小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(日本語翻訳版)の二次創作です。
原作の主人公ライランド・グレースのかつての教え子二人の物語です。あのラストの先にこんなことを考えた教え子たちがいてもいいんじゃないかなと後日談を勝手に捏造しました。
作中の「ぼく」は原作の主人公ライランド・グレースではなくて、教え子(オリキャラ)です。

捏造だらけですので苦手な方はご注意ください。
グレースとロッキーは間接的にしか出てきません。バディ物を期待された方、すみません。

原作のポジティブな雰囲気や翻訳文体(小野田和子さん訳)を真似ようとしてかえって失敗してものすごく寒々しい感じになってしまいました。ワオ……すみません…

(2026.3.20追記) 元は原作小説の二次創作ですが、映画の二次創作としてもお楽しみ頂けます! 若干不整合がありますが、ぎりぎり大丈夫だと思います笑

This is a fanfic of "Project Hail Mary" (Japanese Edition).

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ヒア・カムズ・ザ・サン

 ケープカナベラルの夜風は晩秋だというのに生ぬるく、しかし不快感は感じられなかった。レジーナはフォンの灯りをたよりに適当な礎石を見つけると砂をはらって、海のほうを向いてすわった。ぼくも彼女とおなじように、少し離れた礎石に腰をかけた。

 ここ数十年のめちゃくちゃな気候変動と温室効果制御で、このあたりの海岸線はすっかり変わってしまっている。ぼくの尻がいま乗っかっているのも、かつてヴェルナー・フォン・ブラウンの時代に使われていた歴史的ななにかなのかもしれなかった。

 カバンのなかから冷え切ったキューバサンド的な物体を取り出すと、ぼくはセブンアップで流しこんだ。食べ損ねていた夕飯をこんなところで食べることになるなんて、思ってもみなかったな。

 

 フォンのバックライトを消すと、あたりは星明かりだけになった。暗がりにだんだん目が慣れてくる。海に向かってひらけた東の空には冬の星座が宝石のように輝き、南の地平すれすれにはヤシの木のあいだから、エリダヌス座の一等星アケルナルがちらりと顔をのぞかせている。星空だけはなにも変わらない。少なくとも人類の時間感覚では。

 オリオンの左足から少し離れた空を、レジーナがじっと見つめているのに気づく。彼女の視線の先にあるかすかな天体に、ぼくは心当たりがある。

「エリダニ40……あのあたりか」とぼくもその方角を見上げる。「エリダヌス座、グレース先生のお手製プラネタリウムにもあったっけ。——いや、さすがにマイナーすぎるか。サンフランシスコからはアケルナルは見えなかったし」

「いいえ、ちゃんと載ってたわ。一等星クイズでやったもの」と静かにレジーナがいう。確信のこもった口調だ。「あのとき、アビーに先を越されて悔しかったのよね。でも、そのあとの星雲クイズで挽回したわ」

「……ずいぶんよく覚えてるな」ぼくは変に感心する。彼女、物静かな印象をもってたけど、意外と負けず嫌いというか執念深いところがあるみたいだ。

 

 彼女は中学のクラスメイトで、ぼくらはじつに二六年ぶりの再会だった。といっても、べつにロマンチックな理由があるわけじゃない。ここ、旧ケネディ宇宙センターからの打上げを二週間後に控えた、ある宇宙ミッションに関する会合の参加者リストのなかに、偶然、彼女の名前があったんだ。

 向こうは、赤外線天文学の終身雇用(テニュア)の教授。こっちは、去年までバイオ系の怪しいベンチャーを渡り歩いていた貧乏研究員。タウメーバ特需で、ようやくまともなバイオテック企業のポストにありついたばかりだ。しかし、専門分野があまりにちがうせいか、それとも会うなりグレース先生の思い出話で盛り上がったせいか、ふしぎとぼくらは一三歳の頃とおなじような感覚で話ができた。

 ああ、ちがうんだ。隣の席の女子のノースリーブにどきどきしてたあの頃、とかそういうやつじゃない。さすがにそんな甘酸っぱい感覚は、すっかり過去のものになってしまっている。

 なんにだってなれる気がしてたあの頃。グレース先生が教えてくれる世界の秘密が楽しくてしょうがなかったあの頃。サンフランシスコが平和で温暖だったあの頃。

 ……うん、ロマンチックというより、むしろノスタルジックだ。

 

「……いよいよね」と彼女がいう。

「うん」ぼくは発射台のありそうなほうに目をこらしてみる。うんと遠くに、照明に照らされた鉄塔のようなものがいくつか見えるけど、どれがそうなのかは判然としない。

 早朝から夜までつづくミーティングでへとへとになっていたぼくを、なかば強引にこの海岸に連れてきたのはレジーナのほうだった。話がある、と彼女はいっていた。でも、心当たりがまるでない。

 いっこうに切り出してこない彼女を横目で気にしながら、ほぼ空っぽになったセブンアップの缶をあおる。水滴しか落ちてこない。まあ、たまにはこんな星空の下のピクニックも悪くはないかな。

 

   * * *

 

 ぼくらが八年生だったとき、世界は一変した。正直、それより前がどんな世界だったのか、あまり覚えていない。

 太陽が暗くなった。太陽から金星に伸びるペトロヴァ・ラインとアストロファージが発見され——タウ・セチの有人探査計画、プロジェクト・ヘイル・メアリーが立ち上がった。

 どういう経緯かは知らないけど、中学校でぼくらに科学を教えていたグレース先生が、プロジェクトに引き抜かれてしまった。困惑していた先生の顔を、いまでも覚えている。まあ、一時の辛抱だろう、打上げが成功したら先生も解放される——ニュースで先生を見かけるたび、ぼくらは気楽にそう考えていた。

 先生はもどってこなかった。

〈ヘイル・メアリー〉に先生が()()()()()——打上げからずいぶん経ってそれを聞かされたぼくらは、大人ってやつが一瞬で信じられなくなった。そんなの聞いてない! しかも往復二六年、乗組員(クルー)は片道旅行という特攻ミッションだったんだ——地球に帰れるのはビートルズと名づけられた四機の無人プローブだけで、先生たちは帰れない。全員が志願したのだと説明されたところで、中学生のぼくらにはただの理不尽にしか思えなかった。

 結局ぼくらとはろくに話もできないまま、グレース先生は一二光年のかなたに旅立ってしまった。そのままいつしか、ぼくらも大人ってやつになって久しい。

 

 まあ、人類も二六年間ただ手をこまぬいていたわけじゃない。異常気象や疫病、軍事衝突に大半のリソースを割かれながらも、人類はけっこうよくやったと思う。半数が死ぬという悲観的な予想に反し、現状ではなんとか八割程度の人口を維持できている。アストロファージのばかばかしいほどのエネルギー効率を利用することで、最終的な食料の備蓄が予想より上振れしたからだ。

 しかしそれは、多くの騒乱や紆余曲折の上に成り立ったぎりぎりの奇跡だ。思い出したくない話も多い。一面の穀物畑は、もう北米大陸には存在しないだろう。合成でない(オーガニックな)農作物には、ホールフーズ・マーケットでも目玉が飛び出るような値札がついている。ぼくみたいな安月給はウォルマートの代替食材が唯一の選択肢だ。まあ、ジャガイモだけで全人類が食いつないだ一五年前に比べたら、ずうううっとましだけど——

 

 ふと、昼間見かけた、レジーナのジャケットについていたバッジを思い出した。

 抽象化されたライ麦の穂の意匠。

〈コンソーシアム〉のバッジだ、と見るなりすぐに気づいた。人類の希望が託されたロゴ。

「レジーナ、そういえばきみは」と彼女にたずねる。「もしかして、大学のほかに〈コンソーシアム〉にも所属してるのか?」

「ええ。ペトロヴァ光観測衛星にかかわってる」とレジーナが答える。

 うーん、ぼくは赤外線天文学は完全に素人だ。まあ、そういう衛星があるんだろう。「……ああ、なるほど。すごそうだね」

「地球と火星の間の太陽周回軌道上に一二〇度の間隔で配置されている、三基の赤外線観測衛星のことね」と彼女は補足する。「〈リー゠ジエ〉、〈オリーシャ〉、そして〈ライランド〉っていえばわかるかしら?」

 ああ、それなら聞いたことが——いや、何度も聞いた。ネット中継のリポーターが、うわずった声でその名前を連呼していた。あの日、かれらが検知したのは——

 ワオ。

「オーケイ……思い出した。思い出したぞ」ぼくは息を呑む。「()()()()()()()()()()あの衛星か!」

「そのとおり。こんなご時世に天文学をつづけてこられたのも、このプロジェクトのおかげ」と彼女は答える。「もっとも、ここ数年は研究どころじゃなかったけどね」

 

   * * *

 

 そうだった。そもそも〈コンソーシアム〉は、()()()()()設立されたんだっけ——ぼくは記憶をたぐり寄せる。

 太陽系にもどってくるビートルズを確実に捕捉するため、かのエヴァ・ストラットをはじめとするペトロヴァ・タスクフォースがふたたび集結した。正式名称は忘れたけど、みんな〈コンソーシアム〉と呼んでいる。

 国家さえ統廃合される混乱のなかで、かれらは人と技術の散逸を可能なかぎり防いだ。壮絶ともいえる捨て身の努力により打ち上げられた三基のクールな衛星は、あえて財源確保のために〈リー゠ジエ〉、〈オリーシャ〉、〈ライランド〉と名づけられ、タウ・セチの方向を二四時間見張りつづけた。帰ってくるビートルズが逆噴射するペトロヴァ光をとらえてやろうって算段だ。地上の()宇宙()ネットワーク()も、ビートルズからの電波に忍耐強く耳をすませた。

 そうしてついに、二六年目がやってきたんだ。

 

 そこから先は、報道されているとおりだ。

 最初にとらえられたのは、光点のほうだった。分光データには、はっきりとペトロヴァ光の特異なスペクトルが写っていた。さらなる精密観測により、ひとかたまりに見えた光点は、三つの点の集まりだとわかった。

 三機だ! 三機のビートルズが、けなげにもどうにかこうにか太陽系にもどってきたんだ! 四分の三。上出来だ。

 速度プロファイルから推定された機体質量はなぜか、設計値よりわずかに大きかった。このときはまだ、謎の偏差(アノマリー)だと誰もが思ってたんだよな。

 

 十数日後、()宇宙()ネットワーク()の老朽化した巨大パラボラアンテナが、ビートルズからバースト的に送信されてくるストレージデータをとらえはじめた。

 たちまち全人類が、上を下への大騒ぎとなった。混迷をきわめた世界情勢も完全に吹っ飛んでしまった。

 

 人類には、隣人がいた。それも、()()()()()()()でいけるところに。

 

 しかも、最初にかれらと友だちになったのは、われらがグレース先生なんだ。

 そんなことって、ある? 一三歳のぼくが知ったら、いったいどんな顔をするだろうか。

 

 信じられない話だけど、グレース先生はタウ・セチで異星種属のエンジニアとばったり出会ってすっかり意気投合して、ついに解決策を共同で見つけ出したらしい。

 ビートルズからは、先生が保存したありとあらゆるデータが次々に送られてきた。ビデオ・レター形式の経緯説明にはじまり、日々の日誌、エリディアンという驚異の隣人の生態や文化、キセノナイトという驚異の物質の物性や加工方法、タウメーバという驚異の……オーケイ、キリがないな。ともかく、たっぷり五テラバイト分の〝タウペディア〟がそこにあったってわけだ。

 

   * * *

 

「驚いたな……きみがあのビートルズの発見の現場に立ち会ってたなんて」当時の全世界的なお祭り騒ぎを思い出しながら、ぼくはいう。

「そうね。毎日、新しい発見があった」とレジーナがいう。「でも、あなただって、タウメーバ・フィーバーに突然放り込まれたんでしょう?」

「まあね。おかげでぼくもいまの会社に呼んでもらえたから、感謝しなきゃな」

 前もってビートルズの全データを電波で受け取った人類は、とんでもないお土産の存在を知ってあわてた。タウメーバのミニ農場だ。ミニ農場は地球−月圏から充分離れたところで、そっと回収された。タウメーバが人類にとって致死性ではなさそうだとはわかってたし、もはや惑星(プラネタリー)検疫(プロテクション)なんてあってないようなものだけど、やっぱり地球にやつらを野放しにしたくはないからね。これは、科学というよりは、気持ちの問題だ。

 そうやってはるばる旅をしてきたタウメーバたちの子孫を、毎日ぼくは牧羊犬よろしく追い回してすごしている。ぼくが働いているのは、タウメーバ農場の大規模化事業に飛びついたスタートアップ企業だ。流浪のはみ出し研究者だったぼくになぜ声がかかったのか、さっぱりわからない。グレース先生の昔の論文を、世界でいちばん読み込んでた自負だけはあるけど。

 数カ月前からは金星へのタウメーバの制御播種も開始されていて、ぼくもやることがさらに増えた。

「〝イエロー・サブマリン〟の調子はどう?」と彼女がたずねる。金星周回軌道に投入された、急ごしらえのタウメーバ播種船の愛称だ。金色のサーマルブランケットで覆われた巨大なタウメーバ・タンクは、たしかに潜水艦っぽく見える。

「いまのところ、効果は抜群だよ」とぼくは得意げに答える。「なにしろアストロファージの〝巣〟を根こそぎたたいてるからね!」

「まるで害虫の駆除剤ね。……こちらの観測でも、ペトロヴァ・ラインはすっかり暗くなってるわ。太陽の光度も九七パーセントまで回復してる」

「ワオ。最高のニュースだ」とぼくはいう。地球環境や世界情勢が落ち着くには、まだあと何十年もかかるだろう。でもぼくは、人類がなんとかここまで来たことを、素直に喜びたいと思った。

「ええ」と彼女もいう。

 彼女のほうをちらりと横目で見る。星明かりのもとでは、彼女の表情も意図もよく読み取れない。ひとりで興奮していたぼくとちがって、やけに淡々としている。うーん、ぼくは彼女のいいたいことに近づけているんだろうか?

 ぼくらの共通体験はなんだ? ——科学だ。グレース先生の科学の授業だ。

 だからきっと科学が核心に導いてくれる——根拠のないそんな直感が、ふと浮かんだ。ひとまずはそれを信じてみるほかなさそうだ。

 

   * * *

 

「ドップラー効果って習ったじゃない? 八年生のときだったかしら」珍しく、レジーナのほうから話題を振ってきた。

 ぼくらはとりとめもない会話をつづけていた。夜の闇は深くなっている。潮の匂いも少し濃くなった気がする。いつのまにかアケルナルは地平線に隠れ、冬の大三角も西のほうに傾きつつあった。

「覚えてるさ。科学博物館(エクスプロラトリアム)の校外学習のとき、グレース先生が説明してくれたんだったな。ダウンタウンの緊急車両のサイレンを題材にして」

 あの授業を受けてから、怖かった夜中の遠いサイレンがむしろ楽しくなったのを、ぼくは思い出した。

「ええ。サイレンが近づくときは音が高く聞こえ、遠ざかるときは低く聞こえる」

「そうだな。それが、どうしたんだ?」

「〈リー゠ジエ〉のことなんだけど」彼女は唐突に、ペトロヴァ光観測衛星の話をはじめた。「ビートルズが帰ってきてからは、太陽系のペトロヴァ・ライン観測用に転用していたのよね。だけど、ちょうど去年のいまごろだったかしら、ふと思いついたの。久しぶりにタウ・セチの方向に向けてみようかなって」

「タウ・セチのペトロヴァ・ラインを見るために?」

「さすがにそれは無理」と彼女がいった。「星系全体が一ピクセルに収まってしまうし、実際タウ・セチの観測結果は、なにも変わらなかった。……ところがタウ・セチから数十分角のところに、光点が写ったのよ。画像解析AIがようやく検出できるくらいの、かすかな光点が」

 ぼくは眉をひそめた。天文学の話をされたところで、ぼくは完全に専門外だ。「光点だって? ビートルズを観測していた頃にはなかったのか?」

「ええ、過去のデータをぜんぶ探してみたけれど、そんな光点はなかった。わたしたちが目を離していた数カ月のすきに生まれたことになる」

「遠くの銀河の超新星という可能性は?」誰でも思いつきそうな、まぬけな質問をしてみる。

「ありえない」思ったとおり、即座に彼女は否定した。「だって、ペトロヴァ・スコープよ。単色のペトロヴァ光()()を抽出するように設計されてるもの。超新星ならスペクトルは単色じゃないから、自動的に除外される」

 ぼくは肩をすくめる。「なるほど」

 でも、それならいったい、なんだっていうんだ? ぼくに当てさせたいのか? それとも——なにかをためらっている?

 しばらく静寂がつづいた。

「オーケイ、降参だよ、レジーナ」ぼくは白旗を上げた。

 彼女の溜息が聞こえた。「まだわからない?」

「そういわれても、ぼくは天文学は素人だよ」

「天文学の問題じゃないわ。工学よ」

「え?」

「あれほどのエネルギー量と単色の赤外スペクトルは、自然現象ではありえない」彼女はつづける。「あきらかに、大量のアストロファージをエネルギーに転換したときにのみ出る人工的な光よ」

 人工的——だって?

 待ってくれ。

「まさか」ぼくは呻いた。

 レジーナ、ひょっとして。きみがいいたいのは。

「もしかして……〈ヘイル・メアリー〉のエンジンの光が、太陽系から見えた……?」

「そういうこと」彼女の返事は素っ気なかった。

 ワオ。なんてことだ! 信じられない。〈ヘイル・メアリー〉が光学的に見えただって?!

 そんなニュース、聞いたことないぞ。

「うわあ」ぼくは頭を抱える。「だって、一二光年先だよ?!」

「ここ一〇年のペトロヴァ分光学の発展をご存じない?」

 オーケイ……そうだった。あの頃の人類は生き残るために必死で、ペトロヴァ光オタクみたいになっていたんだった。絶対にビートルズをとらえようと、なけなしのリソースを全部、ペトロヴァ光の検知技術につぎ込んだんだ。そして、そのクレイジーな技術の先鋒にいたのが、まさに彼女なんだった。

「それに、フル・スラスト時のスピン・ドライヴから出る赤外放射のエネルギー量は、太陽表面を数桁は凌駕するわ」彼女はつづける。

「うへえ」とぼくはふたたび呻く。「うっかり当たったら、ナノ秒で宇宙の塵になるだろうな」

 太陽より明るいなら、見えてもおかしくない気がしてきた。

 レジーナは畳み掛けてくる。「〈ヘイル・メアリー〉のスピン・ドライヴの幅はたかだか十数メートルしかない。だけど、ペトロヴァ光に特化した検出器と補償光学系を持つ〈リー゠ジエ〉なら、原理的には検知可能なの。系外惑星の直接観測に比べたらずっと楽」

 ぼくの脳味噌はキャパオーバーで煙を噴きそうだ。どうどう、落ち着け脳味噌。まだそうと決まったわけじゃない。たとえば——ペトロヴァ光を出すのは〈ヘイル・メアリー〉だけとはかぎらないんじゃないか?

「ちょっと待った。エリディアン側の船の光っていう可能性は?」とぼくはたずねる。

「それは考えた。でもかすかな光度変化を見てみると、きっかり四秒ジャストのサイクルで出力が制御されているように見えたの。人類とは異なる時間単位を持ち、六進法を使う種属がつくったエンジンが、秒単位で動いているとは考えにくい。あれはやっぱり人類がつくったものだ、とわたしは結論づけた」

「うーん……理屈は合うね」レジーナの優秀さに、ぼくは舌をまいた。

 ふと、八年生の科学の授業を思い出した。実験中だけ盛り上がるほかの生徒たちとはちがって、レジーナは実験後の雑多なデータを粘り強く解析するのが得意だった。解析結果をことさら自己主張しないところも、いまと変わらなかった。

「驚くべき発見だな」とぼくはいう。だが同時に、ぼくの勘が告げている。

 たぶん、彼女の話はまだ核心にたどりついていない。彼女がほんとうに伝えようとしてるのは、きっとその先だ。

 ドップラー効果の話は、まだ終わっていなかったんだ。

「だけど、その」ぼくは口ごもった。「ペトロヴァ・スコープで光が見えたっていうことは……」

 ビートルズ帰還の全世界的な祝祭から約半年後、〈コンソーシアム〉から唐突に発表されたニュースを、ぼくは思い出していた。全人類に衝撃を与えたその緊急プレスリリースは、たしか今年の二月だった。

 レジーナの観測は、それより数カ月も前ってことになる。

「もしかして、きみは……世界ではじめて気づいてしまったんじゃないのか。〈ヘイル・メアリー〉のペトロヴァ光が」

 恐る恐る、彼女にたずねる。ぼくは闇夜に感謝する。もし彼女の表情が見えていたら、ぼくはこの質問を彼女にできただろうか?

「——()()()()してるってことに」

 少し間を置いて、「……正解よ」と静かにいうレジーナの声がきこえた。

 

 光ってやつはじつに雄弁なものだ。残酷なまでに。

 波の発生源が遠ざかると波長が長くなるんだ、ほら、サイレンが低く聞こえただろう? ——グレース先生の快活な説明を思い出す。

 光も一種の波だ。光の波の場合、遠ざかると色が赤い側にずれる。これが、赤方偏移だ。

 レジーナによると、〈ヘイル・メアリー〉の噴射光に赤方偏移が見られたという。

 これが意味するところはひとつしかない。

 グレース先生を乗せた〈ヘイル・メアリー〉は——地球から()()()()()()()

 

 いまとなっては誰もが知る事実だけど、あの当時、それに気づいていた人間は皆無だった。

 なにしろ、ビートルズに保存されていたグレース先生の日誌には、こう書かれてたんだ——燃料が手に入ったから、「()()()()()()」って!

 全人類が、この記述に色めき立った。

 先生の日誌は、異星のエンジニア〝ロッキー〟と別れたあとのビートルズ発進準備の記述で終わっていた。だからてっきり先生はビートルズを先に行かせて、あとからゆっくり帰ってくるんだろう、とぼくは思い込んでいた。ぼくだけじゃない。〈コンソーシアム〉でさえ、当時はそう推測していたのだ。なにしろ船は満身創痍だ。一刻も早くタウメーバをぼくらに手渡すためにビートルズを切り離して先に五〇〇Gで飛ばしてくれたのだろうというのが、かれらの解釈だった。

 だからぼくらは、ビートルズ()()が太陽系にもどってきたことに、なんの疑問も持たなかった。一・五Gで加減速すれば、〈ヘイル・メアリー〉は来年の春には帰ってくる。それが〈コンソーシアム〉の計算結果だった。

 人類は完全に浮かれていた。

 今年二月の〈コンソーシアム〉の緊急プレスリリースで公表されたひとつのテキストファイルが、グレース先生の計画変更をぼくらに突きつけるまでは。

 

 でも、それより数カ月も前に、彼女は見てしまったんだ。

 先生が遠ざかっていく決定的な証拠を。ぼくらの絶望を。おそらく人類ではじめて。直接、その目で。

 いったいどれほどのショックを、彼女は受けたのだろうか。

 

   * * *

 

 ぼくの心配をよそに、レジーナは淡々と話しつづける。「もっとも、遠ざかってるといっても、太陽系から見ると〈ヘイル・メアリー〉の進行方向は約八二度傾いている。ほぼ真横に進んでることになるわ」

「真横? じゃあ噴射光もほとんど見えないし、ドップラー効果も出ないんじゃないか?」

「ええ、ダウンタウンの緊急車両のような遅い物体ならね。でも真横に運動する物体が光速に近づくと、側面がこちらから見えるようになる。テレル回転って知ってるかしら?」

 むしろ彼女は、さっきより饒舌なくらいだ。うーん、特にショックは受けなかったのかもしれないな。科学者らしいドライさだ。

「いや、聞いたこともないな」とぼくは正直に白状する。

「速度が〇・九c付近になると、船尾を約六〇度こちらに向けたのとほぼおなじように見えるの。ペトロヴァ光の場合は相対論的ビーミングも加味されるわね。それに、横方向の相対論的ドップラー効果も無視できなくなってくる」

「そんなものがあるのか」相対論の話を聞くといつも、なにかだまされているような気分になる。「……あれ、待てよ。ペトロヴァ波長の光以外は写らないっていってなかったっけ? 赤方偏移した光でも検出できるのか?」

「それは織り込みずみよ。〈リー゠ジエ〉のペトロヴァ・スコープは、検出波長域を微調整できる」とレジーナが答える。「だって、ビートルズの噴射光もドップラー効果の影響を受けるわけだから」

「なるほど、そりゃそうか」

 レジーナの論理には一分の隙もない。

「もっとも、限界はあるわ。いまはもう船の加速が進んで、ペトロヴァ・スコープの観測可能波長域を超えてしまった。おそらく来年には、宇宙()マイクロ波()背景放射()に埋もれてしまうでしょうね」

「去年だったからぎりぎり気づけたってことか……。きみは強運の持ち主だな」ぼくは感嘆した。「いったいどういう経緯で?」

「いちばん最初は、ペトロヴァ光よりも短い波長、近赤外光を検出しようとしてたの。でも何も写らなかった——だからトラブルシュートのために、いろんな波長で撮ってみた。そうしたら逆に長い波長、遠赤外で撮った画像に、たまたま光点が写ったってわけ」と彼女は自嘲気味にいった。「笑っちゃうわ。近赤外なんて、写らなくて当然よね」

 笑っちゃうわって、どういうことだ? ……いや、それよりも、なにか引っかかる。「短い波長……?」

 近づいてくる物体が発する波の波長は、短くなるんだ——またしても、グレース先生の声が脳裏にこだまする。光なら、青い側にずれる。

「ああ……。青方偏移、ってことか……」思わずぼくは喘ぐ。「〈ヘイル・メアリー〉が、()()()()()()ことを想定してたんだな、きみは……」

「ええ。ほんと、ばかみたい」彼女はどこか悔しさをにじませた口調で、ぼくの推測をふたたび肯定した。

 

 ぼくは言葉に詰まる。

 レジーナは気まぐれに〈リー゠ジエ〉をタウ・セチに向けたわけじゃない。完全に最初から〈ヘイル・メアリー〉の撮像を狙って、用意周到に準備していたんだ。

 船がこちら側に向かっている——先生がもどってくる——と期待して、その速度まで考慮して。

 

「ばかなものか。あの頃は世界中のだれもが、船が帰ってくると思っていた。あの報道より前に、真相に気づいたってだけでもすごいよ」こんなとき、ぼくは月並みな言葉しか思いつかない。

「ありがとう。そうね、運がよかったんだと思ってる」

 ちがう。強運のおかげじゃない。彼女の慧眼以外のなにものでもない。

「ビートルズのあとを追いかけてきているなら、もうとっくに減速フェーズの光が見えていいはずなのよ」と彼女がいった。「仮にタウ・セチとたまたま重なっていたとしても、ペトロヴァ光観測衛星の年周視差があれば三基とも見えないわけはないはず。なのに、青方偏移した光は写らなかった。——周囲は、〈ヘイル・メアリー〉に最悪の事態が起こったのだろうと解釈したわ。もともと()()()()ミッションだったのだから、気落ちするなって」彼女の口調からは静かな怒りが伝わってきた。

「そんな」ひどいことをいうやつらがいるものだ。

「ありえないと思った」

「だよな」〈ヘイル・メアリー〉の生存を微塵も疑わなかった彼女の信念に、ぼくは心のなかで喝采を送った。

「絶対に見つけてやると誓ったわ。退役したストラットに直接かけあって、こっそり観測機会を割り当ててもらった。ぜんぶの波長を試してみたら、遠赤外画像に、赤方偏移した光点が写った」彼女はだんだん早口になってきた。「まさかと思ったわ。設定を間違えたのだろうと思った。でも何回撮像しなおしても、結果は変わらなかった。だから、なにかほかに見落としがないか必死に探したの。タウペディアとビートルズを洗いざらいね。——で、昨年末にようやく見つけたのが、例のあのメモ」

「あのメモって——まさか」

 さらっととんでもないことをいわれた気がする。

「もしかして、グレース先生の——」ぼくは絶句する。

「そう。緊急プレスリリースで公表されたあれね」

 

 今年の二月、全世界が騒然となった隠しファイル。通称、グレース・メモ。タウペディアの全データのなかで、タイムスタンプが()()()テキストファイルだ。ぼくらは真実をこのとき知った。

 急いで書かれたらしいそのテキストファイルには、たったの数行、グレース先生が〝友人〟を助けるために急遽エリダニ40星系に向かうこと、地球にはもどらないことにしたが大丈夫だから心配しないで欲しい、というようなことが、彼なりのいつものユーモアをもって簡潔に記されていた。ぼくもいまだに全文をそらでいえると思うし、〈コンソーシアム〉の緊急記者会見でそれを読み上げたストラットの思い詰めたような表情がいまでも忘れられない。

 

「あれを見つけたのも、きみなの?!」驚きすぎて、感覚が麻痺してきた気がする。

「ええ。光点や赤方偏移の件は結局公表していないから、あのメモだけが世間的には唯一の物証ということになるわ」

「ワオ……まさにワオだな」ぼくはうなった。

「これも運がよかっただけ」と彼女がいった。「赤方偏移のことがなかったら、いまでもメモに気づいていなかったかもしれない。なにしろファイル名が〝新規テキストドキュメント.txt〟だったし」

「うわあ。それはひどいな。ぼくなら確実に見落とすよ」

「しかもタウペディアが入ったRAIDアレイとはべつの、USBメモリの中にね。ビートルの内壁に緩衝材ごとダクトテープでぐるぐる巻きに固定されてて、『ここを見ろ!』ってペンで書いてあった」

()()()()搭載されてたの?!」

「ええ。電気的には切り離されてた。だからビートルズの送信データには含まれてなくて、ずっと見落とされていた」

「……うわあ」

 なんてことだ。

 彼女がそれを見つけてくれなかったら、ぼくらはいまでものんきに〈ヘイル・メアリー〉の帰還を待ちつづけていたかもしれないってことか。考えるだに恐ろしい。

 全人類はいますぐ全力で、彼女の緻密さと執念深さに感謝しなくちゃならない。

 でも、ぼくの知るかぎり、グレース・メモの報道発表にレジーナの名前は出てなかったと思う。あくまで〈コンソーシアム〉としてのプレスリリースだったはずだ。〈リー゠ジエ〉のデータにいたっては赤方偏移どころか、ペトロヴァ光が見えたことすら公表されていない。

「いやはや、すごいなんてもんじゃない。とんでもないよ。きみの成果は正当に評価されるべきだ。もっとアピールしたっていいんじゃないかな。ひどいことをいったやつらの鼻もあかせるだろう?」

 レジーナはしばらくだまっていた。

「ぼくからも〈コンソーシアム〉にひとこと——」

 彼女の小さな溜息が聞こえた。「ありがとう——でも、いいの」

「……レジーナ?」

「あのメモを読んで、わたしがどんなに狼狽したか——()()()()()わかるでしょう? だって、ほかの動画や日誌では、これから帰るっていってたのよ!」

 彼女の口調がやや冷静さを失いつつあるのに、ぼくは気づいてしまった。

「先生はいってたわ。ロッキーから燃料を分けてもらえることになったんだ、って。ほんとうにいいやつだって。これなら地球にもどれそうだから、どうかみんな、無事でいてくれって」

「ああ……」ぼくはばかだ。無粋だった。

「サンフランシスコの海と空と坂道が恋しいって。いつかもう一度サリーズ・ダイナーのツーエッグコンボをオーバーミディアムで、奮発してパンケーキもつけるんだって」

 ぼくは拳を強く握りしめる。彼女の絞り出すような言葉を、だまって聞くことしかできない。

「授業、途中で抜けてきてしまったから、もう一度ちゃんとやらないとなって。最後はとっておきのタウ・セチ早押しクイズをやるから、準備しておけよって……!」

 

   * * *

 

 そうだ。ほんとうに、レジーナのいうとおりだ。

 退屈な中学校生活のなかで、いちばん楽しかったのがグレース先生の科学の授業だった。一三歳という多感な時期に、先生の授業とその後の顛末を間近で見ていたぼくらの人生が、影響を受けないわけがない。

 先生は知らないだろうけど、あのクラスから科学技術(STEM)の分野に進んだやつは、ほんとうにたくさんいるんだ。レジーナとぼく以外にも、アストロファージ発電のトラン、温室効果制御のテレサ、自然酪農を復活させたアビー、〈コンソーシアム〉を率いるハリソン……。残念ながらクラス全員がいまでも健在というわけじゃない。ぼくらはきびしい時代に生きている。それでもみんな、グレース先生の〝遺志〟を継いでなんとか人類を立て直そうという一心で、それぞれの分野で必死に頑張ってきたんだ。

 だからグレース先生が地球に凱旋すると知って、ぼくらがどれほど驚き、喜びに沸き立ったことか! タウペディアに収録されていた先生の帰投(RTB)に関する一連のメッセージ、なかでも、かつての教え子に宛てたあの特別なビデオ・レターは、ぼくらにとって最高のサプライズだった。

 

 レジーナもまた、グレース先生の影響を受けて人生を決めたひとりにちがいない。

 彼女はもしかすると、ビートルズだけがもどってきたことをいち早く不審に思ったのかもしれない。〈コンソーシアム〉さえ浮かれているなかで、〈ヘイル・メアリー〉がほんとうに遅れてもどってくるのか、冷静に把握しようとしたのだろう。しかし、彼女の期待は完全に打ち砕かれた。光の波長は青い側じゃなくて、赤い側にずれていた。船は近づくどころか、遠ざかっていた。

 彼女がこの大発見をなぜ自分の名前で大々的に公表しなかったのか、それはわからない。でも、きっと彼女は相当悩んだんだろう。自分の観測データの正当性は、彼女自身がいちばんよく知ってるはずだ。だからこそ、それが疑念を決定的なものにしてしまうのが——自分がその最大の貢献者となってしまうのが、耐えられなかったのかもしれない。

 それでも結局、彼女は科学者として誠実に、傍証を探した。そして見つかったグレース・メモが、彼女の希望にとどめを刺した形になった。観念した彼女は歴史の表舞台に立つことを選ばず、すべてを〈コンソーシアム〉に委ねたのだろう。

 

 もしもグレース・メモの発見がなかったら——周囲の下馬評のとおりに〈ヘイル・メアリー〉は消息不明扱いになっていたかもしれない。それに比べれば全然ましなのはたしかだ。少なくとも船は生きていて、四秒サイクルで出力を制御しながらエリダニ40に向かっている。グレース先生の望んだとおりに。だから客観的には決して悪いニュースではない。実際に世間の大多数は先生の決断を英雄的行動として受け止めている。

 

 でも、彼女の落胆は痛いほどわかる。

 だって、ぼくだってそうだったんだ。

 先生が帰ってくるはずだった来年の春が、待ち遠しくてしかたがなかった。伝えたいことも聞きたいことも、山ほどあった。

 だから、先生が帰ってこないと知ったとき、ぼくもほんとうにショックだった。ショックすぎて、滅菌したばかりのピペットチップの箱をぜんぶひっくり返してラボでわんわん泣いた。

 

 ファイル名に文句をいえる筋合いはない。だってタウペディアのほかのファイル群はきちんと整頓され、インデックスまでついていたからだ。よっぽどの状況だったってことは容易に推測できる。

 先生はきっと、地球に向かおうとする途中でエリディアンの友だちの危機を知ったのだろう。グレース・メモのタイムスタンプを見るかぎり、軌道力学的にいって後もどりできるタイミングぎりぎりだったにちがいない。ビートルズはいつでも放出できるようにスタンバってて、RAIDアレイへのレイトアクセスは無理だったのかもしれない。急いでメッセージを書いてその辺のUSBメモリに保存し、ダクトテープでビートルズの中に貼り付けて、地球に向けて飛ばしてから、友だちを助けにもどったのだろう。

 

 グレース先生のやったことは、正しい。圧倒的に正しい。

 先生は、友だちと世界とを同時に救ってのけた。

 

 ぼくだったら、とっさにそんな判断ができるだろうか? うじうじと悩んでいるあいだに、友だちを助けるチャンスもビートルズを放出するチャンスも失ってしまうんじゃないか? そう、まるで、いまのぼくみたいに。

 

   * * *

 

「だからなのよ。……だからわたしは志願したの。ラテラルパス・ミッションに」

 レジーナの声ではっとわれに返る。なさけなく感傷にひたっていたぼくをよそに、彼女の声はもう、持ちまえの冷静さを取りもどしていた。

 

 横向きの(ラテラル)パス。

 劣勢のアメフトチームによる起死回生の大遠投パス、それがヘイル・メアリーだ。でもそんなプレーは文字通り、神頼みのやけくそパスだ。本来、クォーターバックは多彩なパスプレーを繰り出す。ラテラルパスなら、試合中に何回だって投げていい。

 タウ・セチに挑む一か八かのヘイル・メアリーじゃなくて、横にいる〝隣人〟に向けたパス。エリダニ40に向けて何度でも投げて、ともにゲームをつづけていくためのパス。人類の新しい恒星間往還ミッション、ラテラルパスだ。ほんとうはもっと長くて堅苦しい名前なんだけど、〈ヘイル・メアリー〉のアメフト趣味にあやかってぼくらは勝手にそう呼んでいた。

 

 彼女はひと息おいて、つづける。「太陽光度の情報がエリダニに届くのは、いまから一六年後。その頃にはたぶんグレース先生は、五〇代になっているはず」

「うん。エリドは高重力だし、さすがに身体にもガタが来ているだろうな」とぼくはいう。

「そうね。だから、もうもどってくる気はないんだと思う」彼女の横顔が、シルエットだけ見える。「電波でもこちらの情報をエリダニに向けて送信しつづけているけど、やっぱり一六年かかるし、最大出力でもエリドの濃く濁った大気の底に届くかどうかはわからない」

「逆もおなじだな。仮に先生がエリダニからこちらに情報を送ってくるにしても、一六年だ」実際、地球から見えるエリダニ40の光度は、まだ回復していない。

「長すぎるのよ。わたしはいまから何十年なんて待てない」と彼女がいった。「だから、グレース先生に直接会いにいく。先生が元気でいるうちに」

 レジーナの声には、たしかな熱量があった。

「わたしが見つけたくそいまいましい赤方偏移を、少しでも()()()()()()()()()()()()の。それがわたしのほんとうの志願理由」

 

   * * *

 

 たぶん、近いことを考えたやつらが世界中にたくさんいたんだと思う。ただし、彼女よりはもうちょっと実務的な理由で。

 ビートルズのデータから紐解くかぎり、人類とエリディアンは今後も宇宙の友人としてうまくやっていけそうな気がする。だが往復三五年という距離はあまりにじれったい。グレース先生に通訳をやってもらえるうちに人類が訪問しないと、いろいろとまずい。少なくともぼくは、先生なしにまったくうまくいく気がしない。

 早く行動すればするほど、お手玉がもらえる——早押しクイズで学んだ、宇宙の普遍的真理だ。先生に残された時間はかぎられている。ぼくらはエリディアンより寿命が短くて、せっかちで、衝動的な種属だ。それにこの好機を逃したら、人類は外宇宙より内政を優先するようになるだろう。

 だから、いまから使節団を複数回に分けてエリドに送る——ラテラルパス・ミッションだ。そのための船のパーツの一部が、二週間後、この浜辺からはじめて打ち上げられる。八カ月かかる軌道上組立の最初の一歩だ。

 レジーナはみごと、第一便のメインクルーに選ばれた。ぼくはといえば、まあ、バックアップクルーだ。そして第一便が出発したら、すぐさま今度は第一便のバックアップクルーが第二便のメインクルーになって、出発準備にかかる。太陽系とエリダニ40との位置関係から、出発のチャンスは年に一回。つまり、ぼくもレジーナの一年後には、彼女たちを追いかけていくことになる。

 

 ああ、オーケイ。わかっている。これは賭けだ。アポなしの突撃だ。直視したくないシナリオも含めて()()はしている。懸念はキリがないが、なかでもぼくが気にかかったのは消化と代謝の問題だ。ラボで泣き散らかしたあの夜、ぼくは冷酷な事実に気づいてしまった。先生の船内の備蓄は限られている。()()()()ミッションだったからだ。そして——エリドの重金属まみれの食べものを、おそらく人類は口にできない。

 パンがなければ合成すればいいじゃない、なんて安易にみんなはいうけど、それは農業が壊滅した世界で代替食材技術に依存しきったぼくらの価値観でしかない。二六年の技術ギャップは大きい。エリディアンならきっとなんとかしてくれると思いたくもなるが、冷徹にいえば根拠のない楽観論だ。

 だが、科学的にいえばほかにも勝算はある、といまのぼくならいえる。たとえば、タウメーバだ。クレイジーだって? 人類がこれを消化して代謝できることは、毎日やつらを追いかけ回しているぼくが保証する。体を張ってちゃんと検証もした。あるいは設備さえあれば、自分の細胞を使った培養肉だとか、死んで常温になったアストロファージを加工するとか——この程度のアイデアを、先生が思いつかないわけがない。さんざん読み込んだ先生の論文や日誌が、ぼくの確信を裏打ちしている。

 もし入れ違いに、先生がエリダニ40を去って地球に向かっていたら? うん、まあ、そのときはそのときだ。次善策も用意してある。

 多かれ少なかれ、クォーターバックが投げるパスは、いつだって賭けなのだ——相手を信じてパスを投げる。ぼくと人類はこの賭けに乗ることにした。盲信ではないが、やけくそでもない。

 

 だからいまのぼくはもう、グレース・メモを見て大人げなく泣いたりしない。むしろ、先生の的確な判断と友情を誇りに思っている。エリドを訪れたであろう最初の人類が先生でよかったと、心から感じている。

 でもレジーナはきっと人一倍、この使節団にかける思いが強いんだ。

 彼女は赤方偏移の第一発見者だ。だからこそ、その存在が許せないのだろう。自分の手で物理的にそれを打ち消したい気持ちはすごくわかるし、彼女にはその権利があってしかるべきだ。

 それに彼女がぼくにこの話を打ち明けてくれたことは、ちょっとうれしかったんだ。ともにグレース先生に学んだ同志として、だ。レジーナの成果はもっと広く知られるべきだけど、いまは彼女の気持ちを尊重して、ぼくらの秘密にしておこうと思う。

 

   * * *

 

「ぼくもだいたいそんなところだ。先生に会いにいく最後のチャンスだと思ってね。——その、さっきはごめん。無神経なことをいった」

 すでにぼくらは、人生の折り返し地点にいる。船内時間は片道四年半だけど、地球に残していく家族や友人たちには三五年間の留守番を頼むことになる。それも覚悟のうえだ。

 長期昏睡は使わない。あまりに危険な賭けだ、と〈ヘイル・メアリー〉のヤオ船長とイリュヒナが身をもって教えてくれた。それにこれはもう、特攻ミッションじゃない。投げたパスはもどってくる。

「おなじ教え子として、きみの落胆も覚悟も心から共感する。でも、その情熱には負けたよ。強いな、きみは」ぼくは素直に彼女のタフさを称賛する。持てる科学のすべてをつぎ込んで先生に追いつこうとしている彼女の意地を。「きみは選ばれるべくして選ばれたんだと思う。まぐれで採用されたぼくとは大ちがいだ」

 彼女の視線がこっちを向いたように感じた。

「いまさら、なにを謙遜してるの。いまや、あなたは世界の比較宇宙生物学を牽引している。先生の研究を正しく継承した、タウメーバの第一人者でしょう。胸を張ってよ」

 それは買いかぶりすぎだ。比較宇宙生物学は生まれたばかりの新しい分野だから、ぼくみたいな平凡な研究員でも世界の最先端で仕事ができるってだけだ。

「オーケイ。ありがとう、レジーナ」とぼくは肩をすくめる。「まあ、ぼくの数少ない武器だしね。これがなくなったら、あとはマッケンチーズづくりくらいしかやれることがなくなってしまう」マッケンチーズは、ぼくがつくれる唯一の料理だ。マカロニもチーズも、いまはまだ代替品だけど。

「あなた、なんだかグレース先生に似てきてるわよ」とレジーナが苦笑いする。

「ワオ。どのへんが?!」まんざらでもない。いや、正直にいおう。めちゃくちゃうれしい。先生はぼくのヒーローであり、憧れだったんだ。にやつきがおさえられない。「顔? ……じゃないよね」

「しゃべり方とか、ものの考え方とかね。タウメーバと毎日じゃれ合っているとこういう感じになるのかしら?」

「培養のたびに、ぼくのかわいいタウメーバたちに声をかけているからね。オーケイ、みんな、きょうは分裂してみよう! いちばん早く増えたチームがお手玉獲得だ! ってね」グレース先生の口調をまねてみる。……おっと、スベったかな。レジーナの表情はまだよく見えない。でも、ちょっと笑ったような気がする。

 それにぼくが日々こんな感じでタウメーバを扱っているのは、ほんとうのことなんだ。

 先生の科学の授業で感じたわくわくに突き動かされて、ぼくはいま、()()にいるのだから。レジーナもきっと、そうなんだと思う。

「——先生はずっと、ぼくの理想だった。かなり影響されてるのは否定できないね」ぼくは肩をすくめる。

「じゃあ、あなたもきっと、よい先生になれるわね」

「そうかな」

「わたしたちは、グレース先生のことを()()覚えている最後の世代よ。それを次の世代に伝えていくのも、わたしたちの仕事。先生の、ものの考え方も含めて、ね」

 レジーナはそういうと、天文薄明が終わろうとしている東の空をだまって見すえた。大西洋と空の境界がうすぼんやりと白みを帯び、季節外れの春の星座は輝きを失いはじめていた。

 

 まもなく、地球にいちばん近い恒星が、今日も水平線の向こうから昇ってくるだろう。九七パーセントまで復活した白色光が、この小さなバイオスフィアを満たすだろう。

 不意に頭の中で、穏やかなギターのイントロが流れだす。四機のビートルズのうち、〈ジョージ〉の送信データのプリアンブルに仕込まれていた、百年近くも昔の曲だ。きっと設計者のいたずらだろうな。データ受信のたびに、人類が飽きるほど聴かされたフレーズ。かつて、宇宙のどこかの〝隣人〟に向けて、探査機ボイジャーのゴールデンレコードに収録されるはずだったナンバー。

太陽が昇ってくる(ヒア・カムズ・ザ・サン)」口の中でそっとつぶやく。「もう、大丈夫だ(イッツ・オールライト)

 人類とぼくらの太陽(ソル)はきっと、もう大丈夫です、ライランド・グレース先生。

 もしかすると〈ジョージ〉からのブロードキャスト信号は、遠くエリドにも届いてるのかもしれない。それでも、ぼくらはその言葉を直接会って伝えたいんだ。先生とその友、ロッキーに。

 

 薄くたなびく雲と鈍色の海が、淡い光に照らされつつある。風が凪ぎ、気の早い海鳥の群れが、遠くでにぎやかに鳴きはじめる。長く暗い夜がようやく明けようとしているのを、全身で感じる。

 いつか、和音と音符で話すぼくらの最初の隣人(エリディアン)たちにこの曲を聴かせたら、いまのこの感覚をわかってもらえるだろうか。

 そんなことをぼくは徹夜明けの頭で、ぼんやりと考えた。

 

(了)  

 

 




【あとがき】
・タイトルは、The Beatles の ”Here Comes the Sun” という曲からです。有川浩先生の同名の小説、および演劇集団キャラメルボックスの同名の舞台(脚本・成井豊さん)とはまったく関係ないです。被ってしまってすみません。
・「ぼく」が具体的にどの生徒なのかは深く考えてません。「レジーナ」は「c!」って答えたあのレジーナです。彼女に再びcを真っ正面から扱っていただくことにしました。
・アレ、実は見えるんじゃね? 見えたらびっくりするだろうな…って思ったのがきっかけです。一応ざっくり計算してみましたが完全素人で全然自信ないので、間違ってたら教えて下さい。他のも全然自信ないです。もし間違いなどがあればどうかご指摘下さい。
・実際はグレース先生、それなりに落ち着いていろいろ準備する余裕はあったんだろうなとは思います。
・ジャガイモとダクトテープは Andy Weir 先生の別作品へのオマージュです。
・本作には生かせてませんが、Andy Weir 先生ご本人による設定集 Eridian Biology が本当にすばらしいので、これから二次創作される方はよかったらぜひご一読を。空条HYO太郎ヲさんによる日本語訳が最高に便利です。
・(2026/3/27追記)その他の設定についても Andy Weir ご本人から全数値が開示されました。拙作との整合性については要検証ですが、よかったらぜひ。
・初稿に的確なアドバイスを下さった八月休希さんに心から感謝します。
・追記(2025/1/2):食糧事情を考えると地球側はグレースの生存を必ずしも確信できないのでは、という実に的確なご指摘を頂き、少し改稿しました。素晴らしいご指摘を下さり議論にお付き合い下さったさかなさかなさんに心から感謝します。

Pixiv・AO3にも同時投稿しています:
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21842156
https://archiveofourown.org/works/56571799

PDF・EPUBダウンロードはこちら:
https://a-out.booth.pm/items/8163280

評価、お気に入り、感想・批評、ここすき、SNSでの紹介、ほんとうにありがとうございます! しあわせ、しあわせ、しあわせ!反応頂けると本当に励みになります。
簡単なアンケート・感想フォーム作りました。全問任意なのでご協力頂けるとうれしいです。
https://forms.gle/E3GM8VYDLGAJNznb8




おまけ:以下の「挿絵」は、本作のかなり適当な図解です。横軸は地球からの距離(光年)、縦軸はヘイル・メアリー出発からの地球での経過時間(年)です。”This Fanfic”がこの二次創作の舞台、”Canon Ending"は原作ラストです。そこから斜め左上に線を伸ばせばわかりますが、仮にグレースがあのあと速攻で地球に帰ったとしても、地球では60年は経つわけで、知人はほぼ死に絶えてるはずです(ストラット達は言わずもがな、教え子もいつ死んでてもおかしくない年齢)。だからもうこのタイミングでこっちから行くしかないよね(緑線)ってのがラテラルパスの基本コンセプトです。今ならまだぎりぎり間に合う。それもあって各クルー6名中1名は必ず彼を直接知る人間が選出されているという設定で、それが本作の二人です(もちろん専門性と適性は必須でしたが)。
これを逃したら人類史にも自分の人生にも悔恨が残る、と老いたストラットも理解していて、このあと彼女はある決断をする(という幻覚が自分にはぼんやり見えている)のかもですが、それはまた別の話です。

【挿絵表示】

(その他の計算結果はこのへんを参考にしてますが、合ってるかどうかはわかりません)

(2026・3・21追記。以下、映画のネタバレを含みます。ご注意ください)

 映画見ました。素晴らしかったです。

 拙作が映画の展開と矛盾してないか気になっていましたが、まあギリギリ映画の後日談としてもお楽しみ頂けるかと思います。ストラットさんが公式とかなり解釈一致でほっとしてます。拙作の「ぼく」と「レジーナ」は映画の世界線でもたぶん、こんな感じでどこかにいるんじゃないかな。

 あんな人形受け取って、エリディアン式の別れの挨拶なんてされて、()()()()()()()()()()()()()()()()()じゃないですか。ラストのストラットさんの「……始めて」という台詞、やがてラテラルパス・ミッション的な何かに結実する第一歩であってほしいものです。

 ダクトテープで固定されてたのはUSBメモリじゃなくてグレース人形とでも読み替えて下さい。グレースメモと違って動画で経緯を伝えられてたようなので、拙作のような混乱はなく最速で解に辿り着いてそうです。
 問題は、ヘイル・メアリー号の形状等が小説版からかなり変わったので、太陽系から光点が本当に見えるのか再検証が必要なことですが、むしろ機体質量が増した分、光量も増えてるかもです。あとエリドが高重力でなくなって意外とグレースが長生きしそうです。
 ダクトテープは絶対出ると思ってましたが、ゴールデンレコードを模したプレートと浜辺での締めはすごく嬉しかったですね。The Beatlesの"Here Comes the Sun"は当初、本当にゴールデンレコードに載って恒星間航行する予定だったらしいですが、EMIが許可しなかったのだそうです。

 小説と映画のヒットのおかげで信じられないくらい多くの方に拙作を読んで頂いたり紹介頂いたりしてしまい、ひたすらおったま元素です。とにかく感謝してもしきれません。ありがとうございます!

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