それに気づいたのは、同好会での練習のときだった。
私たちの同好会──スクールアイドル同好会では、他の運動部と同じように練習の前後でストレッチを入れる。
もちろん準備運動やクールダウンの側面もあるけど、身体のしなやかさはステージでの表現の幅にも直結するから、普通の練習メニューと同じくらいの熱量でしっかりと取り組んでいる。
「侑ちゃん、記録取ってくれる?」
「ん、いいよ!」
とはいえ、ただやるだけじゃ成長を感じづらい地道なトレーニングだから、月一くらいで記録を測ることになっていた。数値として残しておけばわかりやすいし、過去の記録からの成長を見ればモチベーションの維持にも繋がるし。
そして今回、久しぶりに歩夢の記録を取る。私の記憶の中だと、歩夢は硬い方でも、かといって特段柔らかい方でもなかったような……
「ほっ」
そんなことをぼんやり考えていたら、軽く息を吐いてぐーっと上半身を倒していく歩夢に肝を抜かれた。
(あれ……歩夢ってこんなに身体柔らかかったっけ……)
上体は胸が地面に付きそうなほど倒れていて、誰から見ても柔らかいと言えるくらいだった。それについでみたいに軽くしている開脚だって、最初の頃はそこまで──
「侑ちゃん……?」
「──あっ、ごめん! えっと、記録は……」
いつも隣で見ていたはずの幼馴染がいつの間にかに大きく成長していて、なんだか不思議な気持ちがした。
家に帰ってお風呂に入って、髪を乾かす間に今日のことを思い返す。
確かに歩夢は同好会に入ってからほとんど毎日練習に参加しているし、ストレッチは家でも欠かさずにしていると思う。昔と同じだろうなんてもちろん思っていなかった。
でも結局は推測と想像に過ぎなくて。実際に目の前で身体を沈ませていく歩夢を見るのは結構衝撃だった。
ドライヤーをかけ終えて、ソファーに座ってふと考える。自分はどこまでできるんだろう、と。
長座体前屈は体力テストで毎年やるけど、結果なんてもう覚えてない。ただ、そこまで得意じゃないことは確かだった。
脚を伸ばし、ふうっと息を吐きながら上体を倒す。そして。
「うッ……」
思っていたよりも酷い結果に声が出た。
指は足の先まで届いたものの指先と指先が触れるくらいが限界で、さらに伸ばそうとすると脚の裏で張っている筋が「それ以上いけない」と悲鳴を上げる。
歩夢のしなやかさを見てハードルが上がっていたのもあって、自分の体たらくに少しショックを受けた。そりゃそうだ、歩夢だって最初からできてたわけじゃないんだもん。
……私も柔軟やろうかなぁ。前にヨガをしながら作詞するスクールアイドルがいるって記事を見たし、案外作曲の良い刺激になるかもしれない。ネットでやり方を調べておこう。
そんなこんなで、私の密かな柔軟化計画が始まった。
*
それからしばらくして、風呂上がりのストレッチは毎日欠かさずやるようになった。それ以外のときも、例えば作曲で行き詰まったときにも気分転換でやってみたり。
こうして実際にやってみると、みんながしているのは思ってるよりもずっと地道な努力なんだなと痛感する。毎日少しずつの変化は実感しづらくて、なんだか闇雲な気持ちになる。
それでも続けられているのは、昼間の同好会でみんなが頑張ってる姿に刺激をもらえているからだと思う。みんなと比べれば凄く些細なことだけど、私なりのささやかな成長で少しでも同じ気持ちになれたらな、なんて思ったり。
そういう日々が続いたある日、全然関係のない用事の相談で歩夢を部屋に呼んだ。
それ自体はすぐに済んだけど、久しぶりに歩夢とゆっくり話せる機会だったから、談笑に花が咲いて思ったより長居させてしまった。
時計を見て驚くとともに、そういえばと思う。こうやってたまにお互いの部屋に呼ぶくらいのことはするけど、そこから先、お泊りまですることはめっきり無くなったな、と。
同じマンションの隣の部屋同士、“特別感”以上の意味は無い。でもその特別感が無性に懐かしくなって、冗談半分で言ってみる。
「ねぇ歩夢、どうせだしさ、久しぶりにこのまま泊まってかない?」
「えっ!? いいの!?」
そう言って、歩夢は前のめりで食いついてきた。私としては軽い提案のつもりだったんだけど、久しぶりとはいえそこまで……?
ご飯を一緒に食べてから、上機嫌でお泊りセットを持ってきた歩夢を先にお風呂に入らせる。一緒に入らない? なんて誘われたけど、高校生二人が入れるほど広くないでしょと断った。
その後に入れ替わりで私が入って、少しぬるくなった湯に浸かりながら、いつもと全然違う気分になっている自分にようやく気がついた。
歩夢とはいつも一緒にいるのに、寝るときまで一緒なら特別になるって、なんだかちょっと面白い。普段だってあの壁一枚の向こう側にいるはずなのに。
深く考えそうになって、歩夢を部屋で待たせていることを思い出す。せっかくのお泊りなんだし、早く上がってたくさん話そう。
「おかえり、侑ちゃん」
「ただいま、歩夢」
部屋に戻ると、歩夢はソファーの上でストレッチをしていた。やっぱり毎日欠かさず、コツコツやってるみたいだ。
歩夢が点けてたバラエティ番組を横目に、自分もソファーの足の方で柔軟を始める。まずは普通の前屈から──
「背中、押してあげよっか?」
「へ? あっ……」
あれ、今私無意識で、歩夢もいるのに……
瞬間、顔が一気に熱くなる。別にわざわざ秘密にしていたわけでも、知られたくなかったというわけでもない。ただ密かな努力がバレたということ自体がなんだか気恥ずかしかった。
「うぅ〜……」
「ど、どうしたの侑ちゃん……?」
「ううん、なんでも……お願いします……」
不思議そうな顔をした歩夢が後ろへ回って、肩甲骨の辺りへ手を添える。掌の形そのままに伝わる体温がお風呂上がりでもわかるくらいに温かい。
「侑ちゃん、いつの間にストレッチなんて始めたの?」
「え? うーん、ちょっと前……かな。細かくは覚えてないけど」
それは半分本当で、半分はぐらかしだった。自分で細かい日付まで覚えてはいないけど、歩夢の測定を見て始めたのはしっかりと覚えている。それを本人の前で言うのはやっぱり恥ずかしくて。
ふーん、なんて言いながら、筋の張るギリギリのところまで背中が押される。同好会のみんなほど柔らかくないことをしっかり理解されてる感じがして、それもまた複雑だった。
と、急に背中が軽くなる。そして横から顔を覗かせてきた歩夢と目が合った。
「ねぇ、せっかくだしどこまで行けるかやってみない?」
その瞳には好奇心が隠れていて、こんなにもいたずらっぽい顔をする歩夢が少し珍しい気がした。
「いいけど、そんなに面白くないと思うよ?」
「いいからいいから、ほら!」
そう言って歩夢が顔を引かせていって、改めたように背中へ手が置かれる。
「ゆっくり、深呼吸して? 全身から力を抜くみたいに」
言われた通り、鼻から目一杯空気を吸って、肺へ、血へと酸素を送る。何度か深い呼吸をすると、身体から力や緊張がほどよく抜けてきて、心も次第にリラックスしてきた。脱力の助けに肩をさすってくれるのも心地良い。
「好きなタイミングで始めてね。それに合わせて少しずつ押してくから」
背筋と腕を伸ばし、呼吸と気持ちを整える。いつもは無い温かさが、私をもっと前へ進ませてくれる気がした。
「ふーーっ……」
意を決して身体を倒す。背中から伝わる力を受けて、ももからふくらはぎまでの筋肉が伸びていくのを感じる。
……でも、やっぱりそんなに変わるわけでもなく。
「あ、歩夢っ……そろそろキツいんだけどっ……!」
指の第二関節くらいまでで限界を感じ始める。最初の頃と比べれば伸びたけど、まだまだ全然だ。
それで終わるつもりだった。終われると思ってた。
「うーん、もうちょっと行ってみよ?」
「ええっ!?」
その言葉とともに、背中からの力が強くなる。限界近いとはいえ、一応の余力を残していた筋がまだ伸びていく。限界のエリアのその先に、本当の限界が見えてくる。
「侑ちゃん、あともう少し!」
「ううっ……もぉ、ちょっとぉ……!」
第二関節を超え、付け根のシワが足先へ届く。その瞬間が、本当の限界だった。
「だぁ〜っ!」
そこまで行って押される力が緩んだ隙に、身をよじって横に倒れ込んだ。
「侑ちゃん凄い! 今年の体力テストのときはもっと硬かったのに!」
ぐったりしている私の後ろで、歩夢が嬉しそうな声を上げている。二年生に上がった頃なんて今よりずっと運動不足だったと思うから、私がショックを受けたあのときよりもっと硬かっただろう。
そこから歩夢のスイッチが入ったみたいで、練習のときにやるみたいな本格的なペアストレッチが始まった。
背中合わせで立って腕を組み、そのまま歩夢が前へ身体を折る。段々と足が地面を離れていく感覚に怖さを覚えていると──
ミシミシミシッ!
「ぅいたたたたっ!?」
「もう、反らす方もちゃんとやらなきゃダメだよ? ただでさえ机に向かってばっかなんだから……」
お小言も挟まれつつ、一つずつゆっくりとストレッチを終わらせていく。普段動かすことの無い場所まで動かしたから、凝り固まった筋肉が伸びて全身まで血が巡っていく感じがした。
一連のメニューを終わらせて、二人してソファーに座り込む。すると歩夢がまた後ろへ回って、今度は背中をマッサージしてくれた。
「うへぇ〜……そこきもち〜……」
ぎゅっぎゅっとちょうどいい力で指圧されて気持ちがいい。押されて軽く声を漏らすだけのなんでもない時間が少し流れて、また歩夢が口を開く。
「ねぇ侑ちゃん、今度からは同好会の柔軟にも参加してみない? きっとみんな喜ぶよ」
「え? うーん……」
そういえば考えたこともなかったなと思って、その光景を想像してみる。別に断る理由は見つからないけれど、ただそれでも。
「それはいいかな。みんなの前でやるのはなんか恥ずかしいし」
「……ふーん」
恥ずかしさは半分建前で、本音に近いのは私の同好会へのスタンスだった。私はあくまでみんなをサポートする役回りで、表立ってみんなと練習したりするのはなんだか違うな、と思ってしまう。そして、そのこだわりは私の中にあるだけで十分だとも思う。
ふと、指圧が弱くなって、代わりに柔らかい感触が背中に当たる。腕が後ろから回ってきて、ハグしたいのかなと思った。
顔は見えないけれど、冗談めかしたように、それでも照れが隠しきれてないように、そんな声色で言う。
「じゃあ、一人で頑張ってる侑ちゃんも、昔よりちょっと身体が柔らかくなった侑ちゃんも。今は私が独り占め、だね」
「……!」
ああ、そっか。あのとき感じた不思議な気持ちは、きっと歩夢の感じていた気持ちと似ていたのかもしれないな。
なんでも知っていると思っていた幼馴染が、知らない場所で、知らない風に成長している。自分も相手も、知らないうちに変わっていく。目の前でそれを実感して、なんだか凄く……寂しくなったんだ。
どうして歩夢の言葉でそれに気づいたんだろう。わからないけど、歩夢とまた二人だけの秘密ができたのが懐かしくて、その変わらなさが温かかった。
歩夢はこれからもっといろいろなことに挑戦して、私の知らない成長を重ねていくんだろう。誰か大切な人を見つけて、その人との間にも秘密を作っていくかもしれない。それはきっと私も同じで。
「ねぇ、歩夢」
でも、今は。
「私がどんなになっても、歩夢がどんなになってもさ。私はずっと、近くで歩夢のこと見ていたいな」
今はただ、この“特別感”が心地良い。
虚をつかれた顔はすぐにふふっと柔らかい笑みに変わって、抱きしめられる力が少しだけ強くなる。
「うん。私も、侑ちゃんとずっと一緒にいたい。私の帰る場所は、いつだって侑ちゃんのいる場所がいい」
なんだか心がくすぐったい。そのくすぐったさがどういう気持ちか、どんな名前か、そんなことはどうでもよくて。
変わっていく物事の中で、この時間だけはなにも変わらない。幼馴染として共に過ごす日々の一欠片でしかないこの時間が、心の底から温かい。
ただの友達よりもちょっとだけ特別な存在。今はそれだけで十分なんだ。
私のソファーじゃ二人で寝るには小さすぎたから、寝るときだけは歩夢の部屋にお邪魔させてもらった。