箱舟に迷い込んだ犬   作:B=s

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箱舟に迷い込んだ犬-41

 それから数時間後、ヒナの執務室では。

 

「アコ、この子が?」

「はい。特機隊が取調室で拘束していた人物です」

「特機が拘束? どうして?」

「それが……」

 

 アコが事の顛末を話すと、ヒナは頭を抱えた。

 

「はあ……次から次へと問題が……」

「申し訳ございません」

「いや、いい。……それで、その子はどうしたいの?」

 

 ヒナの問いに、アコは言葉を選びながら答える。

 

「取り調べの結果を報告しますと……この者はゲヘナ生徒を名乗っておりましたが、学籍が定かではありませんでした。しかし本人はゲヘナ生徒だと主張しています」

「ふむ……それで?」

「取り調べの結果、この者の名前は神門ウルと判明しました」

「学籍が定かではない、とは?」

「学生証が偽造された可能性があります。古い書式のもので、今のゲヘナ学園では使われていないもののようです」

「それで特機隊が動いたわけね……」

「はい。ですが……」

「何かあったの?」

「はい……実は彼女、食事を出したら突然泣き出してしまったんです」

 

 ヒナは眉を寄せた。予想外の展開に困惑を隠せない。

 

「泣いた? なぜ?」

「それが……『久しぶりにまともな食事だった』と言っていました」

「まともに食事を摂れない環境の学校があると言うの? レッドウィンター系の学校でも、三食ちゃんと出ると聞いたことがあるわ」

 

 ヒナはアコの報告を受けて、眉をひそめた。

 キヴォトスの中で経済上厳しいのは、レッドウィンターを除けばアビドスぐらいなものだが、アビドスは生徒数の観点から給食制ではなく手弁当にしている、と小鳥遊ホシノから聞いていた。

 ましてやゲヘナ学園は経済的に豊かな方だ。そんな学園の生徒が食事に困窮するような事態は考えにくい。

 アコはためらいがちに口を開いた。

 

「……それと、もう一つ気になることが」

「なに?」

「彼女が持っていた学生証を詳しく調べた所……古い書式のものでした」

「古い……どのくらい?」

「少なくとも、十五年前以上のものです」

 

 ヒナは目を見開いた。十五年以上前の学生証? そんなものが今も使われているなんてありえない。

 

「それは……確かなの?」

「はい。何度も確認しましたが、間違いありません」

 

 ヒナは腕を組み、深く考え込んだ。

 状況はますます複雑になってきた。食事に困窮し、古すぎる学生証を持つ謎の少女。しかもゲヘナ生徒を名乗っている。一体何が起こっているのか。

 

「彼女、今は?」

「今は風紀委員会の留置施設にいます。まだ落ち着かない様子ですが……」

「そう。ありがとう、アコ。引き続き注意深く観察しておいて」

 

 アコが部屋を出て行くと、ヒナは深い溜息をついた。エデン条約を目前に控え、実務者協議も佳境に入ろうとしていた。その矢先でこれだ。全く……次から次へと問題が舞い込んでくる。

 ヒナはデスクに肘をつき、指を組んだ。

 冷静にならなければ。まずは情報を整理する必要がある。まず、神門ウルという少女。彼女は本当にゲヘナ生徒なのか? それとも……。そしてあの古い学生証。誰が作ったのか? なんのために? 

 食事に困窮していたという点も気になる。彼女はどこから来たのか? この少女の背後に何があるのか? 

 ヒナは窓の外を見つめた。キヴォトスの空は青く澄み渡っている。しかし、その下では様々な思惑が渦巻いている。

 エデン条約。ゲヘナとトリニティの百年に及ぶ対立を終わらせるための和平協定。これが成立すれば、キヴォトス全体の安定につながるはずだ。

 しかし、そのためには多くの障害がある。ゲヘナ内部の反対勢力。トリニティ側の疑念。そして……謎の少女。ヒナは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。遠くにゲヘナ学園の留置場が見える。あそこで何かが起きているのか? 

 ヒナは静かに目を閉じた。風が髪をなでる。分からないことだらけだ。でも、一つだけ確かなことがある。この謎を解き明かさなければならない。エデン条約のために。

 

「アコの懸念は当然だけど……まずは彼女と話してみるべきね」

 

 ヒナは小さく呟いた。窓の外には、青い空が広がっている。その空の下で、新たな問題が待っている。しかし、ヒナは怯まない。

 

 §

 

 一方、風紀委員会の留置施設では。

 神門ウルは簡素な椅子に座り、膝の上で両手を握りしめていた。目の前には湯気の立つ温かいスープとパンが置かれている。久々のまともな食事に、涙が止まらなかった。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 看守の生徒が心配そうに声をかける。ウルは慌てて涙を拭った。

 

「すみません……ちょっと安心しただけです」

 

 そう言って笑ってみせるが、その笑顔はどこかぎこちない。看守は少し躊躇した後、口を開いた。

 

「あの……差し支えなければ、教えてくれませんか?」

「え?」

「あなたのことです。何があったのか……どうしてあんな状態だったのか」

 

 ウルは俯いた。言うべきか迷った。信じてもらえるだろうか? でも、誰かに聞いてもらいたかった。誰かに理解してほしかった。

 ウルは俯いたまま、ゆっくりと口を開いた。

 

「実は……私、ゲヘナの生徒じゃないんです」

 

 看守は目を見開いた。

 

「じゃあ、どこの……」

「アリウスから来ました」

「アリウス?」

 

 看守は驚きを隠せない様子だった。キヴォトスには沢山──それこそ星の数ほど学校が存在するのだが──アリウスという名の学校があったことは知らなかった。

 看守はすぐにスマートフォンで検索したが、何もヒットしなかった。

 

「本当に存在するの?」

「今は隠されているから……。でも、確かに存在する」

 

 ウルは静かに答えた。

 

「アリウスは……トリニティの中にある学校なんです」

「トリニティの中に?」

「ええ。トリニティ総合学園は三つの派閥が合わさっていますよね? サンクトゥス、フィリウス、そしてパテル……」

 

 看守は困惑した表情でウルを見つめた。トリニティの三大派閥の名はよく知られているが、そこに隠された学校など聞いたことがない。

 

「その中に……アリウスがあるんです」

 

 ウルは静かに続けた。声には僅かな震えがあったが、嘘をついているようには見えなかった。

 

「アリウスは……トリニティから疎まれています。ずっと昔から」

 

 看守は眉をひそめた。トリニティが抱える闇の一面を垣間見た気がした。

 

「だから……私の学生証は古いんです。表向きには存在しない学校ですから」

 

 ウルは自嘲気味に笑った。その笑顔は痛々しく、どこか諦めを含んでいた。

 

「じゃあ……あなたは……」

 

 看守がさらに問おうとした、その時だった。

 ガチャリ。

 金属製の扉が開く音がした。反射的に振り返った看守の目に映ったのは、ゲヘナ学園風紀委員長・空崎ヒナとその右腕である行政官・天雨アコの姿だった。

 

「失礼するわ」

 

 ヒナの冷静な声が留置施設内に響いた。アコはその後ろに控え、鋭い視線を室内に走らせている。

 

「委員長……!」

 

 看守は慌てて敬礼した。ヒナは軽く頷き、ウルの方へと歩み寄った。

 

「あなたが……神門ウルね」

「はい。……空崎委員長、お初に御目にかかります」

 

 ウルは立ち上がり、深々と頭を下げた。その動きは洗練されており、どこか訓練された者のそれだった。

 

「私はゲヘナ学園風紀委員長、空崎ヒナ。あなたの話を聞きに来たわ」

 

 ヒナは真っ直ぐにウルを見据えた。その瞳は、紫水晶のように輝いている。

 

「あなたは……アリウスから来たと言ったそうね」

 

 ヒナの言葉に、ウルは一瞬体を硬直させた。しかし、すぐに平静を取り戻し、静かに頷いた。

 

「はい。……アリウス分校から参りました」

「アリウス分校……?」

 

 アコが眉をひそめた。彼女は立場上、キヴォトス中の学校について精通しているが、アリウス分校という名は聞いたことがなかった。

 

「私は……アリウス分校の生徒です。主にゲヘナ学園の情報収集を行っていました」

 

 ウルは淡々と語り始めた。その声には感情がなく、まるで機械のようだった。

 ヒナたちはそれを聞いて、一瞬言葉を失った。まさか、アリウス分校という存在が実在するとは。

 全てを鵜呑みにするのは危険だが、一考の価値はあるのかもしれない。しかし、問題は彼女がそれを語る意図だ。

 ヒナは冷静に考えた。アリウス分校の存在を暴露することで、何を得ようとしているのか。また、彼女がなぜ捕まったのか。まだ多くの謎が残されている。

 

「……詳しい話を聞かせてもらうわ」

 

 ヒナはそう言って、ウルに近づいた。アコが危険だと、止めようとするがヒナは制止する。ウルの顔には微かな安堵が浮かんでいた。誰かに自分の境遇を理解してもらえた。それが嬉しかったのかもしれない。

 ヒナは静かにウルの正面に立ち、彼女の瞳をじっと見つめた。

 

「あなたはなぜゲヘナに来たの?」

「……"マダム"の命令です。ゲヘナ学園の内部情報を収集せよ、と」

「どのような情報を?」

「主に……組織構造や戦力配置、弱点などの情報を集めるよう命じられました」

「……そう」

 

 ヒナは静かに目を閉じた。アリウス分校の目的が何であれ、ゲヘナにとって脅威となる可能性は高い。早急に対策を講じる必要があるだろう。

 

「あなたは……マコトと繋がっているの?」

 

 ヒナの問いに、ウルは僅かに眉をひそめた。

 

「彼女とは連絡役に過ぎず、主に情報のやり取りのみを」

「一体、どのような?」

 

 ヒナはこの時点で、嫌な予感を感じ取っていた。

 他校のスパイが生徒会長と釣るんで、一体何をしでかそうと言うのか。そもそも、マコトのことだからロクなことは考えていないだろう。彼女は自分の欲望に忠実で、周りの迷惑を考えないタイプだ。

 今回の件も、きっと何か企んでいるに違いない。

 

「はい。主にゲヘナ学園の内部情報の提供と引き換えに、マコトさんの支援を受ける契約を結んでいました」

「具体的には何を?」

「情報の提供の見返りとして、ゲヘナ学園内への出入りを自由にする事、マコトさんの個人的な要求への協力、その他便宜供与等が含まれています」

 

 ヒナは内心頭を抱えた。

 ──マコトの奴、やたらと拒むような真似をしてると思いきやこんなことをやっていたのか! 

 

「あなたは……一体何をしていたの?」

「私は主にマコトとの連絡役として、彼女の指示に従って行動していました。時には彼女の代わりに交渉を行い、時には彼女の命令で暗躍したりもしました」

 

 ヒナはため息をついた。もう何も驚かない。どうせロクなことじゃないだろうと思っていたが、予想通り最悪の展開だ。エデン条約に関しても、すでにマダムなる存在は知っていて、何かしらの策を講じているのだろう。

 おそらく、エデン条約を利用してトリニティとゲヘナを混乱させ、自身の勢力を拡大しようと目論んでいるに違いない。

 

「他に何か隠していることは?」

「いえ、何もありません」

「本当かしら?」

 

 ヒナは鋭い視線を向けた。ウルは一瞬怯んだが、すぐに毅然とした態度を取り戻した。

 

「本当です。私は嘘をつきません」

「そう。分かったわ」

 

 ヒナはそれ以上追及しなかった。今はこれ以上の情報は得られないだろう。しかし、いつか必ず尻尾を掴んでやる。

 

「さて……これからどうするか」

 

 ヒナは腕を組んで考え込んだ。

 アリウス分校の存在を明らかにしたところで、すぐに解決できる問題ではない。まずは慎重に調査を進め、真相を究明する必要がある。そして、その過程でマコトの企みを暴き出し、阻止しなければならない。

 

「アコ」

「はい、委員長」

「この子の身柄は引き続きこちらで預かるわ。万魔殿にばれないよう、丁重に」

「了解しました」

 

 アコは即座に頷いた。

 

「神門ウル」

 

 ヒナは再びウルに向き直った。

 

「あなたには、まだ聞きたいことがある。しばらくここにいてもらうわ」

「……はい」

 

 ウルは静かに頷いた。その瞳には、僅かな光が宿っていた。

 

 §

 

「な、なんということでしょうか……」

 

 桐藤ナギサは、ある資料を見て慄いた。

 ゲヘナ学園特機隊なる組織についての中間報告──と題されたその書類は、一枚の画像と共に諜報部から提出されたものだ。

 トリニティ総合学園には生徒会組織であるティーパーティー直属の諜報部門があり、長い歴史を持つ。学園創立期からあるらしいそれは、ゲヘナ学園風紀委員会情報部に最近は出し抜かれて落ち目ではあったが、キヴォトスでもトップクラスの諜報能力を誇っている。

 今回ナギサはその組織に依頼を出し、その資料を受け取った形であった。そしてその資料の中には、とんでもないことが書かれていた。

 

「……『特機隊』なる部隊は、ゲヘナ学園風紀委員会に所属し、その規模は確認できるだけで中隊規模。全員がゲヘナ学園最高位の戦力であり、個々人が単独で並の不良を殲滅可能であると推測される……」

 

 ナギサは震える手で資料をめくった。

 ページをめくるごとに、衝撃的な情報が飛び込んでくる。特機隊は風紀委員会直属の特殊部隊であり、その任務は多岐にわたる。ゲヘナ学園内の治安維持を目的とする。

 ただそれだけならば、ゲヘナ学園内での権限を強化する程度の話でしかないのだが、特機隊の真の恐ろしさはそこではない。

 

「……さらに、特機隊は元SRT生──その中でも武闘派路線の者たち──が数多く在籍しており、その能力はSRT譲りのものであると推定される」

 

 ナギサは息を呑んだ。SRT──SRT特殊学園は、行方をくらませた連邦生徒会長の置き土産、または懐刀だ。

 ──ヴァルキューレよりはるかに強い精鋭部隊が、ゲヘナ学園の特殊部隊として編成されている? そんな馬鹿なことがあってたまるか。

 SRT生の大多数はヴァルキューレ警察学校に移籍しているが、一部はゲヘナ学園に転入しているという噂は聞いていた。しかし、まさかこんな形で実現しているとは。

 

「……まさかこんなものが実在するとは……」

 

 ナギサは机に突っ伏した。ゲヘナ学園の底知れぬ力に戦慄する。

 エデン条約は、トリニティとゲヘナの対立を終結させるための協定だ。しかし、それは平和的に行われるものであって、武力による支配ではない。特機隊の存在は、その理念を根底から覆すものだった。

 

「これは……由々しき事態です」

 

 ナギサの手はカップを掴み、激しく震えていた。その波紋は、水面に広がる不安の兆候のようにも見えた。

 

「もし、この特機隊が暴走したら……」

 

 ナギサは頭を抱えた。想像するだけで寒気がする。特機隊の戦力は未知数だが、その潜在能力は計り知れない。

 もし彼女らがゲヘナ学園の意思に反して行動を起こせば、キヴォトス全体が混乱に陥るだろう。

 

「一体、どうすれば……」

 

 ナギサは思考を巡らせた。何か手立てはないか。エデン条約の調印まであとわずか。それまでに、脅威を排除しなければならない。裏切り者は、未だ見つかっていない。

 

「まずは情報を集めましょう」

 

 ナギサは決意した。諜報部に更なる調査を依頼し、特機隊の全容を把握する。その上で、対策を講じるしかない。

 

「それに……」

 

 ナギサはティーカップを置き、窓の外を見つめた。青い空が広がっている。しかしその下では、何かが蠢いている。それが、エデン条約を揺るがそうとしている。

 ナギサは深呼吸をした。怖気づいている暇はない。私はトリニティの代表なのだ。

 

「エデン条約は、必ず成功させる」

 

 ナギサは強く誓った。たとえどんな障害があろうとも、乗り越えてみせる。エデン条約を成功させるため、やるべきことは山積みだ。

 ここ数日眠れていないが、それは些事に過ぎない。裏切り者を探し出し、排除せねばならない。

 

「ナギサ様、お時間です」

「……行きましょう」

 

 ティーパーティーの生徒がナギサに声をかけた。

 ナギサはゆっくりと視線を扉に向け、微かにふらつく足取りで歩き始めた。




 補習授業部のゲヘナ自治区での二次試験について誤解があるようなので。
 一応結果は変わりませんが、そこに至るまでは若干異なります。
 特機隊の活動により、温泉開発部による試験の妨害自体は防がれましたが、大幅な試験範囲の拡大と合格ラインの引き上げに対応できなかったのが本作での顛末です。
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