箱舟に迷い込んだ犬   作:B=s

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箱舟に迷い込んだ犬-39

 その頃、ゲヘナ学園では紅一がイオリと共に休憩していた。

 多忙なゲヘナ学園風紀委員会ではあるが、特機隊の活動により風紀委員にも余暇時間が生まれていた。何もない時間が少ない為、イオリは自分の席で伸び伸びと背を伸ばしていた。ヒナから留守を任されてはいるが、こうも暇な時間があるのは好ましい。

 何より、校則違反者が少ないこととも取れる。紅一もため込んでしまった書類仕事にカタをつけ、一息ついていたところだった。

 イオリは紅一に向き直ると、少し遠慮がちに口を開いた。

 

「その……少し、聞きたいことがあるんだが」

「うん?」

 

 その口調から察するに、何か聞きたいことがあるらしい。紅一は書類から視線を上げると、イオリの方を見た。そしてそのまま無言で続きを促すと、イオリはおずおずと切り出した。

 それは以前から気になっていたことだった。イオリは、紅一のことが不思議でならないのである。確かに彼は乾の先輩として聞いてはいるが、それでも様々な意味において紅一の有りようが異質であることには変わりない。

 何故ならば彼は、特機隊の教官という立場にある人間であるにも関わらず、他の風紀委員会の面々とは異なるのだ。単純に戦闘力であったり、そう言った意味合いだけではない。

 もっとこう、何か別のベクトルの気がするのだ。しかしそれを直接聞くのは躊躇われたため、こうして遠回しな聞き方をするしかなかったのである。

 そして今、ようやく機会が訪れたのである。イオリは大きく深呼吸をしてから口を開いたのだった。

 

「どうして、キヴォトスに来たんだ?」

「目上を敬え目上を。……まあ、気が付いたら駅のホームにいたんだ。ゲヘナ学園前だ」

「ゲヘナ学園前駅の、ホーム?」

 

 イオリは首を傾げ、その様子を見た紅一は小さくため息を吐いた。そして立ち上がると、窓の外を眺めながらこう言った。

 

「いきなりでな。それ以前に何があったのかはあまり知らん」

「…………」

「俺が前いた所についての話か? 乾から聞いただろ?」

「あ、ああ……」

 

 イオリは、紅一が以前いた世界について聞いたことがあった。しかしそれはあくまで断片的なものであり、あまり深く聞くことはできなかったのだ。だが、今は違う。彼は今目の前にいるのだ。ならばこそ、今こそその話を聞くチャンスだと思ったのだ。

 紅一はイオリの心情を察しつつも、あえて淡々と答えたのだった。そしてそのまま続ける。紅一の口調はどこか投げやりな様子だったが、イオリはそれに気付くことなく話を続けていく。

 イオリは紅一のことが知りたかった。何故彼は、特機隊にいるのか。イオリの疑問に対し、紅一は特に表情を変えるでもなく淡々と答えた。それは時に、他人事のようにさえ聞こえる口調だった。

 

「さあな。犬は誰が主人か、知っているもんだ」

「主人ね……」

「いいか銀鏡、大人の中には様々なものがいる。その中には人に指示されるのが好きな奴、ってのもいるんだ」

「つまり、あなたや乾はそうだと?」

「そうだ」

 

 紅一はそう言うと、次の資料に目を落とした。書面に書かれた情報は、先日の温泉開発部の騒動についてだった。

 鬼怒川カスミへ事情聴取した所、彼女は半狂乱、号泣しながら関与を否定していたらしい。温泉開発部も一枚岩ではないのだろうか、それともメンバーが特殊なのか。

 実働部隊としてカスミの右腕──実は学年では上級生である──下倉メグも関与を否定している辺り、本当に末端なのかも知れない。

 

「温泉開発部の連中も大したもんだ。ゲロらんと来た」

「まさかまたバリカンを?」

「冗談よせ。そう何度も使うか」

「ああ……」

 

 アレは委員長もマジで気にしてたからな、とイオリは呟く。紅一はサングラスを人差し指でくい、と押し上げた。

 

「……まあ、なんだ。俺は俺の仕事を全うするだけだ」

「ところで、サングラスを外さない理由はなんだ?」

「目が悪い。それだけだ」

 

 イオリは紅一がサングラスをかけている理由を尋ねた。

 

「どうにかならないか? ……正直、怖い」

「それは悪かったな」

 

 イオリはそれ以上何も言えなかった。しかし、それでもなお気になることがあるのか、おずおずと口を開いた。

 

「なあ、その……どうして、特機隊にいるんだ? ……あなたなら、ヴァルキューレや連邦生徒会でもやれただろ?」

「あいつに貸しがあるからな」

 

 あいつとは誰を指す言葉なのか、イオリは不思議と理解できた。

 相当大きな貸しであることも。だが、それでもなお疑問が残る。疑問は残るが……。そこへ、チナツと数名の風紀委員がやって来た。

 手にはピッチャーとグラスが載ったトレイ。

 

「都々目さん、イオリ。コーヒーはいかが?」

「助かる。一杯もらおうか」

「かしこまりました」

 

 チナツはそう告げると、氷の入ったグラスにコーヒーを注いでいく。からんからんと、コーヒーが氷に当たる音が鳴り響き、ふわりと香りが漂う。そして最後にシロップを入れようとして。

 

「甘いのは苦手でな。そのままもらえるか?」

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 シロップ抜きのブラックアイスコーヒーを渡したチナツはニコリと笑うと、イオリの方へと向かって行く。

 

「イオリは?」

「私はシロップとミルクも欲しい」

 

 イオリはチナツの問いにそう答えた。チナツは頷くと、再び作業に戻る。ほどなくして、ひんやりと甘いカフェオレが出来上がった。のどを潤すだけではなく、頭脳労働で疲れた脳にはちょうどいい飲み物だろう。

 イオリはちびちびと、グラスの中身を舐めるように飲んだ。どうもコーヒーが濃いらしく、好みの味とは違ったらしい。チナツはそんなイオリの様子を微笑ましく思いながら、もう一つグラスを取り出して氷を入れていく。そしてもう一つはシロップとミルクをたっぷりと入れてからイオリへと渡した。

 その一方で、コーヒーを半分ほど飲んだ紅一が、チナツの<サポートポインター>を見ながら、ふむと呟いた。

 

「C96か。セミオートで使うとは……翠を思い出すな」

「みどり?」

「鷲尾翠。かつての同僚さ。"射的屋の翠"と呼ばれててな、C96での射撃が凄い奴だった」

 

 奇しくも特機隊時代の戦友と同じ銃を扱うチナツに、紅一は懐かしそうに語り始めた。

 

「100m近く離れた奴の頭を狙撃した時には、驚いたもんさ」

「それ、本当ですか?」

「勿論だとも。あいつともう一人で抑えたヤマがあったんだが、その時の主犯を仕留めたのは俺じゃない。あいつだ」

 

 チナツはその話を聞くと、俄かには信じられなかったのか訝しげな顔をしている。

 しかし紅一の話す内容を疑う気にはならなかったようだ。その話を耳にして思い出したのか、イオリが口を開く。

 

「その人も男性なのか?」

「いや、女だ。だがあいつは……何と言うか、可愛いと言うよりは、かっこいいって奴なのかもな」

 

 紅一はそこまで言って、懐から一枚の写真を取り出した。

 三人の男女が、並んで映っている。一人は紅一で、その隣に機関銃を大事そうに抱えた男性が。最後の一人はセミロングカットの女性だ。三人はそれぞれプロテクトギアを着用し、カメラに向かって笑みを浮かべている。

 

「この真ん中の女が翠だ」

「このひとが……」

「ああ。……だが、あいつらは今どこで何をしているのやら」

 

 紅一が写真を見ながら呟く。その口調からはどこか寂し気な感情が感じられた。

 そばで見ていたイオリとチナツは、なんとなく気の利いた台詞が思いつかず何も言えなかった。その間も、紅一の手の中にある写真は少しだけ角が変色して年月を感じさせた。しわもあり、大事に大事に使っていることが窺える。

 紅一は、写真の中の翠を懐かしそうに見ていたが、やがてそれを懐にしまい込んだ。

 

「まあ……この話はここまでだ」

「ああ……」

 

 イオリはそれ以上何も聞かなかった。そして紅一はコーヒーの残りを飲み干すと、再び書類仕事へと戻った。

 

 §

 

 打ち合わせは結局、大いに揉めた。

 やはり許可も何もなしに、部活動を他校の自治区でやったことは相当に大きいことで、初耳だったのかティーパーティー側からも苦言を呈するものが何名かいたのだ。ヒナはその数名が、ナギサの属するフィリウス派閥ではなく、違う派閥──サンクトゥス派閥のものであることを、その会話から感じ取っていた。

 そしてゲヘナとトリニティ、両学の衝突が表面化しつつあったのだ。ナギサもそれを理解しているのだろう、表面上は冷静に対処しているように見せつつも、その内心は穏やかではなかったはずだ。

 結局話し合いは時間切れに終わり、課題を残しながらもヒナたちはゲヘナ学園へと戻ることになった。

 

「……はあ」

「総長、お疲れさまです」

「……そうね、今回の件で色々と想定外のことが起きたから」

 

 帰りの車の中、隣に座った特機隊員から掛けられた言葉に、ヒナはため息交じりに答えた。今回の騒動は、トリニティ総合学園がゲヘナ学園に大きく譲歩せざるを得ないものとなった。それはヒナにとって、あまり歓迎したくはない状況である。

 しかしそれ以上に気になるのは、サンクトゥス派の首長である百合園セイアと、パテル派首長、聖園ミカの姿を見なかった事だ。以前から百合園セイアは入院中との話があるが、一体何で入院しているのかが明らかになっていない。

 そして聖園ミカだ。彼女も今回の打ち合わせへ来る予定であったが、何故か顔を見せなかった。

 何か予定が変わったのか、それとも別の理由があるのか。

 

「まあ、今は考えても仕方がないか……」

「そうですね」

 

 ヒナは特機隊員の言葉に頷くと、背もたれに身を預ける。そしてそのまま目を瞑り、ゆっくりと息を吐き出した。

 

「ねえ」

「なんでしょう?」

「……私は間違っていないわよね?」

「はい、勿論です」

 

 ヒナの問いに、特機隊員は即答した。

 彼女らには今後、条約調印後に稼働する『エデン条約機構』の主戦力になってもらう予定があるのだ。こんなところでつまづいては、いられないのだ。

 ヒナの問いに対し、特機隊員は自信を持って答えた。その答えに、ヒナは少しだけ顔を綻ばせたのだった。

 折を見ていたのか、乾がバックミラー越しにヒナに視線を向けた。

 

「空崎、今回の打ち合わせは上手く行ったのか?」

「半々、って所ね。聞いたかもしれないけど、色々と想定外のことがあったわ」

 

 ヒナがそう言うと、乾も同じ気持ちだったらしく二人で小さくため息を吐いた。

 

「ああ。まさかサンクトゥス派の首長が不在とはな……」

「そうですね」

「まあ、それは仕方がないわ」

「だが、これでトリニティはゲヘナに譲歩せざるを得ないだろう?」

「ええ、そうね。……でも、まだ何かありそう」

 

 ヒナの脳裏には懸念があった。まだトリニティ側の妨害者が特定できていないのだ。

 以前までとは違い、多少はゲヘナにとって良い方向に持って行っているとは言え、今後のことを考えると出来る限り友好的に協力したいと思っているのだが、それは中々難しい。

 ヒナとしてはマコトを縛るための大仕事と見てはいるが、自分がいなくなった後のゲヘナがどうなるのか。それを考えると不安は尽きなかった。

 

「そうだな。……だが、まずは目の前の案件を片付けるしかないだろう」

「そうね」

「ああ」

 

 ヒナと乾、特機隊員は互いに頷き合うと、今後の方針を相談し合う。そして、車はゲヘナ学園へと到着したのだった。

 

 §

 

 ゲヘナ学園の風紀委員本部では、イオリが書類の整理を行っていた。机の上に積まれた処理済みの大量の書類にうんざりしながらも、それらを決められた場所へ移していた。

 

「んしょ……っ。こいつで最後だ」

「ご苦労さん」

「ほらよ。おつかれさん」

「……うん」

「どうした? 何か気になることでもあるのか?」

「いや、何でもない」

 

 イオリは缶ジュースを受け取ると、プルタブを開きそれを一口飲む。喉を潤すその感覚が心地よいのか、表情が少し和らいだように見える。

 そんな彼女を見ながら、紅一はソファに腰掛けた。そして、思い出したかのように呟いた。

 

「そう言えば」

「?」

「天雨の格好のことだが、あいつは恥じらいが無いのか?」

「あー……」

 

 紅一の言葉にイオリは眉間を指で押さえた。

 天雨アコ。彼女は風紀委員会の行政官であり、ヒナの右腕的存在である。しかし、彼女の服装は胸を露出させているような格好で学園内を歩き回っていれば、嫌でも目立つだろう。

 だが当の本人は全く気にしていないようで、いつも通り仕事をしているのだ。

 

「アコちゃんのあれはもう、しょうがないよ」

「そうなのか?」

「うん。アコちゃんはああいうの平気だから」

「そうか」

「うん。それにアコちゃんは結構暑がりなんだ」

「…………」

 

 イオリの言葉に、紅一は思わず絶句してしまった。イオリの言うことが本当であれば、彼女はあの格好を恥ずかしいと思っていないことになる。

 しかし、紅一はそれ以上追求することはなかった。追求したところで答えが出るわけでもないし、何よりイオリの表情から察するにあまり触れて欲しくない話題のようだったからだ。

 

「そう言えばさ」

「ん?」

「そう言う都々目さんも、人のこと言えないんじゃないじゃないか?」

「どういうことだ、そりゃ」

 

 イオリの言葉に紅一は首を傾げる。彼女が何を言いたいのか分からなかったのだ。そんな彼を見て、イオリは苦笑いを浮かべる。

 

「だってさ、都々目さんのジャケットの下の服って、背中開いてるだろ?」

「まあ、そうだが」

「だからさ」

「ああ、なるほど」

 

 紅一はイオリの言葉に納得すると同時に、彼女が言いたいことを理解した。

 確かに自分の着ているワイシャツは前掛けのように背中が大きく開いている。だが、それを気にしたことはなかったし、そもそも男である自分にとってはどうでもいいことだった。

 しかし、それを言われてしまうと少し考えてしまう。

 ──言われてみれば、確かにそうなのかもしれん。

 暑いからと、肌の露出面積を広くするのはある意味当然とも言えるだろう。ただ、その際に露出する肌の部位を気にするかどうかは個人差があると思うのだが。

 

「じゃあ、都々目さんは恥ずかしくないってこと?」

「俺の場合、これが正しい着方なんだぞ?」

「ええ……」

 

 イオリは何か考えているようだったが、やがて首を横に振った。そして改めて紅一に向き直ると口を開いた。

 

「ご馳走さま。……そろそろ、帰って来るんじゃないかな」

「あいつらか。俺はここにいる」

「わかった。私は射撃場に行ってくる」

「ああ」

 

 イオリはそう言って立ち上がると、部屋を出て行った。一人残された紅一は、ソファに座り直すと再び書類を読み始めたのだった。

 




 紅一の特徴的なあのシャツ、実はパーティー用のシャツではないかという話があります。
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