ジュネーヴ合意でソ連にアフガニスタンからの撤退を合意させた1988年に登場して以来、DECTは欧州の通信網を紡ぐ蜘蛛の一匹だった。今となってはその湾曲した液晶もぷっくりとしたボタンもアンティークの趣を醸し出していたが、今日の通信相手はむしろその古めかしさが似合う男だった。
「あー、もしもし、聞こえけるかしら。月夜の電話とは、なんとも風情のありたることよね」
『――電波は良好だ』
「電波! あなたの口からそんな言葉を聞き及びし日が来たるとは、思いもせざるのよ。聖なるラテン語にそのような語彙はありけるのかしら」
『君のところには電話で神託を受けた預言者はいないのかね。いれば紹介してもらいたいものだ』
互いに名乗りはしない。これは名乗ってはならない、非公式の会談だ。
この電話会見を設定するのには苦労させられた。彼の執務室は伝統と格式に守られている。噂によれば、最近ようやくダイヤル回線の黒電話を引き込んだとか。侍従たちは苦労していることだろう。あるいは、それすらも彼らにとっては恍惚を伴う労苦なのか。
電話越しにローラは思いを馳せる。彼は――ローマの教皇は今、どんな思いでDECTを握りしめているのか。
晩夏の月夜、イギリス清教の頂点とローマ正教の頂点が同じ月を見上げながら言葉を交わしていた。それはあまりロマンチックな逢瀬ではなかった。
『本題に入ろう。私も暇ではない』
「乙女は老人よりもっと忙しけりなのよ。とはいえ、今回のことは共通の問題なれば、手を取り合うのもやぶさかではなし」
引き続き傍に控えていた男から革のバインダーを受け取り、書類に目を通す。
イギリス清教とローマ正教、宗教改革によって道を違えた両者が協同して事に当たらねばならない日がやってきた。それは悪魔崇拝者でもなければ黙示録の獣でもなく、本来同じ信仰を掲げる仲間の問題だった。
「新教の結社、『
『志を同じくすれば、人は自然と集うものだ。彼らもまた神とその愛を信じる者たちなのだから』
ラテン語ではなく英語の名を冠することからもわかるように、他の宗教結社や教派と比較すればその結社の歴史は浅い。宗教改革によって生まれた新教、その中でも『改洗礼派』を名乗る信徒の結社だと噂されていた。
それが噂なのは、新教の信徒が組織を持たないからだ。
教会の腐敗と魔術の横行を糾弾した新教の信徒たちは組織からも魔術からも距離を置き、そのかわりに政治や経済、そして科学と結びついた。その結びつきがどれだけ強固かは、かつて植民地だった新大陸の発展度合いを見ればわかるというものだ。
だから、『
『生まれによる信仰や伝統のすべてを否定し、大人になってから自らの理性で入信した者だけを正統な信徒として扱う……理念を否定はすまい、それもまた神を信じる道だ』
「あら、よきに? お立場がありけるでしょうに」
『彼らのちっぽけな理念程度でローマは揺らがん。――君の教会がどうかは、別だが』
その噂では、こう語られている。
『
教会の敵。その程度の存在はいくらでもある。噂もあわせれば、数えるのが馬鹿馬鹿しいほどに。しかし、長年実在を疑われながらも教会が見つけられなかった結社となれば、話は変わってくる。
『そちらにも届いていると思うが、ある遺物が発見され、その後失われていることが確認された』
「ええ、今そちらで書かれた報告書が手元にありけるのよ」
バインダーに挟まれた、味気ないA4の報告書。
そこには盗まれた遺物だけではなく、盗んだと見られる新教徒の写真とプロフィールまで載せられていた。性別は男。肌は褐色。父親はレコンキスタでスペインに打ち負かされたイスラム騎士の末裔、母親はアメリカの科学者で敬虔な新教徒。
ここまでわかっていて、それでもなおふたりが非公式の会談をセッティングしたのにはわけがあった。
「よりによって、
『その都市に関しては君の、いや、君たちのコネクションを頼ったほうが合理的だと、私は判断した』
「あなたが? へえ」
報告書をめくる。
盗人の足取りは極東の島国、日本の首都である東京で途絶えている。より正確には、その西部――『学園都市』で。
もちろん、ローマ正教はイギリス清教を無視してその盗人を捕らえることもできる。彼らの人海戦術に衰えはなく、何百何千という聖職者を投入すれば3日と経たずに盗人はお縄につくだろう。
しかし、それはパワーバランスを破壊する行いだ。
科学の頂点である学園都市に対し、魔術の頂点である教会は軽率には干渉できない。学園都市側も入局を拒むだろうし、無理に突入すればそれは口実を与えることになる。学園都市に対してだけでなく、教会の別勢力にも。
だから、教皇は独断でこの一件をイギリス清教に預ける。学園都市にコネクションを持つがゆえに、魔術勢力としてでなく個人として事態を解決できるイギリス清教に。
彼が言っているのはそういうことだった。
「爆弾処理、か。舐めているのか、バチカンの法王」
『舐めているとも、カンタベリーの乙女。私が預かるこの教会で、君たちを舐めていない者がどれだけいると思う。17時の会議で私が差し止めるまで、彼らはこの件を下級聴罪師のチームに任せるつもりでいたのだぞ』
「それは随分と」
思わず冷笑が漏れる。
ローマ正教の腐敗は今に始まったことではない。傲慢、怠惰、強欲。ローマ正教のカリカチュアを描きたければ大罪の寓意画を描けばいい。
この疲れた老人が良心を失っていないのは、はっきり言って残酷なことだった。彼は教皇には向いていない。小さな街の司教にでもなって、子どもたちと聖歌を合唱するのが似合っている。
「よろしい。その仕事、預かりたるわ」
『やれるのか。盗まれた遺物の性質を考えれば――』
「おっと、詮索はなし。乙女には乙女のやり方がありにけるのよ。それではいい夢を、
返事を聞く前に電話を切る。
どのみち、イギリス清教は動く必要があった。『
禁書目録に危険が迫っている。
10万と3000冊の魔道書を記憶した禁書目録は、『
たとえるなら、資本主義の破壊を目論む者にとっての全紙幣の原盤管理施設。あるいは自然を憎む者にとってのスヴァールバル世界種子貯蔵庫。対魔術として編まれたからこそ、禁書目録には魔術の再生産拠点としての価値がある。
「よろしいのですか、猊下」
「なにもよろしきことはなきけれど、まあなんとかなろうのよ」
「件の遺物が正しく効果を発揮するのであれば、我々『必要悪の教会』ではお役には立てないかと」
ひらりとバインダーから外した報告書を月明かりにかざす。不鮮明な印刷でそこに刻まれていたのは、錆びついた鋸。到底聖具には見えず、殉教具としても粗末なそれは、伝承のとおりなら恐ろしい魔術的効果を持つ遺物だ。
「『
「別名が『信仰裂き』、さすがに聞き及びたるのよ。チーピー・チーピー・チョッパー・チョッパーなんてあだ名もありしかしら」
男の言うとおり、今回の一件では教会の魔術師を使うことはできない。
教会の魔術師はあくまで対魔術のために魔術を知り尽くした聖職者だ。誰よりも敬虔だからこそ魔術に手を汚す覚悟のある彼らには、『信仰裂き』の相手をさせるわけにはいかない。
ステイルは歯噛みすることだろう。彼はローラに直訴するほど禁書目録のことを大切に思っているのに、いや、だからこそ、彼はこの事件には関与させられない。
「ま、それならそれで伝手がありけるのよ」
「伝手、ですか」
「土御門に電話を。それから、熱い紅茶をポットで持ってきなさい。今夜は残業というやつを楽しみたき気分なれば」
怪訝そうな表情を浮かべながらも退室した男を見送って、ローラはバインダーを閉じた。
表紙に刻まれた赤と銀の十字を指先でなぞり、小さく笑みを浮かべる。それは信仰者の恍惚でもなく、背教者の冒涜でもなく、いたずらを思いついた少女の愉悦だった。
「さて、債権を回収するか――ハイヤの娘」
時刻は22時。朝の7時を迎えた日本で登校準備をしている土御門が電話越しに呼び出されるまでのわずかな時間、ローラは思い出に耽りながら指先を弄んだ。