泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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始まりの一歩、ですっ!

デーン デデデーン デデデデーン デデーン

 

デデデーン デデーン デーンデーン デーンデデーン

 

…デーン♪

 

公益財団法人

日本競レース振興委員会提供

学ぼう! 楽しもう!

☆競レースの世界☆

 

 

 

 

 

やぁ☆ ボク、レス男! 年がら年中レースに浸っている、レースマニアボーイさ!

今日も、全国の小っちゃいお友だちの、レースに関する素朴な疑問に、ばっさりあっさり答えていこうと思うよ! みんな、よろしくね!

 

 

Q.レースって、かけっこと違うの?

 

 

ンー、ン、ン、ンンー!! いい質問だ! レースと駆けっこは、丸っきり違うよ☆

 

例えば駆けっこをした時、みんなはどんなことを考える? あいつよりも先に! ボクが一番だ! 好きなあの子にいいとこ見せたい! 色々あると思うけど、みんな、とにかく速く走ることだけを考えるよね☆

そして、たとえ負けたって、ちょっと悔しがるだけ、ちょっと取っ組み合いの喧嘩が起きるだけ! 自分や相手が傷ついたりしても、そこだけの話。無関係な人たちには、何にも嫌なことは起きないよね!

 

でも、レースの世界はちょっと違うんだ!

 

誰よりも早くゴールに着くこと、って部分では同じだけど、そこに至るまでに、色んな事を考えるんだよ。

ここはまだ全力で走らないべき、有利なところに位置取りする、コーナーを無駄なく走る……みたいにね!

しかも負けたら、悔しい想いをするのは自分だけじゃない。自分を応援してくれる、何十、何百、何千ものファンのみんなも、悔しがることになるんだ。

背負っているものの大きさ、そして考えることの多さ! それが駆けっことの一番の違いだね!*1

 

だからみんな、くれぐれも競レース選手の前で、レースなんて駆けっこと一緒なんて言っちゃあ駄目だよ! 怒りを買った選手のみんなに、八つ裂きにされても文句言えないからね☆

 

一番のために、ファンのために、そして夢のために!

誰もが全力で頑張る魂の競技!

生半可な覚悟じゃ渡って行けない厳しい世界――

 

 

 

それが、競レースというものなんだ☆

 

 

 

『――あ? 辞める?』

 

 意味もなく点けたテレビ画面の垂れ流す、児童向け教育番組を観るでもなく観ながら通話をする高橋は、うん、とか細い声で応じていた。

 数秒の無言が、奇妙なもののように感じられる。相手――彼女の実兄は、粗暴な言動ながらも面倒見のいいリアリストだ。

 以前、意地でもトレーナーを続けると宣言した彼女に、嫌味のエッセンスを含んだ心配を口にしたことから、こんな相談も、二つ返事で肯定するとばかり思っていた。

 まさか、そんな反応をされるとは思っていなかった。

 

『……また急にどうしたんだよ。らしくねぇな』

 

 そして彼もまた、彼女がそんな弱音を急に吐いたことが奇妙だった。迷いを孕んだ声色で、彼女に問う。

 

『この間LANEで担当が出来た! ってはしゃいでたろ。まさか流れたのか?』

「うぅん。流れてない……まだ、保留中。でも……やっぱり、取り下げようかなって思ってて」

『なんか悪いもんでも食ったのか?』

 

 彼が困惑するのも無理はなかった。狂気的なまでにトレーナー業に執着していた彼女が、突如としてこんなことを言い出すのだから。気分は整備不良のジェットコースター、頂点から急速に下ったかと思えば、その途中で急停車されたようなもの。

 投げ出されずに着いていけているのは、彼の冷静さの賜物と言える。

 

「……」

 

 彼女は、すぐには答えない。目当てのものを探すように、脳内という名の暗闇を素手で弄った。そうして引っ張り出されるのは、目を潰されるほどに眩く輝くレースの記憶だ。

 僅か一日前の有マ記念。目の当たりにしたすさまじいレースの熱。それをどこか冷めた目で見つめていた自分。そんな自分を――

 見抜いて。咎めるかのように射貫いた、『暴君』の瞳。

 

 あの時、彼女は直感した。あぁ――自分は間違っていたのだ、と。

 フェアリィルナという『落ちこぼれ』を、自分の箔のように扱おうとする。

 そんな考え方が――あまりに浅はかだったのだ、と。

 

「……正直嘗めてた」

 

 彼女は、包み隠すことなく言う。

 

「あたしには才能がある、って思ってたし、今は少し時期が悪いだけ、って思ってた。あの子は『繋ぎ』で……そのうち運に恵まれる、って思ってた。……でも違ってた。その考え方が……間違ってたんだ」

 

 テレビ上では、既に別の児童向け番組が続いている。何を模したかもわからないコミカルな着ぐるみが、楽しげな歌を歌っている。

 

「――レースは、箔のためじゃない」

 

 繋ぎのためじゃない。

 橋渡しのためじゃない。

 娯楽のためじゃない。

 一時の安らぎのためじゃ――ない。

 

「みんながみんな、それぞれの夢と目標を以て……直向きに向き合ってる、競技なんだよ」

 

 それは理想であり。

 それは夢であり。

 願いであり、

 祈りであり、

 未来であった。

 

「……『暴君』のレースで、それを思い知った。あの人は、あたしに突き付けたんだ。契約するのはいい。でも、本当にそれでいいのか、って」

 

 お前が飛び込もうとしている世界は。

 こういう世界なんだぞ――と。

 

「……あたしに、そこまでの覚悟、ない」

 

 怯えた。

 恐れた。

 怖がった。

 こんな生半可な覚悟じゃ――やっていけないし、それを抱けるとも思わない。そう、思ってしまったのだ。

 

「だから……」

 

 もう。

 いいかなって。

 そう考え至ったのだ。

 

『……』

 

 兄は、再びの無言。いつもは陽気で、自分に対してですら、容赦なく牙を剝く跳ねっかえりの妹。

 その彼女がここまで意気消沈するのを見るのは、中学時代のテストにて、人生初の一桁台の点数を取った時以来だった。

 比較対象は可愛らしくも――そこに感じる深刻さは、尋常ではない。

 

『……、』

 

 彼は、どう声を掛ければいいかわからなくなる。

 生活費を工面している以上、彼女が夢を諦めるということは、自分の生活が多少楽になることでもある。

 だがそれを、事もあろうに本人の前で、手放しで喜ぼうというほど――彼も堕落した人間性をしていない。

 これまで散々、その目標に反対してきた身ではあるが。

 かといって、それをいざ目の当たりにすると――ならそうしろ、などとあっさりと告げられもしない。

 心の中の良心は、それでもこれまで泥臭く足掻いてきた彼女への、最後の希望に縋ろうとしていた。

 

『……まぁ、だからっつって、一方的にやっぱナシにして、も寝覚めが悪いだろ』

 

 結果として彼は、そのように告げていた。

 

『まずはその担当(仮)と一度話し合え。そうじゃないと、向こうも満足に動けないだろ』

 

 時間は有限。

 契約を保留した状態で、あぁでもないこうでもないと迷う時間は、お互いのためにならない。

 契約しないならしないで。するならするで。さっさと話をしなくては。そうでなくては……

 お互い、どこへも行けなくなってしまう。

 

『それに向こうは、そのつもりじゃないかもしれないしな』

「……喧嘩になったらどうしよ」

『んなことにビビッてどうすんだよ』

 

 弱腰に言う彼女に、彼は呆れて言った。いや、それはもはや、呆れを通り越して、怒りですらあった。

 

『最後の仕事だと思って気張って来い。もっと気まずくなる前にな』

「……うん」

 

 彼なりの激励に彼女は頷くが、その様子は追い詰められた獲物のようで、声も依然としてか細かった。

 テレビ画面では――相変わらず、愉快な音楽が流れ続けていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 自分の考えが、言わずとも伝わればいいのに。

 などと、高橋は考えたことがある。

 例えば口にするのが面倒な時。例えば気恥ずかしくて言えない時。例えば勇気が無くて言えない時。例えば――

 

 ――気まずくて、口に出せない時。

 

 フェアリィルナに連絡はした。後はトレーナー室で待つだけ。誰かを呼び出す経験もないことも手伝って、感じる緊張は強い。

 底抜けに明るく、前向きな少女――それは、まともに関わって数日を数えるばかりの彼女にも察せられた。早くもその表情が、暗く沈む光景を想像出来ないほどに。別に、何ともなしに終わるだろう――そんな風に考える自分はいるが。

 万に一つ――激昂して。

 自分を虫けらのように見捨てるのではないか、という考えもある。

 

 ただ、そうなっても仕方がないと思う自分もまたいた。それだけのことをしてしまったのだ、という自覚もあった。

 しかし、自覚と覚悟はまた別のモノだ。動悸を理論で説き伏せようにも、上手くはいかない。むしろ高まっていく一方だ。息苦しくて、このまま窒息してもおかしくないとさえ感じる。

 

 ――いっそ急用とか言って逃げ出してしまおうか。実行の一歩手前までいっているそれを踏み止まらせるのは、僅かばかり残った理性と、兄の言葉。

 乗り越えなくては、にっちもさっちもいかない――何度目かの堂々巡りの納得の末に。

 結局彼女は待つ。ただ、ただ待つ。待って、待って、待ち続ける――

 

「……」

 

 耳を澄ませば、色々な音が聞こえる。時計の針の音。遠くに聞こえる喧騒。ふと立ち上がり、窓辺に近付いて、外を確認してみた。

 遠くに見えるグラウンドで、生徒たちが練習に励んでいる。さすがに表情までもは確認出来ないが、醸し出されている雰囲気は真剣そのものだ。

 それを見ていると、自分が場違いである感覚が、更に深まっていく。

 

 なぜお前がここにいる。

 どうしてまだ留まっている。

 ここにいる意味などない、さっさと立ち去ってしまえばいいものを。

 選ばれた者のための舞台、限られた者だけの世界だ。

 

 オマエなど、ここに必要ない――

 

「……っ」

 

 そんなことを、何者かに投げかけられたような気がして。

 視線を下げ、手を強く握っていた。

 惨めで、苦しくて、悔しくて――

 熱くなった目頭から、涙が零れそうにな「しっつれいしまぁぁぁぁっす!!」

 

 ……なったが。

 すぐさま、引っ込んでいた――言葉が。

 超音量による声を伴い、飛び込んできていたからである。

 

「――……」

 

 高橋は弾かれたように振り返っていた。

 今やトレーナー室のドアは開かれ、そこに息を切らして立っているのは――一人の生徒。

 

 フェアリィルナだった。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 つい世間話に夢中になった、とのことだった。

 

「いやぁー、フェアリィとしたことが……ついつい盛り上がっちゃってですね」

 

 席に着いたフェアリィは、恥ずかしそうに後頭部を掻きながら、彼女に話す。

 

「スイープさんには感謝ですねっ。あの時『そういやアンタ用事は?』って言ってくれたので……でなかったら、もう数十分くらい遅れたかもしれないです……」

 

 いっそ来なくて良かったのに――という考えを、高橋は振り払う。もう彼女は目の前にいるのだ、今更逃げることなんて出来ない。

 向き合わなくちゃ。話さなくちゃ。ちゃんと言わなくちゃ――

 自分の考えを。これから、どうするのかを――

 

「それで……お話ってなんですか?」

「……」

 

 無垢なまでに首を傾げるフェアリィを見ていると、ずきりと胸が痛む感覚がする。これから、それを壊してしまうかもしれない――そう思いながらも。

 

「……あの、」

 

 彼女は、絞り出すように、言う。

 

「あの、さ」

「はいっ」

「契約の話だけど……」

「――あ! はい、そうですね! そういえば今日――」

「ごめん」

 

 いかにも浮かれた風なフェアリィルナを、地上へ引き戻すみたいに。高橋は頭を下げた。

 

「……やっぱり、無しにして」

 

 ――……訪れるのは沈黙。

 暖まりかけた空気に、冷たい雨が打ち付け始めたような感覚。

 それにじわじわと絞めつけられ、彼女はやはりそこから逃げ出したくなってしまう。

 留めていたのは、兄の言葉だった――最後の自分の義務。

 

 果たすべき責務。

 

 脳裏に辞表という言葉を思い描きながら――口の中にぐるぐると回るのは。

 経緯、という名の弁明だった。

 

「……あたしね」

 

 許しを請うためか。あるいは罰を下してほしいからか。

 どちらにせよ、彼女の声は、縋るようなそれだった。

 口の中に含んでいた言葉が、驚くほどつらつらと、整列して流れ出ていく。

 

 フェアリィルナを、箔にしようとしたこと。

 それをオルフェーヴルに見抜かれたこと。

 有マ記念で、目撃したこと。

 ……それを受けて、感じたこと。

 

「……」

 

 一連の話を終えても、なお、静寂は立ち消えない。

 それどころか、更にその存在感を増したようでさえある。

 形のない質量に、押し潰されそうになりながら――

 

「……だから、ごめん」

 

 高橋は、言葉を結んでいた。

 

「あなたとの契約は……無かったことに、しようと思う」

 

 それが誠実だから。

 そうでないといけないから。

 そうであるべきだから。

 そうでないと、いけないから――……

 

「……」

 

 フェアリィルナの顔を、高橋はまともに見られなかった。

 教師と生徒の立場のはずなのに、それがすっかり逆転してしまっている。

 心はすっかり対抗してしまっていて。

 自分の方が、叱られている生徒の気分宛らだった。

 

 かちり、かちり、と時計が時を刻む。

 どこか遠くで、何某かの喧騒が響く。

 フェアリィルナは今、何を思い、考えているのだろう。

 高橋がそう考えた矢先――

 

「――、」

 

 息を吸う音がした。

 きゅっと彼女は目を強く閉じる。

 何を言われてもいいように。何があってもいいように。そうして、覚悟を決めて――

 

「そうですか、」

 

 果たして紡がれた言葉は――

 高橋の耳には、どんな色も伴っていないように感じられた。

 

「わかりました」

 

 あっさりと。

 淡白なまでに続けられたその言葉に、彼女は思わず顔を上げる。

 罵倒でも、失望でも、幻滅でも、悲哀でもない。予想したどの感情とも違うそれに。

 

 自分の聞き間違いか?

 自身の気のせいか。

 確かめようと、捉えた彼女の表情は、

 

 

 

 虚無。

 あるいは静寂、だった。

 

 

 

 言語化すれば、『やっぱりな』、というような。

 最初から、その結末を予見していたかのようなもの。

 悲しむでもなく、怒るでもない。

 訪れるべき未来を、ただありのままに受け取った――みたいな顔。

 

「――にししっ。いやー、ちょっと浮かれちゃいましたね! そんなこと、私にもわかってたのに」

 

 ただ、それが見えたのは一瞬だった。

 すぐさま浮かべられた次なる表情――明るい笑顔が、それを上書きする。

 いや――上書き? それは違う。それは上書きというよりも、ふとした拍子に零れ落ちた仮面をつけ直す、みたいな感覚に近い。

 高橋は、ふと見えたその一連の行動の隙間に、何か真理めいたものを見たような気がした。

 

 ……え?

 そうなの?

 そんな言葉が、彼女の胸の中を満たしていく。

 

 何か変わったウマ娘が転校してきた。そんな話は小耳に挟んでいた。

 底抜けに明るくて、異様なほどに声の大きい誰かさん。

 そんなのとは出来るだけ関わりたくないな、面倒そうだし――なんて思った矢先に、目の前に現れた張本人。

 ――使える。抱いた感想はシンプルなそれだったはずだ。

 

 でも、違うのか。

 もしかして――違うのか。

『それ』はまさか――あなたの、『本質』じゃないのか?

 

 今一瞬だけ見えた。ほんの少しだけ垣間見えた。その虚無が。その諦観が。その悟りが。

 あなたの、本当なのではないのか?

 

「ゴメイワクおかけしてすみません! 私はそれで大丈夫ですよ!」

 

 ぐるぐる回る思考の中に、フェアリィの声が飛び込んでくる。自分の中の確信という結論が、それによって淀んでいく。惑わされた高橋は、改めて彼女の顔を見ていた――そこに、もはやあの表情の面影などない。

 

「でも、何か手続きとか必要なのでしょうか? 迷惑料とか……はっ、もしや慰謝料……裁判沙汰にまでなったりして……!」

「い……いや。さすがにそこまではいかないけど……迷惑かけたのはこっちだし」

「そうですか。よかったー」

 

 胸を撫で下ろすフェアリィに、そんなことしてる場合じゃないだろう、とツッコむ余裕もなかった。ガタン、と彼女は勢いよく立ち上がる。

 

「それじゃっ、フェアリィはここで失礼しますねっ!」

「え」

「トレーナーさんにも、色々用事があると思いますんで! フェアリィがそれを邪魔するわけにはいきません!」

「え。いや、ちょっと――」

「それではっ!」

 

 忙しなく言い、踵を返したフェアリィルナは、部屋から退室しようとする。

 全ての動きが、高橋の目には、スローモーションになったように思われた。

 

 ――いいのかこれで。

 

 世界そのものがイキモノとなり、彼女に迫ってくる。

 

 ――いいのか、これで?

 

 納得したはずなのに、声無きその問いかけは、実はそんなことはないだろうと知った口を利いていた。

 脳裏に。

 ふと、いつかの映像が過ぎる。

 

 ……父は、腕利きのトレーナーであった。

 

 国中を震撼させるほどではなかったが、それでも担当したウマ娘のほとんどが重賞入賞を経験し、笑顔で彼の元から巣立っていった。

 ――そう。

 ()()()()()重賞入賞を経験した。

 

 そんな父でも、()()()()()はあった。

 全てを『幸せ』にすることは、出来なかった。

 

『――いいか、よく聞け『まゆ』』

 

 父が、自分に呼びかける。

 一人のウマ娘が立ち去っていくのを見ながら、言う。

 

『トレーナーってのはな、ウマ娘を『幸せ』にするのが務めだ』

 

 自分も、その光景を見つめながら聞く。

 直前に見た、そのウマ娘の顔を思い出しながら。

 聞く――

 

 

 

『――『あんな顔はな』、

 させちゃいけねぇんだ――』

 

 

 

 

 

 バンッ

 

 

 

「――ッ!?」

 

 フェアリィルナが、弾かれたように振り向く。

 部屋中に、強烈な物音が響いたからだろう。

 その出所は、高橋の手元――彼女が、思い切り机を叩いたことで発せられたものだった。

 

「……と、トレーナーさん……?」

 

 恐る恐る、といった風に、高橋に呼びかけるフェアリィ。

 彼女は、ゆっくりと顔を上げていた。

 見るからに困惑しているフェアリィを、高橋は見つめつつ――

 

「――、」

 

 息を吸い。

 言った。

 

「――無しで」

「へ……?」

「今の――やっぱ、無しで」

「……??」

 

 首を傾げるフェアリィに、高橋はいよいよ覚悟を決める。

 そうだ――どうして忘れていたんだ。

 

 トレーナーは、ウマ娘を幸せにするのが仕事。

 何であれ――『不幸せ』にすることが、あってはならない。

 それがどんな結末でも。どんな未来でも。希望と言い張れるモノにしなくちゃいけないのだ。

 

 ――あんな顔を。

 浮かべさせちゃ、いけないんだ――……

 

 ……そうだ。

 自分は、オルフェーヴルに言っていたじゃないか。

 どうせ自分以外に、彼女と契約する人なんていない。

 

 それはきっと事実だ。決まっている未来だ。年を越せば三年目――そこに来て、選抜レースですらろくに勝てない『最弱』を、取る物好きなんていない。

 この子の運命は。

 この子の命運は。

 自分の。自分だけの。双肩にかかっているのだ。

 

 オルフェーヴルさん。

 お父さん。

 あたしに、覚悟なんて出来ていない。あんな狂気的な戦場に飛び込む勇気なんて、ない。

 でもこの子は。私が手に取ったこの子は。目の前にいるこの子は。この子だけは――

 

 

 

 ――きっと私が。

 幸せにしなくちゃ、いけないんだ――……!!

 

 

 

 

「……ごめんね。試すようなことして」

 

 高橋は言う。

 

「そうだよね。こんなこと……言わせるべきじゃなかった。ごめん。本当に、ごめんね」

「あの。トレーナーさん……?」

「フェアリィルナさん!」

「ひゃいっ!」

 

 突然声を張り上げた高橋に、さしものフェアリィも驚く。素っ頓狂な声に、ハッと我に返った高橋は、一つ短めに深呼吸をして気を取り直す。

 

「……あたしは、とんでもない未熟者です」

 

 そして――続ける。

 

「ここに赴任してから、1年くらい……担当が着かなかった、青二才です」

「……はい」

「でも! 真剣に担当と向き合う情熱は、失ってないつもりです!」

 

 若干嘘だった。

 本当は失いかけていた。本当は忘れかけていた。本当は、本当は、投げ出そうとすら、考えていた。

 

 でも、もう。

 ここまで来たのなら、もう──

 

「……っ、」

 

 逃げない。彼女は、心に決めていた。

 

「だから、だから、フェアリィルナちゃん……」

 

 だから。

 だから――

 

「こんなあたしで、良ければ……

 

 あたしと、契約してください!」

 

「……」

 

 ……深々と一礼しつつのそれは、まるでプロポーズのようだった。

 その頼み方が、あまりに予想外だったからか。あるいは、依然として、一連の言葉の意味を把握出来ていないからか。フェアリィは、しばし無言を保っていたが。

 

「……、」

 

やがて、どこか満足げに笑うと。

 

「はいっ、

 

 喜んでっ!」

 

「──!」

 

 高橋は顔を上げる。傾きかけた陽に照らされたフェアリィルナの顔は、晴れ晴れとしていて――

 少なくともそれが、『仮面』ではないことを本能的に感じ取ると、彼女もまた、優しい微笑みに口元を緩ませていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 決心した高橋の行動は早かった。

 トレーナー寮の自室──あれだけ心配してくれた兄への連絡も程々に、弄るのは長らく放置していたダンボール箱。

 色々を乱雑に取り出したせいで、周囲はひどい有様だった。

 

 あれでもない、これでもない、と、その様相が更に深刻さを増していく。

 ほぼほぼ、段ボールの中身が底をついてきた頃。

 

「――!」

 

 彼女は、とうとう目的のモノを見つけていた。

 

「あった……!」

 

 それは、二冊のメモ帳。

 中央への赴任が決まった時、念のために、と持ち込んだもの。

 尊敬する父が、彼女に託した――『道しるべ』。

 

 ――『新人トレーナー指南』、前編後編、とそれぞれ、その表面に銘打たれていた。

 

 ここ最近の憂鬱な毎日のせいで、その存在すら記憶の彼方に消え去っていた。

 いけしゃあしゃあと感じながらも、彼女はそれを祈るように額にくっつける。

 

 ――お父さん、あたし、今日、ようやく担当が着いたよ。

 ――でも正直、あの子を、ちゃんと導ける自信、無い。

 ――だから――お願い。こんなこと、虫のいい話だとは思うけど……

 

 

 ――あたしに。

 ――力を貸して。

 

 

「……」

 

 ごくり、と固唾を飲み、彼女は、まず前編の手帳をめくる。

 まず目に飛び込んできたのは――大仰な筆文字。『新人トレーナー指南書 前編!!』――そういえば父は字が上手かったな、と思いながら、なんで既に表紙に書いてあることをまた書いてるんだ、ともツッコんでいた。

 

 もう一枚めくる。

 相変わらず綺麗な文体で、次に書かれていたのは――どうやら、前置きらしかった。

 

『前文! 我が愛娘へ この手帳を読んでいるということは、無事に担当が着いたものの、どうすればいいかわからない状態だということだろう!』

 

 頭の中に、彼の尊大な声が再生されるかのようだ。そしてその文は、彼女の現況を奇妙なまでに言い当てていた。

 

『しかし安心せよ! この手帳を読み終える頃には、お前も担当も、きっと素晴らしいコンビになっていることだろうからな!』

「……どうだかね」

 

 ぽつりと独り言ちる。父の手腕は確かなものだが、その教えを確かなものと出来るかは、全て自分の手腕にかかっている。

 ……本当に出来るのか?

 依然として振り切れない不安が、漠然と自分の背筋をなぞる。

 

『さて、早速指南の方に移ろうかと思うが……しかし何事も前置きが大事だ!! まずは世間話でもして肩の力を抜こう!』

「世間話……?」

 

 指南書で世間話……? と彼女は訝しみながらも、その先を読む。

 

『こいつを書いているのは、████年の4月頃だ! ちょうどお前が大学に入学した頃だな! 実はあの時母さんの知り合いが――』

 

 読む。

 

『その時彼はこう言ったのだ! 近所のファミレスのフォークがどう見ても使用済みで――』

 

 読む。

 

『しかし兄はこういったことが大得意でな! お前は知らんかもしれんが――』

 

 読む。

 

『親戚はあんぐりと口を開けていたぞ! まさか奴がそんなことを出来るだなんて思わず――』

 

 読む――

 ……が。

 

『年末年始には手すきになるから、ちょうどその時を狙って――』

 

 その話は。

 延々と、延々と続き……

 

『お父さんの母校がな――』

 

 ……数ページを、流し読みしたところ。

 

『――そういえばあの時は』

「――なっげぇーよ前置きがぁッ!!」

 

 あろうことか、まだ『世間話』は続いていたので。

 高橋は思わず、力の限り、手帳を壁に打ち付けていた。

 

 どこか寂しげに床に落ちる手帳。

 父からの大事な贈り物を、ぞんざいに――なんて考えは、その時ばかりは消し飛んでいた。

 和ませようという気持ちはわからんでもないが――それにしたってやり過ぎだろう! ……彼女は、今すぐにでも、その怒りをぶちまけたくなった。

 

「……、……」

 

 ただ()()()()()()()事をよく理解している彼女は、一つ、二つと呼吸を置き、冷静になって、手帳を拾い上げる。

 

 もう全部すっ飛ばしちまおう――と、ぺらぺらとページをめくった。再びの筆文字――『第一章 始まりの一歩!!』という待ち望んだ表題が見えたのは、実に十数ページを捲った頃だった。……手帳は前編と後編に分かれているが。この無意味な世間話が無ければ、一冊にまとめられたのでは?

 ともあれ――その肝心の『最初』を目にする。

 色々と長らく書いてあったが、結論的には――ひと言でまとめられそうだった。……まずするべきなのは。

 

 

 

『一、 担当と綿密に話し合いをせよ!!』

 

 

 

「――じゃあ、適性は砂のマイル距離……ってことだね」

「はいっ、確かそんな感じでしたっ!」

 

 目的地を決めずに走る電車が無いように、旅立つにまず目的地を決めるのは重要だし、当然のことだ。

 ただ、適当に見つけていいものではない。適切に見つけるために――まず何が出来るのか、を明確にする必要がある。

 砂のマイル距離。フェアリィルナの主戦場(自己申告)はそこ、とのことだった。

 であれば、目指すべき場所は絞り込まれてくる。

 

「……じゃあ最終目標は、チャンピオンズカップとかJBCレディスクラシックとか……あと南部杯とかも入るのかな」

「おぉ~……なんか凄そうですね!」

「いや、実際凄いよ、どれもG1だし……」

 

 ダートの世界は芝と比べると狭いものの、決して簡単なわけではない。世界的に認められている名誉ある賞も幾つもある。

 嘗めて掛かっていい世界じゃない――相応の覚悟を以て、挑まなくてはならないのである。

 

「……どうしよ。とりあえず、一番スパンが長いチャンピオンズカップかな。目指すなら……」

 

 例年なら12月前半。今はまだギリギリ年末。準備する時間は無いわけではない。ひとまずの目標なら、達成出来るかどうかは置いておくとして、悪くないもののはず。

 

「どう? 何かこう……特別、挑戦したいところとか……ある?」

「いえ! 大丈夫です! それでお願いします!!」

 

 考えるつもりがないのか、考え方が分からないのか。元気よく返事をしたフェアリィに、担当は少し呆れ気味になりながらも、おっけい、と返した。

 

「じゃ、最終目標は一旦そこで。で……えっと。確かキミは、キャリアで1勝はしてるんだっけ」

「はいっ! なんとか一回は勝たせてもらってます!」

 

 142戦6勝。今改めて考えてみてもとんでもない戦績だが、勝ちは勝ち。順当に進めて行ければ、目標にも十分に間に合う。

 

「――おし、じゃあ直近の目標は、年明けのポルックスステークス*2で! そこで一回調子を見よう! それで出てきた課題を洗い出してトレーニングして……って感じで!」

「おぉ……なんかそれっぽくていいですね! わかりましたっ!!」

 

 フェアリィの気合いは十分。怖気付いている感じもない。よし、と手応えを感じた高橋は、急速に視界が開けた感じに、開放感すら覚える。

 最初は怖かったけど。いざ始めてみれば、とんとんと進んでくれるものだ。

 

 手帳の存在はあるにしろ。こうして目標まで順調に決められたのなら。

 きっと。そう、きっと。この子を、きっといいウマ娘に――

 

 

 

 

 

 じわ

 

 

 

 

 

「……」

「……? トレーナーさん?」

「――……へっ? あ、何?」

「いえ! なんか、急に真剣な表情になったので……どうしたのかなって」

「え……い、いや……全然……?」

 

 あれー? と不思議そうな声を上げるフェアリィ。対する高橋は……開けたはずの視界に、一瞬翳りが見えたような。霧が立ち込めたような感覚に苛まれる。

 

 ……あれ?

 合ってるよね、あたし。

 手帳の通りにした。適切に目的を設定した。そのために道筋を開いたはずだった。なのに……なのに、心の中は、達成感ばかりではない。じわり、と、如何ともしがたい違和感が、滲んでくる。

 

 ……そうだよね。

 合ってる、はずだよね。

 間違ってない――はず、だよね。

 それなのに。

 

 ……なんだこれ。

 なんだ、この、違和感。

 あたし、何か。な、何か――

 

 

 

 何か、重要なことを。

 見落としてないか――……?

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 男は、『それ』の前に座り込むと、持参した缶ビールのプルタブを開け、豪快に煽った。

 一仕事終えたように深く息を吐くと、感傷に浸るように『それ』を見上げる。

 

「……お彼岸でもお盆でもないのに、来て悪かったな、親父」

 

 長大な黒い立方体。

『高橋家之墓』と銘打たれた石塔に、彼は独り言ちる。

 

「今日、アイツがようやく担当を見つけたらしい。やれやれ。ここまでよくやったもんだ。あの根性、アンタに似たのかもしれないな」

 

 それに答える声はない。環境音も満足に響かない世界の中で、彼はもう一度缶ビールを煽る。前方に戻った視線は――

 程なく、どこか厳格に下がっていた。

 

「……けど、覚悟を決めろよ」

 

 そう。そこに、『彼』とは別の姿を見ながら。

 試すかのように、言っていた。

 

「競レースは……お前が考えるほど、簡単じゃないし、

 

 お前が思うほど、

 甘くもないぞ」

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 ――そして、高橋は。

 年明けになって――その違和感の正体を、知ることになった。

 

『着順確定――着順確定しました――……』

 

 ――あぁ、そうだ。

 どうしてあたしは、気付かなかったんだ。

 

 あらゆる世界で、表出する傑物なんてひとつまみ。

 その足元に、何百、何千、何万もの屍が転がっている。

 傑物じゃない方が、普通なのだ。

 

「……」

 

 どうして、気付かなかったのだろう。

 どうして、思い至らなかったのだろう。

 

 ――どうして。

 あの子を、『天才だ』と、思ったのだろう――……

 

 あの子は。

『天才』じゃない。

 あの子は――……

 

 

 

『凡人』(普通)なんだ――

 

 

 

 ――████年1月12日。

 オープン戦、ポルックスステークス、場所、中山競レース場――16頭立て。

 

 フェアリィルナ、着順――

 

 

 

 

 

 ――16着。

 

 

 

Uma-musume

泥に塗れた私たちへ

run into the mudness

 

起章

 

-fin-

 

 

 

*1
もちろん、駆けっこをバカにしてるわけじゃないよ☆

*2
1月上旬に行われるオープン戦。

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