「おねえちゃん」
学校の帰り。自宅のマンションの入り口で呼び止められた。振り向くと、妹が立っていた。
三ヶ月前、向かいの道路で事故死した、四歳の妹。
死んだ時と同じ幼稚園の服を着て、ケガの一つもしてなくて。でもほんのちょっぴり青白い肌をした妹は、ニコニコと私を見つめている。
周りを行き交う人たちは妹に目もくれない。代わりにボーッと立ち尽くしている私を怪訝そうに見る。子供の蹴ったサッカーボールが、妹の体をすり抜けていった。
不思議と、あまり驚かなかった。妹なのだから、そりゃたまには会いたくもなるだろう。なんとなくそう思った。
妹へ歩み寄ると、彼女は手を差し出した。その手はすり抜ける事もなく、生きていた時の感触がした。
手をつなぐと、妹がトテトテと私を引っ張る。その足は私がいつも行く、自分の部屋がある棟へと向かう。
「どうやってここに来たの?」
聞いてみた。
「…………」
……返事は、ない。
二人でそのまま、慣れた足取りで玄関へ入る。そしてエレベーターへ。呼び出すとチャイムが鳴ってドアが開く。いつも通りなのがちょっと不思議だった。
「お母さんとこ行く?」
「ううん。いい」
自宅には行かないらしい。じゃあマンションのどこに用があるんだろう。首をかしげている間に、ドアが閉まる。
すると妹が突然、エレベーターのボタンへ向けてフワフワと宙に浮かんだ。そして何を思ったか、ボタンをメチャクチャに押しはじめた。
「こら、何遊んでるの!」
あわてて妹を抱きかかえて止める。しかし顔をのぞきこむと、妹は上機嫌に笑ってこちらを見返してきた。
何がおかしいのだろう。戸惑っていると、エレベーターが急に動き出した。一体どこへ、と階数表示を見ると、2階、3階と猛スピードで上がっていく。
……そのうち、表示は最上階になった。しかしそれでもエレベーターは止まらない。ゴーという稼働音とともに表示は文字化けしはじめ、最早どこを通っているのか分からない。上に昇る時のあの独特な重圧だけがいつまでも肩にのしかかる。
一体どこまで行くんだろう。流石に困惑しながら、相変わらず笑顔でいる妹と階数表示を交互に見つめていると。
不意に、エレベーターが止まった。挙動がおかしくなった様子もなく、静かに、スムーズに停止する。えっ、と思わずつぶやくと、ドアが開いた。
「……わあっ」
その向こうに広がる景色に、私は息をのんだ。まず目に飛び込んできたのはまばゆい光。真っ白になった視界が徐々にハッキリしてくると、さらに色々なものが見える。
キラキラと光る、金色の花ばな。不思議な事に花弁も茎も、何もかも金色。その奇妙な花が、ドアの向こう10メートルほどの距離で咲き乱れ、私の腰辺りの高さまで伸び、地平線の彼方まで埋めつくしている。
ここはどこ? まさか天国? 信じられない気持ちで妹を見ると、妹は無邪気にはにかんで言った。
「キレイでしょ?」
「まあ……うん」
あいまいに返事してしまった。妹は気にするそぶりを見せず、私の手をにぎって景色をうっとりと眺めた。
私もそれにならい、目の前の花畑を眺める。そよそよと風が吹き込み、頬をなでる。
妹は、この景色を見せたかったのだろうか。しかし、花畑に入っていくような気配はない。手を繋いだまま、エレベーターにずっと立っている。
表情を見てみると、いつの間にか不安そうに眉尻を下げ、うつむいていた。
どうしたんだろう。声をかけようとした、その時。
『おやおや。おきゃくさまがいるじゃないか』
不意に、エレベーターの外から声が聞こえてきた。男の声なのに加工したように妙に甲高い。見ると目の前に白いものがふわりと降り立った。
なんとなく人のようなシルエットをした、白く透き通った体をした何者か。背丈は2メートル以上はあり、顔らしき位置がぐいと私に向けて傾いて、先ほどの声で言う。
『あれぇ? この子はここにいるべきこどもじゃないねぇ?
どういう事だい?』
そう言って、白いものは妹へ振り向く。妹はばつが悪そうにたじろぎ、顔をそらした。
知り合いなのだろうか。だがこの白いものは?
私が戸惑っていると、白いものは妹へこう続けた。
『ダメじゃないか。ここは"もじばけ"だから、生きているにんげんは連れて来ちゃいけないと言ったろう?』
「…………」
妹は黙ったまま、しゅんとしていた。親に叱られた時と同じしぐさ。なんだかよく分からないが、妹はいけない事をしてしまったらしい。
私にも、なんとなく分かる。死んだ妹が連れてきたこの場所は、私が行ってはいけない場所。
妹も、内心では分かっていたはずだ。名残惜しそうにしながらも手を離し、白いもののそばへ歩み寄った。
妹の頭をなで、白いものは私の方を見る。そしてペコリと頭を下げてから言った。
『お騒がせして悪かったね。すぐに元のせかいに返してあげよう』
「あ……はい」
元の……。つくづく私は今どこにいるのだろう。けっきょく困惑したままとっさにうなずく。すると妹が口を開いた。
「……おねえちゃん」
「ん?」
「ばいばい」
短く言って、妹は手を振った。目にグッと涙をため、紅潮したほっぺを膨らませる。
それを見て、私もにわかに涙が込み上げてきた。お別れだ。それだけは理解できた。この夢のような景色が、時間が、もうじき終わる。
「うん。元気でね」
そう言うと、声が自然と震えた。やっぱり嫌だと内心でついつい思ってしまう。
エレベーターの扉がゆっくりと閉まる。その閉まるまでの間、二人で互いに手を振りあっていた。泣きそうになるのをこらえて、必死に笑顔をつくる。
……ついに、ドアが完全に閉まった。その直後、ゆっくりとエレベーターが下へ動きだした。
表示を見ると、そこは普通の最上階。あんなに長く昇ってきたはずなのに、10秒もしないうちに私は自宅の階に着いていた。
チャイムが鳴り、ドアが開く。いつも通りの景色。いつも通りのマンションの廊下と、部屋のドア。
もしかしたらと思って、エレベーターのボタンをまた押してみる。妹がやったみたいにメチャクチャに。でもダメだった。何度やっても、あの空間にはたどり着けなかった。
……それから、私は家に帰り、いつもの日常にもどった。妹が死んで、いなくなってからの日常。
あの出来事は何だったのだろう。夢のように不思議な、一度きりの出来事。
それからしばらく、エレベーターに乗る度にあの場所に行けないか試してみた。もしかしたら、また妹に会えるかもしれないと。でもやはりダメだった。あれから、妹には一度も会えていない。
……でも。
ある日、ウワサを聞いた。このマンションのエレベーターに乗ったきり、行方不明になったらしい人の話。
どこにも行った形跡はない。ただエレベーターに乗っただけのはずなのに、誰も姿を見かけなくなったというのだ。
ただ、最後に目撃した人が言うには、エレベーターに入る寸前、まるで誰かと話しているようだったと言う。
……もし。私があの時に妹と一緒がいいと言っていたら。
もしかしたら、今ごろこの場にはいなかったかもしれない。
そう思うと、妹と会えたあの事件が、ほんの少し怖く思えた。