足を踏み入れた瞬間、Aは生ぬるい冷たさと包みこまれるような生暖かさを感じた。水とお湯を交互に張った浴槽に手を入れた時にどことなく似ている。こんな時にまで毎晩のルーティンを思い出してしまうことにAはほとほと嫌気がさした。
膨らんでいる期待が現実に触れて泡となる前に、この建物にさっさと招き入れられたい。
中がどのようになっているかも分からない建物に、Aはいま自分にできる精一杯の期待を背負い込んでやってきた。
敷地内に佇むAに気づいたのか、中から法衣をまとった者が三人ぞろぞろと出てきた。
「愛されし子よ。よくぞ辿り着かれました」
「お待ちしておりました」
後ろの二人が頭を下げる。
Aが異様さに気圧されているのが伝わったのか、初めに声をかけてきた一人がにっこりと微笑んだ。
「恐れていますか。ご安心ください。必ずやあなたに差し伸べられる〝救いの手〟がありましょう」
午後二時の直射日光を反射してまたたく金色の法衣は息を呑むほど美しく、これまで〝救いの手〟のない人生を送ってきたAの心を一瞬で掴みとるほど効力があった。
「さあこちらへ」
天上の人はやわらかな笑顔で扉を開け、Aを中へと招き入れた。
中は異様な空間だった。受付やらロビーのようなものはなく、ただ奥へとまっすぐに続く巨大な廊下のようなものだけがあった。そしてそこかしこから、まるで在りし日の古代ギリシャ神殿の姿を再現したような華美な柱が生えている。それらはAには秩序的にも無秩序のようにも見えた。もしこの柱がなく、金色の大きな扉が奥から見えてこなければ、Aはこの空間を廊下だと認識しなかったかもしれない。
法衣の者たちはAの両側につきながら進んでいく。まるでAの専属従者のようだ。
「あなたもお導きにあったのですね? とても鋭い感覚をお持ちでございますね。まだお若いのに」
Aはなんと答えたら良いのかわからず、黙りこくった。従者の声は一秒ほど反響して消え、従者たちのやわらかい衣の音とAの硬い革靴の音だけになった。
「そうですか」
沈黙に耐えかねたAは、出し抜けに意味のない相槌を打った。従者は目を細めた。
「そうですよ。普通の方は気がつきにくいものです」
「そういうものですか」
無言でいるのが気まずくて、Aは意味のない言葉を無理やりつなげる。
よく見るとAのそばで話しかけてくるひとりは、後の二人と装飾が異なっている。階層が違うのだろう。どちらの布衣もきらびやかで、揺れるたびにAの目を奪う。本当にこの世のものではないかのようだ。
「何もわからなくて当然です。そのために集会が開かれています。ほら。あちらをご覧ください」
あんなに遠かった金色の扉はいつのまにかAの目の前に迫っていた。扉の向こう側に、まるで巨大な黒い波のようなものがうごめいているのが見えた。
Aと同じ黒いスーツを着た、幾多の人間だった。
「あの方達も全員、あなたと同じ〝困窮者〟ですよ」
従者は指をきれいに揃えてAに中に入るよう促した。
中の景色はさらに豪華絢爛だった。
搾りたての牛乳を塗りたくったような白くつやのある床と壁。そして前方にの黄金の巨大な祭壇。そして黒いスーツ姿のうごめく〝困窮者〟たち。目がちかちかしそうな強いコントラストだ。しかしそれを全く凌ぐするほどの人物が、祭壇の中央に静かに立っていた。
「あちらが〝大唯神〟さまにあらせられます」
小声で従者が囁いた。大唯神と呼ばれた人物は、この会場にいる人の顔という顔が映り込むのではないかと思うほどに輝かしい黄金の法衣を身につけており、黄金の法衣と祭壇のめくるめく耀きの応酬で足元まで一体化している。かつてプ○ステ4のゲームで見たラスボスのグラフィックにそっくりだ。Aはついあの重そうな布を捲った時のことを思った。露わになるのがユグドラシルの太い根か、はたまた足のない虚無空間のどちらが近いかを真剣に考えていると、それまで弛んでいた空気が張り詰めた。〝大唯神〟が柊の葉のようなものがついた金色の柄を高く掲げていた。
「幸運な愛する子どもたち。今ここに、最後の愛されし子が辿り着きました」
自分のことだ、とAは感じ取った。自分より後に入ってきた者がいないというのは事実だった。しかし、たとえ後から入ってきた者がいたとしてもそいつを蹴落として自分こそが〝最後の愛されし子〟だと豪語してしまいそうな、自分だけを包み込んでくれるような慈しみがあった。そしてこの感覚を会場の全ての者が持っただろうことも同時に感じ取った。
「今から、大唯神様が一人ずつの〝戒名〟をお導きくださいます。戒名とは、持って生まれたあなたの真の名前です。大唯神様が直接あなた方に名前をいただける機会は、今後二度とありません。大変歴史的な瞬間です。静かに目を瞑り、気持ちを清めて時を待ちましょう」
従者が諭すように言う。Aもその指示のとおりに目を瞑った。祭壇のひとつふたつ軋む音がしたのち、衣の擦れる音はゆっくりと遠のいていった。
ここに来れば、死ぬよりも早く人生を終えられる。アルバイトで客とマネージャーから怒鳴られてクビになったことも、大学の単位を落としたことも、三食をエナドリでまかなう日々も、水道の壊れたアパートのユニットバスに手を浸して死にたいと思うことも、きっともうなくなる。
「ムメイ。愛する子よ」
ムメイ。無名。無明。夢明。
暖かい声が頭上から降り注ぎ、頭上では柊の葉の軽やかに擦れる音がした。目を開けると大唯神様が微笑んでいた。
「よく目醒めました」
その名を聞いた時、身震いするのを止められなかった。おそろしくしっくりとAの心に馴染んでいたのだ。
「無事、救いの手は差し伸べられました。夢明。あなたは今から、よく生きることができます」
大唯神さまは静かに語りかける。まるで羊水に浸って浮いていたころに聞いた、かすかな母の声のような暖かみがあった。
そうか。俺は。Aとして生まれるはるか昔から、俺は夢明だったのだ。
なんとなく爆誕したのですが置き場所に困りここに投げてみることにしました。