あれから数週間が経った。
アビドス高校の一件を終えた田中は、所用でゲヘナ学園に立ち寄った。とは言っても、ヒナへあいさつしに行った程度である。無事に用件を終えた田中は、シャーレのあるD.U.地区への電車を待っていた。その途中、田中はふとある事を思い出す。
──そう言えば、昼食を食べていない。
幾度となく起こした事だ。彼が多忙なのもあるが、いつもゼリー飲料やエナジーバーが多いのだ。何と言うか、それは勿体ない。そう思いながら彼は列の一番前に並ぶと、腕時計を見る。次にスマートフォンを見るが、電波が悪いのか画像が表示されなかった。充電は残り3%と言ったところだ。電池の無駄使いはできない為、彼はポケットにしまった。
ふと、田中はあることに気づく。
電車が来ない。
おかしいな、と田中は思った。時刻表通りならもう到着していてもおかしくない時間だ。しかし、待てども待てども電車は来ない。時刻表を見てみると。
「……えっ?!」
──ただいま、鉄道事故の影響により、通行止めとなっております。復旧は13時以降になる予定です……。──
と、そう記されていた。
それをどこか上の空で読み上げていた田中だったが、彼にとってこれは大きな問題だった。なぜなら彼は昼食を食べていない……つまり空腹なのだ。しかし電車は来ない。参ったなと困る田中の腹の虫が、ぐぅ、と鳴った。
「お腹空いたなあ……」
「先生、いつものゼリーは無いんですか?」
「シャーレのオフィスで食べようと思っていたから、持って来てないんだ」
「はあ……仕方ありませんね」
なんて話をしていると、ホームにアナウンスが響いた。代行バスの手配に手間取っているようで、更に遅くなるそうだ。全くもってはた迷惑だが、それが事故なら田中としてもどうする事も出来ない。
さて、どうしたものかなと思った田中だったが、ふとホームの向こう側を見た。そこに映るのは、「そば・うどん」の文字。
「あ、立ち食い蕎麦屋だ!」
「やりましたね、先生!」
善は急げ、と向こう側のホームへ田中は移動した。日本で見慣れた、立ち食い蕎麦屋だ。忙し過ぎて存在を忘れていたが、キヴォトスにもあって良かったと実感した。
券売機で食券を買うと、蕎麦屋の暖簾をくぐる。店内はそれなりに混んでいたが、ちょうど三人分の席が空いていた。田中を除けば、犬や猫の獣人たちが、そばやうどんを食べている。店員は一人で、二足歩行の黒柴犬が従業員兼店主の様であった。そして田中は、壁に貼られたメニュー表を見る。どうやら蕎麦屋ではあるが、うどんやカレーも扱っているようだ。立ち食い蕎麦屋の常とも言えようか。
こういうところは、うまくはないがまずくもない。それゆえにいつ来ても飽きないのだ。
「らっしゃい。お客さん、食券見せてくんな!」
「あ、はい」
「コロッケそば一丁ね。待っててくれな」
黒柴店主が気付いて田中に声をかけた。田中は食券を見せると、店主の風貌を見た。
……どことなく、紫関ラーメンの店主を思わせる雰囲気だ。まるで兄弟のようにも思える。……いや、流石にそれはないか。
田中はそう思いながらも、出来上がるのを待った。他の客が食べ終えたのか、次々とどんぶりを返却口に置いて出て行った。客によってはごちそうさま、とか常連らしき客に至っては大将、今日もうまかったよと感謝の気持ちをあらわにしていく。そして田中の番が回ってきた。
「はいよ、コロッケそば一丁!」
「……いただきます」
出されたどんぶりは、蕎麦にわかめとネギ、そしてコロッケが入っている。立ち食い蕎麦屋ではよくあるコロッケそばだ。田中はそれを受け取り、割り箸を割ってからいただきますと手を合わせた。そしてそばを一口すする。
……うん、出汁が効いてて美味しい。
田中はそばも好きだが、コロッケそばやカレーそばと言った変わり種が好きだ。
立ち食い蕎麦屋とは言え蕎麦屋なので、天ぷらそばやカレーの方が人気なのは理解できるし分かるのだが、それでも田中はコロッケそばを好んでいる。決してうまいとは言いがたいが、それはひとえに彼の好みの問題だ。しかしそんな田中の好みを理解しているかのように出されたこの一品には満足していた。
そうして食べ進めていると、黒柴店主が洗い物をしながら問うてきた。
「お客さん、ここらじゃ見ない人だね? D.U.かい?」
「……ええ。D.U.から来ました」
「コロッケそばを頼む人はあんたが初めてだ。シャーレの先生」
「……! 何故それを?」
田中は驚きのあまり、そばを食べる手を止めた。黒柴店主は田中の反応を見て、ニヤリと笑った。どうも外部の人間にも噂になっているらしく、彼はそう説明してくれた。そして少し声を潜めながら、こう付け足す。
……キヴォトスの外から来たって人が良く来るんだ、うちは。
そうして洗い物に戻った店主の背中を見つめながら、田中はそばを食べるのに戻った。
──幾年ぶりかに食べたコロッケそば、学生だった頃を思い出す味だ。
田中の心の中が、どこか懐かしさを覚える気持ちに包まれた。
「懐かしいな。学生の頃を思い出すよ」
「そうかい。追加で食べたけりゃ言ってくれ。壁に貼ってあるものならすぐ出せまさあ」
洗い物が一段落した黒柴店主が、田中の呟きに応えた。そう言って店主はカウンター上にある壁を指さしている。そこにはそばやうどん、カレーライスなどのメニューが記載されている。なるほど、と思い田中は壁のメニューを見上げた。そしてある事に気づいた。
「稲荷寿しもあるのか!」
「ああ、うちの人気メニューの一つさ。うちは蕎麦屋だってのになあ」
「はは、でも私は好きですよ」
「そうかい? まあ、そう言ってくれるとありがてえや」
田中の素直な感想に、店主もまんざらではない様子だ。そして彼はひとしきり笑った後、こう続けた。
……まあ、蕎麦屋が稲荷寿しを出すのはどうかと思うけどな。
田中もその言葉に同意するように頷いた。そしてそばをすすりながら思う。この味ならきっと、生徒にも人気だろう。シャーレのオフィスで出してもいいかもしれないなと考えながら、彼はそばを食べ終えたのだった。
お冷を飲みながら、まだ腹が減っていると感じた田中は追加で注文した。
「すみません、稲荷寿しを四人分。三人分を持ち帰りで下さい」
「あいよっ! すぐできるから待っててくれな」
店主は快く注文を受けてくれた。カウンター越しに代金を渡した田中がお茶をすすっていると、不意に声をかけられた。それは蕎麦屋の客ではなく、シャーレの先生として声を掛けられたわけではないだろう。その声から感じるのは、純粋な興味だ。
声の主へ顔を向ければ、そこには見慣れた顔──乾だった。彼の隣には、比較的小柄な男がいる。
「おや。田中さんではないですか」
「乾さん、お元気そうで何より。そちらの方は?」
「会社の先輩──都々目紅一先輩です。都々目先輩、こちらがシャーレの田中先生」
「都々目です。よろしく」
頭をお互いに下げる。田中は紅一に会釈をした後、乾へ問いかけた。
──どうしてここに? と。
すると彼はこう答えた。
たまたま近くでめし時を迎えたので一緒に食べに来たらしい。紅一がここのそばを気に入ったらしく、乾もそれに付き添う形で一緒に来たようだ。乾が黒柴店主に食券を渡すと、田中の前に四人分の稲荷寿しが出てきた。
「あいよっ! 稲荷寿しね。んで……天玉そば大盛と月見そばの大盛ね。待っててくれな!」
「あ、天玉はネギ抜きで頼む!」
「あいよっ!」
注文を受けた黒柴店主が、手際よく蕎麦を茹で始める。その間に紅一がセルフサービスである水を入れた。気を利かせたのか、田中の分も用意したようだ。そうして蕎麦が茹で上がると、店主はそれを器に盛り付ける。そしてネギを抜いた天玉そば大盛を紅一へ、月見そばの大盛を乾の前へカウンター越しに置くと、黒柴店主はこう言って笑った。
──ごゆっくり!
そう言い残し、彼は洗い物に専念した。
田中は稲荷寿しを頬張った。
稲荷寿しは一つだけでもお腹いっぱいになりそうな大きさで、かぶりつくと、程よく冷まされたシャリの中に混ぜ込まれたしょうがの甘酢漬けがたまらない。そして甘辛いたれをたっぷりと吸った油揚げも良い……と、田中は大満足だった。
一方、紅一と乾の二人はそばを食べ進めている。ネギ抜きの天玉そば──エビ天と玉子がのっていた。紅一が一口すすると、幸せそうな顔をする。そしてつゆをすすり、そばを食べると頷いた。ネギ抜きで頼んだだけあって、かきこみやすく満足している様子だ。
「かーっ! ここの天玉ァ、最高だぜ!」
「うまそうに食いますね……」
「ったりまえだろうが! 今まで喰ってきたどの立ち食いよりも、ここが旨いんだよ!」
「いやはや、私も同じような事を思いましてね。この稲荷寿しも良いものです」
「おお! 分かってくれるか!」
賑やかそうに食べる紅一たちとは裏腹に、乾は月見そばを黙々とすすっていた。
普段は立ち食い蕎麦屋のメニューに頓着しない乾だが、ここの月見そばだけは別だ。ただ単にかけそばに生卵が乗っただけに過ぎない筈の月見そばだが、どういう訳か旨い。勿論蕎麦自体には良さもあるだろう。だがそれ以上に、玉子がいいねと乾は独白するのだった。
──そう言えば、月見そばをよく頼む立喰師がいたような……。
立喰師。立ち食いのプロともいうものもいるが、その多くはただの無銭飲食の常習犯だ。
様々な手法を凝らしては、代金を払わずに食い逃げする軽犯罪者ども。真偽は定かではないが、多くの立ち食いの店に食券販売機があったり、現金で前金制だったりするのも、こう言った輩による犯罪被害を抑える為……とも言う。
だがしかし、立喰師のごく一部には裏社会の情報屋の顔を持つ者もいたりしたらしい。らしいと言うのは、乾もその存在を噂でしか聞いた事が無いからだ。
独りそんな事を考える乾をよそに、田中も稲荷寿しを食べ終えた後、口の中に残った甘酸っぱいものを水で洗い流す。そして水のおかわりをした。
腹もくちくなった所で、やはり蕎麦は良いものだなと田中は思う。紅一と乾もちょうど食べ終わったようで、満足そうに腹を撫でている。そこでふと思い出したかのように、乾が言った。
「そう言えば田中さん。近々、我々もシャーレに用があるのですが……」
「シャーレに? どう言った用件でしょうか?」
「いえ、実は折り入って相談がありまして」
「相談?」
相談とはなんだろうか。生徒たちの頼みとは異なるが、それでもシャーレとして何か困りごとなのだろうか。田中はそう考え、乾へ問いかけた。
すると彼はこう答えたのだ。
「実はシャーレに向かうゲヘナ生の護衛を依頼されてまして……危険が想定されそうな地点を、見繕ってもらいたいんですよ」
「へ?」
その言葉に田中はきょとんとした顔をし、紅一が首を傾げた。
紅一ですが、彼を演じたのは若かりし日の千葉繁です。