……うん。今日も先生としての一日が終わった。
執務室でひとり、田中はそう思いうなずいた。キヴォトスでは生徒たちが私闘を始める事も多いので、書類処理に追われる日も多くなっている。必然的に事務仕事にも時間を割かれるため、担当を受け持った生徒の顔と名前を一致させたりもしていた。
……まあ、それはいい。
田中はそう考えながら、自分の椅子にもたれかかった。そして大きく伸びをする。その視線の先にあるのは、
ここは田中の部屋であり、白衣を着ているのは言うまでもない。彼は部屋の隅にあるホワイトボードを眺めていた。そこには様々な事が書かれている。
生徒達からの要望や提案、シャーレへの依頼などが書き留められていた。そして、そのホワイトボードに新たに書き込まれた文字は、こうだ。
──ゲヘナ学園関係者からの相談あり。
そう。ゲヘナ学園からの相談が、シャーレの主である彼に舞い込んだのである。
「ゲヘナ生の護衛に伴う相談か……いや、気持ちは分からなくはないんだけどね」
「ですが先生、ここへ来るゲヘナの生徒って、そう襲撃に遭うものなのでしょうか?」
「そこなんだよね。私が思うに、これは乾さんをここへ呼びたいっていう誰かの意思を感じるんだ」
「うーん……ヒナさん?」
アロナが空崎の名を挙げると、田中もそれに頷いた。
しかし、だったら何故自分に頼んだのか? それが腑に落ちない。自分の地位を利用するメリットはあるが、それで得られるモノはあまりない筈だ。
それならば、ゲヘナ学園独自の案件として相談してほしい。しかし、彼らは素直にシャーレへの依頼として来た。であるならば、そこから導き出される答えは──。
田中がそう思考を巡らせていると、アロナが心配そうに顔を覗き込んできた。彼は慌てて笑顔を作りながら言う。
──大丈夫! 心配しないで。
するとアロナは安堵したように胸を撫で下ろした。そうして彼女は何やら机の上で作業を始めた。その背中を見つめながら、田中は思う。
この事はシャーレの先生としてではなく、キヴォトスで暮らす大人の一人として考えなければならない問題なのかもしれない、と。田中は椅子を回転させながら、ぐぐっと伸びをする。
そして腕組みをしながら目を閉じ、更に深く考えこむ。そんな彼を見て、たまたま当番としてシャーレに来ていたミレニアム・サイエンススクール所属の早瀬ユウカは、こう思うのだった。
(先生、また考え事してる……変なフィギュアでも買ったのかしら?)
「むむむ……」
「……はあ」
ユウカは溜息一つすると、オフィスに併設されている給湯室に向かう。
そこでテキパキと作業を終えると、コーヒーの入った紙コップを持って戻ってくる。そうしてそれを机に置き、ユウカは話しかけた。
彼女の机は田中の席のすぐ側にあり、声を掛けても良い場所になっていた。それを察したのか、田中がゆっくりと目を開いた。そして紙カップを差し出しながら話しかけてくるユウカへ振り返る。
中身はコーヒーだ。給湯室で淹れたのであろう、熱いコーヒーをすする。疲れた頭に糖分が染み渡り、少しだけ気分が晴れる気がした。
そんな田中にユウカが問う。
「先生、今度は何を買ったのですか?」
「ありがとう、ユウカ……いやね、買い物じゃないんだよ」
「では、何を?」
「うーん。ゲヘナ学園との話だからちょっとね」
ゲヘナの単語を聞いて、ユウカはチナツをイメージした。先生が来た当初、七神リンに巻き込まれる形で共同戦線を張る事になった彼女だ。
つまりはゲヘナで何かあったのかもしれない、そう考えたユウカはすぐに先生へ問いかけた。先生の思い悩む姿を見るのはあまり良い気がしない……そう思った彼女は問いかける。
しかし、田中がした返答は予想とは違ったものだった。
「ユウカ、次に来る時はシャーレにお客さんが来ると思うけど、その時は席を外してもらえないかな」
「は、はい」
「ありがとう。ああそうだ、稲荷寿しを買ってたんだ。ユウカも食べるかい?」
田中が唐突に机の引き出しから、まだパックされたままの稲荷寿しを取り出す。それを受け取ったユウカは、まじまじとそれを見つめた。
大きさ以外は普通のお寿司だ。どこで買って来たのか気になったが、わざわざ聞かないでおく事にした彼女は言う。
「……けど、なんだか手軽に済ませるかのように言いますね?」
何となく、そう思ったからだ。しかし田中はそんなユウカの疑問をよそに、こう続けたのだった。
「今日はオフィスに帰って来るのが遅くなったからね。お土産を持ってこないのも何かなと思ってさ」
「ふうん……ですが先生、気を付けて下さいね? 今は数名しか部員がいないから何とかなりますが、増えたらお土産の代金だって大変ですから」
「流石ユウカ、鋭いね!」
「はあ……」
少々説教くさくなるが、ユウカからすれば田中には前科がある為こう言わざるを得ない背景があるのだ。
彼女は知っている。
以前、先生は私物のフィギュア1個に10万円も使った事を。
そのせいで食費を大きくケチった挙句、昼食をコッペパン1個で済ませているのを。
だから今回の稲荷寿しも、先生の浪費癖に起因するのかと確認するために口に出したのだった。
──けれどまあ、この事は置いておくべきだろう。経費としては妥当な用途で、補填も効く。
彼女はそう思った後、先生から稲荷寿しを貰うとシャーレに併設されているカフェへと向かった。その背中を見送りながら、田中はまた思考の海に沈んでいった。
(出所はアコかヒナで、護衛はダシ。本命は乾と、彼の先輩である都々目さんについての対応だろう……経緯を聞き出せていないから何も言えないけど、多分ゲヘナ単独の問題ではない筈)
あれこれと考えるのも、生徒の悩みとあれば黙っていられない。先生としての職務だ。しかし、と田中は思う。
(……ゲヘナの生徒がシャーレに相談に来るなんて、珍しいな)
そう。ゲヘナの生徒がシャーレに相談に来るなど滅多にない事だ。それこそ、キヴォトスのあちこちで起こる事件がシャーレの管轄に回ってきた場合くらいだろう。しかし、今回はそうではないらしい。
そして、ある結論に至った。
──これは、恐らくゲヘナとシャーレの交流会だ。トリニティ総合学園への牽制が目的の。
大人顔負けの政治である。
しかしアコは前にもそのような事をして、怒られたのではなかったのか。あの時の苦い記憶が田中の脳裏をよぎる。急に頭痛に襲われた彼は、考え事を続ける事をいったんやめた。
自分のこめかみを指でもみほぐしながら、コーヒーをすする。そうしてほうと息をつくと、誰かが自分を呼ぶ声を認めた。
「先生?」
「おやホシノ、お昼寝はもういいの?」
田中がそう問いかけると、長髪とオッドアイが特徴的な少女──
普段寝不足な彼女には、シャーレ当番の日もオフィスに来てもらうだけで実質休日にしていた。夜更かしは身体によくない。しかし今日は早めに現れたようだ。
ホシノが田中のデスクまで来ると、その椅子を彼の隣に置いて座った。そして、自分のデスクに置いてある紙コップからコーヒーをすする。
そうして彼女は、こう口にした。
「……先生。何か悩み事?」
「どうしてそう思うのかな?」
「何となくねー。あ、おじさんにもおいなりさんいいかな?」
田中はユウカにあげたものと同じ稲荷寿しのパックをホシノにあげた。そして彼は自分の椅子を回して体を向けると、彼女に問いかける。
田中は驚いた。大人顔負けの政治が行われようとしているこの状況に、自分よりも大人びた少女が興味を示したからだ。
ホシノは普段眠たそうにしているが、それは夜更かししているからであり、頭が回っていない訳ではないのだ。彼女は田中の悩み事を聞き出すと、こう答えた。
──おじさんもちょっとわからないかなー。
何となく相談しやすいのが彼女の長所ではあるが、今回は力になれそうになかったようだ。
ホシノはうへー、と鳴き声のような口癖を一声上げると、稲荷寿しをぱくり。
なるほど、分からないのなら仕方ない。そう判断した田中は、悩み事を頭の片隅にしまい込むことにした。手元のコーヒーを空にして立ち上がると、おかわりを自分で淹れに給湯室へ向かった。
その後ろでは、ホシノが呑気そうに稲荷寿しをもう一口。
──美味しい。
そして時間は過ぎ、夜。
田中がシャーレのオフィスで一人、考え事をしていると不意に扉を叩く音が聞こえた。彼はすぐに席を立ち扉を開けると、そこにはゲヘナ学園の制服に身を包んだ少女がいた。
その少女は田中を見ると、ぺこりと一礼した。そして彼女は言う。
「本日はお時間を作っていただきありがとうございます、先生。私はゲヘナ学園の風紀委員会に所属している者です」
「うん。君は一人で?」
「いいえ。護衛の方を付けて」
──早速か。
田中はそう思いつつ、彼女を中へと案内した。そしてオフィスの応接用のソファーに座らせると、彼女もまたソファーに座る。対面に座った田中が口を開く前に、彼女は言った。
「それで、相談と言うのは?」
その言葉に、対面した少女が静かに頭を下げた。ホワイトボードに文字が書き込まれるのを見ながら、彼女は言った。それからしばらくの間、田中は彼女の話を聞いていた。
しかし、それはあまり意味のない事だと田中は判断した。彼女はシャーレに籍を置いていない。つまり、別にシャーレに来たからと言って直接お悩み相談に応じる義務はないからだ。
それとは別に理由があるのでは? と田中が問いかけようとして──失敗した。何故なら、問いかける前に護衛の人物が入って来たからだ。
「すみません先生、入って欲しいと連絡が入りまして」
「……君、これはどう言う事だい?」
唐突に入って来たサングラス姿の大男──乾の姿に田中が少女を問い詰めると、少女はあははと苦笑い。
そして乾がやれやれと言った様子で言った。シャーレのオフィス内に緊張感が走った。それは明らかに、歓迎できるものではない。だが、そんな中でも乾は飄々とした様子でこう言い放った。
「先生、俺も詳しい事は聞いていないのですが、それはこの手紙に書かれているそうで」
「私は書記です。ここでの発言を記録する為に来ました」
生徒会ならまだしも、風紀委員会にも書記がいるとは。そう思った田中だったが、今はそれどころではないと思い直す。そうして手渡された手紙を読むとそこにはこう書かれていた。
──シャーレの先生の先生であるあなたに話があります。既にお察しの通りでしょうが、乾さん達の事です。彼ら二人と先生は大人です。私たち生徒と一緒よりは、より良いお話が出来ると思います。つきましては……。
手紙を読み始めて5分ほどかけ、田中は一通り読み終えた。手書きのその手紙は中々の達筆だった。恐らくアコかヒナがペンを執ったに違いない。その手紙を丁寧に折り畳んで封筒にしまう田中。そして彼は言った。
──なるほど、これは確かに大人同士の話になるね。
そうして彼は立ち上がると少女を見た。彼女はどこか不安そうな表情でこちらを見ている。そんな彼女に向かって、田中は口を開いた。
「残っても良いことはないとは思うけど……残る?」
「はい。……それで、先生はどうするおつもりですか?」
「簡単な話だよ」
そう言いつつ田中はオフィスの冷蔵庫を開けるとそこから一本ペットボトルを取り出した。そして少女に向かって放る。彼女はとっさにそれを受け取るが、突然の出来事に困惑していた。
そんな彼女をよそに田中はコーヒーメーカーのセットを始めた。やがてコーヒーが出て来ると、それはマグカップに注ぎ込まれ、それを乾の前に置いた。
「君は、取りあえずカフェに行っててもらえないかな?」
「えと、それでは……」
「良いから。話はすぐ終わるよ」
「……わかりました」
そう答えた彼女は、ペットボトルを持ってオフィスを出た。ドアが閉じる音が響く中、田中は乾に向かって言う。
「あまり、生徒に心配をかけるもんじゃない」
「それは乾さんも同じでしょう? ……それで? 私は何をすれば?」
乾と田中は椅子に掛けると、乾が持って来た鞄から一通の書類を取り出し、田中に差し出した。
それを受け取り、目を通して行く。それは風紀委員会──アコからの嘆願書だった。
そこには最近ヒナの体調がよい事が記されていた。そしてその原因が目の前にいる乾と紅一である事も察せられる内容になっていた。しかし、彼らは大人の男性だ。
女子だらけの空間に置くには肩身が狭い思いをしているのではないかと思い、アコが根回しをしたらしい。
それを理解した田中は乾に対し普段のような人当たりの良い笑顔を浮かべつつ、こう言う。
「結構、慕われているようですね」
「そのような気はしていたが、まさかここまでとは」
「まあ、子供たちと出来ない話も出来るようになりますし、私は賛成です。今度は都々目さんも連れて来てくださいね」
「ええ。本当は先輩も来るはずだったのですが、直前で素行不良の生徒が暴れたと連絡がありまして」
「素行不良?」
田中の言葉に頷く乾。彼は近況を話した。
なんでも、ゲヘナ学園には所かまわず温泉を掘削・開発する部活動があり、部活動と称して無許可の掘削行為を公衆への配慮なく行ったと言う。確かに火山があり、温泉がどこでも採れるゲヘナ学園には必要な部活だろう。
だがそんなものを無許可で行えば、あちこちから文句が出るのも理解出来る話だ──。
そう思っていた田中が口に出す前に、乾が更に言った。
「それで、事態を引き起こした部活動員の身柄確保に先輩も巻き込まれた形です」
「はあ……それは災難としか」
田中は、ここにいない紅一の身を案じた。
自分と同じくキヴォトスの外から来た人間であれば、銃弾一発が致命傷にもなり得る。ゲヘナの領内で暴れたとなると、相応の実力者でもない限り良い結果にはならないだろう。
田中はそう思いつつも、それを口や態度に出す事はない。
これが大人と子供の差である。
「話は変わりますが、D.U.地区はどうですか?」
「ゲヘナ学園領内と比べてですか? 確かに治安は良さそうですが……」
「まあ、そうですね。でも、喧嘩が銃撃戦である事には変わりありません」
「そうですね。そう言う意味では……」
そう言いかけた田中。しかしそこで彼の考えは中断した。
からん、と何かが落ちたのだろう。その瞬間、乾が田中を庇うように立ちあがり、ヒップホルスターから拳銃を抜いた。田中は乾のその行動が意外だった。
──なんて素早さだ。
彼はこのキヴォトスでは珍しい大人だ。元警察官とは聞いていたが、身のこなしに限って言えばTVドラマや映画で見た俳優にも勝るとも劣らない素早さだ。
そんな乾が咄嗟に庇う姿と言うのは、田中にとっては新鮮だった。そうして身構えた乾の視線の先に、少女がいた。
彼は微かに銃口を下げると、少女に問うた。
「……君は?」
「うへ、おじさんに気付くとは。なかなか鋭いね」
「……君は一体だれで、何の用でここに来た?」
「わーお、まるで軍人さんだね?」
そう答えた少女に対し、乾が警戒を強めようとして……田中が乾の前に立った。
「こらホシノ、先生は今お客さんと話しているんだ。あまり困らせないでほしいな」
「ごめんごめん、いつもとちょっと違ったからさ。……ところで、先生とはどんな関係?」
「……ただの知り合い、だな」
田中はホシノから乾を庇うように身を前に出したが、既に遅いようだ。それは明白だった。
何故なら、目の前の少女──ホシノが軽く微笑んだのだから。乾が銃をホルスターに収めると、ホシノは自己紹介を始めた。
「にゃあにゃあ。おじさんはアビドス高校3年、小鳥遊ホシノだよ。よろしくねー?」
「……乾だ」
「乾? うーん……確か、ゲヘナ学園の"黒い番犬"さんだったかな?」
「その呼び名は、初めて聞いたが」
便利屋の子から聞いたんだ、とホシノは間延びした、いつもののんびりした様子で答える。
しかし、小鳥遊ホシノもヒナとはまた別ベクトルで有名人だ。なんでも本人はどこにでもいるおじさんのつもりらしいが、大の大人である乾が警戒する位には頭が回る事が見て取れた。
田中は乾に下がるように指示すると、ホシノに席に座るよう促した。彼女は素直にそれに従いソファーに座ると、足をぶらぶらさせながらこう言った。
「それで、何を相談に来たの?」
「……それは言えない」
「ふぅん? ……なら、先生のお悩みごとって?」
「……それは」
「言えない事なら、言わなくても良いんだよ?」
「不良生徒の事だ」
「不良ー?」
田中の代わりに乾が答えると、ホシノは首を傾げた。
不良生徒をどうしたいのだろうか? ゲヘナ学園の生徒に不良が多いのは確かだが、それはどの生徒でも同じ事が言える。しかしそれはゲヘナ学園の問題であり、シャーレの問題ではない筈だ。
この大人の男性は、何を求めて先生を訪ねたのだろうか?
疑問は尽きなかった。