その頃ゲヘナ学園では、乾と紅一が大量の書類と格闘していた。……というのも、理由がある。
特機隊員たちのテスト成績があまり芳しくなかったためだ。激務なのもあるが、前衛第4小隊に至っては他校からの転入組が殆どで、その経歴は人によってまちまちだ。
そしてそんな状況下において、紅一は頭を抱えていた。
──これはまずい。非常にまずい。生徒と言うものは学業が本業だ。本業をおろそかにして何が治安なのだ。
そう考えた紅一たちは、学力向上の為の模試と問題作成に取り組んでいた。
一応、生徒たちに不快感を与えないようにと実施させている模試の内容は、通常のテスト形式である。だがこれが意外に好評だった。
BDによる映像教育が主となるキヴォトスにおいて、実際に成績が向上するかはともかくとして、"先生"と呼べる存在からテストを受けるという経験が出来るからだ。しかし問題作成に関しては、そうはいかない。出題者の意図もあるし、ある程度の知識を有さなければいけない。
教官など柄ではないと常日頃言っている紅一も、こればかりは頑張らなければいけなかった。
「こんな時、田中に話が聞けたらなあ」
「無理もないですよ。あの人、確か出張中だって聞いてますし」
「出張じゃなあ……」
問題作成を一段落させた二人は、少し遅い昼めしを摂りながら、他愛もない話をしていた。
最近親交を深めつつある、D.U.の知人の話だ。聞けば先週から、出張に出ているのだという。何でもトリニティ総合学園側から依頼があったとのこと。詳しい内容は知らないが、シャーレと言う組織の性質からしてもおかしなことはない。
ただ、先に依頼をかけておけば問題作成も多少は楽になったのかもしれないが……。
「まあ、ベストを尽くさないとな」
「多少は効果があるといいのですが……時間か」
「予定か? そういや、散髪に行くんだったな」
「ええ」
二人はそこで会話を切り上げ、席を立った。紅一は生徒たちの実技訓練、乾は散髪の予定があった為だ。
乾がここへ来て一か月以上が過ぎたのもあって、大分髪が伸びてきた。最悪、自分で角刈り程度にはできなくはないが理髪店の方がきれいに出来る。女子生徒の比が多いキヴォトスならば、その手の類の店がないと言うことはあり得ない。
ぼさぼさに伸びてきた後頭部を掻きながら、乾は廊下を歩いて行った。
紅一はそれを見届けて、踵を返すと準備に取り掛かった。射撃訓練の授業においても、紅一は講師として嘱託されているのだ。
無論、嘱託なのでカリキュラムからある程度逸脱しても罰則が薄い。教師業に関連する資格を有していない以上、用務員を除けばゲヘナ学園が紅一たちに提供できる職だ。無論その気になればパスポートよりも楽な書類偽造など造作もないのだが、しなくて済むのならそれに越したことはない。
教員免許を持たない特機隊員が出来ることとすれば、警察学校仕込みの体育と法教育、それと武術に限られるだろう。ただ恐ろしいのは、どれもこれも実力行使に特化していると言う話なのだが。そうこうして紅一は生徒たちの前に立ち、授業を始めた。
その一方で、ゲヘナ自治区に繰り出した乾は、目的の店を無事に見つけた。良心的な価格で散髪する床屋だ。客層も小さな子供から老人が多いが、中高生の利用は稀にある。
時間帯として人が捌けた後の床屋には、先客が二人いた。1人は白髪頭の犬獣人の少年だ。小学生だが、彼は緊張しており、まさにお小遣いを貯めてきたといった様子だった。
その隣には中学生くらいの猫耳の少女が、散髪用の椅子で船を漕いでいた。待合室には家族か、または友達か。2人の少女が並んで座っている。乾はロボットの店員に呼ばれて空いている椅子に座ると、散髪が始まった。
乾は店員の巧みな技術に感心しつつ、散髪が終わるのを待っていた。ふと視線を横に向けると、猫獣人の少女も、ちょうど目が覚めたようで目をこすっていた。その少女は猫耳をぴくぴくと動かし、くあ、とあくびをすると付き添いとともに店を出て行った。
それから五分ほどして、犬獣人の少年も散髪を終えて店を出て行った。乾は、勘定を済ませて店を出ると帰路につこうとした。
そんな彼の背中に大きな声がかかった。
「おーい、乾ー!」
「銀鏡か。どうした?」
イオリだった。彼女は自治区内のパトロールをしていたらしい。
「パトロールが終わって学校に帰る途中だ。そっちこそそんなとこで何してるんだ?」
「散髪に行っていたんだ」
乾はイオリに説明すると、納得した表情をした。
最近、乾の髪の毛がぼさぼさに伸びてきているのは彼女もわかっていたからだ。イオリは髪の毛がすっきりした乾の姿を見て褒める。
そのまま帰り道につこうとした二人に、再び声がかかる。今度はチナツだ。
彼女もまた、風紀委員を連れては校外のパトロールをしていたらしく、学校に帰る途中なのだという。どうせなので皆で帰ることにした。風紀委員たちの中には、乾との接点が無いものもいたためか、所々好奇心の混じった目線を向けられているのを乾は感じた。
風紀委員たちが他愛ない会話を繰り広げる中、乾は黙して聞きに徹した。化粧品やら、学業に関する話題やら様々だ。乾には何がなんだかわからないのもあってか、話題に入ることはない。
雑談がてら、さりげなくチナツが話題を提供してくれるので助かった。話によると、風紀委員たちは休み中も訓練やら何やらで忙しいらしい。乾としては、一般の風紀委員たちがどのくらいの練度を有しているのかが気になった。
「それじゃ、また明日」
「お疲れ様でした!」
風紀委員たちと別れ、イオリとも別れると、乾は部屋へ戻った。紅一はまだ戻っておらず、自由時間とも言えた。何はともあれ、乾は掃除でもするかと思いロッカーの扉に手を付けた。
「ただいま」
誰もいない部屋に、イオリの声だけが木霊する。部屋の電気を点けて制服の上着を脱ぎ、ハンガーにかけるとそのままベッドに倒れこんだ。
──今日はずいぶんと忙しかった。
今日は一日中、チナツと手分けして自治区内のパトロールをしていたのだが、風紀委員がパトロールしているのを見かけると、生徒たちは道を開けてくれる。
しかし、中にはそれをよく思わない生徒もいるのだ。イオリがパトロールをしていると、風紀委員が巡回中だとわかるや否や突っかかってきたのだ。
──風紀の犬っころが何のようだ!
虚勢を交えたその物言いは、まさに青臭い青春の1ページと言えよう。イオリは相手が何かしらの校則違反をしていると見て、風紀委員として咎めた。その生徒は怒鳴り声をあげてイオリに攻撃を加えようとした。
だが、イオリは動じることなく相手の攻撃を防ぐと、一瞬のうちに制圧した。そして、イオリは風紀委員の詰め所まで生徒を引き摺って行ったのだ。
そんなこともありつつ、乾と合流したわけだ。いつものことだが、とても疲れた。
「何かあったかな……」
疲れた体を起こし、冷蔵庫の扉を開ける。何か残っていたかと思い開いた冷蔵庫は、もぬけの殻だった。どうやら昨日、使いきってしまっていたようだ。
仕方がないとイオリは財布と<クラックショット>を持って部屋を出ようとした。その瞬間、目の前に白い封筒が落ちてきた。
「うん?」
足元に落ちたそれを拾い上げたイオリは首をかしげた。
そして封を開けようとしたところで、TVドラマで見た持ち主不明の手紙を開けようとして爆破されるシーンが頭をよぎり、その手を止めた。
罠かもしれないと思ったイオリは部屋に戻り、ベッドに腰かけると封筒を注視する。それにしても宛名も書いていなければ送り主の名前も見当たらない。……とはいえ、他に何が入っているのか不明なこの封筒に、手を出すのは勇気がいる。
しかし、開けてみなければ何もわからない。
「どうしよう。アコちゃんは違うし、委員長は忙しいだろうし……」
腕を組んで考えてみるも、いい案が浮かばない。そもそも差出人が誰かさえもわからないのだ。下手に誰かを巻き込むのはよくない気がする。どうしたものかと悩んでいたイオリは、ふと思い出す。
乾のことだ。彼ならばこうした物にも理解があるに違いない。そうと決まれば早いものだ。早速イオリはスマートフォンを操作し、乾の番号をタップした。
コール音が5回ほど鳴った後に乾が通話に出た。
『銀鏡、どうした?』
「部屋に帰ってきたんだが、変な手紙が来たんだ。差出人の名前も無いし……」
『その手紙はどうしている?』
「手にはしたけど、封は切っていない」
手紙を慎重に置いてから、イオリは乾の質問に答えた。乾はイオリに、その手紙の中身が何かわかるか尋ねた。
イオリは少し考えてから、わからないと答えた。
乾はイオリに、封筒を破かずに中身を確認するように指示した。イオリは乾の指示に従い、封筒の封を開けずに中身を確認することにした。
「ええと、こう言った場合は……」
まず、封筒に爆発物がないかを確認する。
イオリは封筒を鼻に近づけて臭いを嗅いでみた。紙の匂いは嗅ぎ分けることができなかったが、少なくとも封筒には爆発物らしき異臭はない。次にイオリは封筒を破かないように注意しながら、中身を取り出した。
すると一枚の手紙が滑り落ちた。
「手紙か。どれどれ?」
イオリは手紙を取り出して、内容を確認していく。宛先人不明の手紙の中身は筆で書かれたものらしく、実に達筆であることがわかった。さてはて肝心の中身は、イオリに来てほしいというものだ。
丁寧な筆致で、日時と時間、場所だけが書かれている。
「明日の夜、ゲヘナ自治区第2操車場で待つ……?」
『何かわかったのか?』
「待ち合わせ場所みたいだ。だけどこれは……」
『銀鏡、今玄関の前まで来た。鍵を開けてくれないか?』
「わ、わかった!」
通話を終えたイオリは、玄関の鍵を開けた。乾と紅一がイオリの家に到着した。白い手袋をはめた乾は玄関に上がると、早速封筒をチェックした。
やはりイオリの想像通り、封筒からは異臭はしない。乾は封筒に極力触らず、中身だけ確認していく。そして手紙の内容を見ていくうちに、紅一が口を開いた。
「乾、ここ見てみろ」
「狐……でしょうか?」
紅一が指差す先には、何やら刻印のような物が押されていた。狐の顔らしき文様だ。
それを見て紅一はイオリに封筒を返した。イオリは封筒を手に取ると、刻印をまじまじと見つめた。
「なんてことだ。これは……」
「銀鏡、大丈夫か?」
「二人とも、差出人がわかった。災厄の狐──狐坂ワカモだ!」
「何だって?!」
手紙の差出人は狐坂ワカモ──脱走した七囚人が一人、"災厄の狐"からの果たし状だった……。