箱舟に迷い込んだ犬   作:B=s

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箱舟に迷い込んだ犬-43

「皆さん、答案を返却します」

 

 補習授業部の教室。試験の結果は昼過ぎに来た。実際は午前中に出来上がっていたのだが、早朝の試験開始だったのもあってか、先生は受け取りに行くのを忘れていたのだ。

 田中は四人分の答案用紙をテーブルに並べた。ヒフミは緊張した面持ちで自分の答案に手を伸ばす。

 アズサは落ち着いた表情で待ち、ハナコはいつもの穏やかな笑みを浮かべている。コハルは両手を胸の前で組み、祈るように目を閉じていた。

 

「それでは……オープンです♪」

 

 ハナコが楽しげに言うと、四人は一斉に答案を開いた。最初に声を上げたのはコハルだった。

 

「やったー! 合格点だぁ!!」

 

 答案用紙を広げた瞬間、コハルの顔がぱっと輝いた。試験当日からずっと胸につかえていた不安が一気に晴れたのだ。筆記用具を握りしめた手が震えている。

 

「ほんとだ! すごいじゃないか、コハル!」

 

 アズサが興奮気味に声を上げた。彼女自身の答案には「98点」と大きく書かれている。

 転入の都合上、アズサの試験範囲は1年生のそれとさせてもらってはいるが実に見事な点数だ。100点を目指していた彼女だが、それでも十分すぎる成績だった。

 

「私も、95点……良かったです!」

 

 ヒフミはため息と共に胸をなでおろし、答案用紙を丁寧に折りたたんだ。彼女の顔には安堵の表情が広がっている。補習授業部のリーダーとして責任を感じていた分、喜びもひとしおだった。

 ハナコが自分の答案を広げた瞬間、教室の空気が一変した。彼女の答案には堂々と「100点」と記されている。満点だ。

 

「わたしは……100点ですよ〜。やりました♪」

 

 ハナコは満面の笑みを浮かべた。その姿はまるで花が咲いたようだ。

 普段はどこか掴みどころのない彼女だが、今日ばかりは素直な喜びを表現している。周りを見渡すと、ヒフミもアズサもコハルも、それぞれの答案を手に喜び合っている。

 

「皆、本当におめでとう。補習授業部としての任務は果たされたね」

 

 田中は感慨深げに言った。最初は落第寸前の生徒たちだったが、ここ二週間で本当によく頑張った。この結果は、意図的に手を抜いていたハナコを除けば自身の努力の賜物だ。

 

「先生のおかげです!」

 

 ヒフミが感謝の言葉を述べた。その瞳は涙で潤んでいる。彼女にとって、この合格は単なる成績アップ以上の意味を持つものだった。

 補習授業部が結成された当初、ヒフミは不安でいっぱいだった。本当に全員が合格できるのか、自分はリーダーとしての責任を果たせるのか。

 しかし、この二週間の日々は彼女にとってかけがえのない宝物になった。

 

「私たちは最高のチームでしたね〜」

 

 ハナコが微笑みながら言う。彼女の言葉には、確かな自信と友情が込められている。

 ハナコの過去は暗い話が多いが、少なくともこの補習授業部のメンバーとの絆は本物だ。

 アズサもそれに同意した。彼女はいつも冷静沈着だが、今日は珍しく感情を露わにしている。補習授業部での活動は、彼女にとっても大きな意味があった。

 新しい仲間との出会い、共に困難を乗り越える経験。それは彼女の人生において貴重な財産となるだろう。

 

「よーし! 合格祝いに何か美味しいもの食べに行こう!」

「いいですね! 何を食べましょうか?」

 

 ヒフミが嬉しそうに問いかけた。彼女の表情からは、これまでの重圧から解放された安堵感が伝わってくる。

 

「やっぱりお肉かなぁ。お腹空いたし!」

「私は何でもいいですよ〜。皆で食べればきっと美味しいです」

 

 ハナコは穏やかに微笑んだ。卑猥なことを言ったり水着で夜間徘徊など奇行が目立つ彼女だが、こういう時には素直に皆と楽しむことができる。

 

「私も何でもいいぞ。皆で楽しく食べられればそれで十分だ」

「それじゃあ、先生も一緒にどうですか?」

 

 ヒフミが田中に声をかけた。彼女は先生に対して感謝の気持ちを抱いている。田中は少し照れくさそうに笑った。

 

「ありがとう。でも私は遠慮しておくよ。皆で楽しんでおいで」

 

 田中は彼らの成長を間近で見てきた。補習授業部としての任務は果たされたが、まだ仕事は残っている。田中は彼らの未来を信じ、優しく見守ることにした。

 コハルは既に教室の出口に向かって歩き始めている。ヒフミが慌てて後を追った。

 

「ゆっくり行きましょう〜」

 

 ハナコが穏やかに言った。彼女はマイペースで、焦ることなく自分のペースで歩いている。

 

「そうだな。急がなくてもいいだろう」

 

 アズサも同意した。彼女は常に冷静で、周りの状況をよく見ている。

 

「お疲れ様、みんな。行ってらっしゃい」

 

 田中は教室を出ていく四人の後ろ姿を見ながら、田中は穏やかな笑みを浮かべた。

 

 ──これで良かったのだ。

 

 彼は心の中でそう呟いた。

 

「さて、私も次の準備をしないと……」

 

 田中は一番最後に教室を後にした。彼には代務として、出席しないといけない事があったからだ。

 

 §

 

 特機隊員の招集により、ミサイル発射台の捜索を続けた。

 彼女達は街を走り回り、あらゆる場所を調べ尽くした。しかし無情にも時間だけが過ぎていき、発射台は一向に見つからない。彼女は焦りを感じ始めた。

 

「……もう無理ね」

 

 ヒナはついに諦め、撤退することにした。彼女は疲労困憊で帰宅すると、ベッドに倒れ込み、眠りについた。

 翌朝、ヒナは目を覚ますと、すぐにシャワーを浴びた。彼女は服を着替え、髪を整え、鏡の前でメイクをした。

 以前よりは睡眠時間は摂れている──それでも同じ年ごろの少女の平均からは短いが──ので体調は悪くなかった。昨晩の疲れは残っているが、以前よりはマシだ。

 風紀委員長として、その責務を果たさなければならない。朝食を終えると、ヒナはアコに電話をかけた。

 

「おはよう、アコ。状況はどう?」

「おはようございます、委員長。あの後、都々目教官達が調べていましたが、特に何もないようです」

「……そう。ありがとう」

 

 ミサイル発射台の件は気になるが、時間は差し迫っていた。その後、様々な問題に対処した。

 その日の晩遅く、ナギサから手紙が届いた。エデン条約の締結に向けての最終調整をしたいという旨だった。

 手紙には、調印式の日時と場所が記されていた。調印式は7日後の午前九時、トリニティ自治区内の「通効の古聖堂」で行われる。

 ヒナは少し驚いた。事前の申し合わせでは、旧校舎だったのだ。急に場所を変更するとは何かあったのかと疑問に思うも、トリニティはわざわざこの式典の為に大規模な修繕を行ったとの事だ。

 まあ、ここに至るまでの不祥事やそれらに関する弁済もあり、体裁を気にしたのだろう。そう思い直し、深く考えることはしなかった。手紙の続きを読む。

 調印式への出席者はトリニティがフィリウス派の代表の面々、ゲヘナが万魔殿の他、ヒナを始めとした風紀委員会と調印の為に必要な人員のみとなっている。

 双方、首脳陣のスケジュールの問題もあるが、どちらかというと反対派の妨害を懸念しての処置らしい。

 

「アコ」

「はい。何でしょうか?」

「装備を決めたい。紅一たちを呼んで」

 

 ヒナはアコに指示を出し、自身も支度を始めた。しばらくして、アコが紅一と乾を伴って戻ってきた。三人は風紀委員会用の会議室へ向かう。

 

「……それで、装備を決めるって?」

 

 紅一が尋ねた。彼は特機隊員として、様々な装備品に精通している。装備の選定となれば、彼の知識が役に立つはずだ。

 

「ええ。調印式に向けて、最適な装備を選びたいの」

「なるほど。でも、どうして急に?」

「あちらから手紙が届いたの。場所が旧校舎から古聖堂に変更されたわ」

「古聖堂?」

 

 乾が首を傾げた。

 

「ええ、トリニティ自治区内の古い教会よ。あそこは広くて、儀式には最適な場所だけど……」

 

 ヒナは説明を続けた。

 

「トリニティは式典のために大規模な修繕をしたらしいけど、それは単に体裁を気にしたからじゃないと思うの。つまり、反対派の妨害を警戒しているのよ」

「なるほど……それで、装備を選ぶのか」

 

 乾は納得したように頷いた。

 

「妨害工作が行われる可能性が高いなら、それに備えなければならないからな」

「そこで、あなたたちに相談したいの。どのような装備が適切かしら?」

「そうだな……まず、式典に出席する以上、礼装は必須だ。だが、いつも通りでいい」

「どう言うこと?」

 

 ヒナが首を傾げる。礼装をしなければならないと言うのに、なぜいつもの服装を? 疑問に思っていると、紅一が口を開いた。

 

「俺たちにとっての礼装とは戦闘服だ。92式こそが礼装──そもそもの話、典礼用の甲冑が原型だからな」

「ええ」

 

 乾は短く返事をし、頷いた。

 

「ふうん……」

 

 ヒナは腕を組み、何やら考え込んでいる。彼女は風紀委員長として、様々な式典に参加してきた経験がある。しかし、特機隊にとっての礼装が戦闘服だと言うのは新鮮だった。

 

「でも、それじゃあ目立ちすぎないかしら?」

「問題ない。もともと俺たちは目立つ存在だ。それに、あの式典は反対派の妨害が予想される。プロテクトギアで武装していれば、いざと言う時に対応できる」

「……確かにそうね」

 

 ヒナは納得したように頷いた。

 

「それじゃあ、装備はギアで決まりね。他に何か必要なものはあるかしら?」

「そうだな……天雨、例のものを持ってきたか?」

「ええ、こちらを」

 

 アコはそう言うと、机の上にトランクケースを置いた。そしてそれを開ける。

 ──黒い甲冑。よくよく見れば、差し色に紫色の装飾が入れられている。威圧的ながらもどこか優美さを感じさせるそれが、今は鎮座している。

 

「これ……まさか、私のために?」

「委員長用の装備として、都々目教官が中心となって製作したものです」

 

 ヒナはそれを見つめ、一瞬息を呑んだ。

 ミレニアム謹製の装備であるこの甲冑は、彼女専用に調整されたものだ。軽量ながら耐久性に優れ、例え至近距離で爆破されても無傷でいられる。

 更に特筆すべきはその拡張性で、背部には拡張マウントがあり、様々な装備を取り付けることが可能だ。

 

「試着してみるか?」

「ええ……」

 

 ヒナは靜かに頷いた。彼女は椅子から立ち上がると、アコの手を借りて甲冑を身に着けていく。

 胸当て、肩甲、籠手、レッグガード……一つ一つのパーツが、まるで吸い付くように彼女の体にフィットしていく。

 全てのパーツを装着し終えると、アコが手鏡を差し出した。

 

「どうですか、委員長?」

「……不思議な感じね。重くないのに、しっかりと守られている感じがする」

 

 ヒナは自分の姿を鏡で確認しながら言った。甲冑は彼女の身体にぴったりと合っており、動きを阻害しないよう設計されているのがわかる。それでいて、防御力は折り紙付きだ。

 

「それに……」

 

 ヒナは右手を握ったり開いたりしてみた。グローブ越しでも、指先の感覚は失われていない。これならば、銃を扱うにも支障はないだろう。

 

「いいわ。これを使いましょう」

 

 ヒナは満足げに微笑んだ。この甲冑があれば、どんな敵が相手でも戦える。彼女はそう確信していた。

 

「よし、それじゃあ次は武器だ。何を使う?」

 

 紅一が尋ねた。ヒナは少し考えてから、答えた。

 

「そうね……私はいつものにするわ。あれが一番使い慣れているから」

「わかった。予備の銃身は十分に用意しておこう」

「ええ。それと、弾薬も多めに持っていくわ」

「了解した」

 

 紅一は頷くと、早速準備に取り掛かるために部屋を出て行った。ヒナはその後ろ姿を見送りながら、ふとある事を思い出した。

 

「そういえば、手紙には反対派の妨害が予想されるって書いてあったけど、具体的にはどんなことをするのかしら?」

「爆破、襲撃、暗殺……とにかく妨害工作の可能性は高い」

 

 乾が淡々と答えた。彼は首都警特機隊として、数多くの要人警護や武装組織鎮圧、対テロ作戦に従事してきた経験がある。妨害工作の手口については、熟知しているのだ。

 

「爆破……まさか、古聖堂を爆破するつもりなのかしら?」

「あり得る。だが、可能性は低いだろう」

「なぜ?」

「連中とてバカではない。長年こちらと睨みあっていて、条約の締結を阻止しようとしたら逆に自派閥の不利を招く。それを理解していないわけがない」

「そうね……確かにそうかもしれないわ」

 

 ヒナは納得したように頷いた。確かに、ゲヘナとトリニティは長年にわたって対立してきた。

 そんな中で条約が締結されれば、互いの関係は改善され、緊張は緩和されるだろう。だが、それを阻止しようとすれば、反対派の勢力は弱体化し、結果的にゲヘナとトリニティの結束は強まってしまう。

 

「では、どのような手段を使ってくるのでしょうか?」

 

 アコが質問した。彼女も情報部出身であるため、諜報活動や情報操作に精通している。しかし、具体的な妨害工作の手口については、あまり詳しくないようだ。

 

「それは……まだわからない」

「わからない? どういうことですか?」

「まだ情報が不足しているんだ。もっと調査が必要だ」

「そうですね……わかりました。私の方でも調べてみます」

「ああ、頼む」

「はい、任せてください」

 

 アコはそう言うと、部屋を出て行った。ヒナはその後ろ姿を見送りながら、ふとあることを思い出した。

 

「そういえば、向こうも捕まえたみたいね」

「やっとか。田中も苦労しただろうに」

「“灯台下暗し"、だったそうよ」

「ほお……」

 

 乾はそれは一体どんな人物なのだろうかと気になった。おそらくはティーパーティー、幹部クラスだ。

 無事に捕まったので、大分懸念は減ったと感じていた。

 

 調印式まで数日、空には入道雲が浮かんでいた──。

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