プレイリスト:https://youtube.com/playlist?list=PLGm9oCENDDDRjsh7Yo9x4Kuo4hr749vC4&si=rLU4C7yTuCrHl54V
Ⅰ Allegro
弥生。
羽田国際空港に向かうバスから見える空は少しずつ潤いを持ち始めていた。冬の乾燥した空に煌めく水滴が数粒、落ちてきて蒼を鮮やかにしている。まるでピアノの上昇の連符を弾くときに、はじかれた弦が微妙な倍音を響かせるように。青春と誰が呼んだのだろうか。蒼々とした空はそう語っているようだった。
夏空はもっと、溺れるぐらいに青くなるのだろう。盛夏は青夏。流石に詩的すぎて理解してもらえないな。
シンボリルドルフはそんなことを考えた。窓側から正面を向くと、少し高い視座から見る東京は新鮮味があった。低空飛行する鳥になり摩天楼をすり抜けていく。その先には無垢で残酷な空が広がっている。
ルドルフは隣の座席に座るトレーナーに目をやった。トレーナーは人用のイヤホンを耳に入れ、瞳を閉じ、瞑想する僧侶のように音楽を聴いている。
「何を聞いているんだい? トレーナー君」
ルドルフがそう言うと、トレーナーは収められたイヤホンを外し、「バッハのフルートパルティータ」と返した。
「君は最近そればっかりだ。よっぽどあのコンサートが気に入ったんだね」
「古典派の音楽を聞くと自然と気持ちが整うからね。豊潤でそれでいてフルート特有の繊細さもある。まるで、一人オーケストラみたい」
「確かに、あのコンサートはすごかった。フルートという楽器があれほどまでに一倡三歎であることに驚かされたよ」
「わかってもらえてよかった」
「けど、皇帝が隣にいるんだから、『皇帝』でも聞いて、士気を高めてみたらどうだい? プレイリストの次は何の曲だ?」
「モーツァルトの『フルートとハープのための協奏曲』」
トレーナーは少しのどに声の塊を詰まらせたような返答をした。
「また彼かい?」
「そう。『皇帝』はとっておきに聞きたい。それに、ルドルフが奏でてほしい」
ケーキの頂に冠するイチゴを最後まで取っておくようで少しかわいらしさをルドルフは感じた。モーツァルトという選曲は、トレーナーの中のぐつぐつとしたマグマだまりのような緊張をなだめる選曲にもとれた。ルドルフはトレーナーの胸元に視線を落とした。
「トレーナー君、バッチがずれている。同じ視座に立つものとしてこの三年歩いてきたものとしてはいただけないな」
ルドルフはそう言ってジャケットの襟に付けられたバッチを直そうと手を伸ばした。そうすると、トレーナーの手が「自分でやる」というように上から手をかぶせた。ビルの合間から差し込む一筋の光が二人の手の温度を少しだけ、刹那に上げた。双方が手を引っ込めたところで、トレーナーはルドルフの方を見て
「ルドルフもスカーフが少し撚れている」
と告げた。ルドルフは紺色の制服に付けられた白いスカーフを懸命に直している時に、バスは摩天楼という名の鉄筋のジャングルを抜けた。誰かがわずかに開けた(おそらくシービーだろうか)窓から、汐風が入り込んできた。季節の変身というものは風の匂いがまず初めに告げるものだ。空気が春めいてきた。香りがやわらかくなり、感触は幽かなけだるさと赤子の肌を触るようなものを感じる。二人のスマホに桜の開花のニュースが入ってきた。標本木の蕾の一つがすうっと花びらを開かせたのだろう。
バスの窓からは遠洋に浮かぶ入道雲が海に横たわるようにして浮かんでいるのが見えた。波の音と葡萄酒色の海はトレーナーに先日おこなわれたシンボリ家での壮行会のことを回想させた。
〇
壮行会は房総にあるシンボリ家の別邸でおこなわれた。ドバイで新たな競馬場の開設に伴いおこなわれる、格付けのされていない招待レースを控えていた私とルドルフは主役としてその会に招かれた。(以前訪れた時はシリウスシンボリのヨーロッパ遠征の時であった)
屋敷の大広間にはトレセン学園の生徒とURAの関係者、記者やファンが詰めかけていた。近所の漁師と思われる古希ほどの男がタンスの奥から引っ張り出してきたであろう紺色のスーツを着て、光を拡散させているシャンデリアの下で困惑している様子は小動物的なかわいらしさがあった。(結局、その男性は龍髭飴のような白髪の映えた妻に落ちつけさせられた。浅葱色の生地に紫陽花が咲いた落ち着きのある美しい着物だった)
ルドルフは白いタキシードに深緑のアスコットタイという出で立ちでいた。煌々とした光を浴びて、ルドルフは市民を見下ろすシンボリックな銅像のようであった。すらっとしたボディラインはばらの騎士たるオクタヴィアンのように見えてしまい、微かな嫉妬のようなものが湧きあがるのを感じた。(私を含めて何人の人が彼女から銀色の薔薇を欲してしまいたくなるのだろうか)ハーフアップされた鹿毛の結び目に付けられた三日月の髪飾りは、シービーの散歩にカツラギエースとついて行った時に買ったものである。髪留めや鹿毛の髪や尻尾を含めた彼女のすべてがシャンデリアの下で一本一本、輝きを放っていた。
私たちはサインに応じたり、記者(中にはアイルランドの記者もいた)からのいくつかの質問に答えた。そうするとだんだん、宵が塗り重なっていった。いつも、自らの人気の無さを嘆いているルドルフであったが、サインや写真撮影を求めて詰めかける人たちに真摯に対応していた。(一部は同じ場所にいたシービーやエースに向かっていたが)
私はというと会場の重く停滞した空気と度数の高いカクテルにやられ、皮下に湯煎されたチョコレートが渦巻くような酔いに襲われていた。私はなぜかシャンパンの入ったグラスを持ちながら、酔いを醒ますために窓辺へとでた。
その日はルドルフの流星によく似た三日月が天頂に浮かんでいた。シャンパンをかざして、月光に昇る泡を見つめて、かぐや姫の不死の薬の話を思い浮かべた。
「君はルドルフのトレーナー君だね」
背中の方から重みのあるバリトンが聞こえた。私は振り返って「ええ、そうです」と返した。
「やはりそうか。少し隣を失礼」
そう言って、私の隣に黒いタキシードを着た六十歳ぐらいの好々爺が寄ってきた。ルドルフの祖父だ。
「いつもルナ……ルドルフをありがとう」
おじい様は月に憑かれたようにルドルフの幼名を口にした。
「いえ、とんでもございません。私も勉強させられっぱなしです」
「ははは、ルドルフも同じようなことを言っているよ。ところでドバイに向けてはどうかね?」
「順調ですが、もう一段階上を目指さないといけません。それは私とルドルフも承知の上です」
「そうか。なかなかに根詰めることになるがよろしく頼む。『世界』というのは我が家の夢なのだから」
世界に向けての夢。明治期に出世した羽林家らしい夢だと思った。もっとも、明治期とは進む方向性を変え、考え方も変えている。根底にあるそのフロンティア・スピリットを除いて。
ルドルフとの出会いも個人的な夢の共鳴であった。まだ、三冠というのを公に胸を張って言えるような時ではなかった。その一年後にシービーが三冠馬になり、三冠の夢の可能性は広がった。二人の夢の円が合わさり、広がる。波紋が重ね合わさるように。個人的な夢は次第に多くの人を巻き込み、この家の夢も多くの人を巻き込む。私たちの夢も大きな波紋となり広がっていく。そして、ひとつの天井を打ち壊す。得てして、それが夢の形の一つなのだろう。
「『私たち』がその夢の波を起こしてみせましょう。ルドルフの力は皆の認めるところ。このシャンパンのように。皇帝の戴冠には世界を越えないと!」
私はそう言って、泡立つシャンパンをぐっと飲みこんだ。葡萄の気品のある甘さとアルコールの辛さが鼻孔を抜け、シャンパンは冷たさをもって胃に入り熱となった。
「あの梅を見てごらん」
おじい様は指を差してそう言った。天を突くように枝を伸ばし、見事なまでに花を咲かせている紅梅がそこにはあった。
「あの梅はルドルフが生まれた年に植えたんだ。まるで、星に手を伸ばしているみたいに伸びているだろう」
○
波の一片が降り注ぐ春の光を反射してキラキラと輝いている。風と波は対話をして、一つの巨大な万華鏡を作り上げている。この絶えず移り変わる波も、辿っていくと世界中のどこにでも行けるのだろう。蒼茫たる海は一つの道として二人に映った。
波の煌めきはやがて、カメラのフラッシュへと変容した。二人の焦げ茶色の靴は白い光を反射した。紅白の国旗を押し寄せた人たちがたなびかせ、声援が二人の歩む脚を少し軽くした。確かな熱気と純真な応援の気持ちを、ルドルフはその場にいた人々の顔を確かめつつ思い返しながら、夢の円周の長さを思い知った。そして、託された夢に答える覚悟を——地層が重ねられていくように、生物が化石になり、その姿を気の遠くなるほど未来の人に使われるように——固めた。その時、トレーナーはルドルフのアメジストのような目が寄っていき、耳を無理に立てているのを捉えた。
搭乗口に向かう途中、十三時五十五分発、ソウル行きのターミナルの付近で、トレーナーたちは楽器ケースを手に持ったヨーロピアンを捉えた。彼らの中で、色の抜けたブロンドの髪をオールバックにした、角ばった顔立ちの男が、歓声をその背に受けたルドルフたちに気づいた。そして、彼はトレーナーたちに向かって、人差し指と中指をクロスさせたハンドサインを送った。
——Good Luck!
その意味が込められたハンドサインは、青空を映したよく磨かれた空港の床にも映っていた。トレーナーは彼らに同じハンドサインを返した。走ることと演奏すること。向き合うことは違えど、それに懸ける想いは等しい。故に同じサインを返したのだった。
客室乗務員に案内された先はプレミアム・エコノミークラスのクリーム色の座席だった。ルドルフは窓側に座り、トレーナーは廊下側に座った。他の者たちもルドルフの周りに座った。
十三時四十三分。定刻より少し遅くに、飛行機は離陸し始めた。窓からの景色は幽かにぼやけたコバルトブルーへと変化していった。
縮小する摩天楼。空港にいる者、摩天楼の中から飛行機を見る者。それと画面越しに見る者。キャンバスに架かる一筋の白線。どれほどの人が飛行機雲に夢を見るのか。夢を託すのか。翼を勝ち得て。府中。エアグルーヴは私の代わりに仕事をしてくれているだろう。キタサンブラックも手を貸してくれると言っていたな。
「あ、富士山」
トレーナーは窓の方を一瞬見てそう言った。富士山は嶺に雪を残していた。陽光が降り注ぐ頂上にある雪はその白を輝かせている。沖には春風を受けて紺碧の海が波を起こしている。遥か上空を飛んでいるのにも、分厚い窓ガラスを挟んでいても、潮騒が聞こえてくる。
「もし、歴史に名を残す絵師がこの光景を見たら、どのような傑作を作り出してくれるのだろう」
「私たちの想像なんてちっぽけなものだと思い知らされるものを描くだろうね」
そう話している内に、飛行機は雲海の上に漕ぎ出していた。やがて天頂まで至る青い空は、大陸の上で金春色へと変化していった。
Ⅱ Adagio
オリエントの地で迎える朝。このオリエントを支配したササン朝ペルシャは春分の日をノウルーズ——新しい日——として一年の始まりと置いた。今日はそのノウルーズであり、枠順抽選会の二日前だった。
ホテルのレストランにある円卓に、ルドルフ、シービー、マルゼンスキー、カツラギエースが座っている。(メジロラモーヌはルドルフが招待したが、彼女はフィリーズレビューとその先に控える桜花賞があるために、やんわりと断られてしまった。他の三人は半分面白いもの見たさで)
シービーは白い陶磁器の皿の上に乗っかっているクロワッサンを持ち上げた。そして、視線の先にあるルドルフの流星に重なるようにピントを合わせた。
「何をしているんだい? シービー」
「ん? クロワッサンって三日月って意味じゃん。だから」
シービーの発言に、円卓は賑やかな笑いが水源のように湧いた。笑いが干潮を迎えると、食事の手は動き出し、四方山話が変わって満潮になった。学園であったこと、ドバイでの思い出、並走の感想などが、泡沫のように話題に上った。
「ねぇ、ルドルフ。今日のトレーニングって単走だっけ?」
マルゼンスキーは記憶の中のスケジュール表をにらめっこするように尋ねた。
「ああ、そうだね。レースまでは単走の予定だ」
「しばらくルドルフたちと走るのはお預けかぁ」
カツラギエースは少し名残惜しそうに言った。
「じゃあさ、アタシたちで走らない? ルドルフの走る前に」
「お! いいなそれ!」
「じゃあ、決まり。いいでしょ?」
「いいと言われても、私には何も決定権はない。一応、相談はしてみるよ」
「OK。じゃあ、アタシたちの走り、しっかり見ててね」
「……ああ。また皆が戻ってきたら走ろう。二四〇〇mで」
違うテーブルでは、トレーナーと三十後半ほどの男が朝食を摂っていた。男は腕の良い蹄鉄の職人であり、ルドルフとテイオーの蹄鉄を作ってもらっていた。その男がパンを持つ手は、浅黒く、深山にそびえる岩のようにごつごつとしていたが、シルクのようなしなやかさを兼ね備えていた。仰々しい扉の向こうにある観音像はこのような男に作られたのだろうとトレーナーは思った。
「わざわざドバイまで……本当に感謝しかありません」
「いやぁ、俺も皇帝さんの遠征に最善を尽くしたいものですからなぁ。せっかくお得意様が世界を目指されるのですから、なるべく近くで対応できるようにしておかにゃいけねぇものですから」
「いやぁ、本当にこちらとしては頭が上がりませんよ」
「いやいや、これは俺の流儀というものですから、頭を下げてもらっても困りますわ」
トレーナーと男は朝食を再開した。トレーナーは男が連れてきていた妻と子どもがいないことが気になった。
「そういえば、奥さんとお子さんはどちらに?」
「ああ、妻とせがれですかい。二人ともまだ夢の中なもんでね、昨日ちっとはしゃぎ過ぎましたわ」
「せっかくの海外、それもドバイですからね」
「そうなんですよ。ああ、そうだ! せがれが俺の仕事に興味を持ちましてね。『いつか僕も三冠馬の蹄鉄を作りたい』って言いましてね」
「それはいい夢ですね」
「いやぁ、ガキの言ってることですよ。すぐにサッカー選手になりたいって言い始めますよ」
「……ただ、親の背中の存在って大きいものですからね。あの飛行機雲のように、夢の航路を追うことだってあり得ますし、本当に三冠馬とのめぐり逢いもするかもしれません」
トレーナーは乾燥しつつも夏色に近いドバイの空を見上げながら言った。
夕方になり、芝コースでトレーニングがおこなわれた。先ほどまでシービーたちはコースの中ほどを走っていたが、ルドルフは外埒沿いを走っている。傾き始めた陽に照らされたルドルフの鹿毛はいと気高く光っていた。ポニーテールに結んだ髪と尻尾は風にさらわれ、風の通り道を示していた。三十三間堂を通り抜ける矢のように。
「お疲れ様」
トレーナーは埒をくぐってコースに入り、ルドルフにスポーツドリンクを渡した。ボトルには結露の滴がついていた。
「ありがとう、トレーナー君」
そう言って、ルドルフはスポーツドリンクを飲む。水の塊がのどを通っていくのが見える。
「蹄鉄はもう慣れた?」
「ああ! 英華発外、この芝にとても合っている。洋芝を蹴る時の感触が日本で使っていたものよりも軽く感じる。本当にこのコースにあったものを作ってきてくれて頭があがらないな」
「そう! そのように伝えておくよ」
「ありがとう」
「そういえば、ルドルフ。レースの作戦について話したい」
「随分と早いな」
「ルドルフや他のメンバーの走りを見て判断しようと思っていてね」
「なるほど。君はどのようなタクトを私に提示してくれるんだい?」
協奏曲の序奏を指揮者に求めるソリストのような目をしてルドルフは問いかけた。二人にとっての最大の懸念は同レースに出てくる、イギリスの栗毛のウマ娘であった。チャンピオンステークスとブリーダーズカップ・ターフを快勝。その活躍は実際にチャンピオンステークスを見ていたシリウスの側から聞いていた。
トレーナーは少し微笑んで、
「まず、日本のウマ娘は欧州のウマ娘と比較してテンの速さが優れている。特にルドルフ、君なら。だから、それを利用して逃げを打とう。スタートが良かったら少し速めにいってそのまま逃げよう。第二コーナーまで
「もし、私が大外を引いてしまったら?」
「それでも行ってほしい。自分のペースで走ることが最優先だ。君だから信じてる。この作戦は一回きり。二回目は絶対に対策される」
「……わかった。君のタクトを信じるよ。できたら日本のウマ娘にとって偉大な一歩だ」
ルドルフはある宇宙飛行士の言葉を引用した。偉業は月にある足跡と似ている。月には足跡をかき消してしまう風も波もない。ただ、三八万キロも離れた土地に白い宇宙服で立った跡であるが、その二八〇cm²にあまりに多くの歴史が詰まっている。二人は白い宇宙服を着て、白い月面に立つ想像をした。白く厚い布地とブーツ、ヘルメットの中に押し込められた地球。ヘルメットに映される青い惑星。月の小さな重力が、かの偉大なるバレエダンサーよりも高い飛躍を可能にすることも考えた。
二人はターフを見つめていると、そこに映し出された影がだんだんと薄くなっていくのに気づいた。陽が落ちるまでにはまだ時間があるはず。そう思って二人は同じ瞬間に空を見つめた。
空では金環日蝕が起きていた。太陽と月が対等となり、巨人の指環を作り上げている。ルドルフはその金環にゆっくりと、光に向かって伸びる蔓のように右手を伸ばした。指先が、腕が、ジャージの白い部分が、汗に濡れたうなじが金色に染まっていき、アメジスト色の瞳に金環を宿した。右手はその環をぎゅっと掴む仕草を見せた後、ルドルフはその顔をラッパ百合が朝にその花弁を放射状に広げるように目を開けて笑った。
それを見ていたトレーナーは、サモトラケのニケを実際に見たような美しさと力強さ、雄大さを感じとると同時に、神憑り的な畏怖を覚えた。そして、トレーナーはルドルフの姿を見て、教皇がカール大帝に戴冠したことで歴史が動き出した時のような確信を覚えた。重々しい金色の冠を被り、真に『皇帝』と呼ばれる姿が自然と脳内のスクリーンに映し出された。
「『君は林檎の樹を植える』。どこかの小説家がルターに言わせた言葉だ。私がここにいるのも誰かの願いでいる気がする」
ルドルフはふと、横にいるトレーナーを見て言った。
「その誰かって言うのは?」
「わからない。けど、家じゃない。シリウスかもしれないし、日本の誰かかもしれないし、別の世界の私かもしれない」
「林檎の樹は今も、未来も、過去も変えてしまう。一つの重大な史料のように。」
「君は林檎に幸福を賭けるかい?」
「賭ける。歴史の線を切らさないためにも。ともに地獄に堕ちても」
「君ならそう言ってくれると思った」
二人はコースを振り返った。今走って、立っている自分たちの他に、何人ものウマ娘がここを駆ける。足跡は残されない。それはどのコースも同じだ。過去も、未来も、今も、誰かが歩み、駆ける。それが道の宿命である。
歩こう。駆けよう。この道を誰かの未来のために。今は過去と未来を繋いでいるのだ。明くる未来のために走ろう。このコースのために。緊褌一番。それが自分にできることだろう。ルドルフは強く、強く確信した。
Ⅲ Rondo Allegro
レース直前の控室、ルドルフは勝負服の手袋をつけるだけだった。その時、三回のノックが均一なリズムで鳴った。ルドルフはそのノックをする人物が今、一人しかいないことを知っていた。
「入ってきてくれ」
扉が開く。そこにはトレーナーがいた。
「調子はどう? 緊張は……してるよね」
「当然してるよ。けどすごくわくわくしている」
「思いっきり楽しんできて」
「……君は出国前に私の奏でる『皇帝』を聞きたい。そう言ったね」
「確かに言ったね」
「今から奏でてくるよ。作戦、『皇帝』の速度設定そのままだろう」
「よくわかったね」
「前に練習してたことがあってね。第一楽章は弾けるようになったものだ」
「それも聞いてみたいな」
「今からは私の走りで『皇帝』を聞かせる番だろう」
ルドルフは手袋をつけ終わる。特製の蹄鉄の確認と二人のルーティンをこなす。
「……一つ、我儘を言っていいかな」
「いいよ。一つと言わずにいくつでも」
「結果次第になるかもしれないが……私も欧州遠征をしたい」
「……元からそのつもりだよ、ルドルフ」
トレーナーの返答でルドルフは彼女だけの魁星を見つけたような表情をした。
「行ってくるよ、トレーナー君」
パドックに向かう時間になり、ルドルフは椅子から立ち上がる。トレーナーはゆっくりと頷く。
「見ていてくれ、私たちの『皇帝』を」
トレーナーは赤いマントをなびかせて小さくなるルドルフをじっと見つめていた。ルドルフの姿が完全に見えなくなったことを確認したトレーナーは「
現地時間午後八時。抽選会で割り当てられた六番ゲートにシンボリルドルフはその身体を収めている。このレースは十人でおこなわれた。イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、ドイツ、南アフリカ、日本。世界各地から招待された実力と誉れの高いウマ娘たちである。その中で、ルドルフは二番人気に支持されていた。一番人気は栗毛の『女王』であった。
深緑のゲート。私の勝負服とよく似ている。スタンドの白い光。ナイター。熱気。この熱気はライトとこの大地から風を伝って。一人、ゲート入りを嫌がっている。ああ、トレーナー君、シービー、エース、マルゼン。
ルドルフは僅かな間、瞼を閉じた。瞼の裏には昨日サンクルーでおこなわれたレースを勝ったシリウスシンボリの姿を映していた。
シリウス。焼き焦がすもの。光り輝くもの。私も焼かれて、反射して、ここを照らす。ドバイの青い芝。神聖な儀式のよう。最古の三女神信仰の遺跡。女神に捧ぐ走り。最後の一人が収まった。
スターターが手を上げて、ゲートが他のどの国の物よりも静かに開いた。ウマ娘たちがほぼ揃ってスタートを決めた。ルドルフは真っすぐに走る。
僅かに速い。トレーナー君の言っていた通り。皆後ろに。
ルドルフは第一コーナーに入ると、僅かに加速し先頭に立った。他の九人を引き連れるような形になる。後ろに一人。ペースメーカー? コーナーでテンポを上げたからか抜かそうとしてこない。このテンポで行くと思っている。第二楽章はここから。
……向こう正面。後ろからの視線。まだ気づいていない。ん? 自動車? そうか。撮影のための。・・・・・・大体一〇〇〇mぐらいだろうか。六十三秒ぐらい。後続はどうか? 動く気配はない。けれど、牙を、よく研いだ獣のよう——。E、D♯、E、D♯、E、B♭、D♯、C、A。昔よく弾いていたな。エリーゼのために。落ち着こう。最後の脚はちゃんと残っている。そうだろう? シンボリルドルフ。・・・・・・
もうすぐ直線が終わる。コーナーへ。誰も来ない。アダージョは維持できた。このコーナーの終りからトリルでフィナーレへ。コーナー。ここでテンポは上げてはいけないよ。コーナリングを意識して。重心を意識して。埒に沿って。美しさを第一に。——視界の端、黒鹿毛。少しあがってきた? テンポを乱されるな。・・・・・・彼女は少し下がった。直線で切り替える、か。仄暗い。夜を纏うコーナーの中間。・・・・第四コーナー。煌めくスタンド。トリルからロンドへ——脚は残ってる。平坦なコース。タクト。さぁ、見ていてくれ!
ハロン棒。アレグロ・ロンド。熱風を切り裂いて。一歩、一歩、大地を蹴り上げて。内の芝はそれほど痛んではいない。……
「はぁぁぁぁぁぁ!!!」
ルドルフはのこり四〇〇mのところでスパートをかけた。向こう正面で溜まった脚が一気に解放された。鹿毛の髪と尻尾と赤いマントが風にたなびき、スカートは風を受ける。その下にある黒い靴とソックスにくるまれた脚は見事なストライドを見せ、円を描いた。先頭から坂東武者が放った矢のような脚は、後続に構えていたウマ娘たちの脚でも届かなかった。
力強い足音。一完歩ごとに。飲み込まれるものか。
——Keep Going!!
残り一五〇m程のところで、一人の栗毛のウマ娘が馬群を抜け出して迫ってきた。
やはり来たか。脚は残っている。ヴィジョン。私の脚がぼろぼろになるヴィジョン。ここで終わりたくない。イカロス。糊を溶かす太陽はない。真の翼を勝ち得て。蒼氓。この手にはめ込まれた巨人の指環よ——。勇往邁進、喰らいつけ! 眼前の勝利に。One For All ! All For One……
「やぁぁぁぁ!!!」ルドルフは獲物に向かって走る狼のような顔をした。
——
シンボリルドルフは栗毛のウマ娘の猛追を振り切り、一と四分の三馬身の差で勝利を収めた。ルドルフの鼓膜に歓声と風の音が戻ってきた。耳はすぐには立たなかった。ゴウゴウと言う風の音はスピードを緩めるごとに収まっていったが、歓声が風の中から顕現した。しかし、その歓声もまた、距離を離すごとに消えていった。
熱風。こんな熱かったのか。手袋がぐちゃぐちゃだ。指環は、指環は消えた。私の勝利のために、奇跡のために、最後の一〇〇mのために。水に溶けていくラムネのように。私の汗に溶けていった。ターフの香り。洋芝。夏の札幌。青い空と白い積乱雲。今は天体の舞台。黒いヴェール。
他のウマ娘が第一コーナーを入っていったばっかりのところでルドルフを抜き去っていった。その中で、一人、ゆっくりとルドルフに近づいてくるのをルドルフの耳はとらえた。栗毛の彼女は最後の一ハロンで追い込んできたウマ娘だった。
「Congratulation!」
彼女は右手の親指を上げてそう言った。勝負服の赤いドレスが汗に輝いていた。
「Thank You!」
ルドルフは流暢な英語で返答をした。
向こう正面についた辺りで、ルドルフはスタンドの方に向けて踵を返した。ターフの上を一歩ずつ、威風堂々と、悠々と踏みしめて戻っていった。スタンドを見た時に、ルドルフはその眩しさに驚いた。レース前も、レース中も気づかなかった煌々としたライトは、まるで天の川が地上に降りてきたような印象を与えた。それと同時に、血が迸り、身体が熱を帯びているのを感じた。
第一コーナーを迎えた辺りで、埒を潜り抜けてきたトレーナーが向かってきた。次第に近づいていく二人は、両手を伸ばし合い、引き寄せ合ったところで抱きしめ合った。
「……おめでとう」
絞りだしたかのような、僅かに泣き声のトレーナーの声が、ルドルフの耳元で反響した。響きはルドルフの身体の中にも響きわたり、残響した。
「何を泣いているんだ」
「まだ君と一緒に歩めるってわかったから」
「……ありがとう」
ルドルフがそう答えると、トレーナーは大きく息を吸い込み、涙を抑えた。
「笑って戻ろう。私たちは勝者なのだから」
二人は肩にまわしていた手を外して、横に並んだ。チェスのキングとクイーンのように。そして、互いの片手を握り、空に突き上げた。そして、スタンドに向かって一礼した。二つの鼓動からなるポリフォニーはやがて共鳴しあい、やがて同調した。白い手袋とベージュの手に注がれる月光。その夜の月は豊饒の海まではっきりと見えていた。