箱舟に迷い込んだ犬   作:B=s

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箱舟に迷い込んだ犬-17

 それから1週間が経った。

 ゲヘナ自治区も夏に入ったのか、中々に日差しが強くなり始めた。こういう日光が強まるのは悪いことでは無い。夏の日差しが強い日などはちょっと暑すぎてしんどいくらいだ。

 とは言えあちこち動き回るのだから、あまり関係はないかもしれない。

 乾は今日も、ヒナの書類仕事を手伝っていた。焼け石に水ではないかと思ったが、アコ曰くそうでもないらしい。

 

「それにしても、この量は子供がやる量ではないな」

「ですがこれでも、あなたが手伝う前より改善されたのです」

「今まではどのくらい?」

「1日の内、3時間ほど取れればいい方です」

「3時間……」

 

 思わず乾は言葉を失った。いくら何でもそれは少なすぎる。交代勤務であってもその倍は自由時間を設けていた。それほどまでに彼女にかかるものが多いと言う事だが、それにしてもあんまりだろう。

 ──まあ、だからと言って。代わってやれることなど無いのだが。

 乾はそう言うと、再び書類整理に戻った。幸いにもミスは無いし、戻すものもない。淡々とその仕事を捌いていくと、ちょうど3時間ほど経ったところで、アコがふと思い出したように口を開いた。

 

「頭脳労働には休憩と、甘いものがいります! 特に委員長にはいっぱい必要です!」

「アコ……だからといって、乾の分は抜いちゃダメ」

「構わんさ」

「それでは用意してきます!」

 

 アコが嬉しそうに微笑むと、足早に部屋を出ていった。残された乾とヒナは顔を見合わせて苦笑する。ふと気になったことがあるのか、ヒナは乾に問いかけた。

 

「そういえば、紅一は? 姿が見えないのだけれど」

「先輩は野暮用だと言って、しばらく外している」

「野暮用?」

「ああ。なんでも、調べものらしい。……まあ、その内戻ってくるだろうさ」

 

 乾はそう言うと再び書類の整理に戻った。ヒナもそれに倣って自分の仕事に戻る。そこへアコがトレイに甘いお菓子を沢山乗せて戻ってきた。

 お菓子の甘い匂いが、書類が散乱している書斎を瞬く間に埋め尽くした。乾も思わず書類整理を止め、その甘い香りに目を細める。

 ちょうど小腹がすいていたところでもあるし、これくらいいいだろう。

 アコはトレイを机の上に置くと、早速とばかりにヒナの所へと駆け込んだ。そして、様々なお菓子を勧めてくるのだ。

 お菓子をひとつ手に取ったヒナがそれをほおばる様子に、アコが嬉々として写真を撮り始めた。どうやら完全にスイッチが入ったようだ。乾はそれを横目に見ながら書類と格闘する。……何と言うか、この光景はどこか懐かしい。

 そう感じながらも、乾は目の前の書類を片付けていった。

 

「うう、こんなはずじゃ……」

「銀鏡、どうしたんだそんなに俯いて」

「あ。乾……」

 

 そこへ妙に落ち込んでいる様子のイオリがやって来た。ヒナとアコは心当たりがあったようで、互いに目配せする。ヒナが一歩イオリに近寄る。

 

「イオリ、何があったのか話して」

「ひ、ヒナ委員長。……そんなに、と言うか、大したことではないんだけど……」

「いいから」

「う……うん。実はね──」

 

 ヒナに続きを促されたイオリはぽつぽつと語り始めた。最近小テストがあったらしく、赤点は回避できたものの点数は奮わなかったようだ。イオリ自身はよほどショックだったのか、ひどく落ち込んでいるようにも見える。

 ヒナはそんなイオリを励ますように彼女の肩に手を置いた。乾もそんな彼女たちを微笑ましいと思ったのか、仕事に戻った。しかしイオリからすれば何か思う所があったのか、乾に当たった。

 イオリ曰く、この状況で何も言わないのは乾も悪いと言う。確かに立場は違えど、点数が奮わなかったということはそれだけ勉強に身が入らなかったという証左でもある。

 ……まあ、それはそうかもしれないが、と乾は心の中で思った。しかし、どうしようもないのではないかと言う思いもあった。単に慰めの言葉をかけるだけなら誰でもできるが、当の本人が求めているものが違うようでは、それは的外れになる。

 

「……空崎、俺は外出してくる。銀鏡、ついて来い」

「わかったわ。イオリも行ってきなさい」

「ヒナ委員長?」

「いいから行ってきなさい。……アコ、私も席を外す」

 

 乾が席を立つとイオリを連れて外へと出た。ヒナは二人を見送った後、アコに後を託して廊下に出た。どうも水分を摂りすぎたようだ。

 

 ──でだ。調査結果を頼みたいんだが。

 その頃、紅一はゲヘナ学園の屋上である人物と会っていた。その人物の名は鬼方カヨコ。便利屋68の課長職にいる。実のところ、紅一からすれば何の事業部に対する課長なのかがさっぱりわからないが、それは横に置いておくことにする。

 紅一は腕を組みながら、カヨコが持ってきた情報を聞いていた。どうやら万魔殿についての情報を求めていた。乾が拉致されそうになったのは記憶に新しい。彼は、万魔殿と言う組織がどのように動いているのかを知りたかった。

 

「……まあ、大体は議長であるマコトが思いつきで風紀に八つ当たりしてるわけ」

「なるほどな……そうなると、相手は風紀委員会に遺恨があるってことか」

「多分ね。ただマコトがなぜそうしているのかは不明。あとこれが調査結果の紙」

「……わかった。こいつは今回の報酬だ。中身の確認は大丈夫か?」

「うん」

 

 札束が詰まったダッフルバッグを受け取ったカヨコは、中身をちらと確認してから頷いた後、屋上を後にした。

 彼女が立ち去ったのを確認した後、紅一は報酬と引き換えに得たまとめを読む。乾を狙った一件以来、どうも気になって仕方ない。

 単にいたずらなのかもしれないが、治安維持組織に対してそのような行動を取るのはリスクが高く、更に風紀委員会の沽券にも関わる。

 しかし、風紀委員会を狙ったのが偶然で、乾はただのとばっちりを受けただけという可能性もある。

 

「この情報だけでは判断できないな」

 

 ……と、その時だった。屋上に一人の少女がやって来た。

 彼女は誰かを探しているようで、とてもおどおどした様子であった。しかし、紅一の存在に気づいたのだろう。彼女──伊草ハルカは紅一に声をかけてきた。

 その背後には誰もおらず、どうやら単独で行動しているようだった。ハルカもまた便利屋68のメンバーだ。彼女もカヨコからの命で、万魔殿について調査をしていたようだ。

 そして、その情報を持ってきてくれたのだそうだ。……だが、彼女の顔色はあまり優れない。

 

「あ、あの……。カヨコ課長からこれを渡すように言われまして……」

「そうか」

 

 ハルカは震える手でファイルを手渡してきた。それを受け取った紅一は早速中を確認することにしたが、その前にハルカに礼を言った。

 すると彼女は少し照れた様子ではにかんだ。その様子を見て紅一はどこか微笑ましい気持ちになった。

 そして、ファイルの中身を読み始める。そこには万魔殿の最近の関心事項や議事録のコピー、ハルカが独自にまとめたであろう情報などがまとめられていた。

 ……なるほど、これは便利だ。紅一は思わず感心する。そして一通り読み終わった後、紅一は懐から札束を一つ取り出しハルカに渡した。

 

「追加の報酬だ。持っていきな」

「私なんかにこんな大金、本当によろしいのでしょうか……?」

「それだけの働きをしたと言うことだ。今後も頼む」

 

 札束を受け取った彼女はそれを大事そうに鞄にしまった。そして、おぼつかない足取りで去っていった。

 それを見送った紅一はファイルをしまうと、別の方向へと歩いて行った。

 

 

 乾とイオリは射撃場へと来た。風紀委員以外の生徒も射撃の練習をする為、かなりの広さが確保されている。イオリは愛銃を構えると、集中するようにゆっくり息を吐いていた。

 そして、標的を見据えるとトリガーを引いた。乾いた発砲音の後、イオリの放った弾丸が標的へと命中した。その様子を見て乾は思わず感嘆の息を漏らす。

 

「スコープもなしにすごい腕だな」

「風紀委員のスナイパーは伊達じゃない」

 

 まるで精密機械のように一発も外さずに的へ当てると、また構える。その繰り返しだ。

 乾もイオリのように的を狙うが、どうもしっくりこない。こればっかりは感覚の違いなのだろう。乾は拳銃──モーゼルC96を撃ち切ると、標的を手元に呼び寄せた。

 

「見ろ、さっぱりだ」

「胸のあたりに集中してるじゃないか」

「そういう君は全部頭に当たってるぞ」

 

 呼び寄せた標的を乾たちはマークする。そのうち、乾が撃った標的は胸から腹にかけて弾が当たっていた。対してイオリが撃った標的は標的の頭に集中していた。

 乾は標的から25mの距離から撃ったのに対し、イオリは250mの距離から撃っていた。確かに小銃の射程で言えばそこまで弾丸は飛ぶが、その場合の集弾性については望むべくもない。

 ……だが、イオリが放った弾丸は的確と言っても差し支えない。

 

「うーむ、精密射撃は銀鏡の方が上か……」

「それは当然さ。これでも風紀委員いちのスナイパーなのだからな」

 

 そう誇らしげに語るイオリを尻目に、乾は拳銃の安全装置を確認し、再度かけ直した。イオリも銃に安全装置をかけ、肩にかけた。

 

「もう戻るのか?」

「ああ、邪魔して悪かったよ」

 

 イオリはそう言うと射撃場を出て行った。取り残された乾はふと空を見た。夕暮れが近いからか、朱い夕焼けが空を染めていた。イオリも自信を取り戻したのだろう。大丈夫そうに見えた。

 乾もまた、ヒナの身を案じて戻ることにした。

 

 

 ゲヘナ自治区の外、D.U.地区の外れの住宅街にあるビルに鬼方カヨコはいた。彼女は誰もいない室内で一人パソコンを操作している。そのモニターに表示されているのは帳簿だ。

 

「これならまあ、今月は大丈夫か……」

 

 そうつぶやく彼女の耳には、パソコンの作動音や紙を捲る音だけが響く。ふと、その静寂が打ち破られた。ドアを叩く音が響く。カヨコは一瞬訝しんだがすぐに立ち上がった。

 鍵を開けるとドアを開けて、不安げな顔をしている少女が入ってきた。

 

「か、課長。ただいま戻りました」

「おかえりハルカ。……どうしたの、浮かない顔だけど」

 

 カヨコは彼女をソファに座らせると温かいお茶を出した。ハルカは小さく礼を述べつつそれに口をつける。すると、ほうっと息を吐いた。

 

「あの、課長。実は……」

「?」

「……万魔殿の件についてです」

「何かあった?」

「はい。これを……」

 

 そう言ってハルカは鞄から札束を取り出した。紅一より追加報酬として渡されたものだ。それを受け取ったカヨコは中身を確認する。

 高額紙幣だがどれも使われた形跡があり、番号も全部ばらばらで問題なし。ボストンバッグの中身と変わりはなく、つまりこちらをちゃんと見てくれている。

 カヨコはその金額をチェックして、報酬とは別にハルカに何枚か渡した。受け取った彼女は泣きそうな顔になる。

 

「よくやったねハルカ。社長には私から言っておくから。おやすみ」

「は、はい。おやすみなさい……」

 

 しかし、カヨコはそんな彼女を慰めるように頭を撫でながら微笑んだ。ハルカが照れながらも部屋を出て行くのを確認すると、机にある紙を一枚手にした。

 そこには風紀委員会を狙った一連の事件に関する資料が記されていた。どうやらハルカも独自に調査を進めていたようだ。この案件に引き込んで正解だった。

 

「うん? この資金の流れは一体?」

 

 カヨコはその資料を読み込んでいくうちに、あることに気付いた。そこには多額の資金が万魔殿から流れ出ていた。その行き先は不明瞭であり、カヨコの疑問は深まるばかりだ。

 ──だが、今は情報が少なすぎる。もう少し調査をするべきか。依頼は来ていないし、引き時か。しかし来月の収支は……。

 

「カヨコっち、なーにしてんのー?」

「ムツキ室長……」

「今はムツキでいいよ。それで、なにしてんの?」

 

 カヨコの隣からたずねる声。それは室長である浅黄ムツキのものだった。カヨコは手にしている書類をちらと見てから答えた。普段通りの笑顔を向けているムツキだが、表情からは何を考えているのか読み取れない。

 しかし、カヨコは臆することもなく淡々と答える。……この案件は、おそらくゲヘナだけの問題ではないだろう。今はその確証を得るために調査している最中だ。しかしそれを話すわけにはいかない。

 カヨコは無言で書類を差し出した。ムツキはそれを受け取り目を通していく。そして、ある箇所で目を留めた。

 

「くふふ、これ結構ヤバいんじゃなーい?」

「ムツキもそう思う? 私はここで手を引こうか、迷ってる」

「どっちにしても、アルちゃんには荷が重いね?」

「ただ、ハルカがヤる気になってる。古巣とは言え、あそこまでの調子は見たことがない」

「ハルカちゃんが? ああ、あの子も元万魔殿だっけ。いじめられてたし、仕方ないよ」

 

 そう言ってムツキは肩をすくめた。彼女の言葉を受けてカヨコも思案する。確かにハルカが独自で調べるほどまで入れ込んでいるとなると、多少なりとも苦戦を強いられるだろう。

 今後もこの案件を続けるべきか、それとも今回は見送るべきか。カヨコは決断を迫られていた。そしてムツキの顔を見る。すると、ムツキは満面の笑顔を向けた。

 

「ま。私たちはアウトローだし? ハルカちゃんがヤる気ってんなら、私たちが止めるのも野暮ってもんじゃん?」

「……それもそうか」

「くふふっ」

 

 カヨコはため息、ムツキは笑った。それから資料を鞄にしまって部屋を出た。

 これから起こるだろう事件と風紀委員と協力者たち──紅一の身を案じながら。

 




 ハルカが万魔殿所属かどうかは公式では明らかになっていません。あしからず
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