イオリが落ち込んで来た日から、数日が経った。暑い日差しに、ゲヘナ生の誰もが夏服の着用を考えていた。
例外はヒナぐらいなもので、彼女はこの暑さもいつも通りの服装だった。傍にいるアコが、こっそりとシャツの生地の厚みを薄いものに変えたりしているにもかかわらずだ。
とは言え、教員などがジャージなどを許可することで少しでも風通しをよくしようという試みもあり、周囲よりはまともな夏服化への努力が見える。
それが功を奏したのかはわからないが、僅かに風紀委員たちの出動件数が下がったかのようにも思えた。
そんな日々が続くある日。風紀委員会の会議も終わり、風紀委員長のヒナが他の役員や委員たちと共に退出しようとした時だった。風紀委員会室のドアが控えめにノックされる。
普段ならそんなことはされないのだが、今日に限って言えばそれがどのような来訪者か理解できた。
「トリニティ総合学園の方から、使者が来られています!」
「使者……すぐ対応するわ。アコ、留守をお願い」
アコが敬礼を返すと、ヒナは足早に入り口に向かった。それを見届けた風紀委員会幹部は、各々の仕事にとりかかった。
書類作成、承認、予算申請など……。それら膨大な仕事量を手際よく捌いていく。それはひとえに彼女たちが優秀である証左だ。
特にこの数年は優秀な人材が次々に育っていることもあり、作業効率は驚異的に伸びている。彼女たちが仕事に勤しむ中、ヒナは使者を応接スペースへと案内する。
そして椅子に座るよう促すと、自らもその向かい側に腰かけた。
大して待つこともなく扉が開き、トリニティ総合学園の制服を着用した二人組の少女が現れた。
片方は礼儀正しく頭を下げて挨拶をし、もう片方は明るい表情を崩さないままこちらに向かって手を振っている。
「まさか、桐藤さん自ら来られるとは……」
「ええ、お忍びで来てしまいました」
ヒナは驚いた様子で目の前の少女を見た。桐藤ナギサはトリニティ総合学園のトップだ。しかし、彼女はいつも複数人で行動しており一人で行動する姿を見たことがない。
その彼女が少人数で来たということは、余程のことがあったに違いない。ヒナはそう考え姿勢を正した。
それを見たナギサはくすりと笑い、それから深く頭を下げた。それに応じてナギサの後ろに控えていた少女も頭を下げる。従者と言う印象が強く、その表情は読めない。
急な来訪であったので、好みの銘柄の紅茶を用意できなかったのは痛い。……ただ、彼女たちは今回一体何をしにきたのだろうか?
ヒナの疑問を感じ取ったのかナギサが口を開いた。
「私はただの使者です。桐藤ナギサはトリニティにいます」
「……そちらの方は?」
「彼女は私の護衛です。……まあ、今はそれよりも本題に入りましょう」
ナギサはそう言って姿勢を正した。ヒナもそれに倣い背筋を伸ばした。ナギサは優雅に一礼すると本題に入った。
「一度、条約を結ぶ相手のことをもっと知りたいと思いました」
「それは、我々ゲヘナも見習いたい姿勢です」
ヒナはそう言って頷いた。しかし、すぐに表情を険しくさせた。
相手はトリニティ総合学園のトップだ。
交渉一つでも相手のペースに持っていかれたら今後のゲヘナの行く末に陰りが生じるかもしれない。
そんなヒナの反応を見越していたのか、ナギサは安心させるように微笑んだ。
彼女はゆっくりと語り始めた。
「私はただ、ゲヘナとトリニティがより良い関係を築いていけたらと思っているのです」
「……それは、つまり?」
「はい、風紀委員の皆さまの頑張りは私たちも確認しております。なので……」
ナギサはそこで一旦言葉を切ると一呼吸置いた。それから視線を上げヒナの目を見て言った。
「ゲヘナ学園の風紀委員長に、お願いがございます」
ヒナはナギサの目を見た。そしてある一つの仮説にたどり着いた。つまりこういう事だろう。
「……引き抜きですか?」
「いいえ、そうではありません」
ナギサはそう言って首を横に振った。
「厚かましいお願いではありますが、ゲヘナ自治区の案内をお願いしたいのです」
ナギサの申し出にヒナは内心困惑した。確かにゲヘナとトリニティは互いに交流を深めようとしているが……まさかこのような形で来るとは予想していなかったからだ。
しかし、ここで断る理由もない。むしろこれは絶好の機会とも言える。ヒナは頷き了承した。
ヒナがナギサの訪問を受けていたその頃、グラウンドの端では。
「よーし、休憩だ!」
「ひぃ……はぁ……」
ジャージに着替えた田中が乾たちの指導の下、訓練を行っていた。
彼は今、どの程度の身体能力を有しているのかを確認したいからだ。体育の授業は専門外ではあるが、銃撃戦が日常茶飯事のキヴォトスでは体力があった方が好ましいと言える。
汗だくになりながら地面に倒れ込む田中の視界には、息を整えている様子の乾の姿があった。15キロほど走ったと言うのに、凄まじい体力だと田中は感じた。
「いくら体育が専門外とは言え、流石にたるんでないか?」
「め、面目ないです……」
ぜえはあ、と喘ぎながらも紅一の問いに答える田中。
一方で乾は何をしているかと言えば、その場でスクワットを続けている。田中は紅一から飲み物をもらい、半分ぐらい飲むと息を整えながらゆっくりと立ち上がった。
アビドス高校の件で遭難し、生死をさまよってからと言うものの、暇を見つけては自主的にトレーニングをしていた。
そのおかげと言うか何と言うかだが、ミレニアムはゲーム開発部の一件では、怪我を負わずに済んだ。だがしかしそれでも、乾たちの運動については行けなかった。
そう田中が思い出している内にも休憩時間が終了となり、再びトレーニングを開始しようとした。
「……?」
「うん? どうしました?」
「誰か、こっちを見ているような。……ほら、あそこ」
「ふむ?」
田中が指差す先、そこには一人の少女がいた。
運動着姿の彼女はタオルとドリンクボトルの入ったポーチを肩に掛けている様子から察するに、この暑い日差しを避けるために日陰にいるのだろうか。
田中たちは中断し、その少女の方に歩み寄った。すると向こうもこちらに気づいたようで、彼女は小さく頭を下げた。
「こんにちは、先生」
「やあ。どうしたんだい?」
「特に用事がある訳ではないんだけど、先生が運動すると言うのを聞いて様子を見に来たんだ」
「おかげさまで、この通りだ。……ところで、君は?」
田中がそう聞くと、少女は小さく微笑んだ。その表情にはどこかあどけなさが残っている。
そして彼女は鞄からハンカチを取り出すと額の汗を拭いながら言った。どうやら休憩が終わるまで待ってたらしい。
その気遣いに感謝しつつ田中たちは練習を再開しようとするが、その少女は彼のシャツを掴んで引き留めた。心配そうに見上げる少女に彼は大丈夫だと返した。
……すると彼女は小さく頷いた後、ポーチからメモ用紙を取り出すとさらさらと何かを書き込んだ。それを見た田中は困惑した表情を浮かべながらもそれを受け取った。
そして、彼女は一礼するとそのまま去って行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、紅一は顎に手を当てた。
「先生ってのは、随分と生徒にモテるもんだな?」
「いや、あれはそういうのじゃないと思います……はい」
ニヤニヤとからかうような物言いでそう言った紅一に反論しつつ、田中はメモ用紙に目を凝らした。それは、モモトークの連絡先だった。
田中がシャーレの顧問に就任してしばらく経ち、こう言ったやり取りは増えていた。2ショット写真を頼まれたり、相談ごとを持ちかけられることもしばしばある。
特にゲーム開発部の一件から、その回数が更に増えており田中は少し頭を悩ませている。それほどまでに不安を抱いているのだろうか? それとも……。
そこまで考えた所で、紅一が田中の肩を叩いた。
「まあなんだ。良い時間だし、ここらで切り上げるか」
「え? ですが……」
「これ以上は、体に無理が来ます。田中さん、あんた寝てないでしょ?」
「……!」
乾の言葉に田中は言葉を詰まらせた。その通りなのだ、彼は今睡魔に襲われていた。このまま続ければ倒れてしまうだろう。
田中は観念して休息を取ることにした。乾に連れられ、拠点内の一室を借りることになった。用意されていた布団に横になると田中はすぐに寝息を立て始めた。
乾はそれを見届けると、体操しながら紅一に訊ねた。
「田中さん、結構タフですね。本調子ならどうなるか」
「乾、お前はそう見たか。俺はそろそろ限界が近いと思ったんだが……」
「それなら、どうして無理を……?」
乾は疑問を口にした。田中の体調が思わしくないのは、紅一も分かっていたはずだ。それなのに何故止めなかったのか。その疑問に対して紅一は、少し間を置いてから答えた。
「俺はな、あいつが、無理してでも何かを守ろうとしているように見えるんだよ」
「守るため……ですか?」
「ああ。例えば守るべき生徒、あるいは大事なものを守るために無茶しているようにな」
「なるほど……」
紅一の答えに納得を示す乾。確かにその可能性はあるのかもしれない。だがそれだけでは決定打に欠ける気がした。
何故かはわからないが、もっと深い理由が存在するのではないだろうか。そんな不安が彼の頭をよぎった時、紅一はふと思い出したように口を開いた。
「なあ乾よ、俺は思うんだが……田中と俺たちは、違う日本から来たんじゃないか?」
「違う日本?」
「ああ。時代の違いなのかもしれないが、何と言うか……」
言い詰まる様子の紅一に、乾はしばし考える。確かに田中と自分とでは、何か過ごしてきたものが違う気がする。
それはもちろん同じ時代で生きてきたと断言できないほどの誤差は存在しているのだが、どうにもそれだけではないような気がするのだ。
しかし、それが何なのか二人がはっきりと言葉にすることはできなかった。
それからしばらくして、使者を無事に送ったヒナは、執務室で風紀委員から報告を受けていた。
「以上が報告になります」
「そう。わかったわ」
ヒナはそう言うと、報告書を机の上に置いた。
「失礼します」
風紀委員は踵を返すと、執務室をあとにした。ヒナは机の上の報告書に目を通しながら考えた。
あの後ナギサは、正式にゲヘナ自治区の案内を要請した。当然ヒナもそれを断らなかった。
それは賢明な判断だからだ。椅子に座っているだけの為政者ではないことを印象付けるには、現場を見せることが一番だとヒナは理解していた。
それにナギサ個人としても、ゲヘナ学園を見学しておくのは有意義であり、今後のためにも必要な事であると考えていたからだ。自治区のあちこちを案内し、時には現場の風紀委員たちの活躍を見せていた。
無論、特機隊の話は触れず、単語すら出さなかった。更に言えば、万魔殿の連中の案内や紹介も省いた。
仮にそうしたとしても、決して良い展開にはならなかっただろう。だがそれをしない代わりに、ナギサは逆に質問を投げかけてきた。
──この学園には、何か特別な秘密が隠されているのではありませんか?
それは、ナギサの純粋な興味から出たものだ。
トリニティのような歴史の裏に暗いものがあったとしても、ゲヘナ生があまり気にすることはなく、むしろ自分たちがトリニティとは違う場所に立っているという優越感に浸っている。
そしてそれはナギサも理解していた。理解したうえで、敢えて聞いてみたのだ。それにヒナはこう答えた。
──秘密はあるけど、ここでは話さないと。
その言葉にナギサは満足そうに頷くとそれ以上聞いてこなかった。きっと聡いナギサならば、あまり意味が無いことに気が付くだろう。
ヒナはナギサに対して、内心そう評していた。別れ際、彼女はヒナにこう言っていた。
「今度、トリニティに遊びにいらして下さい。歓迎いたします」
それは、ヒナがゲヘナ自治区の風紀委員長であるからだろうか。それとも……。そこまで考え、彼女は頭を振って考えることをやめた。
「今考えるべきは別の事ね」
ヒナは小さく呟き立ち上がった。そろそろ時間だ。彼女はデスクに置かれた時計を見てそう判断した。
決裁待ちの書類の山に手を付けようとした矢先、執務室の扉を蹴破らんとする勢いでアコが飛び込んできた。
「大変です! ヒナ委員長!」
「何事?」
「万魔殿の方から先ほど監査に来まして、予算を削減すると」
「……は?」
アコからの報告にヒナは耳を疑った。監査に際して予定にはない。抜き打ちと言うことだ。
「万魔殿が……。どうして?」
「分かりません。ですが……監査の結果、来四半期の予算はゼロです!」
「……アコ。紅一と乾を呼び戻して」
「い、委員長?」
「急ぎでね」
「は、はい!」
アコは滅多に見せないヒナの表情に、戸惑いを隠せなかった。そんなヒナは、アコに指示を終えると再び椅子に腰を下ろした。そして大きく息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
「……マコトには一度、お灸を据える必要があるわね」
その目は、怒りに満ち溢れていた。
監査の件については風紀委員会グループストーリーをご覧ください