貴女は春風のような人でした。

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春を手折る

 貴女は春風のような人でした。

 桜舞い散る並木道の中、人生に疲れていた僕は川に身を投げようとしていました。こんな何の救いも愛もないような世界など、生きていても意味がないと感じたからです。

 そこに貴女は現れました。貴女は終わりへと向かう僕の手を引いてふわりと微笑むと、愛に満ちた温かい言葉を使って、どうしようもない僕に手を差し伸べてくださいました。

 貴女の言葉ひとつで僕の心にのしかかっていた暗い感情はたちまち消えていき、空気の澄んだ朝のような晴れやかな気持ちで満ち溢れて。まるで、魔法をかけられたかのように僕は笑顔になっていた。

 きっと、貴女は魔法使いなのだと思いました。その輝きで群衆の心を救う、救世主なのだと思いました。僕は、震える声で貴女に名前を尋ねました。僕を救ってくれた恩人の名前を知らないままでいるのは、由々しきことだと思ったからです。

 貴女は、瀬田薫と名乗りました。貴女の気高さによく似合う、うつくしい名前だと思いました。名前を告げた後、貴女は桜の中に消えていってしまいました。

 それからというもの、僕の脳みそは全て貴女に染まってしまいました。貴女にもう一度会いたい、できることなら、貴女に救ってもらった人生を貴女のためだけに使いたい、そう願うようになりました。

 恥ずかしい話です。貴女に出会ってから、唯一の取り柄だった学業も、唯一の趣味だった読書も、何も手がつきません。むしろ貴女に出会う前の方が、まだ頭は働いていたと感じます。

 ふとした瞬間に貴女を思い浮かべては、その姿に思いを馳せる。そんなことばかりしている僕は、側から見ればさぞ滑稽だったのでしょうね。それでも良いのです。僕は貴女に出会って、本当の自分に生まれ変わったのですから。

 運命の女神は、そんな僕を祝福してくれていたようです。なんと僕は、あの桜並木で貴女ともう一度出逢えたのです。貴女は僕を見つけるなり、春風のように笑いかけてくれました。

 僕は耐えきれず貴女の元へと駆け寄りました。僕は、貴女に溢れんばかりの感謝を贈りました。貴女と出逢えた奇跡について語りました。貴女のために生きたいと伝えました。

 それに対して貴女は当たり前のことをしただけさ、ととぼけます。ああ、貴女はなんて徳の高い人なのだろうと思いました。どこまでも貴女は人間ができている。僕のような人間もどきとは、大違いだ。

 ですが、会話はそれっきり。想いを伝えるだけ伝えることしか、僕にはできなかった。貴女の連絡先を、尋ねたかったのに。いや、何を言っている。僕なんかがあのようなお方の連絡先をもらっていいわけがない。それ相応の存在にならなければ、許されない。

 じゃあ、貴女の相応になるには? 僕は考えました。答えは出ません。所詮、僕は桜の下で出会った謎の男です。貴女という物語において、なんの必要性もない。

 それから一週間、僕は放心状態でインターネットを調べていました。その時、とある求人を見つけます。それは、芸能マネジメントに関する求人でした。なにやらこの求人では、舞台役者のマネジメントを募集しているらしく。未経験者も募集するなんて、すごいモノだなあと眺めていたら。

 そこには、僕が焦がれてやまない「あの」名前がありました。僕はいてもたってもいられず、その求人に電話しました。

 電話口でこう言われました。この仕事を学生と両立するのは極めて難しいと。なので、僕は大学を辞めました。貴女の前ではそんな肩書などどうでも良かったからです。

 それから面接に合格し、研修も完璧にこなし。晴れて僕は貴女の「マネージャー」になれたのです。どうですか? これで貴女の隣に立ってもおかしくない、相応の称号を手に入れることができたのではないですか? 

 僕は「マネージャー」になって初めて貴女に会いました。貴女は、ひどく驚いていました。そうですよね、マネージャーとしてあの日の謎の男がやってくるなんて、思いもしませんからね。

 この日初めて僕は「マネージャー」として貴女と話しました。話を聞く限り、最初貴女はあまりマネージャーという存在に気乗りしていなかったようです。ですが、僕の顔を見て君になら任せられる、と言ってくださいました。僕の中の腐り切った自尊心が肯定されたような気がしました。

 僕が貴女のマネージャーになってから、貴女は数えきれないほど舞台に出ましたね。舞台袖から見る貴女の横顔は、どんな芸術品よりもうつくしいと感じました。

 貴女が作品に込める愛、熱情、魂。そのどれもが僕を魅了してやまなかった。僕は貴女の役者として舞台に立った時の、溢れんばかりの輝きに永遠に脳みそを焼かれ続けるようなあの感覚が、たまらなく好きだった。

 ああ、それから。バンド活動に精を出されるお姿も大変輝いておられました。貴女が演奏するギターの音色は、聴いているだけで心が弾んでくる。ステージの上での貴女のパフォーマンスは、まるで絵本の中から出てきた王子様のようだった。

 僕はそんな貴女を、世界中の誰よりも近いところで見つめていました。そのうつくしさをずっとこの目に収めていたい。そう願いながら毎日を過ごします。

 とはいえ、貴女も人間です。ファンを思いやるばかりに自己管理を忘れ、倒れそうになってしまうこともありました。その時はすかさず僕がそばにいて、貴女を支え続けました。

 普段とは打って変わった、弱々しい顔つき。熱持って赤くほてった頬。はあはあ、と漏れる荒い息遣い。ああ、うつくしい。

 普段はその輝きや振る舞い故に忘れてしまいそうになりますが、こういう時は貴女が女性であることを特に実感します。

 貴女が呼吸をするたび上下するその華奢な肩。貴女が僕を労わろうとした瞬間漏れる吐息。力のないとろんとした表情。そのどれもが僕の自制心を壊しにきているようで、気が狂いそうでした。

 それがトリガーだったのでしょうか。その細い首筋をなぞりたい、その柔い頬に触れたい、その美しい大腿に指をそわせたい。最近は、そのようなことばかり考えてしまいます。

 ですが、僕のようなクズが恩人である貴女に劣情を抱くなどあってはなりません。僕は必死に自分を鎮めました。

 真夜中の自室で、自身のソレがかけられた貴女の写真を見ると、自分が世界一穢れたいきものに見えてきて、とにかく死んでしまいたくなります。

 貴女の名前を呼びながら欲を放ったって、貴女はどこまでも遠い存在なのに。貴女が僕の名前を呼んでくれたことなど、一度もないのに。ああ、貴女はこんな僕ですら受け入れてくれるのだろうか、こんな僕にも優しくしてくれるのだろうか、なんて愚かで醜い想像をしてしまい、また僕は死にたくなります。

 貴女はどこまでも気高い人だ。僕なんかが到底釣り合う相手ではない。そう言い聞かせるために、僕は自分の首を絞めます。

 きつく、強く、絞めます。誰にも穢されてはならない貴女を穢す罪人に、罰を与えるのです。もっと苦しめ、お前は生きている価値などない、お前は死に損ないの罪人だ。僕の薫様を穢すなら、世界で一番もがき苦しんだ挙句、醜く死んでしまえ。

 僕は僕が大嫌いです。ですが、貴女のことは好きです。このぐちゃぐちゃの感情を、どう呼んでいいのか未だにわかりません。

 それから、数ヶ月。貴女は以前より、ソワソワしていることが増えました。何か、気になることでもあるのでしょうか? 

 というのも、僕に好きな女性のタイプを聞いてきたり、僕が昔通っていた大学の話を聞いてきたりと、何やら不自然なのです。

 どういうことなのか気になりつつも、僕はいつも通り過ごしました。するとある日、貴女は僕の知らない男を連れてきたのです。

 茶髪の癖毛と、ヘラヘラとした表情。とにかく軽薄そうな、いかにも「大学生」の男。僕はその男を見て、ひどく失望しました。

 ああ。瀬田薫ともあろうお方が、こんな中途半端な人間に、惹かれてしまうのですね。

 僕は思わず怒り狂い、いや、怒る? この僕が? 薫様が選んだお方だ、僕がとやかく言える立場ではない。いや、それでも、あのような男風情が、薫様を。

 何より。僕がどうやったって触れられなかった貴女の心の奥底に、あんな中途半端な男が容易く触れられたことがどうしようもなく僕は悔しかった。

 ええ、そうですよ。認めたくはないですが貴女の「恋人」である彼は、確かに貴女を愛していた。貴女も、そんな彼を愛していた。

 貴女は、彼の前では少し気の抜けた表情になって、笑う時はへにゃりと無邪気にはにかみます。彼のことが大好きでたまらない、ということがそういう感情に疎い僕でもわかってしまい、死にたくなります。

 貴女は、僕に対してそんな気の抜けた笑顔は見せてくれなかった。たとえ、どれだけ身体が弱っていたとしても貴女が僕の前でこの表情をすることはないに等しいでしょう。

 その表情をそんな男に見せるぐらいなら、僕に。頭の中に黒い感情が浮かびます。いや、僕如きが思い上がるな。僕はあくまで傍観者だ。僕はどこまでも、貴女の人生にとっての何者にもなれない。

 僕が中途半端と称した彼の方が、人間としてよくできていて、人間として正しくて、人間として真っ直ぐで。

 ああ、きっと。彼は正しく愛情を注いでもらえたのだろうなあ。僕みたいに全てが拗れることなく、痛みを知ることなく、優しさに囲まれて育ってきた。そんな顔をしている。それが僕は悔しくてたまらない。憎くて、憎くて、アイツを締め殺してしまいたくなる。お前らみたいな奴がいるから、僕はクズに成り下がってしまうのだと。

 でも、それをしてしまったら僕はとうとう人間でなくなってしまう。それはどうしても嫌でした。その小さなプライドと意地だけが、僕を踏みとどまらせる理由でした。

 そんなある日のことでした。普段なら貴女の隣にいるはずの彼が、今日はいませんでした。恐る恐る、貴女に理由を尋ねました。

 貴女はぽつり、ぽつりと話しました。どうやら「薫の隣に立つ資格は俺にはない」と、彼に振られてしまったのだと。そんなことない、私は君と一緒にいたいと伝えても、彼は首を振ったのだと。彼は私のことを嫌いになったわけでもなく、突き放すわけでもなく、最後の最後まで優しかったのだと。

 貴女はひどく泣いていました。思えば、その時初めて僕は貴女の本当の顔を見たような気がします。

 ああ、でも。彼はよく気付けましたね。そうです、あのような男では貴女を幸せにできるはずがないのです。現実に気づけるのが早いことは素晴らしいことです。今度、僕が直々に褒めてあげましょうか。

 まあ、あんな男のことなど今更どうでも良いのですけれど。今、僕の目の前では貴女が悲しみ傷ついている。それは大変許し難いことです。それこそ僕も薫様と共に悲しむべき、そう、悲しむべきなのでしょうが。美しい貴女が美しくない部分を初めて僕に見せてくれたという優越感が、僕を支配し続けていました。

 貴女は泣いています。僕は笑っています。何と歪でしょうか。上がり切った口角を隠すためにマスクをして、僕は貴女に言葉をかけます。

 貴女は何も悪くない。今回は運が悪かっただけ。もっと幸せにできる人がいる。僕はそう繰り返します。あんな男など早く忘れて、次の恋を見つけましょうと。

 そうです。あんな男なんかよりも、もっと適任がいるでしょう? ずっと貴女のそばにいて、誰よりも貴女を想っている。そんな男が、貴女のそばにいるでしょう? 

 僕はそう言って、貴女の手を取ろうとしました。ですが、貴女はそんな僕の手を振り払いました。

 ……君のそれは、違うよと。

 その日、僕は初めて貴女に拒絶されました。何も考えられません。何も感じられません。僕が必死に繋ぎ止めていたアイデンティティが、全部砕け散ってしまったようでした。

 僕は、貴女と出会って生まれ変わったのです。僕は、貴女のことだけを想い貴女のためだけに生きてきたのです。その全てを、一度に否定されてしまったようでした。

 ねえ、薫様。僕という人形は、お気に召しませんでしたか? この汚くて黒い感情は、お望みではありませんでしたか? もっと上手に甘くて柔らかい言葉を貴女に贈れたら良かったのですが、どうやら僕にはそれが難しいらしい。

 ああ、どうか、こんな醜い感情を恋などと呼んでくれるな。もしも、もしも僕のソレが恋だと呼べるものだったのなら、どんなに良かっただろうか。

 僕だって、綺麗な恋がしたかった。でも、こんな醜い恋こそが僕のような人間にはぴったりだと感じました。

 だから、この劣情と嫉妬と崇拝でぐちゃぐちゃになった恋の終焉を、貴女に見届けてもらおうと思いました。だって僕、貴女に嫌われたら生きていけませんからね。

 それなら、いっそ貴女の記憶に焼きついてやりたいと思いました。もう二度と塞がらないような深い深い傷跡になって死にたい。貴女の中で、永遠になりたい。それこそが、僕の最期に相応しい。

 僕はあの日と同じ並木道に貴女を呼び出しました。貴女は、恐る恐る僕の元へやってきました。

 桜の花びらはとうに散っています。あれほどまでに満開だった桃色の花たちは、緑の葉に生え変わってしまったらしい。

 そうだなあ、僕が死んだら、僕の遺体はあの桜の木の下に埋めてほしい。貴女のその穢れなき手で埋めてもらえるのならば、それが本望です。

 まあ、でも。特に何も話さないまま普通に死んでは面白くないですよね。ですので、僕は今まで溜め込んでいた感情を全て解き放ちました。

 ええ、そうです。本当の僕はどこまでもどこまでもどうしようもなく醜く穢れた存在なのです。貴女の隣に立つ資格も権利もない、貴女の輝きにふさわしくない、そんな存在なのです! 

 ああ、かわいそうに。あの日貴女が僕を助けなければ、僕はとうに死んでいたのです。僕は、貴女に救われずに済んだのです。僕は、貴女に巣食われずに済んだのです。

 ですが、おかしいですね。貴女に出会ったことは一度も後悔していないのです。きっと、曲がりなりにも、僕は貴女を愛していた。僕は貴女に恋をしていた。

 言いたいことは言い終わりました。僕は川に身を投げようとします。こんな何の救いも愛もないような世界など、生きていても意味がないと感じたからです。

 そこに貴女は現れました。貴女は終わりへと向かう僕の手を引いて焦るように言葉を紡ぎ、どうしようもない僕に手を差し伸べてくださいました。

 その華奢な両の腕で僕を抱きしめると、貴女は言いました。もう、誰も私の前からいなくならないで欲しい、と。君までいなくなるのは、耐えられないんだ、と。

 ああ、やはり怖かったのですね。そうですよね、所詮貴女も人間だ。ただでさえ恋人を失ったのに僕まで死んでしまったら、悲しいですもんね。

 それにしても、こんなクズの自殺宣言にすら心を痛めるなんて、貴女はやはりやさしい人だ。この時、貴女の中にある臆病な本心を初めてこの手で掴めた気がします。いっそ、今から握り潰してしまおうかなあ。なんて、冗談ですがね。

 僕は尋ねます。僕のことが好きですか? と。貴女は答えます。大好きだと。僕はその言葉が友愛の上での言葉であることを理解しながらも、貴女を抱き寄せました。

 友愛だろうが恋愛だろうが、今更どっちでもいいんです。今貴女が僕に向けている気持ちがどうであれ、これから僕たちは本物になっていくのですから。

 僕は貴女に深い口づけをします。貴女は必死に抵抗しますが、女性である貴女が男である僕に敵うはずがないのです。やがて、貴女は何も言わずに僕の口づけを受け入れるようになります。

 貴女の口の中は、とても温かいのですね。試しにその綺麗に並んだ歯を舌でなぞってみましたが、大変つるつるでなぞりがいがある。癖になってしまいそうですね。

 僕たちは、こまめに息継ぎをしながら、何度もキスをします。気付けば、貴女の瞳からは大粒の涙が溢れていました。きっと、僕に怯えているのでしょうね。かわいいなあ。好きなだけ泣いてもいいですよ。その顔が、僕は見たいのですから。

 散々キスをした後、物言わぬ人形のように黙り込んでしまった貴女を連れて、僕は自室に帰ります。あの日貴女が僕に生きる意味を与えてくれたように、今度は僕を貴女の生きる意味にしたいから。


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