箱舟に迷い込んだ犬   作:B=s

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箱舟に迷い込んだ犬-34

 学校が休みの日の朝、徹夜明けのヒナは仮眠を摂っていた。

 ここ最近は、うなされる事も無くぐっすりだ。しかし、それはあくまで日頃の寝不足が原因であって、疲労が限界に達した今のような状況においては、眠りを浅くしているにすぎなかった。

 ヒナは自室のベッドで毛布に包まりながら、ゆっくりと瞼を開いた。目の前の光景を見て、いつもの部屋だと認識すると同時に、自分がまだ夢の中にいるのではないかと錯覚する。

 実に不思議な夢を見たからだ。

 

(夢の中でピアノを弾いていたけど、あれは何と言う曲だったのかしら……)

 

 コンサートホールの様な場所で、紫色のドレスを着てピアノを弾いている夢だ。それは、不思議な感覚だった。夢の中では、それが当たり前の様に感じていた。だが今振り返ってみれば、記憶にない曲を楽譜も無しに演奏できたのは、些か不自然だった。

 けれども、ヒナはそこまで気にしていない。むしろ、あの夢のおかげで音楽に対するモチベーションが上がっていた。早速ピアノを弾いてみたくなる気持ちを抑えつつ、ヒナはゆっくりと身体を起こす。

 そこからはいつもの日常のルーチンだ。着替えて、顔を洗って、遅い朝食を食べて。そしてまた、いつもの日常に戻る。

 着替えと愛銃の整備を終えたヒナは、部屋を出て、学園に行くことにした。休日でも保健室登校や定時制の夜間登校組がいるため、ゲヘナ学園は開いている。

 執務室にたどり着けば、どういう訳か閑散とした部屋がそこにあった。いつもいるはずの乾もいなければ、風紀委員会の他の仲間もいない。

 いくら休日とはいえ、ここまで人がいないのは珍しい。皆どこかに出かけたのだろうか? そう考えつつ、ヒナは軽く部屋の中を見渡した後、残してしまった書類仕事に手を付けた。

 

「…………」

 

 それから二時間が経っても、誰も戻っては来なかった。書類仕事を終え、溜まったメールを確認し終えた頃には、もう昼前になっている。

 ふと、ヒナの視界にピアノが入った。ピアノの前まで行くと、ヒナはそっと鍵盤蓋を持ち上げた。

 そこには、埃ひとつ無い綺麗な鍵盤が並んでいた。ヒナは軽く息を吸うと、ゆっくりと指を下ろしていく。

 そして、最初の一音を鳴らした。

 その瞬間、彼女の中に何かが流れ込んできた。それはまるで、夢の再現の様だった。同じで、それでいて別のような旋律が流れていく。鍵盤を弾く度に、ヒナは夢で見た感覚を思い出す。

 そしてそれは、次第に鮮明になっていく。

 まるで、自分の指が自分の物ではなくなったかのようであり、しかし同時に自分自身がピアノと一体化したかのような感覚だ。矛盾をはらんでいるようだが、ヒナはそれが心地よかった。そして、最後の一音を弾き終わり、ヒナは大きく息を吐いた。

 

「……何だか、気分が良い」

 

 それは今までにない経験だった。

 聴いただけで楽譜が無ければ演奏と言うものはたどたどしく、それ故に演奏とは呼べないものが起こるはずだ。しかしヒナが実体験したのは、夢の追体験──あるいは、夢の再現──とも呼べるものだった。

 ヒナは、ピアノを弾けたことに喜びと感動を覚えつつ、同時に不安にも駆られていた。この感覚は、一体なんなのか。そして、それは自分に何をもたらすのか。

 その答えはまだ分からない。しかしそれでも、ヒナは確信していた。

 ──悪いものではない。

 そう、確信していた。満足した表情で鍵盤蓋を閉め、立ち上がったヒナは拍手を受けた。慌ててその方向を見ると、そこにはアコがいた。感動したのか、その目には涙が浮かんでいた。

 だが、ヒナはそれどころではなかった。なぜアコがここにいて、自分は何をやっていたのか──それら全てが脳内を駆け巡っていたのだ。慌てていると、アコが話しかけてきた。

 

「素晴らしい演奏でした、委員長!」

「アコ……あなた、いつからそこに?」

「え? ついさっきですよ。それで、委員長がピアノを弾いてるのを見てたんです」

「そう……」

 

 ヒナは内心安堵しつつ、アコに尋ねた。

 

「ところで、他のみんなは?」

「はい、今日は私一人です」

「そう……」

 

 そこへ扉が開き、流汗淋漓とした様子の紅一が入って来た。首タオルにランニングシャツ、裾捲りのズボンと、だらしないような、しかしそれでも爽やかに見えるような恰好だった。

 

「いやー、久々にいい汗かいた!」

「あら、紅一」

「ちょっと、都々目さん?! 女子の前でそんな恰好しないでいただけます?!」

「すまん、ちょっと体に活を入れたくなってな。すぐ着替えるさ」

「はあ……あなたって人は……」

 

 赤面したアコは紅一にタオルを投げ渡しつつ、呆れた様子で言う。しかし、その表情にはどこか親しみがあった。

 その一方で、ヒナは紅一の肌を見た。……細身ではあるが、凄い筋肉だ。まるで鋼のよう。ヒナは、紅一の筋肉に見惚れていた。その視線を察してか、紅一が話しかけてきた。

 

「おい空崎、お前どうしたんだ?」

「あ、うん。何でもないわ」

「……?」

 

 紅一は不思議そうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。

 紅一の筋肉をもっと見ていたかったが、彼はアコに促されて更衣室へと半ば押し込まれるかのように入っていった。ヒナはその背中を見ながら、他の男性陣ももしかしたら同じように凄いのだろうか、とふと考えた。

 特にシャーレの先生、彼の肉体はどうなっているのだろうか。想像してみるが、そのビジョンは浮かんでこない。しかし、一度は見てみたいと思うヒナであった。

 

§

 

 アコは、年甲斐もなくおバカなことをしていた紅一を更衣室へ放り込むと、その扉をバタンと閉めた。そして、くるりと振り返ると、扉越しに聞こえるよう叫んだ。

 

「早く着替えて下さいね! 風紀を乱されては困りますから!!」

「ああ、すまないな」

 

 アコは紅一の返事に満足したのか一息ついた後、再びヒナの方に向き直った。

 

「それで、委員長。さっきのピアノなんですが」

「え? ええ……どうかしたの?」

「もう一度、演奏して頂けないでしょうか?」

「うーん……できるかしら?」

 

 いつになく、困惑した表情を見せるヒナ。しかしアコはそれに構わず、言葉を続けた。

 

「どうされたので?」

「アコ。実はね……身体が勝手に動いたのよ」

「えっ?! 無意識のうちに……と言うことですか?」

「そう。夢で聴いたから弾けたけど、楽譜が無いのよ」

「不思議なこともあるんですね……」

 

 アコは感心した様子だった。ヒナは腕を組み、目を閉じて考える。ピアノが演奏できたことには不思議だったが、問題はそこではない。夢の中で聴いたメロディーを再現できる訳が無いからだ。

 何故できたのか、どうやって実現したのか。考えても答えは出ない。それどころか、逆に疑問が増えるばかりだった。

 だがヒナには気になることがあった。あの夢で見た光景は一体何なのか。そこをもう少し、掘り返してみよう。たしか夢の中では、コンサートホールのような場所でピアノを弾いていた。

 冷静に思い返せば自分の他にも、何人かいたような……。

 

「アコ」

「はい、なんでしょうか」

「あなた、確かバイオリンか何か、弾いてなかったかしら?」

 

 そう聞くと、アコは驚いたような表情を見せた後、少し恥ずかしそうに答えた。

 

§

 

 夢は嘘をつかなかった。アコが奏でる楽器の旋律は、確かにヒナが夢の中で聴いたそれと同じだったのだ。

 アコの演奏に聴き惚れていたヒナは、ふとあることを思いついた。

 

「アコ、ちょっと付き合ってもらえる?」

「い、委員長! 付き合うって、その……」

「……単に、ピアノの演奏に付き合ってほしいのだけど」

「え、ええ! もちろんですとも!」

 

 ヒナの言葉にアコは赤面しながらも、嬉しそうに返事をした。ヒナは、アコの楽器の演奏を聴いてから、あることを思いついたのだ。

 それは、夢の再現である。夢の中で聴いたあの演奏を再現できないかと、ヒナは考えていたのだ。そのためにはまず、自分の弾く曲が必要になる。しかし、夢の中で聴いたものは曖昧だ。 

 ヒナは、自分の見た夢が一体何なのかを探りながら、鍵盤を叩くことにした。まず手始めに、特徴的だった一節を、力強く奏でる。その音は執務室に響き渡り、その残響が完全に消えたところで一旦演奏をやめた。

 何回か繰り返したところで、アコが即興で弾き初めたのだ。その音は狂いもなく、まさしく夢で聴いた旋律だった。ヒナは驚きつつ、すぐさま演奏に加わった。

 二人の奏でる音色が混じりあい、調和する。それはまさに、夢の続きのような光景だった。まるで、魂が一つになったかのような一体感を感じていた。

 そして、ついに演奏が終わる。

 

「即興とはいえ、素晴らしい演奏だったわ」

「そ、そんな! 委員長こそ、素晴らしい演奏でした!」

 

 ヒナの言葉に、アコが慌てながら返した。それから、二人は笑いあった。すると、着替え終わった紅一が更衣室の外に出てきた。

 

「いい演奏だったぞ、二人とも。……ところで、今の曲は?」

「それは内緒です」

「ええ、二人だけの秘密ね」

「むう……」

 

 紅一は二人の返答を聞いて、少しだけムッとした表情を浮かべたが、すぐにいつもの調子に戻ってこう言った。

 

「まあいい。しかし空崎。俺はてっきり、お前がピアノを弾けないと思っててな」

「どうして?」

「触ろうともしてなかっただろう」

「練習してたのよ。面倒だったけど」

 

 ヒナの言葉に、紅一は意外そうな表情をした。

 ヒナは、ピアノを弾くことを面倒がっていた。それは彼女の性格に依るところも大きいが、そもそも彼女は音楽に対してそこまで興味を持ってはいなかったのだ。

 しかし、今は違う。風紀委員会に入る前から初めたことだが、今ではすっかりピアノの魅力に取りつかれてしまっていた。

 ヒナは、自分の演奏を聴いてくれる人のために、そして自分が楽しむためにピアノを弾くようになっていた。

 ヒナは紅一に、アコのバイオリンとのセッションが楽しかったことを伝えた。それを聞いた紅一は嬉しそうに笑った後、ヒナにこう言った。

 

「なにもないよりはいい。仕事ばかりでバカになるよりはな。お前たちはまだ子供だ」

「でも……」

「でも、じゃない。政治だの何だのは、本来大人(俺たち)がやることだ。お前たちは、子供らしく遊んでいればいい」

「そう……かしら」

「ああ、そうだとも」

 

 紅一の言葉に、アコが賛同する。

 

「私もそう思います。委員長は、もっと私たちを頼ってください!」

「ありがとう、二人とも」

 

 ヒナは、アコと紅一の気遣いに感謝した。

 

「……さて、先ほど連絡が来てな。俺はこれからミレニアムに行かにゃいかん。白石から話があるそうだ」

「ミレニアムに?」

「ああ。92式についての話らしい。天雨と車を借りるぞ」

「ち、ちょっと都々目さん?! ……もうっ!」

 

 92式──プロテクトギアについての話らしく、紅一の言葉にヒナは眉を少しだけ動かした。紅一はヒナたちの反応など気にせずに、そのまま車庫へと向かう。

 それに慌てて追いすがるアコを尻目に、ヒナは思い出したかのようにため息をついた。

 

§

 

 時同じくして、ゲヘナ自治区の自然公園で。

 乾は芝生に寝転がり、空を眺めていた。空は晴々として、とても澄んでいた。しかしそれを見る乾は、なぜか心の中につっかかるものを感じていた。

 

「ふーむ……」

 

 乾は、なぜ自分がここまで晴れない気持ちになるのか、その原因を突き止めようとしていた。しばらく考えても答えは出ない。どうしたものか、と乾は頭を抱えた。

 空模様は変わらず、澄んだ青だ。かつて居た首都とは似ても似つかない。あっちは澱んでて、こっちは清々しい、と乾は一人呟いた。そして、また空を見上げる。

 空を見ていると落ち着くのは、昔からの癖だ。だが今はその心持ちも違う。何か、引っかかるものがある。そうこうしている内に、いつの間にか日が傾き始めていた。

 そろそろ帰ろうか、と立ち上がった時、彼を呼ぶ声が聞こえた。

 

「おーい、乾!」

「銀鏡か。どうした?」

「このあたりで休んでる、って聞いてな!」

 

 声の方に振り向くと、見知った銀髪──イオリが手を振っていた。

 彼女もオフらしく、私服姿だ。乾はむくりと起き上がると、イオリに向き直る。彼女は乾の隣まで来ると、同じように芝生に座った。

 

「何か考えごとか?」

「ああ。少しな」

 

 どこか上の空な様子で答える乾に、イオリは首をかしげた。しばらく沈黙が続くが、やがて乾は口を開いた。

 

「なあ、銀鏡」

「なんだ?」

「……最近、気が晴れないんだ」

 

 乾はそう呟くと、ため息をついた。それを聞いたイオリが眉をひそめる。彼女はちらりと辺りを見渡すと、声を潜めつつ聞いた。

 

「そりゃどうして?」

「ここは、子供の街だ。俺たちみたいな余所から来た大人が何をすべきか、考えさせられてな……」

 

 そう言って再びため息をつく乾。それを聞いたイオリは腕を組みつつ空を見上げた。

 

「……あんたも、色々考えてるんだな」

「当然だろう? そうでなきゃ、やってられない」

「…………」

 

 そんな話をしている内に日が暮れてきたようだ。乾は、次第に自分の中の感情が整理されていくことに気がついた。軽く背伸びをすると、体を動かした。

 

「つまらない話をしてしまったな。銀鏡、めしでも食いに行くか」

「ああ。割り勘で頼むよ」

「バカ言うな。俺が出すさ」

「ちぇっ……」

 

 年長者としての意地か、乾はイオリにそう宣言し、立ち上がった。

 長身ゆえの広い歩幅で歩き出す乾に、イオリは慌ててついていく。そして、二人は並んで歩き出した。




 ──気が付けば、投稿を始めてから1年──。
 ヒナが聴いて、演奏したのは「紅い眼鏡」のメインテーマ。この曲はピアノが印象的です。
 動画サイト等で調べれば、どのような曲かはわかるでしょう。
 これからものんびりと更新していきます。
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