篝火の消えぬキヴォトスより   作:ぞんぞりもす

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幸せの一枚絵

「あったっーっらしーっい! あぁさが来たっ! きぃぼぉおのあーさーっだ!」

 

 

 細い喉と薄い体から出る声は、カガリの記憶にある声よりも太さがない。そう感じながらカガリは歌いながら歩いた。秋風に乗って、声は遠くとおく響いていく。

 バスから降りて徒歩で進む風紀委員会一行の耳にもそれは届いていた。小型車で先を行く野営班にすらその声は届いていた。

 

 

 一年の暮れに枯れてしまう木々は、持っているエネルギーをすべて使っているような鮮やかさで山を彩っている。

 土を踏みしめ、アスファルトと違ってほんの少しだけ沈む感触に、これは非日常なのだとカガリの心は躍った。

 肺を膨らませる空気は、他人が吸って吐いた空気を自分の体内に入れているような不快な淀みが感じられない。

 五感すべてが刺激される無秩序が新鮮だった。

 

 ひと通りの歌詞をそらんじたカガリは、となりを歩く幼馴染へ声をかける。

 

 

「落ち着くね〜」

「……ええ、そうね。車の中では、こういった風景や空気のおいしさを感じられなかったでしょうね」

 

 

 カガリは朗らかに声をかけたのだが、返答するヒナは苦笑している。どこが落ち着いている人の言動なんだ、という疑問からだった。

 

 

「小躍りしたくなってきたね」

「それは落ち着いている人が取る行動ではないと思うのだけれど……カガリがいいのなら、いいんじゃないかしら」

「二人で踊ろう」

「それは却下」

 

 

 アコやイオリを筆頭に、野営の準備をしたり合宿所に泊まる人の荷物を置いたりする班は、切り開かれた土の道を車で先に進んでいた。ヒナはそちらではなく、カガリとともに先頭集団で歩くことを選んだ。

 

 カガリは金髪をご機嫌に揺らしながら考える。なぜ、後輩が後ろからついてきているこの山道で、踊ることが却下されたのだろうと。理由は明白だ。が、一旦思考の外に追い出した。

 風はひんやりと心地いいが、運動をあまりしない彼女のことだ。山歩きで疲れたのかもしれない。カガリは結論づけた。

 

 歩を遅めずに、恭しくとなりへ手を差し出す。

 

 

「ヒナ、エスコートしてあげるよ」

「大丈夫」

「どうか今宵は僕と二人で踊ってくれませんか?」

「……聞いてた? あとどうしてそんなに踊りたがるの?」

 

 

 足を止めて見つめ合う二人。紅葉と山道を風景として美少女二人が仲睦まじくしているさまは、遠目から見れば、いっそ幻想的ですらある。

 足音が背後から近づいてきた。

 

 ヒナは、なんのこっちゃとほほえみを浮かべたカガリを置いていくことを決めた。そしてカガリをせっせと追い抜いた。

 

 

「無視はなくない!?」

「あなたも私の言ったことをスルーしたでしょ? それと同じ」

 

 

 ヒナの口角は美しく上がった。わざわざ走ってとなりまで来てやいのやいの騒ぐカガリを流し目で見る。

 

 

「ああ、そうだ。明日の夜なら、少し付き合える。たぶん人が来ないし、次の日の改善点とかを話す必要がないから」

「りょーかい。それなら明日の夜に落ち合おうか。夜の密会って響き、なんかいいよね。……あっこれまた無視されるオチだ!」

 

 

 金土日とまたがって行われる演習。日はまだ高い場所にあるが、平日の最終日の午後からはどこか街全体が浮足立つ感じがする。激しい訓練が予想される土日に憂鬱になる風紀委員もいる中、二人は気ままに歩き続けた。

 

 

 

 

 演習の監督者はヒナやイオリなどのベテランだ。戦闘経験が豊富でかつ、指揮に優れているもの。アコの近くで、有望視されているチナツも後方支援の監督者として学んでいるという。

 カガリはもともと演習に参加していない。夏休みにハードな訓練をやりすぎて離脱者が多く出てしまったためだった。だが立案者だと言い張ってなぜかついてきていた。社会の適当さをカガリは悪用している。

 

 イオリが監督をするこの時間、ヒナは執務をすることになっていた。そうして、離れにある予約しておいたコテージの前に立っていた。それは何かの罪滅ぼしみたいにぽつねんと一軒だけで佇んでいた。

 

 

「え……こんな広い建物を予約していたの?」

「実物見るとすごいね~! 生きている家みたい!」

 

 

 ヒナとカガリは何度も首を上下に動かした。都会に並ぶガラス張りの四角い箱とはかけ離れた見た目だ。木材のみで作られた見た目から、古さがうかがえた。

 

 ヒナは自身が確認した帳簿を思い浮かべる。

 

 

「……これ、どこから予算が出ているの? 確か書かれていなかったわよね?」

「そりゃポケットマネーだからね」

「誰の?」

「ゲヘナ学園」

 

 

 こめかみに手を当てるヒナに、カガリは笑顔を向ける「もっと言えば風紀委員会の」。悪びれもせずに言い切る。こうでもしないと、幼馴染は贅沢をしない。

 

 

「予算が不自然に余っていて妙だなとは思ったけど……まさかここの予約のため?」

「そうじゃないかな。アコに頼んでるから分からない。でもあれでしょ? 『予算余ってるけど……』ってヒナが聞いたとき、アコは『不測の事態が発生したときのための備えです』とか言ったんじゃない? で、ヒナも『それならいいか』って流したんじゃない? ゲヘナ学園って、不測の事態に事欠かないしね」

 

 

 ヒナは天を仰ぐ。強い日差しが、目を閉じていても刺さってきた。

 

 

「合宿に使う予算のうちには収まっていても、風紀委員会が一年に使える予算は有限よ。カガリ。あなた、お金が魔法(マジック)か何かで自動的に生まれるものと思っていない?」

「思ってないよ? マジック(手品)はミラクルじゃないんだ。種も仕掛けもちゃんとある。たとえば魔力みたいなね?」

 

 

 カガリはにやりと笑って、お金が生まれるマジックの種を口に出す。

 

 

「どこかを掘ったら、それこそ温泉のように湧き出ないかな。埋蔵金みたいな。僕はそれが種になりうると思うけど」

「……この話はおしまいにするわ」

 

 

 ついこの間、カガリたちは温泉同好会とドンパチしたばかりだった。

 ヒナは煙に巻かれたことに悔しさと釈然としなさを覚えながら、首を振ってそれを払う。

 

 

「あの()()()たちに見つかったら、なんて言い訳をすればいいのやら……。今から頭が痛いわ」

「夏季休暇に訪れるにはぴったりの避暑地――たとえば山奥の旅館など。イブキとともに言ってみたいとは思いませんか? 私たちは演習と下見を兼ねてそちらに行こうと計画していたのです。しかし、その旅館はもうすぐ廃業とのことで予約が取れませんでした……。そのため、似た趣向の違う場所を訪れてはいかがだろうか? と考えたのです」

 

 

 一人称まで変えながら、カガリは大きな身振り手振りで饒舌に続ける。

 

 

「そうこうしているうちに時期は移ろっていきました……。しかし私たちは最高のロケーションを見つけました。権力を示すことも大事ですが、メンバーを労るからこそよりよいパフォーマンスが期待できるというものです。冬季休暇中に山奥で自然を満喫する……いいとは思いませんか? スキーウェアを着込むイブキちゃん……見たいと思いませんか? 今回はそのための下見です――とか何とか言うのは?」

「イロハから苦情が来るわよ……?」

「こういうのはマコトをノセた時点で勝ちだから、粗があったところで問題ないと思うよ。大事なのはいかにマコトに妄想させるかってところだと思うから」

 

 

 顎に手を当てていたヒナは怪訝な顔で「それ、冬季休暇にあのタヌキたちがどこかに行くということよね? 余計予算が使われない?」とカガリを見上げた。

 

 

「どのみち冬季休暇に入ったら一度は無駄遣いするだろうし、先に厄介払いをしていたほうがよくない?」

「……それも、そうなのだけど」

「まあエデン条約が結ばれればトリニティがそういう豪遊を許さないだろうし、結果的に僕たちが得をしただけになるかもって思っていたりもするよ」

「そうね……。私たちにとって関係のない話になるのが一番いいわね。たぬきたちの相手をしなくてもよくなるのは、幸福なことだわ」

「野生動物って言葉が通じないから大変だよね」

「それは言いすぎよ。言われた人が――いえ、傷つかないわね。むしろ逆上されるかもしれない……だからやっぱり言いすぎよ」

 

 

 けらけらと笑いながら、カガリは踵を返した。鳥のさえずりや発砲音にまじって、高らかな笑い声がこだまする。

 ヒナはコテージで業務を、カガリは火山で調査を。翌日の夜までのしばしの別れだ。

 

 

「もう行くの?」

「行くー。ちょっと山登りをしてくるだけだよ」

「……気をつけてね。あなたは夏の訓練で熱中症にはならなかったと聞いているけれど……ヒノム火山は何よりも暑いし、私たちですら手を焼いている」

「今日の夜……っていうか戻ってきたときに一回連絡をいれるよ。それで明日も行くときに連絡をいれる。あとはもう、信用しといて? 体力と根性には自信あるしさ」

 

 

 カガリは笑いながら、ひらひらと手を振って歩いていった。

 ヒナはポーチの階段に足をかけて振り返る。浮かない表情を浮かべて、遠ざかる背を見送る。照りつける涼やかな日差しできらめく金髪は飄々と揺れていた。その頭には、折れてしまった角と、ぴかぴかの赤黒い巻き角がついている。自分のせいだ、とヒナは思う。

 

 

 

 

 カガリは特段、そこで異常を見つけられなかった。

 途中で小さな生き物を倒しただけだった。赤ん坊と呼んでも差し支えない大きさの、四つ足で動く何か。ヘイローはない。ハイハイをしていたように見えた。とりあえず撃ってみたのだが、その死体は見えなくなっていた。もしかしたら外れたのかもしれない。気味が悪くなったが、調査を命じられた以上はしっかりと探しきって、そして何の成果もなく帰宅した。

 カガリの愛用するまっ黒なデザートイーグルは.357マグナム弾を使用する。それで一発だった。ヒノム火山の生態系に詳しくないカガリはそれを、謎の生物と結論づけた。全身が煤けた赤色だったことも、死体がおそらく消えてしまったことからも目をそらした。調査を命じてきたゴルコンダには、報告することにした。

 

 

 火山での汗を流して、ひっそりと合宿所から抜け出したカガリは、ヒナのいるコテージへ向かっていた。何やらピザを作ってくれたらしい。

 合宿の前日に「山奥で食べるピザってなんか夢があるよね!」とチリソースやサラミを買って準備していたら野菜も買い足されていたので、カガリは薄々感づいていた。それでも、ピザを焼いたと聞いて顔がほころんだ。カガリよりも料理が苦手だった彼女は、いつの間にかその腕をめきめきと上達させている。

 

 

 遠目に見えてきたヒナは、ポーチの前で焚き火に当たりながら、ちょうどそれを切り分けるところだった。においがつくと連絡を受けたカガリは中学のジャージを着ており、ヒナとお揃いの格好だ。

 

 思わずカガリは立ち止まる。

 

 文明の光が少ない場所で赤く切り取られた世界は神秘的だった。きめ細やかな空気を虫の声が伝わり、色とりどりの光の粉を振りまいたような夜空が天高く広がっている。浮く大きな月が煌々とあたりを照らしていた。

 幸せの一枚絵だった。ポケットに伸びた手。写真を取ろうとして、結局やめた。スマホカバーの革の質感は、何かが違うのだ。目を閉じていても光景が思い起こせるくらい周囲を見渡しながら、カガリはヒナのもとに歩いた。

 焚き火特有の香りのせいで、ピザが焼き上がった香りがしなかったことだけが惜しかった。

 

 

 そうだ、お風呂に入り直さなければならない。ふと思ったことは、昔には思わなかったことで。少しずつ女子の感性になっているのだと、こんなときに自覚する。

 立ちこめる靄を振り払うようにして声を張り上げた。

 

 

「おいしそう!」

 

 

 声が聞こえたらしい。ヒナは顔を上げ、仕方なさそうに笑った。

 カガリがローチェアに腰を下ろしたところで、ヒナはやっと声を出した。

 

 

「もう、そんなに遠くから話さなくてもいいじゃない。そもそも見えたの?」

「まあまあ。ヒナが作ってくれるものは何でもおいしいから見えなくても大丈夫だよ」

「見えなかったのね」

「心の目で捉えてた! 僕の心眼は太陽すらも等身大で見えるんだ」

「焼ききれない? それ。大丈夫?」

「あ、さては信じてないな――」

 

 

 虫に負けないくらいの声量でしょうもないやり取りを続けた。満面の笑みではなかったが、二人はきれいな表情を浮かべていた。

 チーズがなかなか切れないらしく、しばらくヒナは格闘している。その最中に思い出したようにピザから目を離した。

 

 

「そういえば。お風呂には入ったの?」

「入ってきたよ。さすがに汗でべとべとだったし、髪も傷んじゃうから。また入り直さないといけないけどね」

「それは仕方がないわ……。火薬とかはつかなかったの?」

「つかなかったよー。ほんっっっとに()()()()()()だった。暑いだけだったよもう」

 

 

 肩を竦めるカガリにヒナは「お疲れ様」とだけ言って、再び視線をピザへ向ける。彼女のまとっている空気が穏やかなものに変わったことに、カガリは気づかない。また、ヒナもカガリの反応が偽りのものか見抜けない。

 

 

「もしかしたら、何かしらの要因で急激な火山活動で起こって、それで熱……まあエネルギーが発生しただけかもしれない。フレアみたいな。ゲヘナがそれを観測できなかったのは謎だけど」

「いずれにせよ、定期的な調査が必要になるわね……。お願いできるかしら」

「僕がいる限りは。でも卒業してからどうなるかは未知数だよ」

「付属の大学に進学するのだし、いざとなったら手を貸せばいい。ゲヘナまでアビドスのようになるのは、夢見が悪いから」

「そうやって何でもかんでも抱えこむから、後輩が育ちづらいんだよ。けっこう問題になってるじゃん」

「私がやるのが一番早いもの。それに私がやらなければ、自分でできそうなことだって言ってあなたが代わりに抱えこむでしょう? どっちもどっち。あとこれ、おまたせ」

 

 

 ぴしゃりと言い放たれてすぐに、カガリは一切れを手渡された。

「ありがとっ」ホールピザで言うところの外周部に白長い手が添えられる。円の中心に向かってピーマンやサラミ、焼け色のついたチーズが乗っている。

 

 

「やった! おいしい!」

「食べてないでしょ」

「見た目からおいしい!」

「ポジティブね……」

「これってポジティブの範疇なの?」

 

 

 数秒見つめ合って、示し合わせたように口もとを緩める。それぞれ手に持って食事の挨拶をした。

 口に運ぶ前に、鼻に近づけて香りを楽しむ。肺いっぱいに、焼けた生地とサラミ、チーズの濃厚な香りが広がる。ジューシーで野性味あふれる香りだ。ぱちぱちと木が爆ぜる音がした。カガリは声を上げて笑った。ヒナも笑っていた。

 

 噛んだ瞬間に小気味いい音が聞こえた。

 こんがりぱりっと焼けた底面に、酸味のあるピザソース。噛みちぎったらびろーんとチーズが伸びた。細長い筋となったチーズが顔にぺたりと落ち、頬の周りがあぶらっぽくなる。カガリは空いている手でそこを拭って指を舐めた。ヒナが身を乗り出すようにしてウエットティッシュで頬を拭いた。

 

 二人の笑い声が、凛とした森の空気に溶けていく。

 カガリの脳裏にふっと蘇る幸せに付随する記憶。

 

 昔、蛇口から水を出して下にスプーンをやり、噴水のように、スプーンのまぁるい輪郭が水によって広がっていくようにしたものを、何時間か眺めていたことがあった。その感覚に、似ていた。思い返すと理由なんて分からないけれど、当時の自分には幸せだったこと。

 クレーンゲームで手に入れた安っぽい宝石を、同じくらい安っぽい四角いケースに入れて持ち歩いたようなもの。それを小学校の図画工作でふんだんに使った作品は、一週間後には三階から落とされていた。カガリが不注意で落としたことになって、よく晴れた日の放課後、一人でそれをちびちびと拾った。排水口の金網を外して取るのが、いちいち手間だった。

 

 隙を作れば侵食してくる黒い染みに、僕は平気だぞと見せつけるようにカガリは笑う。

 

 

「ヒナの料理は食べるだけで元気が出る」

「まるで魔法(マジック)ね」

「種はきっと愛情だよ」

「言い切れる?」

「言い切ってもいいよ。なんなら賭けてもいい。愛情にベット、全ツッパで」

「私も愛情に賭けようかしら」

「プレイヤーが二人だけのババ抜きとか七並べみたいなことするのやめない? 無意味すぎる」

 

 

 他人や過去の自分、未来の自分から断絶された瞬間。今の自分だけが感じている確かな感触。次の日にはきっと忘れてしまう、それでもときどき思い出すほど強い何か。人はそれを幸せと呼ぶ。

 

「んぁ」またびろーんとチーズが伸びてカガリの頬に落ちた。

 ヒナは諦めたらしく「シャワーのときに流れるわね」とだけ言った。そうして器用に食べ進めた。

 カガリは不思議そうに首を傾げてそれを眺める。まねをして食べても、やっぱりカガリは失敗した。

 

 ヒナは繊細に調律されたピアノが一音を鳴らすみたいにして言った。

 

 

「こんな機会を作ってくれてありがとう」

 

 

 それから、位置や角度を神経質に調整されたマネキンのように黙った。

 

 

 何もかもが澄み渡った場所で、カガリとヒナは、余す所なく食事を楽しんだ。夜は、とっぷりと暮れていく。

 

 

 てきぱき二人で後片付けをした。すでに火は消している。ジャージの繊維を夜風が突き抜けてきて肌を刺した。真っ黒い炭の中にうずくまるようにしてある、火だったものの輪郭。カガリの心に一抹の寂しさと幸福が広がる。

「楽しかったな」カガリの口をついて出た。ヒナと顔を見合わせた。

「惜しいわね。これで終わってしまうことが、とても」ヒナもそれきり押し黙って、もうほとんど終わってしまった片付けの手を緩めた。

 

 すたすたと唐突にコテージへ向かったヒナ。そしてすぐに戻ってきた。

 カガリはヒナの目を照らさないようにスマホの角度を調整した。ライトが陰影をくっきりと浮かび上がらせる。家で使っているブランケットがヒナの手には収められていた。今ここに持ってきた理由を推察して、それでも首を振る。

 

 

「まだ火のにおいがなくなったわけじゃないから、移ってしまうよ。洗濯が大変になっちゃう。またあとでここに来るよ」

 

 

 優しい口調が空気を震わせる。

 むっと唇を突き出したヒナはやがて、穏やかに目尻を下げる。

 

 

「私がしていることだから構わないのだけれど……うーん。そうね。もしも()の香りがついたままだったら、これから一生使えなくなってしまう。それは避けたいところだわ」

「香るならお()さまの香りのほうがいいよね。…………無視されるだろうなとは思ったけど、ここまできれいにスルーされるとは思わなかったよ」

 

 

 ゆっくりとしたペースで歩を反転させたヒナに、続ける。カガリの視点からはヒナがどういった表情をしているのか見えない。

 

 

「いったん僕は戻るよ。お風呂に入ってくる」

「それ、聞こうと思っていたんだった。私は大浴場のほうに行こうと思っていたのだけれど、あなたは一人で入る?」

「そうだね~。そうしようかな。ヒナはみんなと裸の付き合いをしてきなよ」

 

 

 肌寒い時刻となっていた。またここまで歩いてくるときは、上から風紀委員のコートでも羽織ってきたほうがいいかもしれない。道すがらそんなことを考えながら、カガリは合宿所まで歩いた。

 

 

 シャワーと湯船で疲労を溶かして、代わりに睡魔を補給した。しかし、ストレッチが終わったあとぼーっとしていて時間が経ち過ぎたら、風呂から上がったヒナが絶対に適当に髪の手入れをすると思って、カガリはがばっと立ち上がった。

 

 

 まっ暗なコテージの明かりをつけてひと通り家屋を探検したあと、ヒナが帰ってこないことを妙に思ってスマホを見る。アコから『ヒナ委員長のもろもろの手入れは私がしておきますので!』と連絡が入っていた。

 四人がけのテーブルと椅子に一人で座っているのは居心地が悪くって、カガリは探検の最中に見つけた執務用の小さな部屋まで歩いていって、机の上にあったタブレットをいじり始めた。

 

 机に置かれていたヒナの私物は、数ミリでもずれていたら罰されるかのように整頓されていた。いちいち物を取ったり手を伸ばしたりするのが面倒くさいから最大限の整然さを意識しているのだろう。ヒナにはそういったところがある。

 

 

 それからしばらくのことだった。控えめな音で玄関が空いたことにも、執務室の戸が開いたことにも、カガリは気づかない。

 執務室を訪れたヒナは、カガリの真剣な表情を崩さないよう慎重に名前を呼んだ。

 

 

「カガリ?」

「ん?」

「待たせてしまったのね。ごめんなさい」

「いや? おかげで業務がだいぶ進んだよ」

 

 

 穏やかな眦。ルビーとアメジスト。

 ダイニングとヒナの寝室には暖房をつけておいたが、執務室のそれには電源をいれていない。カガリはコートを羽織っていたので十分あたたかかった。

 パジャマのみのヒナが執務室の戸を閉めたあと二の腕をさすって身を縮めたので、二人はダイニングに移った。

 

 カガリは対角線に座るヒナの髪をしげしげと眺めている。潤いのある紫がかった白髪から、アコの丹念さが伺えた。

 

 

「アコが何か言ってた? 髪の手入れでここをこうしたほうがいいとか」

「……特には言っていなかったと思うわ。意外としっかりしてるって、むしろ褒めていたわよ。あんまりそんなトーンじゃなかったけど」

「アコらしいね。不手際がなかったのならよかったよ」

 

 

 ほっと胸をなでおろす。

 

 

「あ、でも、ボディクリームはつけたほうがいいっても言っていた」

「ボディクリームか~……買うとしても、各々でつけたほうがいいんじゃない? さすがに体の隅々って言うとね……」

「それもそうね。今度一緒に調べましょう」

 

 

 本心がばれずに安心したことと、話をそらしたいという気持ちがカガリに二の句を紡がせた。

 

 

「業務のことなんだけど。あともう少しで終わるから、ヒナは先に休んでても大丈夫だよ。昨日も夜遅くまでやったんでしょ?」

「あなたは平気なの?」

「もう少しくらいなら。さすがに全部はやらないかな」

 

 

 話の最中、カガリはちらりと台所へ目をやった。洗い場に置かれているガラスのコップには水が入っている。水の中には睡眠薬が入っていた。

 ヒナは正しく意図を察し、そして重い息を吐いた。話に乗せられて心地よい夢の世界へ旅立った経験が表情を険しくしている。

 

 

「大丈夫だから。今日はもう寝るわ」

「水はあとで投げておくよ」

「カガリが飲んだら?」

「ベッド間違えちゃうからパスで。もしくは山道のどこかで寝ちゃう」

 

 

 長いまつげを伏せて口角をわずかに上げるヒナ。カガリの目には、悲しんでいるようにも、ほほえんでいるようにも見えた。

 

 

「……分かった。おやすみ、カガリ」

「おやすみ、また明日」

 

 

「そうだ」階段を上りきってヒナは立ち止まった。階下にいるカガリを見下ろす。ここは吹き抜けとなっており、二階の廊下とダイニングを照らすシャンデリアは大体同じ高さにあった。

 

 

「ピザの具材が余ったから、明日はそれをパンにでも挟もうと思っているわ」

「チーズに襲われる夢を見そうだよ、僕」

「そこにある水を飲んだらどうかしら。夢も見ないほど深く眠れるわ」

「そんなに根に持たなくてもいいじゃんか!」

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