堕落した二人は注射器とともに再開する

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オレンジ

 科葉諸友

 

 

「悠介、あんたは生きて……!」

 

 やめてくれ母さん、いいじゃないか死んだって。

 

 一面に炎が広がる中、罪が身体を焦がす。そうであってくれ頼む。罰なら受け入れるからさあ。

 差し伸べた母さんの手のひらは皮膚が溶け落ちている。掴んでしまった時のグズりとそれが剥がれ落ちる感触は最悪。

 命からがら、命を落として息子を助けるなんていい母親だ。助けたのがこんなクソ野郎じゃなければ。

 父さんも優香も丸焦げ。口を開かない。ただ瞼も焼ききれて窪み落ちた深淵が語りかけてくる。

 お前だけずるい。ふざけるな。お前のせいだ。

 

 

「……ぁ」

 

 6:00

 どうやら3時間寝られたらしい。スッキリとしたクソみたいな朝だ。

 

「あー、うー、えー……ん」

 

 声も問題なく出る。

 シャワー浴びて、着替えて、あとは痕を隠すためのチョーカーをつければ準備は終わりだ。単位を取りたいから授業に出る。

 なんで単位なんて取りたいんだ。そもそも生きたくない。でも生きなきゃいけない。母さんが言ったから。

 

『お前が生きてていいわけないだろう』

『なんでなんでお兄ちゃんだけ早くこっちにきてよ』

『生きて』

「おはよう」

 

 5年前から付き添っている幻覚に挨拶する。

 幻覚だ幻覚。まぼろし。実在しない気にするな。おえ。吐きそう。どうせ胃液しか出ないのに。

 

『おにいちゃん』

『ゆうすけ』

『ゆうすけ!』

「ああああ」

 

 震える手で注射器を腕に刺す。

 ドクンドクンドクン。

 ふやける視界と溶ける脳は幻覚も曖昧にしてくれる。炎のように揺らめく世界がいい具合に僕を焼き殺してくれる。

 よかったこれで、生きていける。

 家を出る。

 

「……」

 

 ジリジリと太陽が照りつける8月。あの日から熱さも暑さも分からなくなっている。

 

 

 学校に着くとまともで全うで良い人たちが大勢いる。

 

「そういや、昨日の資料!めちゃ綺麗にまとめてくれて、マジで感謝だわ。ありがとな!」

 

 実験で同じ班になった彼の差し出す手には、ムカデが十匹這っている。

 とても可愛い。

 彼の手を握る。ムカデのカサカサと蠢く感触、硬いカラが当たる感触、腕を這って袖の中に入ってくる感触がした気がする。

 気にせず握る。ぐしゃりと外骨格が潰れ何色かも分からない液体が手に染みる。それはすごい心地がいいことだ。

 

「いやいや、大したことないよ」

「またまた謙遜してー」

「本当に大したことないから」

「……ええと、じゃあ、今日の分は俺が資料まとめるから、」

「いや、俺がやるよ」

「いや、それはさすがに悪いって」

「俺がやるよ」

「お、おう。じゃあ、任せるわ、悪いな」

「いや、俺がやりたくてやってるだけだから、気にしないで」

 

 ああ、強く言いすぎたな。ダメじゃないか人に迷惑をかけちゃ。僕は生きていていい人間じゃない。

 

『お前のせいだお前のせいだお前のせいだ』

「それな」

 

 幻の妹に同意する。

 実験が終わるまで、あと2時間。

 精神安定剤を食べる。不味い。効果あるのかこれ。

 

 

「いや、忙しいし……」

『あんたねぇ、そがいなこと言うて去年の夏も帰らながったろう。いいから帰りぃ!』

「いやでも……って、はぁ」

 

 通話終了の画面にため息をつく。

 あの日から、福岡の祖父母が育ての親になってくれた。毎年、冬と夏には実家に帰れと言われるが、帰りたくない。

 注射痕を隠すのも首の痕を隠すのも面倒だし、食っても直ぐに吐く飯を食べさせられるのも、色々と心配されるのもしんどい。

 それに、福岡には僕の燃えた家がある。

 

『あつい……お兄ちゃん……』

「ごめん」

 

 皮膚の剥がれ落ちた優香。ああごめん。幻だよな。でもごめん。

 

「……でも、帰った方が、いいよな」

 

 俺が苦しむ程度で祖父母が喜ぶのならきっと帰るべきなのだ。

 ……スーツケース、どこにしまったかな。オレンジ持ってかないと。

 

 

 視界が揺れる。電車が揺れてるからなのか、薬が原因か僕の精神の問題か。なんでもいいか。

 

『次〇、阿▶滑り〜棚理解〜』

 

 何を言ってるのか分からないアナウンス。外の風景を見ても幻覚か現実か分からない。でも大丈夫だ。スマホでGoogleマップを見れば一発で自分がどこにいるのか分かる。さんきゅージョブズ。

 

「つかえねえなジョブズ」

 

 降りる駅は一つ前だった。

 仕方ない、そこまでの距離じゃないし歩くか。

 スーツケースをなんとか引き摺り、歩く。

 

「あれ?ユースケじゃん!」

「……っ」

 

 その声は僕の幻聴フィルターを通り越してハッキリ聞こえた。たまたまだ。

 それは偽物の声でないことが何となくわかった。本当は幻聴だけど。

 ダメだ福岡に帰ってきてから酷いな色々。頭の中の整理がつかない。脳の中にモグラがいるんだいない。

 

「ユースケ?」

「……あ、ああ。うん。久しぶり、芽衣子」

 

 芽衣子。相変わらず、少し甘めの柑橘類のような匂いがする女の子。中学まで一緒だった、友達であり、一応、恋人。

 中学の頃、制服のボタンが何個か取れても気にせずそのまま着ていた、ファッションに全く興味のなかった彼女は、5年ぶりに会うと随分お洒落になっていた。

 なんというのか知らないが、ふわふわした白い服に薄緑のスカートが似合っていた。髪も明るく染まっていて、ゆるくカーブがかったそれを自然に横でまとめている。随分と垢抜けて見えた。

 

「昔みたいにメイちゃん呼びで良いんだぜユウくん……って、うわ!何その隈!というかよく見たら凄いガリガリじゃん!どしたん!?」

「ああー、ちょっと色々あってな。最近忙しかったんだ」

「ええー、忙しいったって限度があるよー。ちゃんとご飯食べてる?」

「ああ、一昨日食った」

「いや毎日食えよ」

 

 とりあえず、帰らなきゃ。じいちゃんとばあちゃんに顔を見せて、それで……いや、特に予定はないが、それでも会って安心させないと。

 だから芽衣子のことは適当に流して、さっさと帰ろう。

 というか、芽衣子から逃げたい。俺は芽衣子に会ってはいけない。

 

「じゃあ、またな」

「ええー?もうちょっと話そうよ」

「いや、忙しい。そもそも芽衣子だって予定あるだろ」

「いやぁ、ぶっちゃけ今日の用事行きたくないしー?ユウくんと遊んじゃえー、みたいな?」

「ダメだろ先約優先しろ」

「えー!待ってって!」

 

 芽衣子は、なんというか純粋馬鹿みたいな奴だった。こんな俺みたいなクズの生きる世界とは違う世界に生きていて、ドブの汚れに浸りきった俺が関わっちゃいけない綺麗な人なんだ。

 だからその言葉には不意を突かれた。

 待ってと言って俺の腕を掴んだ彼女の手が、まるでタトゥーを隠すかのように不自然に腕に巻かれたアームカバーをその勢いでずらした。彼女はその下から現れたそれを見て言った。

 

「あ!注射痕!なになに、ユウくんもオレンジやってるの?」

「……は?」

 

 それは、お前がさも日常の一部かのように使っていい言葉じゃないだろう。

 

 

 中学1年、夏。バスケ部だった僕は、何がキッカケだったか忘れたが、顧問と大喧嘩して退部した。今思うとプライドが高い大人だったと思うし、理不尽を受け流すことを知らない子供だったと思う。

 

 退部した僕を待っていたのは、持て余すほどの時間だった。

 うちの中学のバスケ部は所謂「ガチ」で、毎日練習詰めだった。いや、バスケ部に限らず、運動部は大抵ガチだった。僕の交友関係は運動部の真面目に頑張ってる奴らばかりだったので、僕が新しく得た放課後の時間は皆部活に勤しんでいた。

 遊ぶ友達もおらず、一人で時間を持て余していた僕は、友達と下校時間を合わせるために図書室で時間を潰すのが日課になった。

 

 ある日、いつものように図書室に入る時、その向かいにある教室の扉が空いていた。

 美術室だ。何となく覗いてみると、その中には一人の女の子がいた。それが芽衣子だった。

 ふんわりと、少し甘い柑橘の匂いがした。

 椅子に座り、体の倍程ある大きなキャンパスに絵を描いていた。僕はその絵に見とれた。

 芸術方面の教養はあまりなかったが、知識とか理屈とかじゃなくて、とにかくその絵が好きだった。

 

「えへへ、いいでしょこの絵」

「……うん。すごい、綺麗」

 

 それが彼女との出会いだ。

 

「これ、どうやって描いてんの」

「えー? 好きな色をとって、描きたい形に筆をなぞると、描ける、みたいな?」

「……すごい」

「えへへ、すごいっしょ!」

 

 うちの中学は美術部がなかったから、芽衣子は外部のなんちゃらアトリエみたいな所に属して絵を描いてるらしかった。

 よくこうして、学校に画材を持ち込んでは、放課後美術室に入って絵を描いていた。何もする事のなかった僕はそれに付き添った。

 それからは、ほぼ毎日会うようになった。暇な僕は、彼女が絵を描くのをただただ見ていた。

 おしゃべりな彼女は、しかし絵を描く時は集中して何も話さなくなる。それが好きだった。心の底から真剣に楽しそうに絵を描く彼女が好きだった。

 

 彼女との間は新鮮だった。良くも悪くも。なんというか、包み隠さず言ってしまえば、芽衣子はとんでもなく馬鹿だった。

「福島と福岡ってなんか違うの?」なんてことを言っていたのを、今でも覚えている。今まで勉強ができる、真面目な奴らとばかりつるんでいた僕にとっては、それがかえって良かったのかもしれない。彼女はいつだって知らない世界を教えてくれた。

 

「ユウくんも描きなって!」

「いや、僕下手だし……」

「絵に下手も上手いもないよ!」

「いやあるだろ」

「ないよ! だって私、ピカソの絵ヘタだと思うけど、上手って言う人もいるでしょ?」

「ああ、評価基準のない主観でしかないから上手いも下手も言えないってことか」

「? なにそれ?」

「あー、うん」

「とにかく!絵は上手い下手じゃなくて好き嫌いで語るものだよ!」

「……一理あるな」

 

 僕も誘われて、絵を描いたりもした。

 

「うははー! ユウくん下手っぴ!」

「おい! 上手い下手もないんじゃないのかよ!?」

「ごめんごめん。でも私、好きだよこの絵。君がよく現れてるよ」

「はあ? どこがだよ馬鹿にしやがって」

「私馬鹿じゃないし」

「いやそういう意味じゃなくて……やっぱり馬鹿だなお前」

「はあー? 馬鹿じゃないよ私!」

 

 僕の絵の才はからっきしだったが、不思議と描いてて楽しかった。それに、芽衣子のアドバイスを受け入れると、下手は下手なりに、味のある下手な絵になるのだ。だから面白かった。

 そんな不思議な関係は中3まで続いた。

 

 この3年間で、僕はかなり芽衣子のことを好きになっていた。ぶっちゃけ初恋だった。

 しかし残念ながら芽衣子の学力と僕の学力は開きがありすぎて、同じ高校に進学なんてものは無理だった。

 だから僕は、ものすごくベタだけど、卒業式の後に告白した。そして、芽衣子はあっさりこれを承諾。晴れて彼女は僕の恋人になった。

 

 それから春休みの間恋人らしいことはいくつかした。ただ、春が過ぎて高校に進学すると、関わりは薄くなった。

 高一の夏、僕の家が燃えてから、まあ僕の方から疎遠になった。

 一応、LINEではたまのやり取りがあり、それで彼女が高校でも元気にやっていることと、美大に進学したことは分かったので、きっと彼女はこれからも絵を描き続け、プロになるのだろうと、勝手に安心していた。

 

 だから。

 

「みてみて、おそろー!」

 

 赤紫色に腕に残った堕落の証を見せてくる彼女が、信じられなかった。

 

「な、んで、お前が」

「それ、こっちのセリフなんだけど」

「……色々、あったんだよ」

「……そっか。私もね、色々あったの。色々!」

 

 ついさっきまで5年前と同じに見えていたその笑顔が急にただの貼り付けに見えてきた。

 

「ねえ、ちょっと話さない?」

 

 頷くしかなかった。

 

 

 ◆

 

 

 悠介。ユウスケ。ユウくん。

 頭が良くて、ひねくれてて、でも優しくて、顔も良くて、絵は下手っぴで、好きな人。今も昔も。

 ユウくんがいたから、中学は毎日が楽しかったなあ。

 

 高校に入ってもしばらくは仲良くやれてたけど、ある日、ユウくんの家が火事になってから連絡が減った。

 私は心配になって色々と聞いたけど、彼は大丈夫の一点張りだったし、いかにもな「話しかけないでくれ」オーラを放っていたので取り付く島もなかった。

 何となく、なんとかしなきゃと思った私は、何も考えずにとりあえずユウくんの家に突撃したこともあった。しかしそこには焼け跡しか残っていなかったというのがオチだ。

 

 私は意外とユウくんのことを知らなかった。というか、ユウくんの周りのことを知らなかった。

 人付き合いが苦手だった私は、ユウくんの友達も知らないから、友達づてに彼の現状を聞くこともできなかったし、ユウくんが今住んでいるという彼のおばあちゃん家の場所も知らなかった。……それくらい、私に教えてくれても良かったと思うんだけどなあ。

 そんなわけで、私は何もできなかった。会いさえできなかった。

 ……いや、今思えばそんなことはないのだろう。彼の通う高校の名前くらいは知っていたので、そこに突撃して直接彼に会って捕まえて、根掘り葉掘り全部聞き出して、彼を支えて共に生きていくことだって、できたかもしれない。

 ただ、当時の私は頭が悪かった。今もだけどね。とにかく、そんな発想が思い浮かばなかった。ユウくんが言うことはいつも正しいと馬鹿みたいに信じきっていた私は、ユウくんが大丈夫と言うのなら大丈夫なのだろうと思い込むことにした。

 

 一応、ちょくちょくLINEで連絡は取っていたので、彼が部活を辞めただとか、理系に進んだだとか、志望大学を決めただとか、大学に受かっただとかは聞いていた。

 ユウくんは国立の医学部に進学した。彼の両親は医者だった。そして、彼も子供の頃から医者になるのだと言っていた。だから、きっと火事の不幸を乗り越えて、死んでしまった両親の意志を継いだのだと思って、勝手に安心していた。

 

 そんな、何かの物語の主人公のような美しい人生をユウくんに勝手に投影していたのだ。

 だから、君がこんなになってるの、今でも信じきれてないんだよ?

 

「……酷いな」

「失礼な。金欠なの、こっちは」

「金の問題じゃない汚さもあるだろ」

「うるさーい」

 

 話す場所、なんて言っても、ファミレスで違法薬物の話をする訳にはいかないし、かと言って個室付きのお店でご飯を食べれるようなお金はない。必然、私の住んでるボロアパートで話をすることになった。

 地面に空いたビール缶が転がり、ゴミ出しを忘れたゴミ入りビニール袋に小バエがたかっている。我ながら汚部屋だ。

 

「なあ、なんでオレンジなんてやってんだよ、メイ」

「そりゃあ、こんな腐った世の中オレンジなしではやってけねぇからよ!」

「そうじゃなくて」

「それにほら、オレンジってタバコよりも健康被害少ないって言うしー?」

「問題なのは依存性の高さだろ」

「……あはは、そうだね、うん」

「なあ、大丈夫なのか、メイ」

「大丈夫なわけないでしょ!」

「……すまん」

「っあいや、ごめん。ちょっと効果切れてきちゃったみたい」

 

 うー、最近直ぐにオレンジの効果が切れるようになってきた。効きが悪くなってきている。

 震える手でタンスからオレンジを取り出そうとして、止める。

 君と話す時くらい、素面ですべきだと思った。……今さらなに、誠実性を守ろうとしてるんだかね。

 

「そんな急に効果が切れるものなのか」

「うん……というか、ユウくんだってそうじゃないの?」

「あー、俺はその、あれだ、オレンジ使ってても使ってなくても大差ないというか」

「なにそれ」

「どのみち、幻覚あるし」

「いやダメでしょ精神病院行ってこい」

「ヤク中がバレるから無理」

「あ、そういえばそっか」

「……なんか、やっぱり変わってなくて安心したよ」

「私の馬鹿を見て安心するのやめてもらっていい?」

「すまんすまん。……なんかこうして話してると、昔のこと思い出すな」

 

 そう言って少し嬉しそうに笑うユウくんは、昔の面影があった。……でも、頬はこけ、隈は深く、肌の色は青白く、色々と変わっている。

 

「……そろそろ、聞いてもいいか」

「ほんとは、そっちの話を先に聞きたいんだけどねー。ユウくん意地張って言わないし、仕方ない、ここは一つ私が先に話すことにしようじゃないか」

 

 本当は、絶対に秘密にしていた話。前に進むユウくんの足を引っ張らないように、心配をかけないように……なんていう理由は、まあ見栄かな。

 こんな、人生の恥を、他でもない君に知って欲しくなかったんだよ、私。でも、君がそんな、私と同じようなところまで堕ちちゃったら、ほっとけないじゃないか。

 意を決して私は話し出す。

 

 

 高校は、馬鹿の集まりだった。

 私が行けるところなのだから当然だけど、生徒の質は酷いもので、当然ユウくんのような頭が良くて優しくて品がある王子様はいなかった。

 そんな馬鹿どもは、まあ案外良い奴らだった。色んな中学から集まった馬鹿の精鋭達は、私と同じようにクラスで浮くような強個性持ちばかりで、案外馬が合った。

 今までの人生で初めてあそこまで多くの友人を作ったし、多分今までの人生で関わってきた人の数の倍の人数と関わった。

 

 そうして私は、まともになっていった。

 人とろくに関わらずにただ一人で絵を描いていた私が、全く持ち得ていなかった常識をその人間関係で培った。

 もちろん相手は馬鹿共なので、勉強どころか都道府県名すらも身につかなかったけれど、それでも、会話での常識だとか、服装の常識だとか、日常の中でふと出てくる必須知識を身につけたのだ。

 

 だから、大学デビューは上手くいった。

 今まで、一目見て、あるいは少し話すだけで「変人」の烙印を押され関わりを絶たれていた私だが、高校で身につけた常識によりそれがなくなったのだ。

 今思うと、ここが一番の分岐点だったのだろう。サークル選びの時のことだ。私は、本当は絵画サークルに入りたかったけれど、そこでためらってしまった。美大に入って更に絵画サークルにまで入っている奴らは皆「変人」だからだ。

 「普通」になっていた私は、絵画サークルに入るのをやめた。そもそも、美大生なら申請すれば画材くらい貰えるし、入る利点はあまりない、なんて言い訳までした。

 

 そうして私はテニスサークルに入ることにした。

 特に深い理由はなく、高校時代友達と頻繁にテニスで遊び、それが楽しかったからという理由で入ることにした。大学では特に人との関わりは大事らしいし、サークルに入らないという選択肢はなかった。

 そこで、入ってからしばらくした時の飲み会で、「オレンジ」を勧められた。

 

 確か正式名称はBOQD。なんの略称かは知らない。注射器で血管に注入して使うタイプの違法薬物だ。

 依存性が高く、「切れた」時の症状として、幻覚吐き気頭痛手の震え、まあよくある症状のオールスターズを味わうことになる。その代わり気持ちよさは抜群で、この世の全てを祝福したくなるような華やかでぼーっとした素晴らしい世界に連れて行ってくれる。

 味覚も鋭敏になり、特に柑橘系の味を強く、美味しく感じるようになる。それを使ってオレンジを食べると「飛ぶ」ほど美味い。それが、この薬が「オレンジ」と呼ばれる理由だ。

 

 馬鹿な私は飲み会後にカラオケに行くという先輩達にホイホイ着いて行き、そこでオレンジを使えと言われた。

 断ったけど、見たからにはお前もやれと言われ、最後には拘束されて無理やり注射針を刺された。

 多分最適解は、あそこで大声を出して助けを呼ぶことだったのだろう。打たれた後はもう手遅れだった。

 全てが気持ちよくなって、全てが許せた。最近絵を描いてもイマイチな私も、無理やりオレンジを使ってきた先輩も、その後服を脱がされ動画を撮られたことも。

 

 そっからはまあ、見事に堕ちて行った。いや、もっと前から転落は始まっていたのかもしれないけどね。それこそ、ユウくんと別の高校に進学した時から。

 とにかく、まあそれからは酷かった。

 オレンジにどんどん依存していって、金がなくなって。先輩に相談したら、いいバイト先を教えてやるとか言われて、風俗店で働かされた。裸で放尿してる動画をネットにばら撒くと脅されたら、私は逆らえなかった。

 そしてどうやら、私が働く店はそういう人たちが働くお店らしかった。みんな、オレンジ中毒者で、その秘密と、それ以外にも色々と弱みを握られて働いている。逃げないし、オレンジを渡しとけば喜んで働く奴隷。それが私だった。

 どうやら私は、先輩に嵌められたらしかった。

 

 

「……そんなところ」

「……そうか」

 

 しばしの沈黙。

 

「はい!私の話終わり!ユウくんの番だよ!」

「あ、ああ……。といっても、俺はそんなに話すことはないぞ」

「その見た目で?」

「なんだよその見た目でって」

「なーんでそんな、ガリガリで死にかけになってんのさ」

「……はあ、分かった、全部話すから」

 

 ユウくんが、重い口を開く。

 曰く、ユウくんが付けっぱなしにしていたストーブのせいで火事が起きて、母親がユウくんを庇って死んで、父親と妹も焼け死んだ。それ以来、慢性的な不眠症、幻覚幻聴に悩まされているらしい。

 自分なんて生きていい人間じゃないと思いつつも、母親の最後の一言である「生きて」という言葉を守り、それだけの理由で生きている。

 オレンジを使うと心がマシになり、便利なので使っているとのことだ。

 

「うわ、重っ……」

「……それ、お前が言うか?」

「それはそれ、これはこれだから。それで、なんでそんな痩せたの? ちゃんとご飯食べてる?」

「必要最低限しか食べてないだけだ。べつに、飯なんて生きて行けるだけ食べればいいだろ」

「いや極論すぎない? というか、せっかくオレンジ使ってるなら美味しいもの食べなよ。もっと美味しくなるよ? かく言う私もティッシュの美味しさに感動したものだよ」

「どうなんだそれ」

「それで、最後に食べたのはいつ? 何食べたの?」

「一昨日コーラを飲んだ」

「……コーラ?」

「ああ。ペプシを700ml」

「それだけ?」

「ああ」

「その前は?」

「一昨日の昨日に砂糖を食べた」

「それは食べ物じゃない! 調味料だ!」

「いや、炭水化物だ。エネルギーさえあれば生きていける」

「君は機械か何かなの? どう考えても炭水化物以外もいるでしょう!」

「……すげぇ。あのメイが騙されていない……」

「うるさい! ……とにかく、ちゃんと食べなよ。お母さんは心配です」

「自分のことを棚に上げて……」

 

 話を全部終えて、案外空気は軽かった。

 私が意識して明るくしたのもあるし、多分、互いに人生に諦めが付いているってのもある。

 

「とりあえず、ご飯にしよう! 夕飯!」

「……唐突だな」

「人間食べないとやってけないからね。チャーハン作ってよユウくん」

「俺が作るのかよ」

「だって私より器用だし」

「それでいいのか美大生」

「私の器用は絵専門なのー。材料は冷蔵庫にあるから、任せた!」

「……任されたよ。はあ、味付けが合わなくても文句言うなよ」

「やたー!」

 

 ユウくんに帰って欲しくなくて、時間を稼ぐ。

 また、ユウくんがいなくなったら、今度はサラッと、私の知らないところで死んじゃいそうで怖い……というのは、まあ理由の半分。もう半分の理由は、結局どんなに変わってようとユウくんが好きだから。

 一緒にご飯食べて、話して、二人分の食器を皿洗いして。

 ああ、だめだ。幸せだ。

 

「……ねぇ」

「なに」

「そういえばさ、私たち、まだ別れてないよね」

「……まあ、別れ話はしてないな」

「じゃあ、まだ彼氏彼女ってことでいいよね?」

「……そうだな」

「じゃ、そんな彼氏くんに提案。今日、泊まってきなよ」

「……じゃあ、そうする……っむ」

 

 思ったより素直に頷いてくれた彼の唇を奪う。私が好きなユウくんの匂い。それに混じってほんのり死臭がする。やっぱり死にかけじゃんウケる。

 

「急に何すんだよ」

「いやー、昨日相手したオッサン、めちゃくちゃ臭くて最悪だったんだよね」

「はあ?」

「これで、ユウくんはそのオッサンと間接キスね」

「……嫌がらせでキスするなよ」

「いや、少しはこの気分を味わって欲しいと思ってね」

「生憎中古も新品も気にしない質でな」

「……そっか」

 

 ねぇ、君はさ、こんなになっちゃった私でもいいのかな。

 そんなの、流石に恥ずかしくて言葉にはできない。

 

 

「頼みがある」

「なあに改まって」

 

 あれから、シャワーを浴びて、着替えて、寝るまでの間の雑談時間、彼は切り出してきた。あまりに真剣に言うものだから、人を殺してくれくらいのぶっ飛んだお願いが飛んでくるものかと構える。

 

「俺の首を絞めて欲しい」

「……わあ」

 

 ほぼ同義の言葉が飛んできた。

 

「いやあ、その、流石に殺人はちょっと」

「ああすまん、誤解しないで欲しい」

「そういうプレイってこと?」

「落ち着け、まずは話を聞いてくれ」

 

 それから彼が語りだした内容はこうだ。

 あの日、家が燃えた日から慢性的な不眠症を患っていて、それは今日に至るまでどんどん酷くなってきている。

 最近では、睡眠導入剤を致死量飲んでも眠れないので、仕方なく自分で自分の首を絞めて、気絶することで睡眠を取っている。

 普段は縄で輪を作り、それを首にかけ手で引っ張ることで気絶するのだが、やはりそれも中々難しく、3日に1回ほどしか眠れないのだと。

 そういえば、チョーカーを外した彼の首にはハッキリと縄の痕が付いている。

 

「……ユウくん、よく今まで生きてこられたね」

「ああ、なんでだろな。早く死にたい」

「死ぬな。まったくもう、普通なら即病院案件だぞ」

「オレンジやってる奴が病院なんか行けるわけないだろ」

「そりゃそうだって、この話何回目? ……はあ、仕方ないなあ、もう。いいよ、私が首、絞めてあげる」

 

 全く馬鹿げた話だ。ただ、昔から馬鹿真面目で嘘をつかないユウくんのことだ。多分、話してないことはあるかもしれないが、その言葉に嘘はないのだろう。

 ソファーでいいとユウくんは言うが、サイズ的に足がはみ出るのは流石に寝にくそうだったのでベッドを譲る。

 シーツをかけなおし、布団をかけて、あとは寝るだけだ。

 

「ね、ねえ。これ、万が一死んじゃったらどうするの?」

「その時はそれでいい」

「よくないよ!? 私殺人犯じゃん!」

「あー、そうか。じゃあ、心臓マッサージでもしてくれ」

「えぇ……」

「そもそも、死ぬまで首を絞めるなんてことはないだろう」

「普通は死ぬまでするものでしょう。首絞めって一般には殺人方法だからね?」

 仰向けに寝るユウくんの腰の上に跨り、意を決してその細首に手を当てる。

「じゃあ、痛かったら手を上げてくださいねー」

「歯医者か」

 

 絞める。

 

「……このくらい?」

「……っ……」

「はは、そりゃ喋れないよねー。……結構力いるなこれ」

「……」

 

 やせ細った喉に浮かぶ、尖った喉仏を手のひらで感じる。ユウくんの血管を私の手が塞いでいる。

 ドクンドクンドクンドクン。

 ユウくんの鼓動を感じる。赤く染まる額に滲む汗も、苦しそうに歪む顔も、彼の生を教えてくれる。愛おしい。

 その生を奪う行為をしてるんだけどね、私。不思議だなあ。

 ガクン。

 私の方を向いて苦しそうにしていたユウくんの力が、急に抜ける。頭は布団に落ち、表情は和らぐ。

 手を離す。

 

「……死んだ?」

 

 慌てて胸に耳を当てると、心臓は動いていた。

 息はしてない。……おいおいおい。

 ええと、こういう時は、あれだ、なんちゃら姿勢ってやつ。

 おでこと顎に手を当てて、おでこを下、顎を上に持ってきて、口を開けさせる。たしかこれで、気道が確保されるはず。

 すると少しして、すぅすぅという寝息が聞こえてきた。

 

「……まったく、人騒がせな」

 

 可愛い寝顔しやがって。

 

「……好きだよ」

 

 馬鹿な私の呟きはどこにも届かずに暗闇に溶けて消えた。

 

 

 ◆

 

 

 眩しい。薄目を開けると、カーテンの隙間から朝日が覗いていた。ああ、黄色い。

 ガァガァガァとカラスの鳴き声。そういえば、最近じゃあ雀の数が減って、反対にカラスや鳩が増えたらしい。これではまったく、風情がない。

 

「……おはよぅ」

「おはよう」

 

 俺に釣られて目が覚めたらしいメイがもにゅもにゅと気だるげに口を動かす。

 時計は……12時半。どうやらあれは朝日ではないらしい。太陽全盛期の昼の日光。道理で眩しいわけだ。

 

「……12時半か」

 

 メイと同棲が始まってから、1週間程が経った。

 彼女と暮らすようになってから、俺の不眠症は改善した。今日も8時間眠れた。メイに首を絞めて貰っているから、だけではないか。多分、人肌の温もりとか、安心感とかもあるのだろう。

 

「……ぬぅぅぅううん……」

 

 奇声と共にメイが起きる。相変わらず朝に弱い。

 

「あー、朝しんどい。この辛さはユウくんには分からないだろう」

「いつもお疲れ様です」

「おうおう、もっと労えー」

「えらいえらい、メイちゃんえらーい」

「抑揚が足りない」

「メイちゃんえら〜い」

「よし」

 

 いいのかよ。

 

「先シャワー浴びるねー」

「はいよ」

 

 浴室ドアの向こう側へ裸体が消えていく。モザイク越しに肌色が揺れ動き、シャワーの音が響く。

 あれから、じいちゃんとばあちゃんに挨拶しに行って、夏休みは彼女の家で過ごすと伝えた。メイも一緒に連れて行ったので直ぐに信じてくれた。……なんだか騙しているみたいだが、メイが彼女なのも同棲するのも事実だし、問題はないはずだ。

 

『ユウスケ、なんで。なんでなんでなんで』

「ごめんね、母さん」

「……ほんとに幻覚見るねの」

 

 いつも通り母さんに謝っていると、声がかかった。振り返ると、いつの間にかシャワーを終えたらしいメイがいた。服を着ろ。

 

「姿だけじゃなくて声も聞こえる。まあ、オバケみたいなもんだよ」

「やだやだ怖い怖い。……本当にオバケなんじゃないでしょうね」

「さあ?」

「こわっ」

 

 なんだか、メイと一緒にいると幻覚も幻聴も前より少なくなっている気がした。

 不眠症の改善に、幻覚幻聴の改善、あとは食習慣の改善。

 

「なーんか介護してる気分だよ私! ま、それも悪くないかな、悠介おじいちゃん?」なんて、メイは言っていた。案外、間違いじゃないのだろう。

 

 堕ちる所まで堕ちた俺は、少しづつ更生してきている。

 

『お前なんかが幸せになっていいわけがない』

『お前は苦しまなければならない』

「……でも、メイが苦しんでて言い訳がないだろ」

「え? なんて?」

「独り言」

「まーたオバケとの会話? 好きだねー」

「一人暮らしの大学生は独り言が増えるんだよ察せ」

 

 髪を乾かし、服を着て、化粧をしているメイをよそに、俺は朝食を作る。

 といっても、パンを焼くか、冷蔵庫のご飯をレンチンして目玉焼きで食べるかくらいしかレパートリーのない朝食だが。

 

「……今まで、ママさんが︎''生きて''と言ったってだけの理由で生きてきたんだっけ?」

「ああ」

「なんともまあ、律儀なユウくんらしいねえ」

「……救ってもらった命を、無駄にできないだろ」

「ま、そうかもね。……じゃあさ、私からも頼んどくよ。生きてね、ユウくん」

「…………」

「そこは頷いてよー」

「生きるのには勇気がいるんだよ」

「普通、死ぬ方が勇気がいて惰性で生きるもんだけどなー。じゃあ、こうしよう。私のために生きてよ、ユウくん」

「……それなら、まあ、いい」

「……私はキミが悪い女に騙されないかが心配だよ」

「現在進行形で騙されてるところだ」

「ははは、手遅れだったか」

 

 今の共同生活の役割分担は、俺が家事、メイが仕事といったところだ。専業主夫になった気分だ。

 

「ユウくん、家事やってくれる分まだ良質なヒモだよね」

「……ヒモか。いや、ちゃんと金は入れてるだろ」

「でも働いてないしー?」

「それも今日で終わりだ」

「あー、そういえばそっか」

 

 今までの、学生寮家賃月2万、電気代ガス代はタダ、食費は月3000円、オレンジが月数万だった生活から一変、金がかかるようになった。

 母さんたちが残してくれたお金はまだまだあるが、あまり使いたくないのでバイトをすることにした。初めて学歴を有効活用した気がする。

 働き先は直ぐに決まって、明日から出ることになった。

 

「塾講師ねー」

「都合よく夏期講習で人手不足だったから助かった」

「うえー、ずるいずるい学歴社会の有権者めー!」

「難しい言葉知っててすごいな」

「馬鹿にしやがって!えーやだやだ、もうちょいヒモのままでいなよ」

「なんだよそれ。お前に貢ぐために稼がにゃいかんのだ」

「そっかぁ。……まったく、悪い女に引っかかっちゃったね」

「まったくだ」

 

 社会のゴミ×2のクソみたいな生活も、悪くないかもしれない。

 

「注射器借りるねー」

「自分の使えよ」

「私の注射器汚いから使いたくないんだもん」

「針くらい清潔にしとけ」

「お、医者っぽい」

「これでも医学生だ」

「闇医者じゃん」

 

 ズブズブと堕落の沼に引きずり込まれるのも、そのまま身を滅ぼすのも、2人一緒なら。

 

 

『終わったから来てー』

 

 仕事を終えたメイが電話で言った。

 俺もちょうど塾講が終わったところだったので、迎えに行く。足はじいちゃんがもう乗らなくなって俺にくれた車だ。

 ホテルの直ぐ近くのコンビニまでメイを拾いに行く。

 駐車場にバックで停めると、こちらに気がついたメイが手を振って近づいてくる。

 そしてそこに軽自動車が突っ込んだ。

 

「は?」

 

 身体がぽーんと飛んだ。

 撥ねられた勢いのまま地面を数回転。

 ドアを振り払い駆け寄る。

 

「メイ!メイ!おいメイ!」

 

 呼びかける。揺さぶるのはダメだ。傷を確認しないと。頭に傷がある。血が出ている。

 

「メイ!メイ!」

 

 待ってくれ。置いていかないでくれ。

 血溜まりができる。皮膚が剥がれ落ちる。目が窪む。燃え落ちる。

 

『お前だけお前だけお前だけ!』

『お兄ちゃんが悪いんだよ……』

『お前は幸せになっていい人間じゃない』

「はぁっ……っぁああ……はぁはぁはっ……はっ……」

 

 ダメだダメだメイが死ぬ死死ぬ。置いていかないで。俺のせいでまた人死ぬ。メイが死ぬ。俺だけが残る。そうだ俺は幸せになれない。なっちゃいけない……?

 

 ふわり。

 

 温度なんかとっくに感じなくなった体が、急に温もりを感じた。

 

「……大丈夫、私は、いなくならないよ」

「っは、メイ……」

 

 気が付けば、メイが俺を抱きしめていた。嗅ぎ慣れた、少し甘い柑橘の匂いがする。……取り乱していたらしい。

 実際に出ている血の量はそこまでではない。頭に傷ができているので結構勢いよく血が流れているものの、これならば傷はそこまで深くないだろう。皮膚が剥がれ落ちたり、燃え落ちてもいない。意識もちゃんとある。

 これならば、大丈夫だ、まだ助かる。

 救急車を呼ぼう……。

 

 

 結論から言えば、メイは無事だった。

 頭の傷は深くなく、全身打撲、脚、腕の骨折はあったが、後遺症もなく、せいぜいが傷痕が残る程度で済んだ。

 

「だって、私が死んだら君も釣られて死んじゃうでしょ?」

 

 メイはそう言って笑っていた。

 ただ、当然ながらオレンジの使用のことはバレた。腕の注射痕から怪しまれて、検査したら成分が出てきた。家宅捜査も行われ、まあ完全に黒だった。おそらく、メイは入院生活が終わったら刑務所に行くことになるとのことだ。

 

 メイの周辺も調べられ、件のテニサーの男たちも捕まったらしい。風俗店はシラを切り通したらしいが、働いていた人たちの大半は捕まったし、従業員達への脅迫やらの証拠も出てきて、そっち方面でデカイ裁判が起こっている。このままだと最高裁まで行くだろうとのことだ。実質的な崩壊だった。

 

 俺だけ、捕まらなかった。

 そういえばここ最近俺は、メイと過ごすようになってからはオレンジの使用をしていなかった。注射痕もだいぶ薄れていた。俺の身体からはオレンジの成分は検出されなかった。

 もちろん、色々と疑われ捜査されたが、実家には俺の荷物はなかったし、大学の寮の方も、オレンジを置いていかなかったため証拠は出なかった。

 そもそも、メイに比べて俺はそこまでオレンジに依存していなかったというのもある。

 

 その代わり、寮からは大量の睡眠導入剤やしめ縄が見つかり、首にある絞めた痕も合わせて、そっち方面のことを色々と聞かれた。

 警察に詰め寄られてまで黙ることでもないので、質問に色々と素直に答えたところ、精神科の受診を勧められた。

 診断の結果、サバイバーズギルトからくる過度の自責、それによる精神の病が認められ、俺は俺で入院す

ることになった。

 

 また、一人になってしまった。

 

 カウンセリングやら健康診断やらを受けながら、病院での日々は過ぎていく。

 

『お前は幸せにはなれない』

「……そうだよな」

『お前だけが残る』

「また、だよな……」

『ずるいずるいずるい』

「ごめんなさい」

 

 最近、また幻覚が酷い。

 

『死ね死ね死ね死ね死ね』

「……そうだね」

 

 死のうと思った。

 だからとりあえず、死ぬ前にメイに会いに行こうと思った。

 どうせ正式な手続きを踏むのは時間がかかるし、外出の申請なんて受理されないので、病室の窓から飛び出す。

 

「っあぶない、あぶない」

 

 壁にあるパイプを伝って地面に降りて、裸足に患者服で、スマホと財布だけ持って出かける。

 裸足のままコンクリートを歩いたせいで、足の皮が剥けて痛い。しかし、幸いなことに俺の入院していた病院は祖父母の家に近かった。そこに行けば服も靴も車も置いてある。だから、これでメイに会いに行ける。

 

 

 メイのいる病院に着いてからからは何事もなくことが進んだ。受付の人に見舞いに来たことを告げ、教えてもらった病室に行けば直ぐに会うことが出来た。

 

「メ……」

 

 声をかけようとして、時間が止まった。

 病室のベッドに腰掛け、メイは絵を描いていた。震える手で描いたのだろう。ガタガタで、美しい絵だ。

 メイは楽しそうに絵を描いていた。

 ああ、なんだよ。何も変わってないじゃんか、お前。

 

「メイ……」

「……」

 

 相変わらず凄い集中力だ。話しかけても返事は帰ってこない。

 こうなったらメイは肩を叩きでもしない限り周囲のことに気がつかない。そして、俺も邪魔をする気はなかった。

 メイの隣に腰掛け、キャンバスに色が乗っていくのを眺める。あの時と同じように。

 震える手は、しかし迷いなどないようで、自由自在にキャンバス上で舞う。むしろ、手の震えも、水彩絵の具特有の滲みも、重力による垂れも意図的に操っているかのように、彼女の思いがそのまま絵に出力されていく。

 

「……ふぅ。……って、え!? ユウくん!?」

 

 メイが俺に気がついたのは、陽の色に赤が混じりだし、カラスが鳴き始めた頃だった。

 一度集中が切れるともう戻らないらしく、彼女は突然の来訪者である俺に向け、いつものようにおしゃべりを始めた。

 

「あのね、私、事情聴取でぜーんぶチクったの。薬無理やり打たされたこととか、それで服脱がされて動画撮られて脅されたこととか、ぜーんぶ。そしたら警察が色々調べてくれて、クソ野郎共のスマホからそのデータが出てきたって。だから、アイツらめちゃくち罪重いって! いやあ、なんか凄いスッキリした気分! あははは!」

「そりゃあ、めちゃくちゃ良かったな」

「でしょう? 今ならめちゃくちゃいい絵が描けそうなの!」

「の割にには手が震えてるぞヤク中」

「ブーメラン乙。あとこれ、味だから」

「俺はヤクやる前から手が震えてたからセーフ」

「もっとアウトだよ馬鹿」

「馬鹿に馬鹿って言われた」

「なにをう!」

「まあ、でも。俺は好きだよ、この絵」

「えへへ、でしょー?」

「本当、綺麗だ」

「私より?」

「うん」

「……複雑。でも嬉しい」

 

 キャンパスとかの画材は、絵が描きたいと言ったら親御さんが喜んで持ってきてくれたらしい。

 ……なんというか、子が子なら親も親だな。

 

「なあ、その絵、完成したら貰ってもいいか」

「……びっくり。私もこれ、君にあげるつもりだったんだよ? 気が合うねー私たち」

「そりゃあ、気も合うさ。長い付き合いだ」

 

 メイは強かった。

 完全に前を向いて、未来を見て進んでいた。

 ああ、そうだな。そろそろ俺も、ちゃんと前を向かないと。

 

 

「じいちゃん、ばあちゃん、倉庫の鍵ちょうだい」

 

 俺の場合、前を向くには一度後ろを振り返って、僕のことを清算する必要がある。

 だから今まで避けていたそれに会おう。

 

「お、おお。おおそうか、そうか。わがった、ちょいと待っとれ」

 

 俺がそう頼むと、じいちゃんとばあちゃんは急いで鍵を取ってきてくれた。

 

「悠介、あんたあ、良い目をするようなったなぁ」

「そう?」

「ええ、ええ。もうほんと、義明にそっくりよお」

「そっか、父さんに……。それは、嬉しいな」

「悠介ほれ、鍵だ」

「ありがとう、じいちゃん」

「……ついで行った方がええか?」

「いや、大丈夫。もう、大丈夫だよ」

「そうか……悠介!」

「はい」

「気張れよ!」

 

 じいちゃんはそう言って俺の背中を引っぱたく。痛い。暖かい。

 鍵を開ける。倉庫の中は、埃っぽいけれど、よく整理されていた。

 ……ああ。見覚えがあるものばかりだ。

 頬が濡れた感覚で、自分が泣いていることに気がついた。

 

『どうしてどうしてお兄ちゃんだけ』

『ふざけるなお前のせいだお前のせいだお前』

『ユウスケユウスケユウスケユウスケ』

 

 亡霊達が騒ぎ立てる。

 

『何悲しみに浸ってんだお前みたいなやつが』

『私を殺したくせに』

『お前だけお前だけお前だけ』

「……そうだね」

 

 彼らが言っていることは、正しい。あの日、僕のせいで父さんと母さんと優香は死んだ。

 だけど。

 

「でもね、きっと。母さんも、父さんも、優香も、そんなことは言わないと思うんだ」

 

 過去の亡霊達が押し黙る。

 彼らは、僕の弱さが生み出した幻だ。

 

「母さんは、父さんは、優香は、俺が不幸になるのを望んでいない」

 

 だから、もう、君たちは必要ない。もう、君たちを使って自責しなくても、俺は僕の罪を忘れないし、罪の重さに耐えかねることもない。

 

「今まで、ありがとう」

 

 亡霊達が消えていく。

 これで、いい。

 じいちゃんとばあちゃんは、燃えて消えたあの家の、燃え残った物品をこの倉庫に保管してくれていた。

 俺はあの火事と向き合うのが怖くて、この倉庫には入れなかった。

 でも、先に進むのなら。きっとここは、見ないといけない。

 僕の部屋の掛け時計。妹のランドセル。母さんのキッチン用具。父さんの釣り用具。

 全部、僕の、俺の大切な思い出だ。

 

「……そうか、そういえば、あったなこんなの」

 

 Arubamu。背表紙にそう書かれたそれは、タンスの奥底に燃えずに残った僕たち家族の記憶。

 

「……なんだよ、皆」

 

 そこには、幻覚で見る醜く歪み僕を呪う家族ではなく、優しく笑う、僕を愛してくれた家族がいる。

 

「……ごめん、ごめん父さん、母さん、優香……。今更だけど、ごめん……。俺、生きてくよこれからも……。ありがとう……僕を愛してくれて……」

 

 何分、何時間そこにいたかも分からない。泣いて泣いて涙を出し尽くして、俺は僕の罪を背負って一生を歩むことを決めた。

 

 

 残念ながら、人生は死ぬまで終わらない。

 今日も今日とて9月の太陽が照りつける。眩しすぎて目が焼けそうだ。

 

「あっつぅ……」

 

 汗が滴り落ちる。

 

「ああ、暑い、暑いなぁ……」

 

 暑い。とても暑い。

 暑いなぁ……。

 

 

 

 

 




 ダメ。ゼッタイ。

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