箱舟に迷い込んだ犬   作:B=s

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短めです


箱舟に迷い込んだ犬-27

 翌日。アコは書類の束を抱えて、ヒナがいる執務室を訪れた。

 いつもの通りにノックをすると、くぐもった声が返ってくる。扉を開くと、そこにはヒナが書類の山に埋もれていた。

 いつも見る光景だ。ただ、いつもよりは書類の山は高くない。アコはその書類の山よりも前に、抱えていた書類を置いた。

 

「ヒナ委員長、こちらの書類の承認をお願いします」

「わかった」

 

 二人のやり取りは実に端的でかつ単純だが、それで十分だった。効率的に処理を行うならば、余計な感情を挟まず職務を全うするのがベストだ。

 アコの提出した書類をヒナは確認すると、あっさり承認の印を押す。あとはこの書類を資料室に置くだけだ。

 ひと通り行ったヒナは、再び目の前の書類に集中し始めた。同じ様にアコも手すきの風紀委員に書類を渡すと、自身で決裁できる書類仕事に入った。

 部屋には筆が走る音と、時折書類を捲る音だけが聞こえる。いつもなら何かしらトラブルが起こって、その処理に追われている所だが、今日は比較的平穏だ。

 

「アコ、昨日確保した美食研の方はどうなってるの? またバリカンで丸刈りになんてないでしょうね?」

「いえ、問題ありません。今頃はイオリさんの取り調べを受けているでしょう」

「そう……」

 

 ヒナは筆を止めると、背もたれに寄りかかった。アコはそんな様子を一瞥すると、席を立った。息抜きが必要だろう。給湯室に向かうと、コーヒーメーカーに豆と水をセットしてスイッチをオン。

 

「これを、こうして……と。うん、間違いないですね」

 

 しばらくして、部屋にコーヒーの芳しい香りが漂いだす。アコはコーヒーカップとソーサーを二つ用意すると、一つには砂糖とミルクをたっぷり入れて、もう一つには何も入れずにそのまま持って行った。ヒナの前にコーヒーを置くと、彼女は小さく礼を言った。

 そして、アコもまた席についてコーヒーを一口。

 ……うん、悪くない。

 ヒナもコーヒーを一口すすると、ほうとため息をついた。

 

「前より美味しくなった」

 

 ヒナの一言に、アコが目を見張る。

 ここ最近は失敗続きだった。豆と水の配分を間違えたり、淹れたコーヒーが煮詰まって濃すぎたり、逆に薄すぎて眉をひそめたり……。

 この間を除けば、それでも彼女は不味いとは一言も言わず、毎日残さず飲んでくれた。乾の方が美味いと言われてから積み重ねてきた努力が報われた。

 そのことが、何よりも嬉しかった。

 ヒナはコーヒーを飲み干すと、また書類の山に向き直った。

 アコはそんな様子を微笑ましく思いながらも、自分の仕事に戻った。

 

 その一方で、イオリたちは……。

 イオリたちは風紀委員会本部で取り調べを行っていた。眉間にしわを寄せるイオリに対し、ハルナは涼しげな表情で受けている。イオリが何を言ってものらりくらりとかわすのだ。

 その態度にイオリの苛立ちは募るばかり。そんな時、部屋の扉が開く。

 

「よう。銀鏡、少し時間貰うぞ」

「あ、ああ……」

「あら、どちら様ですの?」

 

 現れたのはサングラスをかけた男──紅一だった。紅一はイオリに代わって正面に座ると、ハルナに声をかける。

 

「黒舘ハルナ。お前が、美食研究会のリーダーだな」

「ええ」

「何故あの店を爆破した?」

「それは……言えませんわ」

「何故だ?」

 

 いきなりやって来た男の問いにハルナはしばらく黙り込んでいたが、やがて諦めたかのように小さく息を吐いた。

 

「……もちろん、私たちに非があることは認めます。ですが、あれは必要な行為でしたの」

「必要な行為?」

「あの店は、あろうことか偽物のエビを使っていたのですわ」

「それで爆破したと?」

 

 ハルナは首を縦に振る。それだけではない、と言葉を続けた。

 

「その他にも従業員の対応が悪い、トイレが汚い……等々」

「つまり、粗悪店を排除したと?」

「ええ」

 

 ハルナの言葉に、紅一は彼女の目を見る。嘘やハッタリは言っていない様だが……。

 だが、と紅一は続ける。

 

「やりすぎだ。お前の求める美食とやらは、他者を傷つけるまでか?」

「あの店は、公序良俗に反していましたわ。私刑に等しい行為ではありますが、私どもの目指す美食の供物として尊い犠牲だったのです」

 

 ハルナの確固たる意志を感じる言葉。それに対し紅一は少し考え込んでいたがややあって立ち上がり……。

 

「破壊活動による校則違反。お前たち全員で第一校舎の全トイレ掃除だ」

「あら、意外ですのね?」

「但し、素手でやれ」

「……はい?」

 

 ハルナが素っ頓狂な声を上げ、紅一は淡々と続ける。その内容を壁に寄りかかって聞いていたイオリも驚いた。

 トイレ掃除は業者がやる事が多い。その業者ですらゴム製の手袋を使用し、素手で触りたくない箇所はあらかじめ準備し作業するというのに、素手でやれとはなんとも……。

 だが紅一は大真面目な顔で続ける。バリカンで丸刈りは体罰判定を受けるかもしれないが、トイレ掃除は奉仕活動である。

 一方のハルナはポカンとしたまま動かない。紅一は思いついたかのようにどこからか大きなヤカンと掃除用具を取り出すと、再びハルナの前に置いた。

 せめてそれくらいやってもらおうという事だろう。それを見てハルナは額に手を当て、ため息を漏らした。

 

「……で、トイレ掃除と?」

「そうだ」

「まあ、バリカンよりはいいとは思うけど……」

「連中は逃げられん。逃げれば地の果てまで特機が追うと思えと言ってあるし、新人共の訓練対象にはぴったりだ」

「はあ……」

 

 紅一から報告を聞いたヒナは、呆れる他なかった。確かに奉仕作業は罰としていいが、まさかそこまで大仰にやるとは思わなかった。

 ……まあ美食研究会が大人しく従うかは別として。ヒナはため息をつくと、最後の書類に目を通し始めた。

 

 

 所変わって、ゲヘナ学園第一校舎の女子トイレ。

 なにやら話し声が聞こえる。どうやらハルナと他の美食研究会メンバーが言い争いをしているようだ。

 

「……そもそも素手でやれなんて、聞いた事無いわよ」

「そう? 私は結構やってるよ」

「お前たち、静かにやれ!」

 

 ハルナは生まれ故か、あまり掃除をしたことが無いようだった。

 それに対し、イズミは普段から掃除を欠かさない。普段から自宅の掃除だって自分でやるし、それはトイレとて例外ではない。

 女三人寄れば姦しい、とは言うがまさしくその通りで、おしゃべりしながら奉仕作業を行っては、監視役の特機隊員に注意を受ける程だ。だがそれでも手は止めない。

 少なくとも、手を休めておしゃべりをするよりはマシだろう。美食研究会のメンバーは次々とトイレを綺麗にしていく。

 その様子に様子を見に来たイオリが感心する。

 

「順調で何より」

「今日中には全トイレの掃除が終わります」

「そうか、分かった」

 

 イオリは監視役の特機隊員に礼を言うと、その場を後にした。

 イオリが帰った後、またもハルナたちはおしゃべりしながら作業を続けている。その都度注意を受けながらも、作業の手を止めてはいなかった。

 作業そのものは不慣れなハルナに対し、アカリとジュンコがやはりと言うべきか、慣れた手つきで行うため思いのほか早く進んで行った。

 もっとも、時間が進むのが早く感じるのはそれだけ手慣れている証拠でもあるのだが……。

 潔癖症のきらいがあるアカリはともかく、ジュンコが手早いのは少し不思議だとハルナは思った。実際に聞くと、なんでも小中学校の課程でやらされて以来慣れてしまったらしい。

 そうこうしているとトイレの掃除は終わったようだ。風紀委員が最後の確認をしている。

 

「よし、確かにキレイになったね。もう帰ってもいいよ」

「やった!」

「頼むから、もう悪いことしないでよ。温泉開発部の部長みたいになるかも……って噂があるんだから」

 

 開放を命ぜられた一同は、これで心おきなく帰ることができると安堵した。

 特に慣れないことをしたハルナと、潔癖症のアカリは早くシャワーを浴びたくてたまらなかった。美食研究会の面々は、さっさと去っていく。そんな様子を見て風紀委員はため息をついた。

 念の為再度確認に向かうと、全て綺麗に清掃が終わっていた。ともかく終わった事に変わりはなく、監視の特機隊員に連絡した後、撤収したのだった。

 

「まったく……無茶しすぎです」

「……いたた」

「火傷が軽いからって、何も現場に出ることはないでしょう?」

 

 乾は保健室でチナツに軟膏を塗ってもらっていた。榴弾の爆発に巻き込まれ、左腕に軽い火傷と煤をかぶっただけなのだが。

 乾からすれば放っておいても問題の無いようなものだったが、チナツからすれば大問題だった。負傷しているにも拘らず、無理に現場に出て一暴れ。状況からして、急を要するとは言いがたく、それこそ特機隊員に任せれば済んだようなことだった。

 だが乾は自らの脚で現場に向かい、そして取り押さえた。

 

「銀鏡が危ない所だった」

「だからって、怪我人が出てくるようなことではないんです!」

 

 ちくりとした痛みに顔をしかめながら、乾はチナツの言葉を受け止めていた。だが、その目はどこか遠くを見つめていた。

 チナツはそれに気づいたのか、小さくため息をつくと右手の人差し指を乾の顔に突き付けた。

 

「いいですか。火傷が治るまで出動厳禁です! 委員長には私から言っておきますから!」

「ふむ……」

 

 乾は指を押しのけ考え込んでいると、チナツに包帯を巻くよう求めた。それを聞いてチナツは処置なしか、と半ば諦めた様子で乾の腕へきつめに包帯を巻き始めた。

 そのせいか、乾が小さくうめき声を上げた。

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