窓を開けると、春が歌っていた。
春風が吹く。風に乗った花の匂いに胸が詰まる。
葉が揺れる。視界いっぱいの緑に瞬きを忘れる。
眩しげな日に指を翳せば桜が見える。細い指を流れる鮮やかな血脈が、白んだ陽光に透けていた。
春風が吹く。空に揺れる命の色が飛んでいく。
葉が揺れる。春風が頬を撫でて鼓膜を揺らす。
──いっぱいだ、春。
ノートが風で捲れる音を耳で受け取りながら、燈は天文部の部室から外を眺めた。ぼんやりと外を眺め始めてかなりの時間が経ったように思ったが、実際のところはそうでもないようだ。視線の先にあるクジラを象った雲は、その巨大な体躯を動かすには至っていなかった。
燈はゆったりと呼吸を繰り返しながら、「ちょっと待って、飲み物買ってくる!」と告げた愛音の顔を頭に描いた。昼間のミルクティーは飲み切ったらしい。
「……っ、寒い」
吹き込んでくる風が冷たくて、羽織っていたブレザーを抱くように握る。冬が明けた春とはいえ、肌を撫でる風は未だどこか冷たさを帯びていた。夏が終わったかと思えば今年は秋らしい秋も感じることはなく、気が付けば冬ももう終わって、そうしてまた春から一年が始まろうとしている。景色の彩度がころころと変化するその繰り返しを、燈は気に入っていた。
肌を伝う風の温度。上空を泳ぐ雲の高さ。足元に敷かれる花のカーペット。陽に照らされたアスファルトの匂い。空を掻いて歌う野鳥。
幼いころから、季節とはそういうものだった。あらゆる感覚から、自分が見ている風景を俯瞰する。季節に伴って変わるその全てを文字にして、言葉にして並べてみる。そうして初めて、季節の変化を実感する。時間の経過というものはそれだけのものだった。
しかし今はそれだけではない。バンドを始めるようになって、時間はこんなにも早く進むのかと驚いたことすらあった。時間は進む。なんの憂いも淀みもなく。進んで、進んで、いつかは──。
「……え?」
ふと、燈は窓の向こうに滑らせていた視線を止めた。縫い付けられた視線の先には、まるで鮮やかな紅色の火を灯すように、枝先にぽつんと花を咲かせている木がある。十年近く春を書き留めてきた燈にとって、春の象徴である薄紅色と紅のコントラストは、やけに目を引く違和感だった。
「あれ、たしか……サザンカ?」
向けた視線の在処。燭台の先に一つだけ咲く小さな花は、燈の脳内で整然と並べられた春には存在しないものだ。あの赤い灯は本来ならばその花期をとうに飛び越えていて、蝋燭を立てたように咲き誇るはずの小さな木は、黒く茂った葉の中に一輪の花のみを灯すだけである。
「……寂しい」
ぽつんと、そんな言葉が喉をついて出ていく。
狂い咲き。本来の花期を過ぎた季節の外れ。通常よりも小さく弱弱しい花びら。狂い咲きとは往々にしてそういうものだということを燈は知っていたはずなのに、それがどうしようもなく寂しく見えた。
すぐにでも消えてしまいそうな灯から数メートル離れた場所を見れば、命の拍動を思わせる力強い薄紅色が舞っている。春風が吹けば景色を彩る花びらを口ずさむ鳥だとするのなら、小さな紅は翅を横たえた蝶々だろうか。花開くサザンカのすぐ隣で、花びらを散らしてしまった
──同じ木にいるのに、ひとりぼっちで。
息苦しそうで、悲しそうで。
どこかよじれて、曲がって、うまく咲けなくて。
それは例えば、形の違う石みたいな。
それは例えば、破れたノートの一頁みたいな。
それは例えば、海の底でひとりきりのクジラみたいな。
それは
──わたしみたいな。
びゅう、と一際強い風がボブカットの髪を揺らした。ソメイヨシノの葉が擦れる音に顔を上げる。その様に儚さを見出したのは誰だろう。ソメイヨシノであろうと、カンザクラであろうと、シダレザクラであろうと。桜と称されるその生命は、逞しく花を咲かせ、散り際にまで価値を持つ。桜以上にその生きざまを美しく魅せる命は、使い古したアジサイのノートにも書かれてはいない。
反して、隣で寂し気に咲くサザンカからは命の力強さをまるで感じられなかった。
狂い咲きの花は早くに散る。それは本来咲かない時期に花を灯すことに対する、当然の代償だ。
けれど、その事実をなんの感慨もなく呑み込めるかはまた別の話だった。
綺麗に咲けなくて、長く咲けなくて、みんなと一緒に咲けなくて。
誰の記憶に残ることもなく、気が付いたころにはその灯を消すのだとしたら。それはなんて悲しいのだろう。
それは嫌だ。ぼくはきみに散ってほしくない。悲しいきみ。寂しいきみ。泣きそうになるくらい、独りのきみ。子供じみた幻想で、わがままで。されど、願わずにはいられない。
──どうか、時が止まってくれれば。
なんて、思ってから燈は
時が止まるはずがない。花が散らないはずがない。
だってそれを認めてしまえば、かつての別離は何だったと言うのか。あの別れを手放さずに、そっと胸に抱いている私は。大切に仕舞っているそよちゃんは。涙をのみこんだ立希ちゃんは。今まで乗り越えて積み上げてきたモノは、何だと言うのか。
時間は進む。なんの憂いも淀みもなく。進んで、進んで、いつかは──
「……終わる」
燈だって同じだ。人間というカテゴリに属する以上、終わりは存在する。一生、なんて言葉も年月にしてしまえば長くても八十年かそこらで、あのサザンカとはスケールが違うだけの話。
そこまで考えて、燈は背筋がぞくりと粟立つのを感じた。今まで見てきた世界がハリボテだと見せつけられる錯覚。本能が心の中に柵を作って、窓を閉めて、真実から目を背けようとする。心臓がうるさく脈打って、切れかけの蛍光灯みたいに視界が点滅した。
──私たちのうたも、いつか終わるんだ。
分かっていたはずだった。それが怖くて、一生バンドをしようと決めたはずだった。けれど、それはあり得ないのだ。時が止まらないのなら、散らぬ花が無いのなら、燈も、詩も、MyGOも、いつかは枯れて。あのサザンカみたいに、誰にも知られず終わりを迎えるかもしれなくて。
なら。私たちのうたは、綴った言葉は、なぞった自分は。本当に意味があるのか──。
「ともりん、ごめん!待った?」
「……ううん。行こう、あのちゃん」
背中の聴き慣れた声に応えて、燈は窓を閉めた。もうこれ以上、春のサザンカを見ていたくはなかった。
RiNGのスタジオの中を、聲の嵐がめぐっている。燈はそんな風景を幻視した。
言葉をうたう。歌を紡ぐ。
激しく降りしきる雹みたいなドラム。硬い大雨の中でデュエットを踊ってみせるギター。地響きみたいに身体の芯に伝わるベース。
胸に抱きしめた音楽は、正しく心を押し流す波濤だった。泣き叫びたくなるような現実を、音に融かして喉の奥から溢れさせていく。嵐のような波に身を任せて、燈は叫ぶようにラスサビを紡いだ。波は打ち上がり、水泡は弾ける。海の形を変えてしまうかのような嵐が、一心不乱に唇の先で暴れている。
聲を出し切って、息を吸って、前を向けば、そこにあるのは噓みたいに綺麗な青色だ。波も嵐もない、目を灼くような水平線。
曲の終わりを知らせる終止和音を聴いてようやく、燈は自分が歌い終わったことを認識する。こうして演奏後の余韻につい浸りすぎてしまうのが常だった。背中越しに聞こえる、いつも通りの音。その音に身を委ねている限り、その音に乗って自分の言葉をカタチにしている限り、燈は自分が生きているのだと実感していた。
だというのに。
──今日は、なんで。
──あの海を見て。
「うん、いい感じ。とりあえず今から休憩入れるから」
「やっとー?りっきースパルタすぎない?」
「お前がアウトロで走るの直せなかったからなんだけど」
「え、えーっと……」
「私、一旦外の空気吸ってくるね。あと飲み物」
立希と愛音のやり取りの裏で、颯爽とスタジオから出ていくそよ。いつも通りの練習後の風景を、燈は紙芝居でも見るみたいに眺めていた。
──終わっちゃった、なんて。
何も、そう思ったことが初めてだったわけではない。歌うことは好きだし、スタジオの予約時間を終えれば大なり小なりぽっかりとした喪失感は生まれる。ライブも同じで、あの高揚感からの解放にはどこか幼い寂寥を覚えてきた。
けれど燈にとって、
「……まあ、上手くはなってる。偉い」
「あれー?りっきーにしては珍しく素直じゃん。私の演奏もついにこんなレベルかー」
「ああもう、お前はすぐそうやって──!」
以前と比べてずいぶんと軽やかになった二人の会話も、燈の落ち込んだ心に差す光明にはならない。そのことが、燈にとっては悲しかった。歌っているときは、みんなと同じだった。特別調子が悪いというわけでもなく、燈はいつも通り自分の言葉を音楽にしていた。音の奔流にもみくちゃにされながら、それでも自分の言葉で嵐の中を進んでいた。皆と一緒になって、同じ道を、同じ歩幅で走っていた。けれど、この瞬間は違う。同じスタジオにいるはずで、さっきまで同じ歌を奏でたはずなのに。
──まるで。
ひとりぼっちみたいだ、と燈は思った。自分だけ違う世界に取り残されてしまったような。同じ場所にいて、息をしているのは一緒で、でもぼく一人だけズレている。不恰好に、弱弱しくこうして立っている。それはまるで。
──あの、サザンカみたいな。
「燈ちゃん?」
「えっ……。そよちゃん?」
言って、燈は鼻が触れ合いそうな距離まで近づいていたそよをようやく視認した。見慣れたパッケージのペットボトルと目の前のベーシストが妙にミスマッチで、ぱちくりと瞬きをする。
「燈ちゃん、ちょっと」
「ご、ごめん……。そよちゃん、どうしたの?」
「どうしたのはこっちのセリフ。なんかさっき──」
そこで言葉を切って、そよは薄花色の瞳をそっと動かした。燈はきょとんとしてから、それに倣って視点を投げる。スタジオの中央で会話を弾ませていた立希と愛音は、楽奈と一緒に練習のフィードバックに精を出しているらしかった。
「そよちゃん?」
「別に、聞かれてもいいんだけどね。面倒なことになりそうだから」
「えっと……?」
「燈ちゃん、何かあったのかなって」
息を呑んで、燈は薄花色に染まった自分の姿を見た。
汗でこめかみに貼りついた、灰色がかった赤紫。戸惑うみたいに揺れる暗い赤。最後の叫びから落ち着かない荒い息遣い。音を嵐とするなら、今の燈は強風に散りそうな花びらだった。スタジオという世界で、ひとりぼっちで消えていく誰か。
その喪失に、燈は既視感があった。雨が降っていたあの日。スタジオで荒く揺れた言葉の台風と、崩れ散ってしまった花を。
──いやだ。
「……な、なんで」
「なんでって……その顔。燈ちゃん、体調悪いんじゃない?」
心配半分、疑問半分の声色で問いかけてくるそよを前に、しかし燈は声を出せない。出したい声も、カタチにしたい言葉も、痰に絡まったみたいに二三度上下するだけで、燈が何をしようと咽喉の奥でうずくまるだけであった。
「体調は、大丈夫……」
「それ、本当?無理したら、私が立希ちゃんに怒られるんだけど」
「えっと……それは」
「冗談だよ」
泣いてしまいそうなくらい、柔和な笑み。心臓が喉元までせりあがって来た。こんな笑顔を燈は昔に見たことがあった。
皆ではじめてMyGOとしてライブをしたとき──違う。
またバンドをしようって言ってくれたとき──違う。
もっと昔──それはきっと、CRYCHICで。
──いやだ。
「そよちゃん、私……」
どくん、どくん。耳鳴りみたいないのちの音が、燈の聴覚を支配する。出てきそうな言葉が心臓に詰まって足踏みをしているような、そんな錯覚があった。
「燈ちゃん?」
「……ごめん、そよちゃん。なんでも、ない」
目も合わせないよう俯きながら、燈はなんとか言葉を絞り出した。誰が聞いても分かる取り繕った声色と、消える寸前の蝋燭の灯みたいな細さで。
風に揺れるその言葉にそよは深く息を吐き出してから、ゆっくりと口を開いた。
「そういえば燈ちゃん、桜見た?」
「う、うん」
「早いよね、今年は」
「そう、だね」
桜──そよの言葉に手を引かれるように、燈は目蓋の裏に映る風景を脳裏に浮かべた。開いた窓の向こうに見えた、眩しいくらいのいのちの色。
そこまで思い出して、燈は胸が苦しくなった。思い出したのは、青空に顔を向ける花びらでも、今にもその羽を広げようとする蕾ですらなかった。
散っていく花びら。あんなにも眩しい命でさえ、散って落ちて消えていく。たとえその様が美しいと言われるのだとしても、燈はそうは思えない。だってそれは終わりだ。生命としての死ではなくとも、意味としての死だ。あの大木でさえその灯を消していくというのなら、小さな私は。
──私は、もう。
「それだけ。そろそろ戻らないと。あんまり喋ってると立希ちゃんに怒られるから」
「じゃ、休憩終わり……ちょっと。燈、大丈夫?」
「ほら。言ったそばから」
「そよ、お前なんかしたの」
「別に何も。じゃあそろそろ練習再開しよっか」
「そよりん、その笑顔怖いー」
みんなの会話を耳で捉えているのに、どこか感じる疎外感に胸を痛めながら、燈はまた音の嵐に身体ごと飛び込んだ。
──私は、もう。
──終わりたく、ないのに。
脳裏で、サザンカが嵐に揺られていた。
「じゃあね、ともりん。ちゃんと寝なよー」
「うん……ありがとう、あのちゃん」
そよとの会話の後、燈の脳裏からサザンカは離れてくれなかった。
取り繕っていた歌声もボロが出始めて、体調を心配されて、練習を早めに切り上げて。いたたまれなく思いながらも、この調子でみんなに迷惑をかけるわけにもいかない。そんなことを考えながら、燈は帰路に就いた。
最寄り駅の改札を通ってから、普段と変わらない街並みに身を置く。高架橋を潜って、大通りの横断歩道をゆっくりと通過して、右に曲がって、商店街の喧騒に耳を澄ませる。
『例年よりも早い桜の開花に、住民からは入学シーズンへの影響を懸念した声が挙がっています』
無機質なニュースキャスターの声から逃げるように、燈は足を速めた。
『──この地域では、桜がすでに散ってしまいました』
赤信号に
──赤い花。
『速報です。長らく音楽界を牽引してきた大御所の訃報に、あのバンドからもコメントが寄せられています──』
──弱々しく揺れる、いのちの色。
『まだ気持ちの整理が付きませんが……彼の遺したものはまだ輝いています。それを糧にして、僕たちはこれからも──』
──違う。
誰もが名前を聞いたことがあるようなバンド名のテロップの奥で、見覚えのある青年がそんなことを言っている。
まだ、信号はサザンカの色のままだった。
──そんなの、嫌だ。
失うことは悲しい。なくなっていくことは辛い。けれど、残されたものは輝かしい。死は悲しいだけのものじゃない。遺したものは礎となって、前を歩く人を支えていく糧になる──。
──それが、人間らしいことなんだ。
きっと、正しいのだろう。わたしはどこか世界からズレているから分からないだけで。人間になりたくて、歌って、息をして。けど、どうやらまだ足りていない。だってこんな正しさは嫌いだから。たとえそのさまが美しかったとしても、散って消えていくことを簡単に受け入れられない。
そんなことを、もっと昔に考えたことがあった。失うことが耐えられなくて、もう失いたくないって思ったこと。
──思い出した。祥ちゃんだ。
一人の日陰から日向まで手を引っ張ってくれたひと。
眩しいくらい綺麗なみちしるべになってくれたひと。
私の手を引いてくれたのに、手を掴めなかったひと。
それから──
『……もっと、言いたかったことがありました』
涙ぐむ声。青信号の歩道で、燈の足は動かない。
──言いたいこと。
窓の向こうで風が吹いた。花びらが脳裏で歌っていた。終わってしまった花が泣いていた。
──同じなのかな。
足が動く。商店街の喧騒に見送られながら、左に曲がって、大通りの横断歩道を足早に通過して、高架橋を抜けて、最寄り駅の改札へ。
桜色の風が、燈の背中を押していた。
「で、ここまで来たの?」
「う、うん……」
電車から降りて、駆けて数分。歩道橋の上で息を切らした燈を出迎えたのは、燈との遭遇に驚きを隠せないそよの呆れ声だった。
「燈ちゃんって、意外と行動力あるよね」
「そ、そう……かな……?」
「私、一人ライブを続けるとか無理だから」
苦笑交じりに吐かれた言葉に内心首を傾げながら、燈は視線をそよに向けた。どうやら買い物帰りらしい。エコバッグから覗く葱の香りとソメイヨシノの甘い匂いだけ分かって、眼下で咲く何の花とも分からない匂いが入り混じって鼻腔を刺激する。
「それで?」
「……?」
「言いたいことがあったんでしょ、さっきの練習の時から」
「……うん」
自分より高い瞳を見上げて、両手を痛いくらい握りしめて、燈はすうっと息を吸う。茜色が差したそよの頭越しで、いのちの色が舞う。
──同じなのかな、そよちゃんも。
渇く舌を無理やり動かして、口を開く。言いたい言葉は決めていたけれど、耳に届くのは耳鳴りみたいな音ばかり。今この瞬間、初めて人が言葉を生み出す……その瞬間のような妙な緊張感が燈の背を這っていた。
「……そよちゃん」
「なに?」
「私は、怖い。いつか、MyGOも失くなっちゃうのが」
失う、なんて考えたくもないのに、言葉だけがさらさらと流れ出ていく。自分が喋った言葉の広さだけ胸に隙間ができて、そこにそよの背中から吹いてきた風が舞い込んできた。心臓が寒さに震えるように音を鳴らす。
「一生っ……!一生バンド、したいけどっ」
けれど、それは永遠じゃないんだ。思い出だって忘れていく。記憶だって薄れていく。私たちの終わりはいつか訪れて、全部が消えて行ってしまう。誰かからも忘れ去られてしまう。
「みんなと頑張ったことも、みんなでうたった歌も、全部」
その全てがいつかは終わってしまうこと。輝かしく美しいソメイヨシノが、春の終わりには散るように。どれだけ強固で、眩しい記憶だったとしても──それでも、失われないものはない。
「怖くて、でも……私はたぶん、それを乗り越えなくちゃいけなくて」
燈にとっては、それが何よりも怖かった。
ひとりぼっちで、いつか消えていくことよりも。いつかは全てが終わることよりも。それが誰かの礎になるからと、前を向くことが。人間なら、声高に叫べるのだろう……私じゃなくて、ふつうの人間なら。
「それが、一番……怖い」
言って、燈は俯いた。考えていたはずの言葉はまるでカタチにできなくて、脳内で泡ぶくみたいに浮上してきた感情を、そのまま出力しただけの取り散らかった声の羅列。風に吹かれていくそれを、そよは目を細めて見送っていた。
「……そう思うのは、経験があるから?」
「……っ」
俯いたまま息を詰めると、そよははあー、と大きな溜息を吐く。当たってほしくなかったなあ、なんて小さく呟かれた言葉に、燈はますます身を縮こまらせた。怒っているのだろう。当然だ。終わらせてしまったのは他でもない私なのに、今更怖いだなんて虫が良すぎる。
──でも。
「そよちゃん」
──でも、言いたかったんだ。
そう、聞きたかった。きっとそよちゃんも怖がっていたから。あまりにも簡単に、呆気なく。永遠だと思っていたあの日々が、咲かせてくれた祥ちゃんと一緒にその花弁を落としてしまったことを。
──そよちゃんは。
「……怖くないの?」
「私? 私は……まあ、そこまで」
「そう……なんだ」
「ちょっと、そんなに落ち込まないでよ……怒ってもないから」
恐る恐る隣に視線を移してみても、その薄花色から感情は読み取れない。
「終わるよ、いつかは」
ぽつりと滲んだその言葉に、燈は顔を上げて、山の向こうに沈もうとしている茜を見つめた。
哀愁とも諦念ともつかない小さな火種が、燈の胸の中でたしかに燻っているのを感じた。激しく燃えることはない灯り。それは窓の中で俯いて泣いている自分を、ガラス越しで眺めているような、自分によく似た誰かの感情を勝手に想像しているだけのようにも思えた。
「でもね、燈ちゃん」
それだけじゃない、とそよは言う。失うことだけが全てではないと。茜がかった桜色の歩道橋で、たなびく髪を抑えながら。
「私たちは、失うために歌ってるんじゃないでしょ」
「───え?」
「終わるのは当たり前だけど……うん。無くなるのは私だって嫌い。今でも取り戻したいって思ってる」
「……うん。私も」
「失くしても、忘れられないよ」
忘れられない。それは事実だ。
ライブで紡いだ言の葉も。
背中を押してくれた音も。
みんなと交わした約束も。
───頬を伝った、あの雨の冷たさも。
「でも、いつかは消える」
「……っ」
「難しいよね、それを全部乗り越えるなんて」
現実は覆らない。終わってしまったものは簡単に戻らない。
その痛みと重さを抱えて進むことが、失われたモノを残すということだ。それがきっと、生きていくということだ。
──できないよ。
「私の手、祥ちゃんが、引っ張ってくれて」
「……うん」
「それで……私のここに、穴ができて」
CRYCHICの喪失は、燈にとってはそういうものだった。マシンガンを撃たれた後みたいな、胸にぽっかりと空いた穴。
なら前に進むために必要なのは、失ってできた穴に溜まる何かだろう。けど、燈にそんなものはいらない。あれはCRYCHICだ。MyGOとは別の、散ってしまった花で、花弁の無い萼だ。
──祥ちゃん、乗り越えるなんて。
「そんなの、できないっ……!」
「同じだよ、私も」
そよの声が大きな感情の波に揺れた。遠い星の瞬きみたいな、灯篭みたいな、鼓動みたいな、声。
「でも……燈ちゃんは、歌を続けてた。一人で」
「そよちゃん?」
「迷っても進むって、燈ちゃん言ったでしょ。失うとしても、失わないように必死に手を伸ばす……燈ちゃんが一番知ってるはず。だって──」
そよがそこで言葉を切り視線を少し泳がせたのを、燈はじっと見つめた。いつの間にか燈とそよは体を向かい合わせていて、相手の瞳に映る自身の姿と対面するような形だった。
そよは幾ばくか迷ってから、結局続く言葉を決めたらしい。半ば
「……私の手、ずっと掴んでくれたみたいに」
そっと手がぬくもりを帯びる。やわらかく包んでくる。
「私たちだって一人で、燈ちゃんのうたで繋がってるだけだから。でも、それは終わるためじゃない……それで、いいんじゃないかな」
夕日が落ちた。世界が暗くなって、視界の春はその明度を何段階か落とす。けれど燈の目にははっきりと、やわらかく笑うそよが映っていた。CRYCHICで一緒にいた頃みたいな、空を舞ういのちの色を滲ませたような笑顔。それが燈には、サザンカを優しく揺らす春風のように見えた。
──そうだ。
終わりがあるということ。築き上げてきたものが、水泡に帰すということ。
それが嫌だった。一生なんて言葉を使って、みんなを繋ぎとめたかった。
でも、みんな同じなんだ。サザンカも、ソメイヨシノも、カンザクラも、シダレザクラも、歩道橋の下の花だって。散るために咲いているんじゃないんだ。一人で不恰好に咲いているにせよ、綺麗に咲いた果てに散っているにせよ。
終わりはもちろん、失うことだってたくさんある。
それに胸を痛めて、空いた穴を埋められなくて、迷って。それを乗り越えて生きていくなんてことは、この先しばらくは出来そうにない。
私たちは、みんなひとりぼっちで、無くなっていくことが怖くて。確かに春に灯るサザンカかもしれないけれど。
それでも、手は離さなかった。
あの日、燈がそよの手をずっと諦めなかったように。
今こうして、燈の手をそよが強く握っているように。
「そよちゃん……っ、ありがとう」
「燈ちゃん?」
みんな迷子でも、手を握って進んでいくんだ。たとえ、その終着が終わりだとしても。離れないように握り合って、迷いながらみんなで進んでいく──。
──忘れないよ、祥ちゃん。
「離れないでくれて、ありがとうっ……!」
目蓋を開ける。頬が熱い。閉まっていた胸が開いて、春風の匂いが入ってくる。
明日もまた部室に行こう。窓の向こうのサザンカは、きっとまだ五枚の花弁を広げているだろうから。