓄されていた冷蔵庫は、一度人数を減らし、ここ数日で増えていた。

 コップの中身が減っているか確認するためにヒナは振り返る。セナはカガリの席で、持ち帰った書類を凝視している。オレンジジュースは減っていない。

 

 インスタントコーヒーと水しか置かれていなかったボトルポケットには、ジュースが置かれるようになっていた。普段どおりに過ごすとメンタルが削られていくので普段と違うことをしてみよう、という発想からなんとなくジュースが置かれたのだ。

 ヒナもいただいているが、甘いという感想しかない。オレンジジュースとコーヒーを交互に飲むという珍妙な飲み方をしていた。

 

 食材を取り出したヒナは椅子を戻してキッチンに立つ。カガリが何食わぬ顔で高いところのチーズやらバターやらを取ってくれていたことを、ヒナは椅子を使うようになって思い知った。

 ヒナにとっての当たり前が欠けたのに、世界は日常を続けている。もどかしさばかりが募っていった。

 

 ヒナがため息をつく。

 その音に顔を上げたセナがヒナを見て、軽く唇を噛む。

 二人で話しているときは軽口を交わせても、一人ずつが二セットの場合は沈黙が降りる。カガリのいないリビングは静かだった。

 

 

 食事を済ませて、交互に風呂に入り、体の手入れをしながら雑談をし、書類仕事をする。同居人が変わってもヒナの生活には変わりがなかった。

 

「セナ、聞いて」スマホから目を移したヒナが言う。

 

 

「明日カガリのことがなんとかなるかもって、先生が」

「本当ですか?」

 

 

 セナはテーブルに両手をついた。椅子から体が軽く浮いている。自分の動きに気づいてゆっくりと椅子に体を戻す。差し出されたスマホはモモトークの画面で、どうやら先生とのやり取りのようだ。

 指を幾度となく上下に動かして穴が空くほど確認したセナが肩をおろした。

 

 

「そのようですね」

 

 

 二人はどちらともなく笑みを交わした。

 

 孤独が弾けるほどの抱擁を交わすことはできない。抱きしめることはおろか近づくことさえできず、引き離されていくばかりなのだ。

 たった一人が現実から脱落したくらいでは、日常の歯車は止まらない。理不尽を悔しがったところで何にもならない。

 

 だからせめて彼女が戻ってくる場所を守ってあげようと、二人はそう決めて、過去となった日常を守り続ける。

 非日常から戻ってきたものが、日常との落差で怪我をしないように、しっかりと羽毛を敷き詰めて。

 

 

「カガリが戻ってきたら、どうしましょうか」

「どうするって? 日常が戻ってくるだけでしょう?」

 

 

 ヒナは首を傾げる。

 黙っていたセナはやがて苦笑した。

 

 

「……そうですね。私たちもカガリも、何事もなかったかのように登校する必要があります」

 

 

 セナはオレンジジュースを口に含んで、一度喉を鳴らした。

 

 

「激戦から帰ってきてきっと疲れているでしょうから、たとえば、どこかへ食事をしたりと考えていました」

「それくらいならいいのかもしれないけど……カガリってけっこう、私の手料理が、その、好き……みたいだから。おそらく、私の料理がいいって言ってくれる、と思うわ。たぶん」

 

 

 カガリはいつも、ヒナの料理はおいしいと言っている。それはヒナも承知している。しかし、言いづらい内容だった。

 セナは自信のなさを読み取って「ヒナの料理は私も好きです」とフォローした。

 

 頬を赤くしたヒナがガラスのコップに口をつける。傾けたわけではなく、一旦口もとを隠した。目をそらして意味ありげに咳払いをしてからジュースを飲んだ。現実から目を背けさせてくれる殺人的な甘さだった。

 

 

「スマホが振動したとき、変に期待をしてしまいます。ヒナにもありませんか」

 

 

 書類に目を落としたままセナが言う。

 

 

「現場で指示を出しているときや待機中にスマホが振動したときも、果ては、何か小さなものが動いたときでさえ。もしかしたら金髪が揺れているのではないか、とそう思って顔を上げてしまいます。しかしそこに私の望んだものはありません」

「……分からなくはないわ」

 

 

 今になって、どうしてそんなことを話したのだろう。ヒナは首を傾げた。

 セナが苦笑する。わずかに口もとを上にやるだけの仕草だ。ヒナは最近になってようやく、セナの表情変化に気づけるようになった。

 

 

「常に気を張っていましたから、解決の目処が立って緩んでしまったのかもしれません」

「悪いことではないと思うわ。私たちはどうやら、一人で抱えこんでしまう性分のようだし」

「違いありませんね」

 

 

 ヒナはタブレットを眺めながら、セナは書類を見ながら、ぽつりぽつりと会話を交わした。

 こつ、こつと液晶画面に爪が当たる音がする。ぺら、ぱらと紙の音がする。

 暖房の音が間断なく部屋に響き、乾燥した部屋を潤そうと加湿器が躍起になって稼働する。生活音にあふれたリビングには私物がほとんど置かれていない。

 

 

「カガリの側にはカヨコとイブキがいると聞いたわ。便利屋の事務所が襲撃を受けたあともね。だから問題はないと思うけれど……」

 

 

 ヒナは絞られた果実のジュースを飲む。余計に喉が渇いた気がした。

 

 

「カヨコとカガリの関係が分からないことだけが気がかりなのよ。カガリが特定の誰かと一緒にいることって、私とセナを除けば珍しいことだし。本人に聞いてもいいけれど、人の人間関係に立ち入るのってなんだかよくないことのように思ってしまうから……遠慮したいというか、やめておきたいというか」

「それでも気になると?」

「そう言ってしまうと癪なのよ」

「事実でしょう」

「ちょっと」

 

 

 ヒナが軽く凄む。風紀委員長として人を導いてきたカリスマと、百戦錬磨の威圧が広がった。ヒナを中心にして世界が円形にぐにゃりと歪んだような何かがあった。

 

 セナは飄々とコップを口に運んだ。

 

 飲んでいるものがオレンジジュースなせいで締まりがない、とヒナは思う。ちっぽけなことで気を揉んでいる自分が面倒くさいやつに思えて、思わずため息がこぼれた。

 それでも気になるものは気になる。かといって調べれば品性が疑われる。

 

 以前から疑問に思っていた関係は、ここにきてますますヒナの心に引っかかるようになっていた。

 コップがテーブルを叩く音がした。

 

 

「いずれにせよ、もしも疲弊しきっているようでしたら、抱きしめてあげましょう」

 

 

 セナの言動に憤りは感じられない。独占欲がないと考えたことがあったが、割り切っているだけだと今は結論している。離れていた期間が長いほどくっつきたくなるのだろう。

 

 

「カガリ、抱きしめられるのが苦手なのよ」

「知っています。私が前、ヒナが後ろから抱きつけばさすがに抵抗できないでしょう」

「野生動物か何かの捕獲かしら……」

「私たちに力で敵わないのですから、好き放題できますね」

「……私は誰の味方をすればいいの?」

 

 

 ヒナは脱力して言う。テーブルに乗せていた手がこめかみに伸びる。

 やりたいことを口に出せるところが羨ましい。ヒナはカガリの退院後から意識して生活していたが、成果は芳しくなかった。

 

 一方で、温泉開発部にも美食研究会にも通ずる信念と、折ろうとしても絶対に折れない相手に応対しなければならない頭の痛さも覚えた。

 もちろんセナはカガリが嫌がれば踏みとどまるだろう。彼女は信頼の置ける人物だ。

 いつだって隣の芝生は青く、自宅の芝生は枯れている。靴の下で鳴る乾いた音だけが悲しいくらいに気持ちいい。

 

 

「とにかく、今は信じましょう。カガリはなんとかなるって。先生がなんとかしてくれるって」

「……信じてばかりで何もできないのがもどかしいです」

 

 

 セナの言うとおりだ。苦しみを肩代わりできるのなら、いくらでも地獄の湯に浸かる。

 それでも二人が抱く親愛の情が誰かを傷つける方向に向くことはなかった。

 

 

「私たちができるのは結局、カガリが戻ってきたときに受け止めてあげることだけじゃないかしら」

 

 

 かつて飼い猫だった野良猫が二度目の家に適応できるように、日常のレールから外れた人間もまた、慈しみと時間さえあればもとに戻ることができる。

 今すぐになんとかすることはできないけれど、他の方面でなら役に立てるのだ。二人は目配せをしてどちらともなく表情を緩めた。

 

 

「サンタさんにでもお願いしてみる? カガリの無事を」

「ずいぶんと前借りするのですね」

「そういえば、私、小さいころに、何度かプレゼントを前借りしたことがあったわ。カガリから悪知恵を吹きこまれて」

「せっかくですから、小さいころの話を聞かせてください。二人ともあまりしないものですから、興味がありました」

 

 

 ヒナはセナの提案にほほえんで席を立つ。

 

 

「アルバムを持ってくるわ。確かどっちかの部屋にあったはずだから。そのかわりと言ってはなんだけれど、セナとカガリの話を聞かせてくれる? あなたたち、気づいたら仲よくなっていたもの。ずっと聞きそびれていたの」

「気づいたころにはよく話すようになっていたのは私も同じですが……思い出せる範囲であれば」

 

 

 ヒナは廊下に続く扉を開けて、しばらくそのまま立っていた。スリッパとパンツの裾のわずかな間を冷たい風が抜けた。紫がかった長髪があたたかな風に靡いて頬に当たった。

 紙面から顔を上げたセナが首を傾げる。

 慎重にヒナが振り返った。

 

 

「カガリの部屋、少し見ていく? 部屋を見られることには抵抗がないはずだし、いつか誘った、みたいなことを言っていたと思うのだけれど」

「確かにいつか招待すると話してくれたことがありましたが……いいのですか? 本人のいないところで」

「約束を違えることはしないわよ。それに、私がその話を聞いたのって二年くらい前だと思ったのだけれど、違ったかしら」

 

 

 蜂蜜色の瞳がヒナから移動し、虚空を見つめた。

 

 

「合っています。一年生の夏だったかと」

「おそらく、言ったのはいいけど相手が忘れてるかもしれないな……どうしようかな……って喉に引っかかった小骨みたいになってるのよ。言い出すタイミングを見計らっているんじゃなくて、言い出そうにも言い出せないの」

「……そういうところがありますよね」

「ええ、そうね。怒りはしないと思うわ」

 

 

 しばらく無言で考えたのち、セナがおずおずと頷いた。

 おかしくて頬を緩めたヒナが無表情によって射抜かれて咳払いをする。一度閉めた扉を開ける。先ほどよりも温度差の小さくなった風が迎えてくれた。

 

 

 カガリの部屋には、必要最低限の家具――ベッド、勉強机、弾薬箱、工具箱など――が四辺にぴったりと並べられている。ドレッサーや姿見はない。

 唯一辺から外れているのは、シーリングライトの真下にある、銃の整備で使う作業机だけだ。

 

 シックといえば聞こえはいい。一方でヒナは色味の地味さがカガリの好みでなく、横着であることを知っていた。「カラフルなものは自分には似合わない」と言っていたが、たんにたくさんの色から選ぶのが億劫なだけなのだろう。自分だってそうだからだ。

 

 高校三年生にしてようやく服の色味が増した彼女は、放っておくとすぐユニセックスに走る。ワンピースやスカートの売り場には決して近寄らないし、下着売り場からはすぐさま出ていこうとする。

 

 

「どうかしましたか?」セナから声をかけられてヒナは我に返った。

 

 

「いえ、なんでもないわ」

「そうですか? ため息をついていましたが」

「素材がもったいないと思っただけよ」

「素材?」

「そう。素材」

 

 

 カガリは見た目がいい。だからもっとちゃんとおしゃれをしてほしい。ヒナはそういったことを長々と、心の底から残念がるように話した。

 そしてセナから「鏡を見てください」とぴしゃりと言われて会話が途切れた。

 

 

 話の流れで案内したウォークインクローゼットには衣類が少ない。

 芸能人のように埋もれるほどの衣服がないのは分かるが、季節ごとに二、三着しかないのはおかしい。ヒナは熱弁した。セナは頭が痛そうにヒナを見ていた。

 

 人の体にはみっちりと脂肪があるが、肋骨は意外なほど隙間がある。カガリのウォークインクローゼットは、そんな、なぜそうなっているのか分からない隙間に満ちていた。

 

 衣服の一つひとつを興味深そうに眺めていたセナが不意に口を開いた。

 

 

「私の部屋にもいつかと言ったのですが、あまり感触がよくありませんでした」

「私の部屋にも入りたがらないから、そこはもう、そういうものって思うしかないんじゃないかしら」

 

 

 セナはプルオーバーの服を取って体にあてがっている。売り場ではできない行動だ。セナの角は小さいとはいえ、着れない虚しさが増すだけだし、無駄に立ち止まっては客の場所を奪ってしまう。

 オーバーサイズにもかかわらず、胸の膨らみが分かった。

 セナは鉄仮面を崩さない。しかし悲しんでいるように思えた。角と胸のせいで着られる衣服が極端に少なくなることは、生きる楽しみが減ってしまうのかもしれない。

 

 

「精神的な距離感と、物理的な距離感がちぐはぐな印象を受けます。精神的な距離感の近さで押そうとすると空振りに終わることが多いといいますか」

「小さいころからそんな感じだったのだけれど、今ほどではなかった気もするのよね……小学の五年、六年とか、そのあたりから変わったわ」

「ちょうど第二次性徴のあたりですか」

「……そのころから、まぁ、いろいろあったしね。積極的に言いたいことではないでしょうし、触れないほうがいいと思うわ。触れるとしても、本人が口を開くまでは禁忌ね」

「違いありません。解決するのが望ましい部分ではありますが」

 

 

 いくつかの衣服を物色している最中に、奥に押しやられている段ボール箱を見つけた。

 プレハブを展開するように、ぴったりと畳まれた上部を広げる。小学や中学で使った物のようだ。教科書とノートがある。ネームペンを浮かすのが面倒だったのか、表紙のほとんどの字が繋がっていた。

 

 広いクローゼットにかがんだ二人は顔を見合わせた。

 

 

「これを一つひとつ見れば、もしかしたら何か分かるかもしれないわ」

「ですが、本人のいないところで勝手に手がかりを探るというのも気が引けます」

「まったくね。それに、最近少しずつ話してくれるようになっているし、気長に待つしかなさそうね」

 

 

 カガリにとっては用済みでも、他の人にとっては宝箱の鍵となりうる。二人は鍵を見つけたが、カガリが自らの意思で解錠してくれるのを待つことにした。

 淑やかに笑いあった二人は質と品のいい牢獄に戻った。

 そのまま廊下に出ようとすると、セナが何度か部屋を振り返ったので、ヒナはするすると部屋に戻ってカガリのベットに腰掛けた。使われていないことを悔やむようにスプリングが鳴いた。

 

 

「そういえば、どこで寝る?」

 

 

 目と口の端に優しさを描いて問いかける。シングルサイズのベッドだが枕と紙しか置かれていないので、ぎりぎり二人で寝転がることができそうだった。

 

 

「嫌がりませんか、カガリは」

「さぁ、私にはなんとも言えないわね。ただシーツと掛け布団を洗濯しなかったら、違和感を覚えるでしょうね。でもここしばらく洗っていなかったのだし、明日にでも洗うわ。だから寝るとしたら今日だけ。どうする?」

 

 

 ベッドに近づいたセナが紙をまとめてから拾い上げる。弾道計算や射出速度、マズルエナジーなどの計算式と表が載っていた。セナは思わず眉を寄せた。

 ヒナが呆れたように、慈しむように目尻を下げる。外では射撃訓練、家では勉強。調印式を経験してからというもの、カガリの戦闘に対する執着は凄まじいものがあった。

 

 

「悔しかったから、と言っていたけれど」ヒナが口を開く。一瞥したセナが、言いたいことは分かりますよ、とでも言うように一度頷く。二人は難しい顔をしている。

 なんとなく、今日はカガリの部屋で寝る流れになりそうだった。

 

 

 寝じたくを終えた二人はさっそくカガリの部屋に向かった。

 翌日の天気予報をチェックするヒナの視界の隅に、工具箱を物色するセナが映る。衣服のサイズのせいか、膝立ちから前傾姿勢に変わると下着が見えた。カガリであれば絶対に目をそらすんだろうと思いながら、じろじろと見るのも失礼な気がしたのでヒナも顔を背ける。

 

 

「明日は曇りね……明後日から晴れるらしいわ」

「部屋干しをするのですか?」

「どうしようかしら。でも掛け布団の部屋干しってあまり聞かないわよね。明日……もこんなふうに二人でいるのであれば、洗濯は明後日に回すことにするわ」

 

 

 できればそうなってほしくはない。しかし、不安に飲みこまれそうな中で希望を見失うことは絶望を意味する。二人が交換した笑みは疲れを滲ませたものだったけれど、それでも間違いなく笑みだった。

 片方は蛹から飛び立とうとする蝶の羽ばたきのように優しく力強く、片方は硬い蕾がわずかに花開くようなものだった。

 

 

 

 

「天下の改竄コーポレーションだ」

「……敵作りすぎじゃない?」

 

 

 鈍色の雲が広がっている。虫ですら逃げることができないほど雲に覆われた空だ。カガリは世界に閉じ込められたような気がしていた。

 菓子パンを食べながら、二人は二階の窓を少しだけ開けて遠くを見ていた。豆粒ほどの戦車が複数視認できる。

 カガリから受け取ったぼろぼろの双眼鏡を外に向けていたカヨコが、カガリに向き直る。食べていたものを咀嚼して飲みこむが、カヨコには胃に鉛が流し込まれたように感じられた。

 

 

「朝からか……」

 

 

 こく、と大きく頷いたカガリは疲れた顔をしている。彼女は噛んでいたものを数回に分けて飲みこんでお腹をさすった。

 体の調子を点検するように片目を閉じたカガリもまた、同じ気分なのかもしれない。カヨコはそう思った。次いで納得がいかないといった顔で腰をさすったので、おかしくなって吹き出してしまった。

 途端にカガリが顔を赤くする。手に持っていた袋がクシャと音を立てる。

 

 

「ちょっと!」

「いや、だって……」

「逆になんでなんともなさそうな顔してるわけ!?」

「私何もされてないし」

「卑怯だ!」

「卑怯じゃないって」

 

 

 赤い顔はそのままでカガリは大きなため息をついた。腰の痛みのせいなのか、カイザーコーポレーションに包囲されているせいなのか分からなかった。どちらもあるかもしれない。しかし気持ちで負けないように、平気なポーズを取っている。

 昨日の夜、カヨコは、カガリは自分が思っているよりも繊細なことを知った。だからそれがポーズであることを見抜けた。今まで飄々としているように見えていたのはすべて演技だったのかもしれないとすら思った。それくらい、禁域に踏みこまれたカガリは手弱女(たおやめ)だった。

 

 

「ひとまずイブキのところに戻ろう。戦闘になる」

「だね。今日を乗り切ればなんとかなるみたいだし、頑張ろうか」

 

 

 昨夜にさんざん体力を使ったカガリが先生からの連絡を見たのは朝方だった。

 連絡は深夜に届いており、今まで通りであれば早朝には確認できただろうにとカガリは歯噛みしたけれど、同時に、どこか吹っ切れた感じがするから悔しいとも言っていた。

 引っ越しで生まれる『保留』の段ボールに入れるようにして複雑な心境を脇に置いたような感じがした。

 

 そうして煮えきらない表情のまま二階から外の様子を探って、カガリはカイザーコーポレーションを見つけた。

 敵の視界や情報機器の範囲を抜くようにして偵察を終えたカヨコとカガリは、すでにぐったりしていた。そして少し遅めの朝食を取って、今に至る。

 

 

 一階に降りると、イブキが無害そうな笑みを浮かべて二人に駆け寄ってきた。カガリは状況説明をカヨコに丸投げし、装備の確認作業に移った。

 旅館を出なければならないことをイブキに伝えながら、カヨコは考える。

 

 

 カイザーに見つかったとはいえ、場所が確定していないのは幸いだった。戦闘部隊だったので希望的観測にすぎないが、アビドス砂漠を掘り返していたときのように自分たちは無関係かもしれなかった。

 一方で、最悪なのは物量で包囲を形成されたことだ。市街地への通路が多くの人員によって閉鎖されたのも相まって、脱出が困難になっている。

 

 

 うらぶれたコートが視界を横切ってカヨコは我に返る。

 どうしたのと聞く前に部屋を出ていったカガリに嫌な予感を覚え、走った。扉の近くに置いていた自身のリュックをひったくるようにして掴み、イブキを振り返って「急いで」と言う。困惑した様子のイブキを急かして二人で後を追った。

 

 玄関先で銃声がした。六発だった。

 足を止めたカヨコが天井を仰ぐ。低く、暗く、木目が不気味に笑っていた。乾いているはずの寒風は、嫌な湿り気を帯びている。

 

 

 

 

 アロナとプラナに案内され、先生は目的のビルにたどり着いた。朝から移動して昼過ぎに到着した。

 エレベーターが止まっていたために階段を駆けて屋上までたどり着く。なかば体当りして扉を開けたせいで、金属音と衝突音が混ざったものが建物に反響した。

 

 

 体は熱いが、肺を満たす空気は冷たい。季節にそぐわない液体が頬から顎へ伝った。

 太腿に手を当てて前傾姿勢で息を整えたせいで、びたびたと汗が落ちていく。

 運動不足を嗤うかのように太腿が震えていた。

 

 

「見つ、けた……!」

 

 

 ブラウンのコートを着た人物は、先生に背を向けて佇んでいた。黒い靄の奥に額縁の後ろ側が見える。

 

 

英雄(ヒーロー)」フランシスは外を見たまま言った。やがて振り返った。額縁に収められている叫びのような絵からは想像できないほど、穏やかで落ち着いた声だった。

 

 

「その資格はなんだろうな?」

 

 

 問いの答えは求められていない。先生はそう判断し、黙っていた。答える余裕もまだなかった。急かしたい気持ちはあったけれど、事態のイニシアティブを握っているのはフランシスだから、黙らざるをえなかった。

 事実としてフランシスは返答を求めていなかった。先生が観測する符号に興味はあったが、英雄については興味がなかったからだ。

 

 

「私は、遅刻者――たまたまそこに居合わせただけの意志のある凡人にのみその資格があると考える。なぜなら、真に優秀なものとは、そもそも未然に事態を防ぐからだ。そして、それが認知されることはめったにない」

 

 

 観測によって、この世のすべては意味を持つ。問題が観測されなければ問題として認識されることはなく、また、未然にそれを防いだからといって解決したと言われることはない。

 問題が起こるまで放置し続けた愚か者こそが英雄たりうる。皮肉なものだな、とフランシスは続けざまに言った。

 

 

「もしも事態が解決されれば、望月カガリや先生は、英雄たりうると証明したことになるだろう」

「……ずいぶんと、痛烈な皮肉だね」

 

 

 耐えきれず先生が口を挟んだ。フランシスは鼻を鳴らしただけだった。

 苛立ちを滲ませながら先生は続けた。運動で生まれた灼熱がそのまま怒りとなった。

 

 

「私はヒーローなんかじゃないよ。一人の大人であり、ただの先生だ」

 

 

 春からの激動の一年は、すべて、生徒たちのものだ。先生という生き方(・・・)を選んだ自分は手助けをしたにすぎない。

 決して曲げたくない信念を胸に、先生はフランシスを睨みつけた。

 

 黒服と連絡を取り合って、むりやり、やっとのことで呼びつけたのだから、歓迎の挨拶をされるとは思っていた。それでもこらえきれなかった。小馬鹿にしたようなフランシスの態度は、理路整然と己の目的を達成しようとしたかつての黒服よりも醜悪に思われた。

 ゲマトリアの活動とは相容れないけれど、フランシスからは、真理の探求以外にも面白半分で事を起こした悪びれなさがあった。それが余計に頭にきた。

 

 

 タブレット端末から二人の声がする。人間味のある機械音声が頭に昇った血を冷やしてくれた。

 かつてないほどに拳を握りしめていたことに、先生は遅れて気がついた。

 

 

「脆弱な神秘しか持たぬ、神秘と呼ぶことすらおこがましい力。それがあれであり、あれは物語に登場することすらできなかったはずなのだ。しかし、壇上にのぼってしまった。ひとたび物語に登場した拳銃は発砲されなければならない。にもかかわらず、発砲されない欠陥品が出てきてしまった。

 そして。先生と生徒。その関係性を崩してまで、あなたは介入しようとしている」

 

 

 フランシスは断じた。

 

 

「あれはもともと、この世界の住人にはなり得なかった。何らかの致命的な不具合により生み出されてしまった不可解。取り除かなければ、学園都市の物語には戻れない。あなたの物語(キヴォトス)に、あれはまざれない。

 生徒でない欠陥品を助けることは先生の役目なのか? それを成し遂げた瞬間に先生というテクストは失われ、書き換わり、あなたはただの部外者、あるいは外部者となる」

 

 

「それは違う」先生が鋭く言う。

 アロナが息を飲んだ音を聞いて先生は脱力した。

 

 

「仮にカガリが生徒でないとして、それでも私の教え子であることに代わりはないよ。それに、この間も八百屋のおじさんとかの困り事を解決したりもしたんだ。生徒でない人を助けても問題はないでしょ?」

「先生から見て、あれは同種と認識される、か。私からすれば違うがな」

 

 

 先生がフランシスに近づいた。決してとなりには並ばなかった。数歩分の距離を開けて、外に向き直ったフランシスを見つめている。

 

 

「かつての私はあれを『舞台装置』と表現したが、それは誤認だった。私は新たに思い至ったのだ。あれはバグのようなものだ、とな。あれは物語を引き立てる役割を持つことができない。引っかき回し、解釈を困難にする。ストーリー(物語)には不要なのだ。

 そして正常に物語が紡がれるために、バグは取り除かれなければならない。意味のない拳銃を登場させてはならない」

「だからって……!」

「あれが一度でもつらそうな顔を見せたか? あれは虐げられることに慣れている」

 

 

 反射的に先生は大人のカードを取り出していた。酒に酔ったように赤くなった顔は歪んでおり、抑えきれない衝動が震えとなって先生を揺らす。奥歯を噛んで、砕いてしまいたかった。

 だが、カガリは「傷つけないで」と言っていた。約束を違えた未来で、はたしてカガリはどんなことをするだろう。

 

 フランシスは微動だにしない。

「あざ笑っているのか……?」思わずもれてしまった先生の怒りにも反応を返さない。

 

 しばらくの間、沈黙が二人を支配していた。先生はその間に冷静さを取り戻していた。

 

 

「七囚人と交友を持ち、指名手配犯とすら友好関係にあるあなたは、しかし、所詮、この学園都市における先生(絶対)にすぎない。私は何度でも言おう。あれは、この物語におけるバグだと」

「それでも、カガリの明日を望む子たちがいるのなら、私は動くよ。フランシス」

「バグに干渉した結果、先生でなくなったとしても? 不可解が呼び起こすものは不可解だ」

「それでも。私は先生という生き方を選んだんだ。役割が剥がれたところで、私は私だよ」

「先生でないのであれば、たやすくなるな」

 

 

 愚かな選択をした存在を見くびるように、フランシスは鼻で笑った。

 

 

「解決方法を教えて」

「私たちが認識しているものは符号に過ぎず、また、符号によって他者と自己を認識する。私はその符号に細工をしたのみ。そして先生。あなたのテクストはあまりにも強力だ。これで十分だろう。その選択をしたことでどのような変化が訪れるのかは見ものだがな」

「それは私に、かな。まぁ、見ておくといいよ」

 

 

 先生はタブレットの二人に声をかけ、一度しまった大人のカードを取り出した。踵を返して屋内へ向かう。

 フランシスは振り返らない。声もかけない。

 

 本当は、ゴルコンダに変わってもらうつもりだった。

 本当は、幼いころのカガリを支えてくれたお礼を言うつもりだった。

 本当は、カガリを納得させられるような世界の見方を教えてもらいたかった。

 

 しかしフランシスと分かりあう瞬間は未来永劫訪れない。先生は短いやり取りで悟った。同時に、怒りよりも温度のある、明確な嫌悪を覚えた。

 

 

 

 

 先生が立ち去った屋上に二人目の訪問者が現れた。黒いスーツを身にまとった存在は、硬質な靴の音を響かせながらフランシスに近づく。

 

 

「一人のためにここまでのことをするとは。それも、神秘の探求とはかけ離れた内容で。狙いがあってのことで?」

「先生というテクストがどれほどの効力を持つのかは、以前から観測したかった。加えて言えば、先生に話したことと同様、バグを取り除きたかった」

「バグと言っても、もう一人いるでしょうに。どちらか片方を取り除いたところで大局は変化しないものと思いますが。それに、事を大きくしすぎでは?」

 

 

 フランシスのとなりに立った黒服はスラックスに手を入れて外を見やる。

 

 

「彼女はゲマトリア的探求者ですが、早々に世界探求を諦めてしまった。複数の人間に依存してしまった。それがなければ、探求に傾倒していれば、ゲマトリアに誘ったのですがね……。少なくとも、呼んだ一人よりもまともなことをしたでしょうから」

「欠員が出たから補充しようといって早まったな」

「まったくです。カガリの件も、まさか、ゴルコンダから先に見つけられるとは思いませんでした。まったく、何を思っているのだか分かりませんね」

 

 

「それにしても」黒服が話題を変える。

 

 

「あなたはベアトリーチェのように退場しないのですね。同様に、先生に大人のカードを使わせていない。先生ならあなたに責任を取ってもらうことくらい容易だったでしょうに」

 

 

 黒服の声には純粋な疑問の色があった。不思議な現象を目の当たりにして考察を進める科学者のように声が弾んでいた。

 

 

「取ってもよかったのだがな。バグに正規品が取って代わられるだけのことだ。不可解の一つに過ぎない。無論、神秘の探求を続けることが本望だから、それができるにこしたことはないが」

「カガリが先生を抑えるようなことをしていたのでしょうか」

「事実として先生は私に何もしなかった。裏にあるものは、私たちからは見えない。可能性の一つを考えすぎたところで一つの観測に覆される」

「だから考えすぎるのはやめたほうがいい、ということでしょうか」

 

 

 天使が通ったのを感じ取ったフランシスが今度は口を開く。

 

 

「何か用事があって来たのだろう? 雑談のためとは考えられない」

「クク……。えぇ。言伝に。ゲマトリアは解散しましたが、離れた者たちが再び集まってはならない道理はないと伝えに来たのですよ」

「しばらくは個で動かせてもらう」

 

 

 フランシスはにべもなく断った。

 その回答を予想していた黒服はくつくつと笑いをこぼした。

 

 

「私たちはもとより一つの信念に集まる個にすぎませんからね。時期を改めて、なんらかの方法で連絡しましょう」

 

 

 背を向けた黒服に対して、フランシスが声をかけた。

 呼び止められることが予想外だった黒服は困惑をあらわにしながらも振り返った。差し出された黒い手の中に、同じく黒い何かがある。受け取った黒服はそれを凝視した。

 

 

「見たところボックスマガジンのようですが……おや、片方には弾丸が一つしかないのですね。もう片方には九発入っていますが。何か目的があってのことで?」

「あれに報酬を渡していない」

 

 

 ぶっきらぼうな言葉を耳にして、黒服は顔が引きつった。硬質な顔であるためにそんなことはありえないのだが、間違いなく引きつった。

 

 

「その分が一つと、バグに対抗する手段として先生にも渡したほうがいいだろう。それで、二つだ。多いほうは先生に渡せ」

「……ご自分で渡されては?」

「俗に言う高エネルギー弾だ。着弾地点から円形の存在をエネルギーで飲みこむ。クレーターができるとでも言えばいいだろう」

「ご自分で」

「ゲマトリアが補充した人員について、調べさせたほうがいい。先生というテクストが変わっているのならキヴォトスは終わる。私は観察していることにする」

 

 

 黒服は胃の中に溜まったもやもやを飲みこんで話を合わせた。

 

 

「色彩の到達以外でですか?」

「キヴォトスの危機に、テクストの剥がれた先生がいればどうなるかなど想像にたやすいだろう」

「テクストが失われるとも限りませんが」

「そうだな。だが、後手に回れば先生だとしても打開できない状況に陥る。知らせたほうがいい。学園都市キヴォトス(この物語)で神秘の探求がしたいのならな」

 

 

 黒服は渋々頷いた。伝書鳩のように扱われていることにやるせなさがあった。だからといって任を果たさなければキヴォトスは自分の知らない危機にさらされるのだから、動くしかなかった。

 

 

「あなたはしばらくここにいるのですか?」

「都市伝説だ。それを観測するまでは、ここにいよう」

 

 

 屋上を離れる黒服の足取りは重かった。

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