箱舟に迷い込んだ犬   作:B=s

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箱舟に迷い込んだ犬-20

 ──久々にお酒を飲んだなあ……。

 田中はD.U.地区の外れに位置する飲食店街で、しこたま酒を飲んだ。千鳥足で家路につく。

 休憩をしたあと、乾たちに誘われるがままに飲み明かしてしまったのだ。

 酒が回って頭がふらつくが、心地の良い酔いだった。生徒たちには見せられない姿だが、大人の男同士だけしかできない話題もできて、すっきりできた。

 

「気分がいいや……」

「そんなにお酒って、いいものなのでしょうか?」

「うーん、どうだろう。様々なんだよ……」

 

 アロナが興味本位で田中に質問する。

 もしアロナがそばにいたら、酒臭いから嫌な顔をされているだろうな……と思いつつも、それを気にする様子はなかった。 酒に関しては身体に悪影響を与えるが、全て悪というわけではない。

 幼少から飲んだ際の影響が大きい為、子供には飲ませないだけだ。大人になれば自分の適量や限界がわかる。何より酒は、誰かと共に飲むことで最大の薬となる。

 ……良い方向にも、悪い方向にも。

 ほどなくして、田中は見知った道へと出た。家はもう間もなくだ。少し歩いたためか、時間が経ったためか。酔いが醒めてきた。空を見上げる。

 ──街灯の明かりがなくても、月の光で空がやや明るい。

 田中はアルコールでぼんやりとする頭でそんなことを考え、歩く速度を速めようとしたときだった。

 唐突にサイレンのような音が周囲に鳴り響いた。何事かと思い周囲を見渡すと、道路の前方に一台の車が見えた。白い乗用車。

 何やらけたましい音を響かせながら、走り去っていった。その後ろから、パトカーが何台か追いかけていく。

 キヴォトスでは珍しい、カーチェイスだ。パトカーが去った後、そこに残ったのは静寂だ。

 

「な、なんだったんだ……」

 

 まるで嵐のように過ぎ去っていった。そう思いながらも、パトカーの向かった先を田中は見やる。流石に追いかけてまで知るべきかどうか、少し迷った。

 しかし、田中の脳裏には先ほどの白い乗用車が焼き付いている。パトカーの追いかける姿……。

 何があったのだろうかと言う疑問と、今の自分が出張る所ではないと言う理性がせめぎ合っていた。

 

「うーん……流石にふらつくし、やめよう」

「部屋まであと少しですよ、先生!」

 

 せめぎ合いの結果は理性が勝ち、アロナに励ましを受けて一歩、また一歩……と歩き出す。

 やがて、いつもの見慣れたアパートの明かりが見えてきた。少しほっとした。酔いが醒めてきたとはいえ、足取りは重い。

 階段を昇り、部屋の前へ。気力を振り絞ってドアノブを捻り、部屋へと入った。何とかドアを閉めた所で、限界を迎えた。

 

「うへー……ヘトヘトだあ」

「ホシノさんの口癖、移っちゃいましたか」

「ホシノじゃないけど疲れると出ちゃうよ、うん」

「せめてベッドで休んでくださいね? 明日はお休みですから、目覚ましは遅めにします」

 

 アロナにタイマーをセットしてもらい、ベッドへと足を運ぶ。

 田中はホシノの口癖をつぶやきながら寝床に入り、倒れこんだ。

 翌朝、筋肉痛と二日酔いで苦しんだ。

 

 その頃、ゲヘナ学園のグラウンドでは乾と紅一が腕立て伏せをしていた。

 ──一、二、三、四……。

 二人の腕立て伏せの間隔がズレることはなかった。やがて三十回を達成し、乾は動きを止めた。

 そしてそのままグラウンドにうつ伏せになる。少し遅れて紅一も腕立てを終えた。二人とも汗はさほど流れてはいない。

 いや、むしろいつもより涼し気にも見えた。息切れの様子もなくお互いに淡々と、朝の日課をこなしていたが、この日は少し、変わっていた。

 

「まあ。朝から精が出ますね」

「ん?」

 

 ふと、後ろから女の声がしたので、乾は腕立て伏せの姿勢をやめて立ち上がった。見るとそこには執務室でよく見る顔が。

 

「火宮。今日は休日だぞ?」

「ええ、存じています。ですが……お二人がグラウンドにいらっしゃるのが見えたので」

 

 火宮チナツが、腕を組んで立っていた。彼女も休日だが、誰かから通報を受けたのだろうか。

 いやしかし、自分達の行動に際して、他者に迷惑をかけるような事は無いはずだし、そもそもヒナからグラウンドの使用許可ももらっている。

 その上で尋問を受ける覚えはないはずだ。となると……。

 乾があれこれと思案を巡らせていると、突然チナツが詰め寄ってきた。なんだと思い一瞬だけ焦るが、何やら彼女は心配している様子であった。

 

「貴方がたのトレーニングを見ていましたが、どこか鬼気迫る様子ですので」

「鬼気迫るって……大げさだろ」

「いえ、今のお二人の表情はいつものそれとは違います。相当集中力を欠いているとしか思えませんから」

 

 見抜かれたか、と乾は頬を搔いた。

 しかし内心はまだ心許なく思っていたのだ。いくら怪我が無いとはいえ、それは訓練を怠る理由にはならない。

 身体能力で劣るなら訓練は必須だ、と乾も紅一も感じていたし、何なら他の特機隊員であっても同様の事を考えただろう。しかし男性二人が訓練する様子は、チナツにとっては不安を抱かせるものだったらしい。

 そういうお年頃か、それとも仕事での関係性によるものか。

 よく人を見ているな、と感心しつつも、ここはプライベートタイムなのできまりの悪い部分を指摘されたので思わず顔に出る乾であった。

 紅一に助け舟を求めようと目で合図を送るが、紅一は腕組みして思案中だ。チナツが再度詰め寄ると、紅一は小さくため息をついた。

 ……何やらこれは面倒なことになりそうだ。

 乾は苦笑するしかなかった。そしてチナツから尋問を受けるという図式に耐えきれなくなり、強引に話題を変えた。するとチナツもそれを察したのか、それ以上追及することはなかった。

 しかし、それでもチナツの不安げな表情は消えていなかった。

 ──これは、少し休んだ方がよさそうだ。

 乾は紅一に目配せすると、グラウンドから近くの水飲み場へと移動し、チナツもそれに続いた。

 

「……水がそのまま飲めるって言うのはいいな」

「確かにそうですね、先輩」

「キヴォトスの外では水も飲めないのですか?」

 

 どこか不思議そうに訊ねるチナツに、紅一が答える。

 世界各地を逃げ回ったことのある彼は、水道水がそのまま飲めることの素晴らしさを説き始めた。チナツはそれを興味深く聞き入り、関心を示す。

 その様子はまるで小さな子供のようだった。そんな微笑ましい光景を見守りつつ、乾は空を見上げる。

 そこには雲一つない青空が広がっていた。

 

「……であるからして、水道水が蛇口からそのまま飲めると言うのは、とてもありがたいことなんだ」

「水道水にもそんな話があるなんて、世界は広いものなんですね」

「そうだ。気をつけにゃあならん。でなきゃ、そこの乾みたいに腹を下すハメになる」

「?! 先輩、その話はしないって……」

 

 いきなり話題に挙げられ、乾は焦った。紅一はしてやったりと満足そうに微笑む。するとチナツは口に手を当て、笑い出した。

 彼女も表情を綻ばせられるんだ、と感心すると共に、それは年相応の振る舞いのようにも思えた。

 子供はやはりしかめ顔より笑顔の方が、いい。

 

 しばらく三人で談笑していると、チナツが何かを思いだしたように手を叩いた。ただ休日に大人の男性二人の様子を見に来ただけではなかったようだ。

 

「特機の件です。天雨行政官が部隊についてどうなっているか、進展を知りたいそうです」

「実は昨晩報告書を上げた。俺たちの意見としては、そろそろ現場への投入がいる」

「行き違いでしょうか?」

「だろうな。乾、確か上げたときには天雨は席を外してたんだったな?」

「はい。夜分遅くなったので、週明けには読めるかと」

「ふむ」

 

 紅一は顎に手を当てた。実のところ、特機隊は編成を終え、先の抗議の一件の際に出動できる程であった。

 しかし、初陣に選ぶにはあまりにもひどい話だし、そもそも使うつもりもなかった。だから、出撃は無かったのだが……。

 その判断が良かったのかもしれない、と考えた。流石に初陣が身内へのクーデターもどきになるのは、よろしくない。反対の状況ならまだしもだ。

 それに今度は失敗しない、と言う紅一なりの意志もあった。

 首都警特機隊創設者であり、大隊長である巽志朗(たつみしろう)から特機隊再興の命を託され、何の偶然か今もこうして生きている。

 自分の為に死んだと思った後輩に再び出会い、彼と同じ飼い主に拾われ、そして奇しくもかつていた古巣と同じことをやれと命ぜられ。

 そうして数多の偶然が重なった結果、今がある。

 

「……どうしました?」

「考えごとをしていた。天雨には先のように伝えてくれ」

「はあ……」

 

 どこか心ここにあらず、と言う様子の紅一にチナツは困惑した。そのおかげか彼女が去った後に微妙な空気が漂っていた。

 身支度を整えながら乾は、昨日の居酒屋での田中とのやり取りを振り返っていた。

 自分たちのいた日本と、田中がいた日本は似て非なるものではないかという疑問が、未だに残っていた。

 仮にその通りだったとして、同じ日本だからと言って同じ結末を迎えるとは到底思えない。考えれば考える程頭を抱えたくなってきたが、この話は一先ずおいておくことにした。

 今は休日だ。余計な事はあまり考えないようにしよう。そう決心する。

 

「先輩、飯でも食いに行きませんか」

「そうだな。何するにも腹ごしらえだ」

 

 乾の誘いに紅一は同意し、二人は街へ繰り出した。はじめは定食屋かレストラン……と考えていたが、歩いている内に駅の近くまで来てしまった。

 いつもの立ち食い蕎麦屋の影が脳裏に映り、二人は同じことを考えていた事に苦笑しながら入場券を購入した。

 

 

 今日は世間一般では休日だが、立ち食い蕎麦屋に休みはない。

 そんな中、黒柴店主はそばをこしらえていた。こしらえる──とは言ってもあらかじめできている麺を湯通しして、乾燥の天ぷらや冷凍のコロッケを使っているので客に出すのは早い。

 だがしかし、ゲヘナ学園で活動しているある部活動のことを考えれば、自殺行為にも等しい。その部活の名前は──美食研究会だ。

 美食研究会、通称美食研はその名の通り美食とは何たるかを研究している。ただ研究するだけならこんな場末の立ち食い蕎麦屋が気にする必要はない。

 問題は美食研の活動中、美食にそぐわないものを出そうものなら店舗ごと爆破してしまうことだ。彼女たちが来た様子はないが、それでも注意は怠らない。

 黒柴店主は洗い場に溜まった食器類を洗う。こうでもしないと、後が大変だ。

 ──ここもいずれ爆破されるのだろうか。

 そんな事を考えながらも手を動かし続ける。すると、来店を告げる鈴の音が鳴った。客だ。黒柴店主は皿を洗う手を止め、準備に取りかかった。

 

「らっしゃい!」

「よう大将、景気はいいかい?」

「都々目のダンナと乾さんか。ぼちぼちってとこだな」

「はい、食券ね」

「あいよ、すぐ作りまさあね」

 

 黒柴店主は食券を受け取ると、手早く調理を始めた。

 この二人組は最近常連になってきている。理由はよくわからないが、おそらくキヴォトス特有の人口比率にあるのだろう、と黒柴店主は考えた。

 

「天玉そば大盛、へいお待ち!」

「きたきた、こいつだ!」

「本当に天玉好きなんですね……」

 

 天玉そばの大盛を二人前こしらえては、二人の前に差し出す。

 この二人組の内、片方は天玉そばが大好物なのか来るたびに注文する。本当に天玉だけが好きなのかわからないが、とにかく好物のようだ。

 そしてもう一人は。こちらは……気分で変えているのだろう。まあ、その気持ちは分からないでもない。そう思いながら黒柴店主は、追加の注文に備えた。

 彼女が現れたのは、そんな時だった。

 高笑いとともに、だぼだぼの白衣を着た少女が店の中に飛び込んできた。突然の出来事に乾も紅一も箸を止め、呆然としていた。

 彼女は食券を買うと、黒柴店主の前に食券を置いた。

 

「かけそばを頼む」

「あいよ、かけね!」

 

 黒柴店主が調理に取りかかる中、乾も紅一も目を見張った。

 そもそもこの時間帯に客が来ること自体が珍しい上に、この少女は明らかに風格が違ったからだ。どことなく、カリスマ性を感じさせる。小柄だが、かえってそれが引き立てるのだ。

 店主がネギをトングで掴み、どんぶりに入れようとした所で少女が声をかける。

 

「待った。ネギ抜きだ」

「へえ……」

 

 加えて注文の内容に二人は耳を疑った。食券こそ買ってはいれど、かけそばを受け取る直前でネギ抜きにする事は本来ならあり得ない。

 ほどなくして、少女はかけそばを受け取ると備え付けの七味──店主のこだわりなのか、ゆず七味唐辛子だ──を七回程振りかけた。

 七回も振るあたり、単に辛いのが好きなのか、何らかのゲン担ぎか、はたまた符丁なのか……。

 とにかくわからないが、かけそばに七味を七回振って、その見た目に反する豪快な食いっぷりを披露した。まるでそばを飲み物か何かのように一気にすすり、一気に飲み干した。

 それでも奇妙な事に、不快感は感じさせなかった。むしろ爽快感すら与えてくる。食べ終えた少女はごちそうさま、と一言述べると、食器を返却口に返して去っていった。

 

「あの子、まるで立喰師でしたね……先輩?」

「乾、休暇を返上するハメになるかもしれんぞ」

 

 一通り見ていた二人だが、紅一がふと何かを思い出し、真剣そうな表情で呟く。その一言で乾は察したのか、顔を引きつらせる。

 紅一の休暇返上発言、つまりそれは……。

 

 ──風紀委員会本部より風紀委員各員へ伝達。

 ──本日未明、拘留中の温泉開発部部長・鬼怒川カスミが脱走した事が確認された。

 ──対象は現在も逃亡中。巡回中の各員は厳重警戒に当たれ。繰り返す……。

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