傷ついたとこから剥がれていく
「名前」は親から子に送られる最初のプレゼントだ。花のように美しく育って欲しいから「花」や「咲」の漢字を名前に入れるとか、太陽のように明るく育って欲しいから「陽翔」とか。
そうあれかしと祈る親からの最初のプレゼント、1匹の生命を一人の人間にする儀式。名前を与えられることで、僕達は世界に存在を確立させる。
それはたとえ人間じゃなくてもそうだ。絵描きが描きあげた作品にタイトルをつけるのも、メーカーの開発職が商品に商標を設定するのも同じ。
つまり、僕はそんな祈りを裏切ってしまった親不孝息子ということになる。
傲慢な思考だが、たぶん自分は地頭が良い側の人間だった。小学校の頃から高校三年生まで常に成績はトップに近い位置にいたし、スポーツもそれなりにできた。集団のまとめ役もこなすのは得意だったし、常に頼られる側の立場にいた。
両親からも期待されていた。いい大学に行けると言われて、言われるがままに予備校に通って模試で良い成績を取り、言われるがままに国内最難関の大学を受けた。
そして、そこで全てが狂った。
試験当日、体調が悪かった。腹痛でまとまらない思考、高熱で止まらない震え、力の入らない身体。結果的にはただの胃腸炎だったわけだが、そんな有様でまともに試験を受けられるわけもなく、僕は前期試験に落ちた。
かなり凹んだが、後期で取り返せばいいと思っていた。あまり失敗した経験がなかったのもあって先生方はかなり気を揉んだようだったが、一次試験の成績的にも十分合格ラインにいるという判断だったらしく、前期と同じ大学を受けることになった。
帰宅して、不合格を報告した瞬間の両親の表情を、生涯忘れないだろう。
失望とは、これほどまでに表情で表せるものかと思うほどだった。心臓が止まったように錯覚して、汗が止まらなくなるくらいに身体が熱を持った。
なんのためにここまで育てたと思っている、とか、予備校だってタダじゃないんだぞ、とか色々と言われたのは覚えている。ひたすらに頭を下げて──
後期試験で、またもや僕は失敗した。問題を見た瞬間、頭が真っ白になった。自分が持っている知識の中で解ける範囲の問題だったのは間違いない。恐らく学校で同じ問題を解いたなら八割は堅かっただろう。と言うのに、両親の表情が過ぎった。
もし、この試験に落ちれば。そればかり考えてしまって、手が動かなかった。
愛されていたのは二人の「優秀な」息子であって、ただの僕ではなかった。
ただ、それだけの話だ。
・
私立大学の良いところは、独自の奨学金制度や特待生制度があるところだ。勿論学費は高いが、なんとかやりくりすることは可能だった。
どちらにせよ、親の援助が望めない環境ではバイトに励む必要があるのだが。
縁を切られる一歩手前くらいの関係のまま、事前に受かっていた私立大学に進学した。親戚のツテを頼って幾分割安でアパートを借りて、一人暮らしをしている。バイトを掛け持ちしてのその日暮らし。一応収支はプラスだから、後々生活に余裕は生まれるはず。
「若山さんって、下の名前なんでしたっけ〜」
深夜のコンビニバイトはそれなりに暇だ。繁華街近くならそうでもないかもしれないが、住宅街寄りの立地で深夜も客が入り続けるような状況は稀だ。業務と給料の兼ね合いを考えればコンビニバイトはあまり割が良い仕事ではないが、深夜にシフトに入ることを考慮に入れると無難なのは居酒屋かコンビニになる。
「
「ほぇ〜」
暇に耐えかねたように話しかけてきたのは、最近入ったばかりのバイト、青葉だった。元々別のコンビニでもバイトをしていたらしく、この店舗では1ヶ月くらい長く働いている僕よりも手馴れている。あとは近くの女子大に通っていて、僕と同学年らしいことくらいしか知らない。シフトが被り始めたのも最近だから、初対面に近い距離感だった。
「青葉は……モカだっけ」
「カタカナでモカでーす」
「珍しい名前だよね」
「キラキラネームだって思いました?」
「そこまでは思ってないけど。……じゃあ、名前の由来とか、あるの?」
モカ。百香や萌花でもなくモカ。パッと思いつくのはカフェモカとかのモカだ。モカという単語の語源は知らないが、何かしら意味があるのだろうか。
「んー、知らないです。語感がかわいいから、とかじゃないですかね」
あっけらかんとした返事。そうなのか、とすんなり納得した。それなりに興味はあったのだが、彼女があまりにも無関心そうだったから、これ以上の取っ掛りを失ったとも言う。
「じゃー、秀一って名前は、由来があるんですよね〜?」
「1番秀でた存在になれってだけだよ。……名前負けしてるでしょ?」
「ノーコメントで〜」
よく知らない相手の自虐を投げられても困るだけか、と内省。くたびれたサラリーマンがカゴに入れた弁当をレジに通して、セルフのレンジで弁当を温める背中を見守る。この時間帯によく来る人だ。正直、転職した方が良いのではないかと思う。
「……小学校でさ、道徳かなんかで名前の由来を調べる授業なかった?」
「あー、ありましたねぇ。ちょっと嫌いでした。親に訊いたら語感だけで付けたとか言われて〜」
それもホントかわかんないんですけど、と欠伸をひとつ。
……なんで話を広げてしまっているんだろう。眠くて理性が弱まっているんだろうか。
慰められたいとか、傷の舐め合いをしたいわけではないのだから、こんな話はすっぱりやめておくべきだ。
「今は気にしてないんですけどね」
「けどさ、名前って親が子供にどう育って欲しいか考えながら付けるもんでしょ? 不安に思ったりしなかった?」
「親の思う通りに育つわけじゃないですもん。語感が軽くて可愛い感じの名前なら、そんな感じで生きてれば良いかな〜、と思いますし」
廃棄やらなきゃ、と陳列棚の方に移動する。店内がノーゲストなのを確認して、ケースを売り場の方に並べていく。消費期限を確認していく作業は相も変わらず目が滑る。
「『蘭』って名付けられたからといって花屋さんになる必要はないですよね〜?」
「まあ、そうだね。美しく清らかに生きて欲しい、みたいな祈りの籠った良い名前だと思うけど」
「あたしもそう思います〜。けど、やっぱり、自分がどう生きるかは親の願いに関わらず自分で決めるべきだと思いません? 名前なんてせいぜい人生の指針のひとつ、くらいで」
親元から離れてみれば、うちの家庭が一般に揶揄されるような、典型的な「教育熱心な家庭」だったことがわかった。そんな環境でも成功している人間がいる以上は、自分の能力の不足を疑う余地は無いし、たとえ完璧な家庭ではなかったとしても、僕は恵まれた環境にいたと思う。
「一番優秀でいて欲しい、なんて、疲れません?」
「……疲れはしなかったんだよ。期待に応えるのも楽しかったし、別にプレッシャーでも何でもなかった。むしろ、モチベーションの大半だったかな。小さい頃から刷り込まれてたから」
まあ結局折れたんだけど、と自嘲する他ない。大学受験さえ乗り切れば、きっと失敗しないまま人生ゲームをクリア出来たんだろうと思う。あの日胃腸炎にかかりさえしなければ。済んだことと流すには、受験のために積み重ねてきた努力と、失ったものが大きすぎた。たった半年足らずで癒える傷ではない。
「うへー、あたしには無理だな〜」
「僕も今からやり直せって言われたら……やり直せはするだろうけど、苦痛で堪らないだろうね」
他の選択肢を知らないから、一心不乱に前へ進めたところはある。今はもう両親に褒められたいとは思っていないし、モチベーションが足りないような気がする。逆に大学に受かった可能性はあるけれども。
「親の願いは叶えるべきだと思うよ。でも、恣意的に操作された人生からは逃げ出していいと思う。親が敷いたレールに乗るとしても、自分で選んだ上でレールに乗るべきだ。……まあ、こんな夜中にバイトしてるんだから青葉は自由にやってるんだろうけど」
パックを開けて流しに捨てる。廃棄の弁当なんかを持ち帰るのはダメなのだが、ここは店長のお目こぼしがあるので持って帰っても良いことになっている。ここに居着いている理由の一つはこれだった。貧乏学生にとっては一食浮くだけでもありがたい。
「ウチは確かに自由ですね〜。友達は家業の兼ね合いで苦労してますし、恵まれてるなーって自覚はあります。自由だけが良いとも思いませんけどね」
道を示してもらった方が楽ですよ、と幾分感情がこもった言葉。
「選ぶのは自己責任なんです。安全な道を示してもらう方が楽だって思うのも、別に変な事じゃないと思うんですよね〜」
「その重みはまだ分かんないな。他にまともな選択肢がないまま今の生活をしてるから。就活まで自覚しないかもしれない」
高卒で就活をするか、私立でも大学に進学をするか天秤にかけて、後者を選んだ。その時の判断基準は取り返しがつくか否かくらいで、自分で決断したという感覚もあまりなかった。
友人とはあまりこういう会話をしたことがない。東大に落ちたとか、厳しい家庭だったとかその程度の話をするくらいで、自分の思想を滲ませる話をすることは今後もないだろう。そもそも、この類の話題が出る前に他の話題に流れる。同級生の話とか、サークルの話とか、YouTuberの話とか、アニメやゲームの話とか、バイトのこととか。
店長とは少し人生相談にも近い話になることがあるが、年齢が両親に近いからかそれともそういう価値観なのか、僕に対しては確かに親不孝だなというニュアンスの言葉をかけてくるタイプだ。実際それは尤もだと思うし、僕が両親をことさら悪し様に言ったわけでもないので仕方がない。
本人は気のいい人で、まあそういうこともあるだろうくらいの感じでしか話をしないから、不快になったりもしない。そういう考えが大多数だよな、と思うだけだ。僕が如何に子ども側の甘えた視点に立っているかを自覚する。
青葉とこんな話をした理由の大半は暇潰しだった。客も少ないし、黙々と作業をしていても時間が経つのは遅い。お互いに共通の話題も少ないし、大して仲が良いわけでもないから逆に変な話を振りやすかった。
きっかけは青葉の質問からだが、話が逸れていくのをわざわざ止めなかったという意味で。
当たり前だが、彼女も色々な経験をして生きてきたんだろうと思う。高校までの同級生は、その暮らしも家庭も住んでいる土地もなんとなく知っている相手が多かった。大学生になって様々な経歴の人間と広く付き合うようになって、殊更に実感する。
暇潰しが幸を奏して、夏場だったら空が白んでいるくらいの時間になった。眠そうな目を擦りながら入ってきた交代要員に引き継いで、夜と朝のあわいに繰り出す。水分補給用に持ってきた水筒の残りを飲み干して深呼吸。排気ガスの不快な臭いが喉に引っかかった。春の匂い立つ空気は、排気ガスの臭いまで増幅させるらしい。
「お疲れ様でーす」
「……お疲れ様です。めっちゃ眠い」
「あたしも〜。大学は昼からですか〜?」
「二限から。まあ四時間くらいは寝れるし、なんとか。青葉は?」
「あたしは昼からです」
「いいな」
途中まで道が同じらしく、ダラダラと狭い歩道を歩く。この時間はさすがに都会でもかなり静かだ。
「ちなみに、さっきの話に戻るんですけどー、音楽好きですか?」
「人並みには聴くけど」
「じゃ〜、あたし達のライブ来てくださいよ。せっかくなら、あたしの自由の重みでも見てください」
いつの間に取り出したのか、人差し指と中指で挟まれたチケットがぴらりと揺れる。彼女がバンドをやっていることは聞き及んでいた。ちゃんと訊いたことはなかったが、そこそこ有名なバンドなのだとかなんとか。
「ちなみに、いつ? 僕は万年金欠なんだけど」
「明日の夕方。チケット代は取りませんよ〜。初回は、ね」
「あー、バイトだ」
「えー、いーじゃないですかサボったって。代わってくれる人くらいいますよね」
「うーん、せっかくだから行きたいけどね」
「シューイチくらい休んだって誰も怒りませんよぉ」
「ふはっ、流石にクビになりそうだけど。……わかった、チケット貰うよ。ありがとう」
彼女はふわりと微笑んだ。チケットを薄い財布に仕舞って、道を逸れて行く背中が振り返ったタイミングで一度だけ手を振る。
・
チケットに書かれていたライブハウスの名前を地図アプリで検索して、大学から直接池袋に向かう。ライブハウスの作法なんか知らないから、ネットで予習する羽目になった。結論としては、調べておいてよかったと思う。今日のライブの会場がどこまで初見に優しいライブハウスかは分からないが、何も知らずに行くと混乱しそうな感じだ。
ライブハウス「RiNG」は、ちょっとしたアミューズメント施設みたいだった。カフェや楽器店が併設されていて、内装は映画館みたいだ。
どのバンドを見に来ました? と問われて「Afterglow」と答える。残光や余韻といった意味があるらしい。軽く調べた限りではそのようなことが書いてあった。
ふらふらとさまよった後にドリンクを受け取って、ライブが始まるというのでフロアの方に流れる。薄暗いフロアのステージ側には既に観客がひしめいていて、ある程度楽に立っていられるスペースは端っこにしかなかった。
一般的なライブのイメージといえば、アリーナやドームを貸し切ってのものだ。テレビに出るようなアーティストやアイドルが何万人も集めて、すり鉢状のコンサートホールで歌う。
けれどもこのライブ会場は、観客とアーティストの距離が随分近そうだった。なんというか、映画に出てくるようなジャズバーと劇場の中間を取ったような感じ。
バイトを代わってもらったのと、講義中に半分居眠りをしていたこともあって眠くはならなかった。むしろ、未知に飛び込んだことへの期待と興奮があった。
照明が落ちる。ステージの暗がりに人影が滲んで、何やら楽器の調整をしているのがうっすらと見える。
──明転。
赤のトレードマークだけが共通する衣装に身を纏った五人が、ステージの上で楽器を構えている。向かって右側。中央のギターボーカルの隣に、青葉が立っていた。
いつもは眠たげな瞳を爛々と輝かせて、ひらひらと手を振っている。
「Afterglow」です、という名乗りの後、MCと言うのか、近況報告みたいな雑談があって、それからおもむろにスイッチが入る。これからライブが始まるのだ、という空気が瞬時にフロアに広がって、観客も演者も、同時に息を吸うような感覚。
始まる──。
音が鳴る直前、空気がピンと張るような予感と共に、いきなり演奏が始まった。つい5メートル、10メートル先から、音が粒になって顔にぶつかってくる。ウォータースライダーの最後に飛び込んだときの水飛沫のように、つかの間溺れてしまいそうなほどの、音の爆弾。
肌が震える。文字通り、鳥肌が立って、ガクガクと震えていた。胸に満ち満ちているのは、制御不能の興奮。
心臓の音を塗り潰しそうな程のドラム。肺の中には空気が詰まっている、というのを物理的に実感する。
絶え間なく変化する大音量のメロディー。キュルキュルと巻き上げるようなギター、跳ね回るキーボード、脳を麻痺させるようなベース、心に飛び込んでくるボーカル。ドラマーが握るスティックは、早すぎて残像が見えそうなくらいだった。激しく揺さぶられる弦が、楽しそうに悲鳴をあげる。天井を揺らしそうな音の熱気に、完全にあてられていた。
心が踊る。唯一の知り合いだから、青葉に視線が吸い寄せられる。
気だるげでローテンションな普段の姿からは想像つかないほどに、彼女は笑っていた。
瞳を輝かせて、口角を上げて、頭を揺らして、ステップを刻んで、指先がすらりと伸びる。
彼女が本気で選んだ道こそが此処なのだ、と理屈ではなく魂で納得する。無限の自由、無制限の可能性の中から、あらゆる選択肢を切り捨てて選びとった重みが、あの指先に凝縮されている。
ボーカルが、「行くよっ!」と叫ぶ。観客がそれに合わせて、まるで鬨の声のように叫んだ。呼応するように演奏の温度が上がっていく。このテンションはどこまで行くのだろう。心配が首を擡げるくらいの熱気に、青葉の指先はなおも力強く弦をはじく。
羨ましい、と思った。
美しい、と思った。
人生に明確な転換期があるとするなら、この瞬間だろうとさえ予感した。
いくつか思い返せる原体験のひとつに並び得る感動。走馬灯にさえ現れるだろうと確信できるスポットライトの逆光。
──僕は、感動という言葉の意味を知った。
その日、どうやって家に帰ったのかもよく覚えていない。
トークアプリに青葉からのメッセージが入っているのを確認して、たった一言投げ掛けられた問いに「最高だった」とだけ返した。
バイトのグループから友達登録したのだろうか、とかそういうことを考えさえせず、残光に心を囚われていた。
・
「どーでした〜?」
翌週、また深夜帯に青葉とシフトが重なった。
同い年だったんですねぇ、と言いながら結局敬語が微妙に混じったままだ。
「最高だった。今までで一番感動したと思う」
「おー、高評価」
「音楽って凄いんだね。バンドが音楽に込めた感情が観客に届いて、その心を動かすんだ。あれは、人生を賭けるに足る瞬間だろうなぁって納得したよ」
ファンになりました、と言うと、握手してあげよ〜、と右手を差し出された。こちらも右手を返せば、軽く手を握りあった後、またもやチケットを手渡される。
「次はいつ?」
「来週末の土曜日〜」
「じゃあ行けそうだ。良かった」
「毎度あり〜。ファン獲得、ですなー」
休憩時間に代金を払って、今後は支出項目をひとつ増やす羽目になりそうだとため息を吐く。とはいえ、全く後悔はしていない。値段分の価値があるライブだった。
「青葉にとって、あのバンドが『本当にやりたいこと』なわけだ」
「良いでしょ〜」
「うん。羨ましいって思ったよ」
自分が本気でなにかに打ち込んだことがあっただろうかと思い返してみるが、何も思いつかない。部活は真面目にやっていたが、そちらにリソースを注ぎ込んだわけでもなかったから、そこそこ熱心止まりだった。勉強には打ち込んだものの、親の期待に応えるためという受動的な動機だったし、勉強が好きだったわけでもない。
言われたことを仕方なくやって、やらなければいけないことを真面目にこなすだけでここまで生きてきた。
自分がやりたいと思ったことを、本気でやり遂げたことはない。
「なんか、疎遠になった友達を思い出した」
「あたしに似てるとか〜?」
「部分的にはそうかも。中学で同じクラスになったんだけど、スポ少からずっと野球やってたやつでさ。高校も同じだったんだけど、いつも甲子園に行きたいって言ってて……それで、人一倍努力してた。他の奴らがだらけてる時もひたむきに走り込んでる姿を見てきたから、尊敬してたんだ」
思えば、他人の熱に触れたのはその時が初めてだったような気がする。
友人の贔屓目だったのかもしれない。けれども朝の自主練には数人しか参加していない中で、いつグラウンドを覗いても彼がいた。瞼を閉じれば、キャップの鍔を摘んで汗を拭う姿を鮮明に思い出せる。
「地区大会の準決勝には応援に行って、スタンドからその瞬間を見守ってた。結局甲子園には届かなかったけど、そいつは最後の打席にホームランを打ったんだ。……ああ、なんか、僕にはそういう執念とか、悲願とか、無かったなぁと思って……まあ、ちょっとした憧れみたいなもんだよね。あのときに気づいてれば良かったんだろうけど」
人が泣いている姿を見て羨ましいと思ったのは初めてだった。そして、あの日が最後だろう。
思えば、潜在的にはずっと抱えていた思いだったのかもしれない。どう生きるかを、自分で決めること。自分の人生を賭けるに足る何かを見つけること。自分の人生を、自分のために使うこと。
「今からでも、別に遅くは無いんじゃない〜? ほらー、あたしたちはまだピチピチの18歳なワケですよ」
「見つかるといいんだけどね。……いろいろやってみるしかないか」
「あたしの場合はバンドやってるうちにそれが目標になっていった感じだからー、趣味探し的なアドバイスはできないかも……」
大学一年で悲観するのも良くないというのはその通りだった。何かを始めるのに遅いということはない、とよく言うが、その類の言葉を投げかけられるような歳ですらない。
「ん〜、でも、その話で行くと、あたしは若山さんの方に似てるかもー、と思ったり」
理由はナイショですけど、と青葉は笑った。乙女の秘密らしい。深夜の曖昧な思考能力では発言の意図を推理できる気もしなかったので、そういうものかと流す。
今日も今日とて荒れた陳列棚を整理し、廃棄の弁当をくすね、欠伸を噛み殺しながら雑談に興じる。財布に仕舞ったチケットが明日への活力を湧き上がらせた。
「いろいろ試すとは言っても、時間も金も無いのがなぁ。……まずは貯金からか」
「そーいえば、料理とかどうなんですか〜? 上手いって聞いたんですけどー」
「ちなみに、誰から?」
「桧山さん〜」
「ああ。まあ、趣味に近くはあるけど、上達に心血を注ぐものでもないかな。それなら絵とかスポーツとか、そういう方向性の方が良い」
料理は得意だ。両親ともに家を空けがちで、用意された食材で一人夕食を作って食べることが多かったから、そのうちに好きになった。時間をかけすぎない程度に凝ったものを作るようになったのは、勉強の合間の息抜き的な側面が強いのだが。
同じ大学の先輩には、食材を恵んでもらう代わりに何度かご馳走したことがある。陰で褒められるくらいのものが作れていたのなら、趣味として自信を持っても良いのかもしれない。
けれども料理人になるのでなければ、ひたすら料理の上達に熱情を注ぐ自分の姿というのも想像できない。人生をどう、とかいう大きな規模の話はさておいて、成果を残すために熱中できるかという観点に立つと、料理という趣味はなかなか難しい。誰かを満たすため、とかそういう他者依存の動機ならまだしも、ただ自分のためにとなるとある程度のクオリティで満足できてしまう。
「え〜、あたしも食べたいな〜」
「桧山さんは食材をくれたからその分で一食作っただけだよ」
「じゃ〜あたしが食材持ち込めば作ってくれます〜? 毎日自炊って、かなりかったるいんですけどー」
言い訳させて貰うのなら、冗談だと思ったのだ。いくら奔放で自由な大学生と言えど、大して仲良くもない異性の家に食材を持ち込んで料理を乞うなんてことは無いと思っていた。
食費が浮くならちょっとした手間くらい大歓迎だけどね、というような、安請け合いするセリフを吐いたのはそのせいだった。
僕が思っていたよりもずっと、青葉モカという人間は迂闊で奔放だったらしい。
最初は、スーパーで買ってきたらしい食材だった。豚バラとかいんげん豆とかブロッコリーとか、ある程度意図を持って選んでいそうな食材に合わせて夕食をご馳走した。
それから、2週間に1回くらいのペースで青葉は我が家を訪れるようになった。
貰い物のナス、きゅうり、ゴーヤ。僕の先輩が釣ってきたアジのおすそ分け。青葉の友人の山で取れたらしい自然薯やムカゴ、山菜やキノコ。
2週間に1度が週に1度になり、僕がライブに通う頻度も著しく上がり、いつの間にか僕達は気の置けない友人同士になっていた。
「たけのこってさ、処理がめちゃくちゃめんどくさいんだよ。アク抜きしなきゃ使い物にならないし、大量に貰っても処理に困るし」
「だからシュウ君に渡したんですけど〜?」
「いやまあ、わかってたけどさ」
同じバンドのギターボーカルの美竹さんの実家から貰ったらしい大量のたけのこと山菜を片手に、今日も今日とて彼女がやってきた。出会ってから約一年、大学2年生の5月。ゴールデンウィークにさしかかろうかという時期、葉桜を揺らす青嵐が立ち去った翌日のことだった。
この一年の間に、少しだけドラムを触った。たまたま仲良くしてくれていた先輩が電子ドラムを譲ってくれたので、狭いワンルームの端っこに押し込められている。「本気」という程でもなく、青葉がときどきギターを持ってきた日にセッションをする程度。のめり込むには、時間が無かった。
若草色のパーカーとワイドシルエットのカーゴパンツというラフな格好で部屋に上がり込んできた青葉は、ベッドの横に置かれたクッションに我が物顔で腰掛けた。さすがに僕が本気で面倒臭がっているのがわかったのか、山菜の仕分けと米とぎくらいはやってくれたが、山ほどたけのこが放り込まれた鍋の見張りをやるつもりはないらしい。
1時間半くらい煮れば十分だろうか。アルミ鍋から吹きこぼれないように、コンロの横の踏み台に腰掛けてアクが抜けるのを待つ。
「今日は天ぷらにしようか。南蛮漬けの残りがあるからそれと味噌汁ね」
「炊き込みご飯は〜?」
「2時間くらいかかるけど、待てるの?」
「あたしは今日バイトないし〜、シュウ君も休みにしたんでしょー?」
「ゴールデンウィークにフルで入ることを考えると、今のうちに休んどかないと死にかねないと思って」
他の学生が入りたがらないゴールデンウィークに、入れられるだけシフトを詰め込んでおいた。大学のことを考慮に入れずに働けるので、文字通りのかきいれ時だ。書き込むのは通帳だが。
人生を賭けるに足る何かを探している。全てを忘れて、自分を空っぽにしてくれるほど夢中になれる何かを。
同時に、自分がその類の人間でないことにも気が付き始めている。無意識にブレーキを踏んでしまうのだろうし、今の生活を進んで捨てようとは思わない。となれば、僕を空っぽにしてくれる「それ」が僕の目の前にやってくる日を待ちわびる他はない。
新しい体験を見逃さないようには生きてきた。演劇を劇場まで観に行ったり、自主制作映画の制作現場を見学したり、カレー研究同好会に混ぜてもらったり。定期的に時間を取られるコミュニティにはなかなか参加できなかったが、金欠なりに大学生活を謳歌している自信がある。
あるいは、擬似的に満たされてしまっているのかもしれなかった。
本気で夢を追いかけている青葉と長く接しているせいで、それを支えるような在り方に一定の満足感を得ている。ライブの時に他の客と話すことが何度かあったが、Afterglowのライブに来ている客には、僕と同じような感覚を抱いている人達が一定数混じっているようだった。テレビ中継で甲子園を観るような感覚と言えばいいのか。
あの夏、ネットを超えていく白球を見送った瞬間と相似している。
僕は支える側の人間なのかもしれない、とさえ思う。秀一なんて我欲の塊みたいな名前の癖して。
思えば自分でも不思議なくらい、ささやかな自由時間を青葉との交流に費やしていた。持ち込んだタブレットでサブスクのドラマを漁っているらしい彼女が、時折こちらに視線を向ける。
どうにも掴みどころがない。一年接してきての感想がそれだった。多少なりとも好かれているのは間違いないと思う。でなければこれほどまでに関わりを持ったりしないから、お互いにこの関係を心地好いものだと思っている。
けれども、ただそれだけだった。バイトでシフトが被るか、一緒に食事を摂るか、僕がライブに行くか。そんな、浅いとも深いとも言えない交流が続いて、お互いを知った。細やかな感性が好ましいと思ったし、雑に頼られるのも嫌いではなかった。決して不快のラインを超えてこない距離感と、遠慮のなさに感じる親しみやすさ。
「そういえば、そろそろ1年になるわけだけど」
「あたしと会ってから?」
「そう。青葉がさ、名前に縛られて生き方を考える必要は無い、みたいなことを言ったの、覚えてる?」
「改めて言われるとちょっと、恥ずかしいかもー……なんかカッコつけてるみたいじゃない〜?」
「そういうこと言うなよ。あれから僕なりに考えて生きてきたんだから」
じゃあ、と青葉が背筋を正した。クッションの上であぐらをかいたまま、少し前のめりになった瞳がカーテン越しの逆光に揺らめく。
節目と言うには少し遅いが、春の日差しに出会った頃のことを思い出した。ふらふらとさまよっていた僕の生き方に、彼女が方向性を指し示してくれたあの日。
「未だに人生の目標にするようなものは見つかってないけどさ、自分で生き方を探すのは確かに心地良かったよ。青葉のおかげだと思う。あのライブで、価値観が変わったんだ」
満足そうな笑みに気恥ずかしくなって、曖昧な苦笑を返す。誤魔化すためにコンロのメモリを弄った。
「あたしも嬉しい、かも。うん、自分でも意外なくらい」
ペリドットを溶かしたようなゆらめきがカーテン越しに射し込む。網戸越しの春風の匂いに部屋中が満たされて、キッチンの匂いが押し流されていく。
「じゃー、もうひとつ。1年が経ったわけですが」
青葉がテーブルの上の水出しの緑茶をコップに注いで嚥下する。喉元に自然と視線が吸い込まれる。深呼吸するように息を吸った彼女が立ち上がって、僕のベッドに座り直す。クリーム色の髪が揺れて、肩にかかった。
「シュウ君は、あたし達の関係ってなんだと思う?」
ぽつりと投げ掛けられた問い。真剣な雰囲気と、躊躇いの色が滲む。一歩踏み込まれたのだ、と理解する。たった一言で打席に立たされていた。キャッチボールみたいな速度で投げ込まれたストレート。
ゆれる、揺れる。天井に跳ね返った日光が、まるで水面のように漣を立てた。
どう答えるべきか、つかの間迷って、無難な言葉を見つけた。
「友達以上恋人未満って、便利な言葉だよね」
「友達以上、なんだ?」
「……家に入り浸ってるくらいだしなぁ。大学の男友達でもこんなに家に来たりしないよ」
それはそう、とへにゃりとした笑み。
アルミ鍋からはお湯が沸騰する音が絶えず鳴っている。ガスコンロの青い炎が右頬を優しく炙った。
「……それで、恋人未満? 以下じゃなくて〜?」
「以下だったらただの恋人じゃん」
息を吸う間に鼓動が3度鳴った。呼吸を意識するのは、いつだって緊張しているときだ。あの日と同じように、分岐点に立っている感覚に包まれていた。
──沈黙。
初めての感情だった。同年代の異性に、ここまで心を動かされたことがなかった。その手に触れたいと、この心を動かしたいと思ったことはなかった。ふわりと花が咲くように笑う、橄欖石の瞳に映っていたいと思ったのは──
「……言わせるのは、ズルいと思うけどな」
「男の子に決めて貰うのは女の子の特権、ってことでひとつ〜」
──それじゃあ、やり直しってことで〜。
にへらと笑う。今日だけで何パターンも見た笑顔。これから一生、僕はこの表情に勝てないんだろうと予感した。
ゆるゆると流れるはずの時間を秒針が刻む。早くなる僕の鼓動と連動して、カウントダウンのようだった。10、9、8──
「シュウ君は、これからの関係をなんと名付けたい?」