身動ぎと共に僅かに軋むベッドと、カーテンの隙間から差し込む青白い月明かり。それと、ベッド脇に備え付けられた小さな冷蔵庫の駆動音。
それだけで構成された、一人で過ごすにはやや広すぎる殺風景な医務棟の一室で、天野百笑はぼんやりと思考を回していた。
ここで目を閉じてしまえば。このまま眠ってしまえば最後、再びあの追憶に囚われるのではないか…………二度と目が覚めないのではないかと考えると横になることもできず、さりとて何かに集中する気にもなれず。
故に、彼女はただぼんやりとしていた。
しかし、意識的に何も考えないようにすることが「無我の境地」などと大層な名を付けられているように、何も考えずにいたい彼女の内心とは裏腹に思考は止まらない。
そうして辿り着くのは、やはりあの追憶の果てで待っていた黒い少年のことであった。
******
黒い空間の中を、地獄のような光景と耳にこびりつく悲鳴を出力する無数のウィンドウが満たしていた。
それらは大きさも内容も鮮明さも何もかも異なるが、しかし自分たちの悪逆を示すという点のみ共通している。
そんな記憶たちの中心で■■百■は漂っていた。
いや、“漂っていた”という表現は相応しくないだろう。
なぜなら、“漂う”という言葉は『風や波に運ばれるままに空中や水中に浮かんでいる状態』を指すものであり、今の彼女にはその根本となる肉体が存在していないのだ。これでは何をどうしようとも漂うことはできないだろう。
さらに言えば、彼女は肉体だけでなく記憶の大半も失っていた。自分の名前も、この場所についても、そもそも“自分”とは何だったのかも。その全てが彼女にとって分からない未知となっていた。
もっとも、たとえ記憶を失っていなかったとしてもこの空間については未知であっただろうが。
ともかく。存在の輪郭がぼやけている彼女に理解できるのは、自らを取り囲むこの記憶たちは心地よくないものである事と、それらが自分たちの為してきた罪科であるという奇妙な実感ぐらいであった。
故に、彼女はどれだけ不快に感じようともこの追憶から逃げられなかった。
こんな地獄は見たくない────そもそも閉ざす瞼が存在しない。
こんな嘆きは聞きたくない────耳を塞ぐための手も、掻き消す悲鳴を上げる喉も存在しない。
逃げ出して楽になりたい────走るための脚も無ければ、この罪から逃れる名分も持ち得ていない。
例え自分がこれらの行為を行っていたのではなくとも、それを認知した上で止められなかったのならば同罪だ。奥底に押し込んでいた黒く粘ついた罪悪感が溢れ、その心を捕えていく。
そんな時だった。
ディスプレイの電源を落としたかの如く、何の脈絡も無く追憶が途切れたのは。突然の出来事に何事かと内側に向かっていた意識を外に向けると、やがて目の前に少年が立っているのが見えてきた。
艶消しされたような黒の髪と瞳。全てを呑み込んでしまいそうだと感じさせる深さと、今にも周囲の黒に溶けて消えてしまいそうな儚さを共存させたその少年に、■野■■はまるでこの瞬間に抽出されたみたいだと思った。
『ボクたちの根源を見て、どう思った?』
────分からない。ただ、ひどく辛そうだと思った。
『そっか。お姉さんは分かってくれたんだね、ありがとう』
────分からない。でも、私は君に謝らないといけない気がする。
『どうして? ボクたちの根源にも、呑んじゃったお姉さんの記憶にもその理由は無かったよ? むしろ、謝るのはボクたちの方だよ』
────分からない。だけど、そんな気がするの。
『優しすぎるのも良くないんだね。お姉さんが背負うべきモノじゃないのに。それとも、全部返したら変わるのかな?』
────分からない。
『そうだよね。この状況自体がフェアじゃないんだし、分かんないよね。それじゃあ、とりあえず記憶を戻すからじっとしててね』
────分からな……………………
こちらに伸ばされた少年の腕から、ナニカが流れ込んでくる。
違う、これは天野百笑の────私の記憶だ。
「あ、ああ……」
抽出される。
自分が流れ込む。
再構築された天野百笑が見え始める。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁああっっっ」
******
元来、天野百笑という人間は大人しい性質をしていた。
幼少期の頃などは仲の良い数人の友達と常に一緒にいるような────それこそ内気で、臆病で、慎重な少女であり。
決して今の彼女のような明るく活発、誰とでも話し誰からも好かれ、それでいて八方美人などと揶揄されることも無い存在などではなかった。
つまり、クラス内における彼女は『先頭に立ってみんなを引っ張る』タイプではなく『一歩引いた位置から状況を見て、その上で友達に引っ張られて付いてくる』タイプとして認識されていたのだ。
いつもそんなようでは排斥されそうなものだが、そこは持ち前の明晰な頭脳と慎重さ、そして一歩引いた視点から安全志向な方策を出してくれる存在として────おそらくその整った容姿による影響もあっただろうが────いざという時は頼れる可愛い妹分としてみんなから愛されていた。
それが変わったのは、彼女が高校に進学した頃であった。両親や担任の先生、友人たちがこぞってオススメするものだから半ば折れるような形で受験した、全国的にも名の知れた進学校。
推薦受験であり面接もあることから、「どうせ受からないだろうし受からなくても本番が後にあるからまあいっか」という彼女の気楽さに反し、彼女は合格してしまった。
それも筆記における得点は二位と大差をつけたぶっちぎりの首席として。
合格通知が届いた当初は良かった。
オススメしてきた両親や友人たち、それに担任の先生はこちらが一歩のけ反る程の喜びようであったし、それ以外の級友たちも笑顔で祝ってくれた。
明確に自分が周りを笑顔にできた事への喜びやようやく追いついてきた実感などもあり、その頃は彼女もニコニコと笑顔で過ごしていた。
しかし、時が経つにつれ喜びは薄れ、かわりに不安がその身を襲うようになり始める。
「わたし、ちゃんとできるのかな」
彼女が進学するのは全国的にも名の知れた進学校である。つまり、これまでずっと一緒にいた友達や同級生とは離れることとなるのだ。
これまではみんな自分の性格を理解して、その上で接してくれていた。だが知り合いの居ない高校でもそうなるとは限らない。
もしかしたら上手く馴染めないかもしれない。嫌われるかもしれない。イジメられるかもしれない。
不安。
恐怖。
そして後悔。
それらを抱えて迎えた入学式の日、彼女は誰とも話すことができなかった。
肩口までの綺麗な黒髪にシミ一つない陶磁器のような肌、それに彼女から醸し出される儚げな印象も相まって、半日しか時間のない初日の内に話しかけられる存在は同級生にいなかったのだ。
そして、これまで体験したことのない遠巻きに眺められるという状態で彼女の方から誰かに話しかけられるかといえば、それもまた否であった。
変化があったのはその翌日。同時に、それは劇的なものだった。
昨日の大和撫子然とした容貌から一転して、すっきりと────あるいは、バッサリと────ベリーショートにまでカットされた髪に、積極的にクラスメートに話しかける活発さ。
あの触れたら崩れてしまうんじゃないか、と思わせた儚さはどこへ行ったのやら。そこに居たのは誰にでも分け隔てなく接し、それでいて踏み込み過ぎればすぐに謝る強かさを持った少女であった。
もちろん、この180度と言える前日からの変化に違和感を覚えなかった生徒は少なかった。もっとも、あっけらかんと放たれた
「あー、実は緊張のせいか昨日は頭痛がひどくって。それに、地元からココに合格したのもウチだけだったから話す相手もいなくて……そのせいじゃない?」
という返答と、昨日と今日の彼女でどちらの方が接しやすいかという点からその疑問はあまり長くは持たなかったのだが。
高校生になったとはいえ未だ中学生の延長線という意識が抜けきっていない少年少女たちには、その違和感を突き詰めるよりも今話している相手と楽しく過ごすことの方が優先順位が高くなるのも当然の話だったと言えるだろう。
閑話休題。
さてさて、ではこの変化の要因は何だったのだろうか。
これまで通りの自分ではいけないと思ったから────それは確かにそうだ。
だがここで重要なのは、その結論に至った発端は「友達をもっと増やしたいと思った」などといった積極的な考えではなく、むしろ「このまま過ごしてイジメられたりするのなら、逆にみんなの懐に入り込んでしまうことでそれを回避しよう」というような後ろ向きで、消極的な発想であった点である。
これはこれで理論に飛躍がある気がしないでもないが、おそらくは普段の冷静さを欠いていたのだろう。まだまだ幼い少女だったのだし、その点には深く触れないでおいてあげよう。
まぁ……とどのつまり、彼女の変化は攻撃的な防御反応とでも言うべき代物だったのだ。
だが、幸運なことに彼女の企みは上手くいった。あるいは上手くいきすぎてしまった。
成績優秀、容姿端麗、運動神経も平均より少し上と悪くなく、それでいて誰にでも明るく接する。まさしく理想的な人間となった彼女は誰からも好かれ、そして誰もが彼女をそう思い尊敬した。
彼女自身も、いつからか自分がそういう存在なんだと思うようになっていた。
別段そのことに息苦しさを感じた事は無かった。最初の頃こそ若干無理をしているという感覚があったが、時間の経過とともにそれは薄れていったし、何よりも彼女自身が自分は明るく積極的な人間だと思っていたのだから。
それでも無意識下では負荷がかかっていたのだろうか。
高校二年生の初夏も過ぎた頃、一学期の期末考査も終わり短縮授業となったある日に、彼女は一人で山奥のトンネルに来ていた。
特別な理由があったわけでは無い。友人との会話で出てきた心霊スポットにただなんとなく足を運んだ、それだけであった。普段の自分なら絶対にしない事だし、進学以前の自分でも絶対にしない事だ。
なぜあんな事をしたのか今考えてもよく分からない。
ただ、原因は分からずとも事実として彼女はそのトンネルに足を運び、そしてそこで死にかけた。
ケの日常に押しやられ潜んでいた怪異が牙を剥いた、それだけの話である。どうにかこうにか隠されているハレの世界では良くあることだ。
******
「はぁっ、はぁっ……」
ポツポツと設置された電灯の内、まだ活きていた数少ないそれが照らす中を天野百笑は全力で駆けていた。
その内心は「何でこんなことに!?」という言葉で埋まっていたが、それを口にする余裕も無ければそれをするメリットも皆無であるため声は出さず、できる限り音を抑えるようにしながら荒くなった息を整える。
おそらくとはいえ折角あの化け物を振り切れたのだから、再び見つからないようにするのは当然の話である。
ここまでの経緯を掻い摘んで話そう。
元々彼女は遠目にトンネルを眺めるだけで帰ろうと思っていた。それが気付けば黒々としたその中に踏み込んでおり、さらに出ようと思っても足は思うように動かず、ただひたすらに奥へ奥へと誘うばかり。
そうして辿り着いた最奥に居た、赤錆びた襤褸を纏った女とも四足歩行の獣とも見える化け物。
どうやら磔にしてそこに封じてあったらしいが、生憎彼女が対面した時には左手以外の杭は抜け落ちた後であり、その残り一本も彼女を見て興奮したアレが暴れた際に抜けてしまった。
そこに至ってようやく制御が戻ったらしい足に意識を向ける間もなく、まさしくニタリという表現が似合う顔で嗤ったソレに追われ────そして現在に至る、というわけである。
見覚えのない分かれ道ができていたり入ってきた時よりも明らかにトンネルが長くなっていることから、この場所が尋常なものでない事はとうに察した。
たまに見るホラー映画などでありがちなベタすぎる展開に毒づきたくなるが、声を出す前に思い直して口を噤む。既に片手では足りなくなってきたそれを行ったあたりで、進む方に電灯とは異なる明かりが見えてきた。
あまり期待せずにその方へ向かえば、眩暈のような感覚と共にフッと視界が暗くなり────気付けば見覚えのある場所に戻っていた。これで3回目だ。
しかも今回はご丁寧に直近の分かれ道の手前ではなく最奥にまで戻しやがった。
「はぁ…………」
愚痴の一つも吐きたくなってくるが、やはり口にする前に思い直す。それでも溜息がこぼれているあたりから彼女の疲労が読み取れるだろう。
仕方ない、もう一度出口を目指そう。
そう思って一歩を踏み出そうとした瞬間のことであった。
「Kiiiiiiaaaaaaaa!!!」
進行方向から例の化け物の叫び声が聞こえたのだ。ただし今回は
同時にタタタタッというどこか軽やかな何かの音も。
一度呼吸を整えると、彼女は意を決して音源に向かった。当然ながら気配は極限まで押し殺しながらである。
そうして辿り着いた場所では、これまでの状態から更に輪をかけて意味不明な光景が広がっていた。
まず目についたのは黒を基調とした防護服らしき服を着た複数の人影。こちらに背を向けて等間隔に距離を取りながら、その手に持っている銃を発砲して────銃!? はぁ!? とまずその点に驚き。
その次に緑色に怪しく光る網に捕らわれているらしいアレを見れば、左腕と右足……左前脚と右後脚? とにかく四肢の半分を失って横たわっているらしく────いやいやいや物騒すぎでしょ!? と腰が抜けそうになり。
そうしている間にトンネルがあらゆる箇所から崩壊しはじめ────もうなんなのよ!? キャパオーバーだから勘弁してよぉ!? と呆然とし。
へたり込んでいたら謎の黒服たちに気付かれて「せ、生存者発見!」「巻き込まれた民間人がいたのか!?」「ちくわ大明神」と騒がれ────こっちが騒ぎたいぐらいよ! 誰か説明して!? あと最後の誰!? と半泣きになり。
黒服たちに腕を掴まれたかと思えば元のトンネルの入り口に戻っていたことに、安心やら訳の分からなさであったりで天野百笑は気を失ったのだった。
なお、この一件で彼女が見たのは億餧が奇心体(それも今回は生物型と領域型の複合タイプという極めて危険なもの)を鎮圧していた場面である。
そのため当然ながら記憶処理を施されてケの日常に戻された…………のだが、この一件がきっかけとなったのかそこからの一年で二桁近くの奇心体絡みの事件に巻き込まれることになり。さらには短期間で記憶処理をされすぎたことで耐性が付いてしまい、本人も「こんなに巻き込まれるなら対抗する術が欲しいです」と希望したことで高校卒業とともに億餧に入社することになるのだが、それはまた別の話である。
入社後は4年間というインターバルこそあったものの、結局大事件に巻き込まれた上なし崩し的にそこからの種々の事件に関わることになるあたり、彼女の巻き込まれ体質は極まっていると言えるかもしれない。
閑話休題。
さて、話を彼女の内面についての部分に戻そう。
この一件以降、彼女の臆病な性質は再び強くなった。もちろん記憶処理によって何を経験したかは覚えていないのだが、無意識の部分で影響が残っていたのだ。
といっても外部に分かりやすく表出するようなものではなく、行動指針が僅かばかり慎重になった程度のものであったが。むしろ慎重さを得られた分成長した、とも言えるだろう。
あるいは自己保身を考えるようになった、とも。
それは最近になっても────つまり億餧に入社した後でも変わっていなかった。そもそもが無意識的な部分の話であり、気付きようのない以上変化しないのも道理である。
ここで疑問に思った観測者の諸兄は実に鋭い。
彼女は奇心体に対する過剰な実験の撤廃、すなわち奇心体の保護を計画していた。分かり切ったことではあるが、これは億餧において明らかな異端である。特に京都本部では。
確かにバレないように行動していたり、まずは自分の階級を上げることを考えていたりと慎重ではある。あるのだが、彼女の慎重さの根源は「化け物に殺されそうになったこと」であり、その系統は自己保身的なニュアンスを多分に含んでいる。
その彼女が自己の所属する組織と正反対の思想を持ち、あまつさえ行動にまで移していたのだ。
これが正常だと、どうして言うことができようか。
さてさて、というわけで何が彼女をそこまで動かしたのか、考察してみるとしよう。
苦しむ奇心体を見ていられなくなった?
否。拷問にかけられる奇心体を憐れには思えど、それは何もかもを無視してまで行動に移させるほどの熱量は持っていない。
リスクを気にできないほど義憤に駆られた?
否。確かに正しいとは思っていなかったが、それはあくまでも要素の一部分。全体からすれば一割にも満たない。
仲の良い奇心体が居た?
否。そもそも京都本部に収容された奇心体はまともな精神状態を維持することなどできない。元の性質がどうであれ、環境によって歪められるからだ。朱に交われば赤くなる。
もっとも、今回は憤怒を連想させる赤よりも憎悪を連想させる黒の方が色としては正しそうではあるが。
…………ちなみにではあるが、奇心体と人間が友誼を結ぶことは京都本部であったため有り得ないだけで、別の支部────それこそ、比較的歪みの少ない九州統括支部など────であれば発生する可能性は十分あると言えるだろう。
もしくは、人と妖の距離が現代よりも遥かに近かった昔であったり、どちらもに偏見が根付いていない幼少期であったり。まあこれが天野百笑の話に関係するか、と聞かれれば一切しないのだが。
ともかく。彼女の行動の根本には先ほど挙げたような綺麗でつるつるしたものは無かった。
では何が原因なんだと言えば、話は単純である。
すなわち、自己保身だ。
ただしその対象が億餧の職員ではなく奇心体からの、という枕詞は付くが。
そう、彼女は恐れていたのだ。このままでは、恨みを買った自分たちはいつか復讐として殺されるのではないか。同じような責め苦に遭わされるのではないか。
もしそうなった時に彼らの扱いをマシにしようとしていたのならば、もしかしたら自分は…………。
別段不思議な要素はない。たとえ打算に塗れていたとしても善行は善行として評価されるべきであり、そもそも打算の混じっていない善意100%の行動などむしろ信用できるものではない。
彼女の試みの根底に自己保身的な打算が入っていようが「苦しむ奇心体を救けたい」という思いに嘘はなく、それは称賛されるべき精神性である。
不幸だったのは、天野百笑という人間がそういった功利主義的な────あるいは現実へと妥協した考えを肯定できなかったことであろうか。
なまじ彼女の善性が強く、本人も自分の事を「明るく優しく、理想的と言える人間」だと思っていたが故の悲劇。
一度『夢魘の集積』に吸収され、その後に再構築されたことで客観視してしまった自己の側面を彼女は“汚いモノ”と認識してしまったのだ。
そんな自分が、心から苦しんでいた彼らを救ける?
なんて思い上がった、汚らわしい考えだろう。
そう思って謝罪しても、「お姉さんが優しいのは分かったけど、今回はボクたちが巻き込んだんだから。その謝罪は受け取れないよ」と拒絶され。
その上、暴走した自分が京都本部を無茶苦茶にし、それを年下の青年たちに止めてもらったと知り。
彼女がこれまでの指針の一切を失って、途方に暮れてしまったのも仕方が無かったのだろう。
******
カーテンの隙間から差し込んだ柔らかな陽光が、閉ざされた瞼の暗闇を優しく照らす。
「んぅ…………」
どうやらいつの間にか眠っていたようだ。寝起きの意識を覚ますために軽く伸びをして体を解していると、昨日はあったはずの全身の傷が消えているのが分かった。
きっとあの子……《夢魘の集積》が治したのだろう。
「……はぁ」
あの子は私からの謝罪を絶対に受け取らず、その上でこうして私を巻き込んだことへの贖罪として様々なことをしてくれる。
それが何よりも心苦しい。私にそんな価値は無いというのに。
なんてことを考えていると、扉をノックする音が聞こえた。この時間帯ならおそらく看護師さんだろうか。
「失礼しま────あら、起きてらしたんですね。お加減はいかがですか?」
「ええ、まあ……」
「ふむふむ、かなり良くなってそうですね。っとそうだ、昨日来てらした鬼一さん、今日も面会したいとのことでしたが……どうなさいます?」
鬼一君。
その名を聞いて体がギクリと強張るのが分かった。
正直今の状態で顔を合わせたくはない。偉そうなことを言っておいてこのザマなのだから、どんな顔をすればいいのか分からないのだ。
というか、今は誰にも会いたい気分ではない。たしかに、このまま一人で考えていても現状が好転するとは思えない。
思えないが、こんな自分を誰かに見られるよりは随分マシだ。自分の見下げた側面を自覚したが、それでも私に露悪趣味はないのだから。
「あー、今日はちょっと……」
「ふむふむ、分かりました。少し落ち着く時間も必要でしょうしね。にしても、随分傷の直りが早いんですね。もうほとんど傷跡も消えているし……お肌もつやつやですし。羨ましいぐらいです、なんちゃって」
「あはは……」
流石に「私と同化した奇心体が治してくれました」なんて真正直に言えるわけもなく、右の人差し指で頬をかきながら曖昧に微笑む。
テキパキと清掃などの業務を行う看護師さんは、そんな私の様子に何を言うでもなく次の話題へと切り替えた。おしゃべりが好きなのだろうか。
「でも、どうしましょうね。この感じなら明日にでも現場に復帰できそうですけど、できる限りそれは遅らせて欲しいって支部長は仰ってたんですよね」
「…………」
「ふぅ、大体こんな所ですかね。騒がしくしてすいませんでした。それでは私はこの辺りで失礼しますね」
そのまま業務を終えた看護師さんは部屋を出て行こうとする。
その姿を見て、なぜか私は彼女を呼び止めていた。
「あのっ……! その、栄薪支部長に相談したいことが、できたんですが────」
「それには及ばないさ」
急に大きな声を出した私に驚きながらも、看護師さんが何かを口にしようとしたタイミングで部屋の扉が開かれる。
声で察したが、そこに立っていたのはやはり栄薪支部長その人であった。
「あ、これ私さっさと出てった方が良い感じですか?」
「まあそうなるね。気を使ってくれてありがとう」
「いえいえ、丁度出るタイミングでしたし」
慣れた様子で話すと、彼女はそのままスルリと部屋から出ていった。
かわりに入ってきた栄薪さんは私の傷が消えているのを見て少し目を細めたが、特に何も言わずに椅子に腰かけて話し始める。
「用件は似てそうな気がするが……まあ私の方から言わせてもらおうか。天野職員、しばらく
「私も、似たようなことをお願いできないかと考えていたところでした。昨日ああ言った手前身勝手なのは承知ですが、考えを整理するためにも少し時間をいただけないでしょうか」
「ふむ、丁度良いね。ウチの敷地は山に面していることを知っているかい? 実はその反対側にセーフハウスを作っていてね。山の中を直線で通り抜けられるように道も作ってある。1週間あれば終わらせられると思うから、そこで過ごしてくれ」
実際のところは既に京都本部から圧が掛けられているため、1週間というのはかなり無理をすることになるのだが、そんな様子は全く見せずに語る栄薪。
「分かりました、ありがとうございます」
「礼には及ばないさ。もしすぐに動くようなら、誰か案内を付けるが……」
「一本道なんですよね? だったら一人で大丈夫です。傷も癒えてますし」
必要なことだけを話し、できる限り早く医務棟から立ち去ろうとする天野。そんな様子が伝わったのか、彼は「連絡と護身用ね」と支給品の端末や拳銃を手渡し、そのまま自分の仕事へと戻っていった。
「よし、大丈夫かな」
改めて体の調子を確認し、病室内に自分の私物が置かれていたりしないか見回す。
特に問題ないことを把握すると、次は廊下に誰かいないか慎重に様子を伺い────今度も問題ないことを確認すると、天野百笑は九州統括支部からセーフハウスへと移動を開始したのだった。
ポツリポツリと設置された蛍光灯が頼りなく世界を照らすトンネル。最低限足元が見える薄暗い中をカツン、カツンと足音を鳴らしながら歩く。
こうしていると、一番最初に奇心体に関わったあの事件のことを思い出す……というのは流石にボンヤリしすぎだろうか。
昔過ぎて朧げになっていた記憶も含めた全てを思い出したため、目覚めてからどうにも昔のことを追想しがちな気がする。或いはこれも、現状から目を逸らしたいがための逃避的行動なのだろうか。
なんて事を思っていた彼女の耳に、自分の立てる物と異なる音が入り込んだ。普段よりも判断力の落ちている脳は何事かと混乱するも、肉体は自然と気配を殺しつつ懐から拳銃を取り出す。
染みついた習性に従って慎重に音源を確認すると、どうやらそれは倒れた少年の呼吸音だったようだ。
もっとも、その少年は明らかに人間には出しようのない鮮やかなトルコブルーの髪色をしていたのだが。
「なんでぇ……?」
またもや面倒ごとに巻き込まれたことを察しながら、天野百笑はさっそく渡されたスマホを使って連絡をするのだった。
できればあまり大事になりませんように、と祈りながら。
書くか分からない話ですが、c1cad4君がここに居たのは便利屋が彼の端末を弄り回った結果エラー発生してよく分かんない所の吐き出されたからだったりします。