序盤ボスの悪役貴族に転生したので裏ボスに媚び売ってたら婚約することになった件 作:三つ眼の荒木
「アイン君!」
襖を開け、また襖を開け、開いた先の廊下を走る。もう何度そうしただろう。魔力探知はなぜか霧散して機能せず、彼の居場所を教えてくれない。頼りになるのは自分の足と声だけ。公爵令嬢としてあるまじき、みっともない探し方だ。
それでも構わなかった。
角を曲がると、その先に見知った後ろ姿があった。
膝から力が抜けそうになる。良かった、無事だ。そう思いかけて、私は足を止めた。
アイン君は一点を見つめたまま立ち尽くしていた。その視線の先にあるのは、四肢を失い、首から上もない亡骸。私が斬り伏せた、女将だったものだ。彼はそれを見下ろしてうなだれている。
「アイン君」
もう一度名を呼ぶ。反応が遅い。
彼はようやくこちらを向いた。けれどその顔には、いつもの余裕も、飄々とした企みの色もなかった。
こんな顔を見るのは初めてだった。
「……会長」
この旅のあいだ、彼はずっと私を「ユリさん」と呼んでいた。恋人のふりのために取り決めた、それだけの呼び名。それが今するりと剥がれて、いつもの「会長」に戻っている。
聞き慣れた呼び方のはずなのに、少しさびしい。
いけない。私は奥歯を噛んだ。
落ち着きなさい。彼がこうなら、私がしっかりしなければ。年上で、公爵で、なにより女将を斬ったのはこの私なのだから。
「アイン君。怪我は?」
「……ありません」
「そう。なら、一つだけ言わせて」
努めて、いつもの生徒会長の声を出す。
「あれを斬ったのは私よ。あなたが気に病むことなんて、何一つないわ」
彼は少し目を見開き、それからゆっくり息を吐いた。強張っていた肩から力が抜けて、いつもの彼が戻ってくる。
「……ありがとうございます。ユリさん」
ユリさん、と。
戻ってきた呼び名に、私は自分でも呆れるくらい安心してしまった。
○
「まず、状況を整理しましょう」
感情を脇に置いて、切り替える。
「女将は倒したわ。でも、私たちはまだここから出られていない」
これがずっと引っかかっていた。術者を斬れば術は解ける。そう思っていたし、現に首まで落とした。それなのにこの旅館は迷宮のまま、私たちを閉じ込め続けている。
「魔道具の類が別にあって、それが術を保っているのかもしれない。あるいは、あの女の魔力が死んでもなお残っているか」
「……そうかもしれませんね」
歯切れの悪い返事だった。彼はまだ何かを考えている。いえ、考えているというより、何かに引っかかっている。
問い詰めたいのを抑える。今は先へ進むほうが大事だ。
「探索しましょう。この空間の理さえ掴めれば、出口も見えてくるはずよ」
彼は頷いた。
○
迷宮になった旅館は、悪趣味なほど静かだった。
襖を開ければ部屋があり、その奥にまた襖がある。廊下は先が見えず、曲がった先でまた同じ廊下に出る。畳の目も柱の傷も見覚えがあるのに、二度と同じ場所には戻れない。魔力探知はやはり途中で霧散した。
どれだけ歩いたか分からなくなった頃、アイン君が足を止めた。
「ユリさん、あれを」
彼が指したのは、廊下の隅に無造作に置かれた一つのリュックだった。魔物に奪われ、持ち去られたはずのもの。
駆け寄って中を検める。潰された様子も荒らされた様子もない。着替えも野営の道具も、奪う必要などなかったものが、そっくりそのまま丁寧に置かれている。
「……返された、みたいね」
「はい。捨てるでも壊すでもなく、わざわざここに。あの魔物は私たちを殺すためではなく、荷物を奪って旅館へ誘い込むために動いていた。つまり――」
「魔物も、荷物を奪ったことも、全部あの女将の筋書きの内、ということね」
寒気がした。あの陽動も、この軟禁も、初めから一枚の絵として描かれていたのだ。私が二十体からの魔物を相手取っているあいだ、あの女はただ、私たちが罠に落ちるのを眺めていた。
ふと、リュックの口から見慣れない小瓶が覗いているのに気づく。一本や二本ではない。おびただしい数の――。
……見なかったことにしましょう。今はそれどころではないし、あれについては思い出したくないことが多すぎる。
「とにかく荷物は戻った。悪い報せばかりでもないわ」
「ええ」
私は無理にでも前を向く。
「幸い水も食料も当面はある。ここが術で保たれた空間なら、いずれ綻びも出る。外から助けが来るかもしれないしね」
冒険者組合はこの旅館を追っている。私たちが戻らなければ、生徒会もアムストラクト家も動くはず。あのザネなら、私が消えたと知れば血相を変えて探すでしょう。悲観することはない。待てばいい。
「――ユリさん。時計を持っていますか」
唐突な問いに、私は懐から懐中時計を取り出した。旅のあいだ狂いなく時を刻んでいた、私の時計を。
その針を見て、言葉を失う。
止まっていた。
「……壊れたのかしら」
「いえ。よく見てください。動いています。ほんの少しずつ」
言われて凝視する。確かに秒針は止まって見えるほどの遅さで進んでいた。
私たちがこの旅館に踏み込んでから、どれだけ経っただろう。魔物と戦い、女将と対峙し、迷宮を歩き回った。体感ではゆうに半日は過ぎている。それなのに針はほんの数分ぶんしか動いていない。
「この空間の時は、外の何倍もの速さで流れているんです。裏を返せば、外の世界では私たちが消えてからまだ、瞬きほどしか経っていない」
彼の声は静かだった。淡々と、それでいて確かに、私の希望を一つずつ潰していく。
「ここで一日過ごすあいだに、外では数分。ひと月で、ようやく一夜ぶん。……誰かが私たちの不在に気づいて、この蜃気楼を探し当てる頃には、私たちはとうに学園にいられない歳になっています」
私は生まれてこのかた、絶望というものをほとんど知らずに生きてきた。何をしても上手くいき、行く手を阻むものはすべて斬り伏せてきたから。
だから分かる。これは、私一人の剣ではどうにもならない。
そしてもう一つ、気づいてしまった。
彼はこの時計の意味を、私より先にあまりに当たり前のように言い当てた。まるで初めから知っていたみたいに。
○
一度、頭を冷やす必要があった。
この旅館には温泉がある。皮肉な話だ。人を閉じ込める箱に、こんな贅沢な湯を用意するなんて。
湯に身を沈めて、脱出の算段を巡らせる。術を保つ核はどこにあるのか。空間の綻びはどこに生まれるのか。虚空になったロビーの底には、何が沈んでいるのか。
考えて、考えて、それでも答えは出なかった。
私の知る魔法の知識を総動員しても、この時空を歪める術には手が届かない。悔しいけれど認めるしかない。これは私の領分の外だ。
湯から上がっても、気分は晴れなかった。
髪を拭きながら広間へ戻ると、入れ替わりに湯を使っていたアイン君も、ちょうど戻ってきたところだった。
濡れた前髪がいつもより幼く見える額に張りついている。湯気にほんのり上気した頬。首筋を伝う雫を彼は手の甲で無造作に拭った。
一瞬、目を奪われた。
視線が意思とは裏腹に、その首筋を追いかける。慌てて逸らしても、また戻ってしまう。
な、なんで男の子なのに、こういうときだけ妙に絵になるのよ。反則でしょう。
いえ、落ち着きなさい、私。今は色恋にうつつを抜かしている場合ではないの。私たちの命がかかっているのよ。
「ユリさん」
その彼が真剣な顔でこちらを見た。上気した頬とは裏腹に、目だけは冷たいほど据わっている。湯に浸かって、いつもの調子を取り戻したらしい。
「一つ、お願いがあります」
「……聞くわ」
「これはむしろ、都合がいいのかもしれません」
「都合がいい?こんな状況で?」
「はい。こんな状況だからこそです。ここには時間だけはあり余るほどある。外の何倍もの時が流れるなら、裏を返せば、鍛えるにはこの上ない場所だということです」
鍛える。
そういえば、彼にはまだ果たすべき決闘が残っていた。私の――かつての婚約者に挑むための決着が。
「ユリさん。私に、修行をつけていただけませんか」
まっすぐな瞳だった。
断る理由はない。閉じた空間で二人にできることなんて、そう多くはないもの。強くなること。それはこの絶望に抗う、数少ない手立ての一つだ。
「いいわ。どうせ暇を持て余すだけだもの」
とはいえ、私はこれまで誰かに修行をつけたためしがない。強すぎるがゆえに、教えられることが何もなかったからだ。
けれど彼は、それだけでは終わらなかった。
「ありがとうございます。それで――」
彼は一度言葉を切って、私の腰の剣に視線を落とした。
「一番はじめに、【王の剣】を見せていただけませんか」