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デーン デデデーン デデデデーン デデーン
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デデデーン デデーン デーンデーン デーンデデーン
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…デーン♪
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日本競レース振興委員会提供
学ぼう! 楽しもう!
☆競レースの世界☆
やぁ☆ ボク、レス男! 年がら年中レースに浸っている、レースマニアボーイさ!
今日も、全国の小っちゃいお友だちの、レースに関する素朴な疑問に、ばっさりあっさり答えていこうと思うよ! みんな、よろしくね!
ンー、ン、ン、ンンー!! いい質問だ! レースと駆けっこは、丸っきり違うよ☆
例えば駆けっこをした時、みんなはどんなことを考える? あいつよりも先に! ボクが一番だ! 好きなあの子にいいとこ見せたい! 色々あると思うけど、みんな、とにかく速く走ることだけを考えるよね☆
そして、たとえ負けたって、ちょっと悔しがるだけ、ちょっと取っ組み合いの喧嘩が起きるだけ! 自分や相手が傷ついたりしても、そこだけの話。無関係な人たちには、何にも嫌なことは起きないよね!
でも、レースの世界はちょっと違うんだ!
誰よりも早くゴールに着くこと、って部分では同じだけど、そこに至るまでに、色んな事を考えるんだよ。
ここはまだ全力で走らないべき、有利なところに位置取りする、コーナーを無駄なく走る……みたいにね!
しかも負けたら、悔しい想いをするのは自分だけじゃない。自分を応援してくれる、何十、何百、何千ものファンのみんなも、悔しがることになるんだ。
背負っているものの大きさ、そして考えることの多さ! それが駆けっことの一番の違いだね!*1
だからみんな、くれぐれも競レース選手の前で、レースなんて駆けっこと一緒なんて言っちゃあ駄目だよ! 怒りを買った選手のみんなに、八つ裂きにされても文句言えないからね☆
一番のために、ファンのために、そして夢のために!
誰もが全力で頑張る魂の競技!
生半可な覚悟じゃ渡って行けない厳しい世界――
『――あ? 辞める?』
意味もなく点けたテレビ画面の垂れ流す、児童向け教育番組を観るでもなく観ながら通話をする高橋は、うん、とか細い声で応じていた。
数秒の無言が、奇妙なもののように感じられる。相手――彼女の実兄は、粗暴な言動ながらも面倒見のいいリアリストだ。
以前、意地でもトレーナーを続けると宣言した彼女に、嫌味のエッセンスを含んだ心配を口にしたことから、こんな相談も、二つ返事で肯定するとばかり思っていた。
まさか、そんな反応をされるとは思っていなかった。
『……また急にどうしたんだよ。らしくねぇな』
そして彼もまた、彼女がそんな弱音を急に吐いたことが奇妙だった。迷いを孕んだ声色で、彼女に問う。
『この間LANEで担当が出来た! ってはしゃいでたろ。まさか流れたのか?』
「うぅん。流れてない……まだ、保留中。でも……やっぱり、取り下げようかなって思ってて」
『なんか悪いもんでも食ったのか?』
彼が困惑するのも無理はなかった。狂気的なまでにトレーナー業に執着していた彼女が、突如としてこんなことを言い出すのだから。気分は整備不良のジェットコースター、頂点から急速に下ったかと思えば、その途中で急停車されたようなもの。
投げ出されずに着いていけているのは、彼の冷静さの賜物と言える。
「……」
彼女は、すぐには答えない。目当てのものを探すように、脳内という名の暗闇を素手で弄った。そうして引っ張り出されるのは、目を潰されるほどに眩く輝くレースの記憶だ。
僅か一日前の有マ記念。目の当たりにしたすさまじいレースの熱。それをどこか冷めた目で見つめていた自分。そんな自分を――
見抜いて。咎めるかのように射貫いた、『暴君』の瞳。
あの時、彼女は直感した。あぁ――自分は間違っていたのだ、と。
フェアリィルナという『落ちこぼれ』を、自分の箔のように扱おうとする。
そんな考え方が――あまりに浅はかだったのだ、と。
「……正直嘗めてた」
彼女は、包み隠すことなく言う。
「あたしには才能がある、って思ってたし、今は少し時期が悪いだけ、って思ってた。あの子は『繋ぎ』で……そのうち運に恵まれる、って思ってた。……でも違ってた。その考え方が……間違ってたんだ」
テレビ上では、既に別の児童向け番組が続いている。何を模したかもわからないコミカルな着ぐるみが、楽しげな歌を歌っている。
「――レースは、箔のためじゃない」
繋ぎのためじゃない。
橋渡しのためじゃない。
娯楽のためじゃない。
一時の安らぎのためじゃ――ない。
「みんながみんな、それぞれの夢と目標を以て……直向きに向き合ってる、競技なんだよ」
それは理想であり。
それは夢であり。
願いであり、
祈りであり、
未来であった。
「……『暴君』のレースで、それを思い知った。あの人は、あたしに突き付けたんだ。契約するのはいい。でも、本当にそれでいいのか、って」
お前が飛び込もうとしている世界は。
こういう世界なんだぞ――と。
「……あたしに、そこまでの覚悟、ない」
怯えた。
恐れた。
怖がった。
こんな生半可な覚悟じゃ――やっていけないし、それを抱けるとも思わない。そう、思ってしまったのだ。
「だから……」
もう。
いいかなって。
そう考え至ったのだ。
『……』
兄は、再びの無言。いつもは陽気で、自分に対してですら、容赦なく牙を剝く跳ねっかえりの妹。
その彼女がここまで意気消沈するのを見るのは、中学時代のテストにて、人生初の一桁台の点数を取った時以来だった。
比較対象は可愛らしくも――そこに感じる深刻さは、尋常ではない。
『……、』
彼は、どう声を掛ければいいかわからなくなる。
生活費を工面している以上、彼女が夢を諦めるということは、自分の生活が多少楽になることでもある。
だがそれを、事もあろうに本人の前で、手放しで喜ぼうというほど――彼も堕落した人間性をしていない。
これまで散々、その目標に反対してきた身ではあるが。
かといって、それをいざ目の当たりにすると――ならそうしろ、などとあっさりと告げられもしない。
心の中の良心は、それでもこれまで泥臭く足掻いてきた彼女への、最後の希望に縋ろうとしていた。
『……まぁ、だからっつって、一方的にやっぱナシにして、も寝覚めが悪いだろ』
結果として彼は、そのように告げていた。
『まずはその担当(仮)と一度話し合え。そうじゃないと、向こうも満足に動けないだろ』
時間は有限。
契約を保留した状態で、あぁでもないこうでもないと迷う時間は、お互いのためにならない。
契約しないならしないで。するならするで。さっさと話をしなくては。そうでなくては……
お互い、どこへも行けなくなってしまう。
『それに向こうは、そのつもりじゃないかもしれないしな』
「……喧嘩になったらどうしよ」
『んなことにビビッてどうすんだよ』
弱腰に言う彼女に、彼は呆れて言った。いや、それはもはや、呆れを通り越して、怒りですらあった。
『最後の仕事だと思って気張って来い。もっと気まずくなる前にな』
「……うん」
彼なりの激励に彼女は頷くが、その様子は追い詰められた獲物のようで、声も依然としてか細かった。
テレビ画面では――相変わらず、愉快な音楽が流れ続けていた。
自分の考えが、言わずとも伝わればいいのに。
などと、高橋は考えたことがある。
例えば口にするのが面倒な時。例えば気恥ずかしくて言えない時。例えば勇気が無くて言えない時。例えば――
――気まずくて、口に出せない時。
フェアリィルナに連絡はした。後はトレーナー室で待つだけ。誰かを呼び出す経験もないことも手伝って、感じる緊張は強い。
底抜けに明るく、前向きな少女――それは、まともに関わって数日を数えるばかりの彼女にも察せられた。早くもその表情が、暗く沈む光景を想像出来ないほどに。別に、何ともなしに終わるだろう――そんな風に考える自分はいるが。
万に一つ――激昂して。
自分を虫けらのように見捨てるのではないか、という考えもある。
ただ、そうなっても仕方がないと思う自分もまたいた。それだけのことをしてしまったのだ、という自覚もあった。
しかし、自覚と覚悟はまた別のモノだ。動悸を理論で説き伏せようにも、上手くはいかない。むしろ高まっていく一方だ。息苦しくて、このまま窒息してもおかしくないとさえ感じる。
――いっそ急用とか言って逃げ出してしまおうか。実行の一歩手前までいっているそれを踏み止まらせるのは、僅かばかり残った理性と、兄の言葉。
乗り越えなくては、にっちもさっちもいかない――何度目かの堂々巡りの納得の末に。
結局彼女は待つ。ただ、ただ待つ。待って、待って、待ち続ける――
「……」
耳を澄ませば、色々な音が聞こえる。時計の針の音。遠くに聞こえる喧騒。ふと立ち上がり、窓辺に近付いて、外を確認してみた。
遠くに見えるグラウンドで、生徒たちが練習に励んでいる。さすがに表情までもは確認出来ないが、醸し出されている雰囲気は真剣そのものだ。
それを見ていると、自分が場違いである感覚が、更に深まっていく。
なぜお前がここにいる。
どうしてまだ留まっている。
ここにいる意味などない、さっさと立ち去ってしまえばいいものを。
選ばれた者のための舞台、限られた者だけの世界だ。
オマエなど、ここに必要ない――
「……っ」
そんなことを、何者かに投げかけられたような気がして。
視線を下げ、手を強く握っていた。
惨めで、苦しくて、悔しくて――
熱くなった目頭から、涙が零れそうにな「しっつれいしまぁぁぁぁっす!!」
……なったが。
すぐさま、引っ込んでいた――言葉が。
超音量による声を伴い、飛び込んできていたからである。
「――……」
高橋は弾かれたように振り返っていた。
今やトレーナー室のドアは開かれ、そこに息を切らして立っているのは――一人の生徒。
フェアリィルナだった。
つい世間話に夢中になった、とのことだった。
「いやぁー、フェアリィとしたことが……ついつい盛り上がっちゃってですね」
席に着いたフェアリィは、恥ずかしそうに後頭部を掻きながら、彼女に話す。
「スイープさんには感謝ですねっ。あの時『そういやアンタ用事は?』って言ってくれたので……でなかったら、もう数十分くらい遅れたかもしれないです……」
いっそ来なくて良かったのに――という考えを、高橋は振り払う。もう彼女は目の前にいるのだ、今更逃げることなんて出来ない。
向き合わなくちゃ。話さなくちゃ。ちゃんと言わなくちゃ――
自分の考えを。これから、どうするのかを――
「それで……お話ってなんですか?」
「……」
無垢なまでに首を傾げるフェアリィを見ていると、ずきりと胸が痛む感覚がする。これから、それを壊してしまうかもしれない――そう思いながらも。
「……あの、」
彼女は、絞り出すように、言う。
「あの、さ」
「はいっ」
「契約の話だけど……」
「――あ! はい、そうですね! そういえば今日――」
「ごめん」
いかにも浮かれた風なフェアリィルナを、地上へ引き戻すみたいに。高橋は頭を下げた。
「……やっぱり、無しにして」
――……訪れるのは沈黙。
暖まりかけた空気に、冷たい雨が打ち付け始めたような感覚。
それにじわじわと絞めつけられ、彼女はやはりそこから逃げ出したくなってしまう。
留めていたのは、兄の言葉だった――最後の自分の義務。
果たすべき責務。
脳裏に辞表という言葉を思い描きながら――口の中にぐるぐると回るのは。
経緯、という名の弁明だった。
「……あたしね」
許しを請うためか。あるいは罰を下してほしいからか。
どちらにせよ、彼女の声は、縋るようなそれだった。
口の中に含んでいた言葉が、驚くほどつらつらと、整列して流れ出ていく。
フェアリィルナを、箔にしようとしたこと。
それをオルフェーヴルに見抜かれたこと。
有マ記念で、目撃したこと。
……それを受けて、感じたこと。
「……」
一連の話を終えても、なお、静寂は立ち消えない。
それどころか、更にその存在感を増したようでさえある。
形のない質量に、押し潰されそうになりながら――
「……だから、ごめん」
高橋は、言葉を結んでいた。
「あなたとの契約は……無かったことに、しようと思う」
それが誠実だから。
そうでないといけないから。
そうであるべきだから。
そうでないと、いけないから――……
「……」
フェアリィルナの顔を、高橋はまともに見られなかった。
教師と生徒の立場のはずなのに、それがすっかり逆転してしまっている。
心はすっかり対抗してしまっていて。
自分の方が、叱られている生徒の気分宛らだった。
かちり、かちり、と時計が時を刻む。
どこか遠くで、何某かの喧騒が響く。
フェアリィルナは今、何を思い、考えているのだろう。
高橋がそう考えた矢先――
「――、」
息を吸う音がした。
きゅっと彼女は目を強く閉じる。
何を言われてもいいように。何があってもいいように。そうして、覚悟を決めて――
「そうですか、」
果たして紡がれた言葉は――
高橋の耳には、どんな色も伴っていないように感じられた。
「わかりました」
あっさりと。
淡白なまでに続けられたその言葉に、彼女は思わず顔を上げる。
罵倒でも、失望でも、幻滅でも、悲哀でもない。予想したどの感情とも違うそれに。
自分の聞き間違いか?
自身の気のせいか。
確かめようと、捉えた彼女の表情は、
虚無。
あるいは静寂、だった。
言語化すれば、『やっぱりな』、というような。
最初から、その結末を予見していたかのようなもの。
悲しむでもなく、怒るでもない。
訪れるべき未来を、ただありのままに受け取った――みたいな顔。
「――にししっ。いやー、ちょっと浮かれちゃいましたね! そんなこと、私にもわかってたのに」
ただ、それが見えたのは一瞬だった。
すぐさま浮かべられた次なる表情――明るい笑顔が、それを上書きする。
いや――上書き? それは違う。それは上書きというよりも、ふとした拍子に零れ落ちた仮面をつけ直す、みたいな感覚に近い。
高橋は、ふと見えたその一連の行動の隙間に、何か真理めいたものを見たような気がした。
……え?
そうなの?
そんな言葉が、彼女の胸の中を満たしていく。
何か変わったウマ娘が転校してきた。そんな話は小耳に挟んでいた。
底抜けに明るくて、異様なほどに声の大きい誰かさん。
そんなのとは出来るだけ関わりたくないな、面倒そうだし――なんて思った矢先に、目の前に現れた張本人。
――使える。抱いた感想はシンプルなそれだったはずだ。
でも、違うのか。
もしかして――違うのか。
『それ』はまさか――あなたの、『本質』じゃないのか?
今一瞬だけ見えた。ほんの少しだけ垣間見えた。その虚無が。その諦観が。その悟りが。
あなたの、本当なのではないのか?
「ゴメイワクおかけしてすみません! 私はそれで大丈夫ですよ!」
ぐるぐる回る思考の中に、フェアリィの声が飛び込んでくる。自分の中の確信という結論が、それによって淀んでいく。惑わされた高橋は、改めて彼女の顔を見ていた――そこに、もはやあの表情の面影などない。
「でも、何か手続きとか必要なのでしょうか? 迷惑料とか……はっ、もしや慰謝料……裁判沙汰にまでなったりして……!」
「い……いや。さすがにそこまではいかないけど……迷惑かけたのはこっちだし」
「そうですか。よかったー」
胸を撫で下ろすフェアリィに、そんなことしてる場合じゃないだろう、とツッコむ余裕もなかった。ガタン、と彼女は勢いよく立ち上がる。
「それじゃっ、フェアリィはここで失礼しますねっ!」
「え」
「トレーナーさんにも、色々用事があると思いますんで! フェアリィがそれを邪魔するわけにはいきません!」
「え。いや、ちょっと――」
「それではっ!」
忙しなく言い、踵を返したフェアリィルナは、部屋から退室しようとする。
全ての動きが、高橋の目には、スローモーションになったように思われた。
――いいのかこれで。
世界そのものがイキモノとなり、彼女に迫ってくる。
――いいのか、これで?
納得したはずなのに、声無きその問いかけは、実はそんなことはないだろうと知った口を利いていた。
脳裏に。
ふと、いつかの映像が過ぎる。
……父は、腕利きのトレーナーであった。
国中を震撼させるほどではなかったが、それでも担当したウマ娘のほとんどが重賞入賞を経験し、笑顔で彼の元から巣立っていった。
――そう。
そんな父でも、
全てを『幸せ』にすることは、出来なかった。
『――いいか、よく聞け『まゆ』』
父が、自分に呼びかける。
一人のウマ娘が立ち去っていくのを見ながら、言う。
『トレーナーってのはな、ウマ娘を『幸せ』にするのが務めだ』
自分も、その光景を見つめながら聞く。
直前に見た、そのウマ娘の顔を思い出しながら。
聞く――
『――『あんな顔はな』、
させちゃいけねぇんだ――』
バンッ
「――ッ!?」
フェアリィルナが、弾かれたように振り向く。
部屋中に、強烈な物音が響いたからだろう。
その出所は、高橋の手元――彼女が、思い切り机を叩いたことで発せられたものだった。
「……と、トレーナーさん……?」
恐る恐る、といった風に、高橋に呼びかけるフェアリィ。
彼女は、ゆっくりと顔を上げていた。
見るからに困惑しているフェアリィを、高橋は見つめつつ――
「――、」
息を吸い。
言った。
「――無しで」
「へ……?」
「今の――やっぱ、無しで」
「……??」
首を傾げるフェアリィに、高橋はいよいよ覚悟を決める。
そうだ――どうして忘れていたんだ。
トレーナーは、ウマ娘を幸せにするのが仕事。
何であれ――『不幸せ』にすることが、あってはならない。
それがどんな結末でも。どんな未来でも。希望と言い張れるモノにしなくちゃいけないのだ。
――あんな顔を。
浮かべさせちゃ、いけないんだ――……
……そうだ。
自分は、オルフェーヴルに言っていたじゃないか。
どうせ自分以外に、彼女と契約する人なんていない。
それはきっと事実だ。決まっている未来だ。年を越せば三年目――そこに来て、選抜レースですらろくに勝てない『最弱』を、取る物好きなんていない。
この子の運命は。
この子の命運は。
自分の。自分だけの。双肩にかかっているのだ。
オルフェーヴルさん。
お父さん。
あたしに、覚悟なんて出来ていない。あんな狂気的な戦場に飛び込む勇気なんて、ない。
でもこの子は。私が手に取ったこの子は。目の前にいるこの子は。この子だけは――
――きっと私が。
幸せにしなくちゃ、いけないんだ――……!!
「……ごめんね。試すようなことして」
高橋は言う。
「そうだよね。こんなこと……言わせるべきじゃなかった。ごめん。本当に、ごめんね」
「あの。トレーナーさん……?」
「フェアリィルナさん!」
「ひゃいっ!」
突然声を張り上げた高橋に、さしものフェアリィも驚く。素っ頓狂な声に、ハッと我に返った高橋は、一つ短めに深呼吸をして気を取り直す。
「……あたしは、とんでもない未熟者です」
そして――続ける。
「ここに赴任してから、1年くらい……担当が着かなかった、青二才です」
「……はい」
「でも! 真剣に担当と向き合う情熱は、失ってないつもりです!」
若干嘘だった。
本当は失いかけていた。本当は忘れかけていた。本当は、本当は、投げ出そうとすら、考えていた。
でも、もう。
ここまで来たのなら、もう──
「……っ、」
逃げない。彼女は、心に決めていた。
「だから、だから、フェアリィルナちゃん……」
だから。
だから――
「こんなあたしで、良ければ……
あたしと、契約してください!」
「……」
……深々と一礼しつつのそれは、まるでプロポーズのようだった。
その頼み方が、あまりに予想外だったからか。あるいは、依然として、一連の言葉の意味を把握出来ていないからか。フェアリィは、しばし無言を保っていたが。
「……、」
やがて、どこか満足げに笑うと。
「はいっ、
喜んでっ!」
「──!」
高橋は顔を上げる。傾きかけた陽に照らされたフェアリィルナの顔は、晴れ晴れとしていて――
少なくともそれが、『仮面』ではないことを本能的に感じ取ると、彼女もまた、優しい微笑みに口元を緩ませていた。
決心した高橋の行動は早かった。
トレーナー寮の自室──あれだけ心配してくれた兄への連絡も程々に、弄るのは長らく放置していたダンボール箱。
色々を乱雑に取り出したせいで、周囲はひどい有様だった。
あれでもない、これでもない、と、その様相が更に深刻さを増していく。
ほぼほぼ、段ボールの中身が底をついてきた頃。
「――!」
彼女は、とうとう目的のモノを見つけていた。
「あった……!」
それは、二冊のメモ帳。
中央への赴任が決まった時、念のために、と持ち込んだもの。
尊敬する父が、彼女に託した――『道しるべ』。
――『新人トレーナー指南』、前編後編、とそれぞれ、その表面に銘打たれていた。
ここ最近の憂鬱な毎日のせいで、その存在すら記憶の彼方に消え去っていた。
いけしゃあしゃあと感じながらも、彼女はそれを祈るように額にくっつける。
――お父さん、あたし、今日、ようやく担当が着いたよ。
――でも正直、あの子を、ちゃんと導ける自信、無い。
――だから――お願い。こんなこと、虫のいい話だとは思うけど……
――あたしに。
――力を貸して。
「……」
ごくり、と固唾を飲み、彼女は、まず前編の手帳をめくる。
まず目に飛び込んできたのは――大仰な筆文字。『新人トレーナー指南書 前編!!』――そういえば父は字が上手かったな、と思いながら、なんで既に表紙に書いてあることをまた書いてるんだ、ともツッコんでいた。
もう一枚めくる。
相変わらず綺麗な文体で、次に書かれていたのは――どうやら、前置きらしかった。
『前文! 我が愛娘へ この手帳を読んでいるということは、無事に担当が着いたものの、どうすればいいかわからない状態だということだろう!』
頭の中に、彼の尊大な声が再生されるかのようだ。そしてその文は、彼女の現況を奇妙なまでに言い当てていた。
『しかし安心せよ! この手帳を読み終える頃には、お前も担当も、きっと素晴らしいコンビになっていることだろうからな!』
「……どうだかね」
ぽつりと独り言ちる。父の手腕は確かなものだが、その教えを確かなものと出来るかは、全て自分の手腕にかかっている。
……本当に出来るのか?
依然として振り切れない不安が、漠然と自分の背筋をなぞる。
『さて、早速指南の方に移ろうかと思うが……しかし何事も前置きが大事だ!! まずは世間話でもして肩の力を抜こう!』
「世間話……?」
指南書で世間話……? と彼女は訝しみながらも、その先を読む。
『こいつを書いているのは、████年の4月頃だ! ちょうどお前が大学に入学した頃だな! 実はあの時母さんの知り合いが――』
読む。
『その時彼はこう言ったのだ! 近所のファミレスのフォークがどう見ても使用済みで――』
読む。
『しかし兄はこういったことが大得意でな! お前は知らんかもしれんが――』
読む。
『親戚はあんぐりと口を開けていたぞ! まさか奴がそんなことを出来るだなんて思わず――』
読む――
……が。
『年末年始には手すきになるから、ちょうどその時を狙って――』
その話は。
延々と、延々と続き……
『お父さんの母校がな――』
……数ページを、流し読みしたところ。
『――そういえばあの時は』
「――なっげぇーよ前置きがぁッ!!」
あろうことか、まだ『世間話』は続いていたので。
高橋は思わず、力の限り、手帳を壁に打ち付けていた。
どこか寂しげに床に落ちる手帳。
父からの大事な贈り物を、ぞんざいに――なんて考えは、その時ばかりは消し飛んでいた。
和ませようという気持ちはわからんでもないが――それにしたってやり過ぎだろう! ……彼女は、今すぐにでも、その怒りをぶちまけたくなった。
「……、……」
ただ
もう全部すっ飛ばしちまおう――と、ぺらぺらとページをめくった。再びの筆文字――『第一章 始まりの一歩!!』という待ち望んだ表題が見えたのは、実に十数ページを捲った頃だった。……手帳は前編と後編に分かれているが。この無意味な世間話が無ければ、一冊にまとめられたのでは?
ともあれ――その肝心の『最初』を目にする。
色々と長らく書いてあったが、結論的には――ひと言でまとめられそうだった。……まずするべきなのは。
『一、 担当と綿密に話し合いをせよ!!』
「――じゃあ、適性は砂のマイル距離……ってことだね」
「はいっ、確かそんな感じでしたっ!」
目的地を決めずに走る電車が無いように、旅立つにまず目的地を決めるのは重要だし、当然のことだ。
ただ、適当に見つけていいものではない。適切に見つけるために――まず何が出来るのか、を明確にする必要がある。
砂のマイル距離。フェアリィルナの主戦場(自己申告)はそこ、とのことだった。
であれば、目指すべき場所は絞り込まれてくる。
「……じゃあ最終目標は、チャンピオンズカップとかJBCレディスクラシックとか……あと南部杯とかも入るのかな」
「おぉ~……なんか凄そうですね!」
「いや、実際凄いよ、どれもG1だし……」
ダートの世界は芝と比べると狭いものの、決して簡単なわけではない。世界的に認められている名誉ある賞も幾つもある。
嘗めて掛かっていい世界じゃない――相応の覚悟を以て、挑まなくてはならないのである。
「……どうしよ。とりあえず、一番スパンが長いチャンピオンズカップかな。目指すなら……」
例年なら12月前半。今はまだギリギリ年末。準備する時間は無いわけではない。ひとまずの目標なら、達成出来るかどうかは置いておくとして、悪くないもののはず。
「どう? 何かこう……特別、挑戦したいところとか……ある?」
「いえ! 大丈夫です! それでお願いします!!」
考えるつもりがないのか、考え方が分からないのか。元気よく返事をしたフェアリィに、担当は少し呆れ気味になりながらも、おっけい、と返した。
「じゃ、最終目標は一旦そこで。で……えっと。確かキミは、キャリアで1勝はしてるんだっけ」
「はいっ! なんとか一回は勝たせてもらってます!」
142戦6勝。今改めて考えてみてもとんでもない戦績だが、勝ちは勝ち。順当に進めて行ければ、目標にも十分に間に合う。
「――おし、じゃあ直近の目標は、年明けのポルックスステークス*2で! そこで一回調子を見よう! それで出てきた課題を洗い出してトレーニングして……って感じで!」
「おぉ……なんかそれっぽくていいですね! わかりましたっ!!」
フェアリィの気合いは十分。怖気付いている感じもない。よし、と手応えを感じた高橋は、急速に視界が開けた感じに、開放感すら覚える。
最初は怖かったけど。いざ始めてみれば、とんとんと進んでくれるものだ。
手帳の存在はあるにしろ。こうして目標まで順調に決められたのなら。
きっと。そう、きっと。この子を、きっといいウマ娘に――
「……」
「……? トレーナーさん?」
「――……へっ? あ、何?」
「いえ! なんか、急に真剣な表情になったので……どうしたのかなって」
「え……い、いや……全然……?」
あれー? と不思議そうな声を上げるフェアリィ。対する高橋は……開けたはずの視界に、一瞬翳りが見えたような。霧が立ち込めたような感覚に苛まれる。
……あれ?
合ってるよね、あたし。
手帳の通りにした。適切に目的を設定した。そのために道筋を開いたはずだった。なのに……なのに、心の中は、達成感ばかりではない。じわり、と、如何ともしがたい違和感が、滲んでくる。
……そうだよね。
合ってる、はずだよね。
間違ってない――はず、だよね。
それなのに。
……なんだこれ。
なんだ、この、違和感。
あたし、何か。な、何か――
何か、重要なことを。
見落としてないか――……?
男は、『それ』の前に座り込むと、持参した缶ビールのプルタブを開け、豪快に煽った。
一仕事終えたように深く息を吐くと、感傷に浸るように『それ』を見上げる。
「……お彼岸でもお盆でもないのに、来て悪かったな、親父」
長大な黒い立方体。
『高橋家之墓』と銘打たれた石塔に、彼は独り言ちる。
「今日、アイツがようやく担当を見つけたらしい。やれやれ。ここまでよくやったもんだ。あの根性、アンタに似たのかもしれないな」
それに答える声はない。環境音も満足に響かない世界の中で、彼はもう一度缶ビールを煽る。前方に戻った視線は――
程なく、どこか厳格に下がっていた。
「……けど、覚悟を決めろよ」
そう。そこに、『彼』とは別の姿を見ながら。
試すかのように、言っていた。
「競レースは……お前が考えるほど、簡単じゃないし、
お前が思うほど、
甘くもないぞ」
――そして、高橋は。
年明けになって――その違和感の正体を、知ることになった。
『着順確定――着順確定しました――……』
――あぁ、そうだ。
どうしてあたしは、気付かなかったんだ。
あらゆる世界で、表出する傑物なんてひとつまみ。
その足元に、何百、何千、何万もの屍が転がっている。
傑物じゃない方が、普通なのだ。
「……」
どうして、気付かなかったのだろう。
どうして、思い至らなかったのだろう。
――どうして。
あの子を、『天才だ』と、思ったのだろう――……
あの子は。
『天才』じゃない。
あの子は――……
――████年1月12日。
オープン戦、ポルックスステークス、場所、中山競レース場――16頭立て。
フェアリィルナ、着順――
――16着。
泥に塗れた私たちへ
run into the mudness
起章
-fin-