公式に一切関係ありません。
pixivに過去に投稿した作品を引っ越ししています(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8771906)
「みなさん、《舞闘会》の招待状です」
図書館を管理するマメールがそう言って一通の封筒を《キャスト》たちに見せる。
ただし自由奔放なキャストたちはマメールの招集にそもそも応じていない者が半分、集まったうちのもう半分は話を聞いていない有様だ。
真面目に覗き込んでいるのはサンドリヨン、吉備津くらいだった。
「舞闘会戦役……とは違いますか、これは」
「皆で競い合う腕試しのようなものか。それにしても大規模だ、鬼ヶ島でもこんな数とはやらんぞ」
アリスたちがはしゃぎ回っている中で年長組が顔を突き合わせる。
こんな光景はマメールも慣れっこなようで、話を聞いているふたりへ向かい続けていく。
「それぞれマスターの元で代表《キャスト》を三名選び、試合相手を決めてから誰が実際に戦うかを決定する……という仕組みですね。
上位には褒賞もあるようですが、私たちのところだと参加賞がせいぜいの気楽なものになるでしょう」
世界には最前線で次々とヴィランや闇の軍勢と激戦を繰り広げるマスターとその《キャスト》たちもいるというが、この図書館のメンバーはそこまでのことはしていない。
自分たちの手の届くところで、小さな幸せを守っていく。
もちろん他から要請があればチームを組んで出撃することもある。
「おや、開催場所は王子どのの城ではないか? せっかくだ、サンドリヨンどのが出ればよかろう」
傭兵《灰かぶり》から抜けて以来、ほとんど王子らの元に戻っていない。
別に後ろめたいことなどないのだから、古巣で開催されるイベントにサンドリヨンが出ることに不都合はないだろう。
「では、当日は――」
*
「――その、似合っていますか?」
舞闘会当日。
かつての舞闘会戦役とは別のものとはいえ、同じ場所で戦いを行う、ということでサンドリヨンはある衣装を用意した。
『お城のぶとうかいに、いちばん上等なドレスを着てくるように』
王子が当時使った、闇の軍勢側についたお妃を討伐する命令文。
あの日留守番を言い渡され悲しんでいたサンドリヨンに、ウィッチとビクトリアスが白いドレスと魔法の剣を与えてくれた運命の日であった。
そのドレスと剣は今でも愛用している。
太陽と月の双剣の代替になるものはないためこちらはそのままだが、魔法のドレスは別のものを仕立てることができる。
初夏をイメージさせる若草色のドレスに新調したのを今日初めて着てきた。
草原、風、それらを照らす太陽、そんなイメージを連想させる色合いの衣装は普段とは違った爽やかな印象を与える。
「うん……サンドリヨンお姉ちゃん……すごい……」
参加登録には三人必要であるが、今回はミクサにお願いして来てもらった。
形式だけの登録であり実際の試合はサンドリヨンが出突っ張りになる予定だ。
同じく登録だけしてきた吉備津と共に観戦席で見てもらうことになる。
素直に感嘆したミクサと対照的に吉備津は目を丸くして黙っていた。
「吉備津さま?」
「いやすまない、その、見惚れていた。綺麗だ」
「えっ……」
今度は褒められた側が恥ずかしくなるような実直な発言に、サンドの方が慌ててしまう。
頬を染めながらも内心、ミクサと吉備津にだけ先に見せてよかった、とも思う。
一番美しい姿を最初に見てもらいたかったから。
「でも、単に着飾ったお人形ではありません。戦場で踊る姿も見ていてくださいね。……きっと負けることにはなりますが」
今でこそ傭兵《灰かぶり》の少女たちは英雄として讃えられているが、所詮は戦場でしか生きることのできない女たちの集まりである。
サンドもその例外ではなく戦いで『強い』と言われることは、年頃の娘が『美しい』と褒められることと近い。
傭兵時代の元仲間たちにも今の仲間たちにも、戦う姿を見てもらいたかった。
「何、悔いのないよう戦ってくるがよい」
「はい!」
それこそ年頃の娘らしく、ロビーの人混みをサンドは駆けていった。
舞闘会の開始を告げる鐘が鳴る。
*
「おねーちゃんがんばれー……」
「うーむ、俺ならああするかな、裏を取って」
「がんばれー……」
「ミクサ、それではサンドどのまで聞こえぬ。もっと大きな声だ」
「がんばれー」
「もっとだな」
「むずかしい……」
*
一週間に渡って舞闘会は行われ、遠方の参加者への配慮もあり途中参加も自由となっている。
その一日目が終わり、くたびれたサンドが戻ってきた。
結果は散々なものだが歴戦の勇者たち相手では仕方ないとも言える。
もう夜中といっていい刻限であり、空には星々が、城の方では松明の明かりが灯っていた。
会場から図書館へ帰る道中、石畳の道をゆっくりと並んで歩いて行く。
「申し訳ありません、成果を出せず」
「気に病むことはない。また明日もあるのだろう」
いつも堂々としている吉備津の言葉は安心感がある。
所詮は傭兵であるサンドとは違い、日ノ本の国で大将たる血統を受けた差であろうか。
「そういえば例のドレスは?」
「毎日運ぶとそれだけ手間がかかりますから、仲間たちにお願いして城の方で預かってもらいましたよ。明日以後は更衣室も手配してくれるそうです」
「そうか」
他愛もない会話であるがただいつもと違い、吉備津は声量を抑えた妙な感じであった。
サンドが不思議そうな顔をしていると困ったように吉備津が背中の方を示す。
「その、すまぬ。ミクサが……」
「あら」
背中に背負っているものを見て納得した。
すやすやと眠るリトル・ファイアがひとり。
「子供は眠る時間ですからね。大人も休むべきですが」
「このまま図書館まで徒歩だな」
「ええ、十二時の鐘……とは言わずとも、図書館の消灯までには帰りましょう。でもミクサをおぶっていたら大変でしょう、荷物を持ちますよ」
出場しない吉備津やミクサの手荷物は多くないが、手ぶらというわけではない。
サンドの申し出に吉備津は笑って返す。
「それこそ俺がサンドどのの荷を持ってやらねばならんではないか。俺はずっと見ていたに過ぎない。ほれ」
よいしょとミクサを片腕だけでおぶさり直し、空いた方の手でサンドの双剣も抱えてしまった。
女であるサンドリヨンが扱えるようにカスタマイズされた剣ならば、もっと大きな太刀を振り回す吉備津にとっては羽のようなものなのだろうが、看過しきれずこれは取り上げ返して自分の手に戻す。
いつもながら力が強い、
「ダメです! 何でも自分が引き受けようとしたらいけませんよ、もう」
「……うむ、すまぬ」
夜の澄んだ空気にふたり分の足音はよく通る。
*
舞闘会二日目。
思わぬところでトラブルでサンドが頭を抱えていた。
「あのドレスが、見つからないのです。盗まれたのかもしれませんが……」
仕方なくいつもの白いドレスを着てロビーに戻れば当然、吉備津もミクサも若草色のドレスのことを聞くし、事情を説明することになる。
昨晩に更衣室で保管するところもきっちり見届け、今日も朝一に着替えに向かったのだがドレスが無くなっていたのだ。
傭兵《灰かぶり》のお膝元であるから警備に不備があったということも考えにくい。
盗難とも言い切れないのだが、どちらにせよ現物がすぐに出てこない以上は諦めるしかなかった。
「おねえちゃんのドレス、みたかった……」
「ふむ、探してくれてはいるのだろう? 試合中の時間を使いロードピスどのにも問い合わせておこう。残念だが、舞闘会に集中するがよい」
上位を目指すには力不足であることは一日目から痛感していることだが、だからといってこれからの試合を心身乱れた状態で挑むのは他の参加者に失礼な行為だ。
そう自分自身に言い聞かせても気持ちが乱れるのを抑えられない、サンドの顔色は精細に欠く。
「落ち着かないか。ならば我が国に伝わるまじないをするとよい」
そう言って吉備津はサンドの左手をとる。
その手のひらを二度、なぞり、
「手に『人』の字を書いてな、それを『飲む』のだ。そうすれば緊張がほぐれる。そういう《まじない》だ」
目の覇気が薄れていたサンドがなぞったところを真似し、吉備津が見せる手本と同じ動作をする。
不思議とすっと落ち着いてくる気がした。
まだ心臓は落ち着いてないが、気持ちが集中できる。
「すごいです、まだどきどきはしていますが、気持ちは平静になった気がします……」
「そうだろう。両手で剣を扱うゆえ、これをできるタイミングは限られるだろうが」
「いいえ、ありがとうございます。今日も、いってきます」
悪い意味での緊張をしていたサンドの顔は前よりもずっと晴れやかになっている。
きっと今日はいい試合ができる、と思う。
「ああ、いってらっしゃい」
「いってらっしゃい……おねえちゃん……」
*
「うぅむ、やはり引っかかるな」
「……どうしたの?」
「ミクサどの、もう一本わたあめを買ってくるので今日はひとりで居てもらっていいか?」
「……うん、るすばん、してる……」
「いい子だ。すまぬな」
ミクサが気にいっている星色チップが乗せられた菓子を追加で与えてやり、吉備津は観戦席を立つ。
ドレスの件が単なる窃盗と言い切れない、胸騒ぎのようなものを感じるのだ。
鬼退治の英雄だの讃えられているが要は剣士で、その直感というのは馬鹿にできないのだ。
サンドの知り合いとして顔パスで城内を歩かせてもらえるのが幸いだ。
探索していく中、彼の勘が何かあると告げる場所がひとつ――
*
事態に気づいたのは夕暮れどきであった。
吉備津がいつまでも戻ってこないことに気づいたミクサが観戦席で泣き始め、小さな子がひとりで泣き出してるといるということで警備側ではちょっとした騒ぎになったのだ。
連絡を聞いてサンドはすぐに自身は切り上げて駆けつけた。
ぐずっているミクサから事情を聞き出すのには骨が折れたが、そもそも彼女のそばに吉備津がいないことそのものが異常でありすぐに察した。
(どうか、ご無事で)
最後に会ったのがチェネレントラらしく、そのときは城内の部屋の配置や構造を吉備津に聞かれたという。
普段使われていない場所などを重点的に質問してきた、と聞き、サンドは間違いなく例のドレス盗難について彼が探っていたのだと分かった。
自分がもし逆の立場ならばこのあたりを探るだろう、というような場所を順に駆け回っていた。
その中でひとつ、何もないときであれば通り過ぎるような、視界にひっかかりがあった。
ギィギィと音を立てる鉄扉が半開きでそこにある。
普段ならばだらしない誰かが開けっ放しにしたのだろうと閉めなおしてそれだけだが、
(もしも吉備津さまなら、この扉をくぐるのでは?)
そんな考えが閃いた。
サンドの記憶ではこの先は城の地下だ。
《シンデレラ》の物語においてお城の地下はさほど重要な役割を果たしていない。
だが今は現実世界と物語世界の相互に影響を与える《キャスト》であり、《原典》になかった存在が重要な意味を持つことは十二分にありえる。
その鉄扉をそっと手で押すと、入ってくるのを待っていたとばかりに開いた。
石造りの階段が暗闇へと続いている。
クリスタルのブーツで一歩を踏み出すと音が奥へと飲み込まれる。
壁に点在する灯りがわずかに照らしてくれているが、視界が十分とは言い難い。
ごく、と息を呑んで壁に手をつきながら一歩ずつ降りていく。
(……この匂い……)
深くへ行くほどある匂いがたちこめているのが分かる。
闇のせいで視覚に頼れず、相対的に嗅覚が研ぎ澄まされる。
嗅ぐ機会はそうないはずなのに何なのかすぐに気づいた。
(インク。《キャスト》を構成するインクの匂い……)
《物語》が魂ならば、インクはその肉体と言える。
その匂いがこんなところで立ちこめているのは異常事態だ。
決して警戒を解かないよう、でも急いで足を進めていく。
距離感覚が狂ってしまう闇であったが、フロアにして一、二階層分ほど降りたところでやっと階段が終わった。
インクの匂いは濃くなる一方だ。
音の響き具合からちょっとしたホールくらいの広さはありそうだ。
その闇の中に何者かの気配がある。
階段よりも更に少ない灯りのために輪郭しか見て取れないが、ヒトの姿をした影だ。
「何者です!」
城の地下でインクの匂いの中佇むなど常人ならばまずあり得ない。
太陽と月の双剣を構え、問い詰める。
魔力が通った剣からは光が発せられ、その先を照らす。
掠れた声の主は男だった。
「我……我、か」
「名乗りなさい! そして何があったのです!」
双剣がもたらす白光を反射する肌は血が通ってないように青白い。
インク溜まりを踏んで、ぴちゃ、と音を立て、こちらへ振り向く。
「貴殿に名乗る名など……我にはない」
そう言って何かを投げる。
ひどく軽い音をさせたそれはサンドの足元に転がり、その正体が灯りの元に現れた。
音がしたのは金属のものだ。
ひときれの布に鉄板を縫い付け、その板には紋章が刻んである鉢金。
流れるインク、《キャスト》、鉢金――紋章の中身を精査するまでもなく、誰のものか一目で分かった。
(吉備津さま……ッ!)
彼はこの男に斬られたのか、流れるインクはそのせいなのか。
一体ここで何が起こったというのか。
「名乗らないというのなら、ここでッ!」
周囲の視界を取りつつ戦闘状態へ移行するために一層の魔力を回す。
舞闘会では芳しくない戦績であったが、闇の軍勢との戦闘に関して不足があるということではない。
「剣を抜くか……いいだろう」
男もその刀を構える。
禍々しい模様に牙を連想させる装飾が付いているものだ。
西洋で使われるものでなく、日ノ本の《物語》で使われる特徴が散見される。
「届けッ!」
敵の技量を読めないうちは下手に踏み込まず、だが自分の得意な間合いを保っていく。
剣から放たれた衝撃波が走る。
それ真っ直ぐに穿ちに行き、敵の足が一歩下がった。
これならやれる、と思ったのが甘かったと次の瞬間に思い知らされる。
「ぬるい、ぬるいわ」
衝撃波に退いたのではない、踏みこむための構えの一歩であった。
今の攻撃でまともなダメージを与えられていない。
刹那、正面から大きく突進してくる。
鍔迫り合いすら飛び越えた大胆な斬撃にサンドは対応しきれない。
かろうじて双剣で防いだものの、重たい一撃に片方の剣が手から離れる。
痺れる左手で拾い直すことは困難だ。
だが闘志は尽きない。
「まだ、まだやれます……!」
無事な方の手で握り直し、構え直す。
そしてその言葉、意志も無慈悲に打ち砕いてくる。
「雑兵は、失せよ!」
ただ叫んだだけ、ただの一喝でサンドはそこから身動きが取れなくなる。
戦わなくては、戦わなくては、戦わなくては。
気持ちだけが先走っても身体が動かない。
「これまでか。弱き正義など、哀れなものよ」
凍りついたその肩を掌で突き飛ばすだけで、そのままサンドは後ろに尻をつき、なお動けない。
斬られることすらなかった。
そしてぴしゃ、ぴしゃとインク溜まりがはねる音だけを残して去っていく。
魔力の供給が滞った双剣からの光は薄くなる。
「貴方は、貴方は……ッ!」
闇の中に溶け込んでいく背中にかろうじて声を投げつける。
声帯だけが今のサンドで動かせる場所だった。
ぴしゃ、と音が止まる。
「我は既に、全てを捨てた。敢えて名乗るならば、闇、吉備津……」
足音が遠く溶け込んでいく。
その間サンドは呆然とするしかなかった。
ようやく動くようになった指は吉備津彦の鉢金を手繰り寄せるので精一杯で、このインクの主であろう吉備津をどうにかしたあの敵が憎くて、そいつに全く歯が立たない自分が不甲斐なく、歯を食いしばり壊れたように涙を流すしかなく、闇の軍勢を決して許してはならないと猛り、心が胸が爆発しそうで。
闇に彼の名と存在を奪われたことが信じられなくて。
「吉備津さまぁ……吉備津さま…………ッ!」
この空間に残る彼の痕跡に向かってただ叫ぶしかできなかった。
*
A year later...
*
昼間の図書館、ヴィラン討伐を終えた《キャスト》らが帰ってくる。
その中には純白のドレスを纏ったサンドリヨンもいる。
司書であるマメールはひとりひとりにねぎらいの声をかける。
「……おかえりなさい。今日も戦いでしたか?」
「ええ。でも、他の《ブック》の吉備津さんと協力して落城まで行けました。ああいう連携をいつでも取れたらいいものなのですが」
戦列にこの《ブック》の吉備津彦はいない。
あの日以来、彼は行方不明のままだ。
「今夜はもう、休もうと思います。また次の戦いがありますから」
悪い妃を討ち取った《物語》のままに今のサンドリヨンは戦闘マシーンのごとく戦い続けてきた。
どれだけ血を浴びても実在の人間ではないサンドリヨンのドレスは赤く濡れることはない。
ヴィランの黒いインクを浴びると、染みが心身に生まれるが。
「だめです、しばらく休みなさい。これだけ連戦となればもう貴方の剣の魔力も枯れていていい状態のはずです。それに」
「いえ、ますますヴィランが活発化している以上、休んでいる暇なんてありませんから」
もう長いことサンドリヨンはこんな調子であった。
初めての《舞闘会》から帰ってきて、城の面々に顛末を伝え、地下の調査にも付き添い――何も出てこなかった。
調査の間はまだ何か状況が変わる希望があっただけましであったのだが、それも折られてからはしばらく目の光を失っていた。
マメールは無理にでも止めさせるにはこれしかないか、と懐にしのばせていたあるものを取り出す。
「また今季も届いているのですよ――《舞闘会》の招待状」
ぴく、とサンドリヨンの肩が揺れる。
取り出すわずかな時間の間にもう背中を向けて部屋に帰ろうとしていた。
「いえ、いえ……あくまで私たちの本来の役割は《闇の軍勢》との戦いですから……」
もうひと押しですね、とマメールが小さく息をつき、もうひとつの切り札を出す。
「ヴィラン殺しのヴィラン。それの出た跡には黒いインクが散っていると聞いております。その目撃報告があの城の付近で多発しております」
サンドリヨンが息を呑む。
あの城の地下で吉備津彦が消えた日、インク溜まり。
季節ごとに《舞闘会》の招待状は届いていたが、あれ以来そいつが現れたことはなかった。
今まで姿を見せずどうしていたのか、なぜ今回なのかはどうだっていい。
「行きます」
「では私からの指令ですよ。来週の《舞闘会》には最高の状態で向かうよう、今週は休養に努めなさい」
傭兵《灰かぶり》にいた頃の上官の口調を真似したマメールの言葉はサンドリヨンに染み込む。
剣を収め、久方ぶりにティーを飲むとしよう。
*
再びの舞闘会。
サンドリヨンはごねて抵抗したものの、どういう条件で《闇吉備津》が現れるか分からないから、とマメールに押し切られて参加登録もしている。
登録はしてもどこまでホールに参加するかは自由意志だから、一試合もしないでいくことも可能ではある。
他の参加者より少しばかり早い時間に会場へと向かう。
かつてミクサを背負った吉備津と共に帰ったあの石畳の道だ。
今日に隣を歩くのは彼らではない。
「今回は私がサポートに付きますよ」
吉備津がいない間に、新たな《キャスト》も多数迎えた。
ロビン・シャーウッドもそのひとりだ。
森に住む義賊、その目の力も借りれば正体不明の相手の所在も探しやすいだろうという采配である。
時間の流れとは恐ろしいもので、常に過去と今は違っている。
「それでサンドリヨンさま……お美しい」
「強さを示すには相応の装いをしなくてはなりませんから」
かつての《舞闘会》でもそうしてきたように、今回もまたサンドはドレスを新調してきた。
実力を認められた者に渡される真紅のドレス。
舞闘会の花、という肩書に相応しい、人目を引く鮮やかな赤だ。
かつてのサンドリヨンにはただ憧れの対象でしかない衣装であったが、あの《舞闘会》での出来事の後はがむしゃらに強くなろうと戦いに明け暮れた。
そして昇格試験を通過し、この衣装を支給された。
試験を通過したのは大分前のことなのだが、サンドリヨンは敢えてその衣装を身に着けずにいた。
――実力を認めてもらう証としては欲しかった。
――でも綺麗な姿を見てもらいたい相手がいない。
――ならば、せめて。
(弱いと言ったあの者に、力を示す)
ぐっと剣を握る手に力がこもる。
「せっかくの美しい姿なのに、眉間にしわが寄っていますよ。舞闘会の主役がそんな顔をしてはいけません」
苦い思い出の場に来たことで自分の世界に浸ってしまっていた。
隣に仲間がいるのにこれでは失礼だし、戦いにも集中できない。
「申し訳ありません」
「女性の最大の武器は笑顔と涙ですよ。そして私は笑顔の方が好きですね」
とりとめもない会話が心を癒やす。
少し前までなら冗談とも本気ともつかない発言に苛立つこともあったが、マメールの命令で休息をとったことで心身の余裕が多少なりともできたのかもしれない。
ただ《舞闘会》に関するトラウマが少しだけ想起され、身体が強張りそうで、気持を落ち着けるために手のひらに『人』の文字を書いてそっと飲み込んだ。
荘厳さも感じさせる門の前に立つ。
まだ他の参加者がほとんどおらず、自分たちで開けて入るようだ。
重い扉に手を当てて、いや、厚いはずの扉が自ら開き、体重をかけようとしていたサンドは前向きに転んでしまう。
「きゃあっ……!?」
もっと驚いたのは――《舞闘会》ホールの景色がかつての《舞闘会戦役》そのままであることだ。
建物の構造や装飾は同じだがサンドには見てわかる。
そしてすぐに後ろを振り向くが一緒にいたはずのロビンの姿がない。
「《シンデレラ》の物語世界ですか……?」
自分の状態を確認する。
太陽と月の双剣はきちんと使い込んだ年月だけ姿をしている。
ドレスは今日着てきた真紅。
マメールから預かってきた《舞闘会》の招待状は、無くなっている。
入ってきた扉を開け閉めしなおしてみたが変化はない。
何があっても対応できるよう、双剣を握りしめて神経を緊張させた。
(図書館を経由しないで、目的と別の世界に繋がるなど異常です)
かつて傭兵《灰かぶり》でありながらお妃討伐の指令が届かずに泣いていたあの世界、あの時間。
しかしあの《物語》の中ではお城にサンドが到着した時点で激しい戦いが繰り広げられていたのに今は不気味なまでに静かなのだ。
これも最近ヴィランの活動が活発化している影響だろうか。
闇の軍勢はそれらを倒すように創られた《キャスト》に負けることを運命づけられてしまっているため、現実世界だけでなく《物語》世界に直接侵攻することも増えてきている。
その一種であると考えればある程度は説明がつけられる。
「ぽっぽー」
「鳩……」
まるで王子からの指令を届けられたときのように、手紙を咥えた鳩が降りてくる。
少しでも手がかりが欲しいサンドリヨンは迷わず受け取った。
これは見覚えのある文字だが《シンデレラ》の登場人物のものではない。
『ロビンです。どうやらサンドリヨンさまだけが別世界に取り込まれたようです。私は無事なのでご安心を。
こちらからは《シンデレラ》に登場する鳩を介して手紙を届けるだけで精一杯になりそうです。
会場の方はまだ何も現れていないものの、悪しき存在の気配は城全体を包んでおります。どうかご無事で』
味方からの連絡が来たことは非常に嬉しいが、一方でぞっとする。
今ここが《物語》の世界であれば外界の干渉は受けないはずなのに、手紙という形で本来ないはずのものがここにある。
同じように闇の軍勢の干渉があっても何もおかしくない。
「紙の裏に返事を書いて……無事に手紙は読めました、と。鳩さん、お願いします」
どこかへ鳩は飛び去っていく。
追っていけばもしかしたら元の世界に戻れるのかもしれないが、原因究明の方が先だ。
意を決して、中心部になるドレスホールの方へと行く。
こちらもまた招かれるよう軽く手を当てただけで入り口が開いた。
広いホールに長い階段、これも知ったままの光景。
その中で戦っている闇の軍勢もそのまま。
「いえ、これは前の……!」
姿は闇のオーラに包まれ黒くなっているが、今でもはっきり覚えている。
吉備津を失ったあの日の《舞闘会》に戦った面々と一緒だ。
《舞闘会戦役》とは別に、あの日がこの場で再現されているのだろうか。
「ならば、必ずやどこかにあれもいるはず」
サンドリヨンにとってあの日の象徴たる者もこの世界にいるはずだ、という確信めいた気持ちが湧いてくる。
《物語》世界の異物でもあり、元から《舞闘会戦役》でも討たれる存在である彼らを打ち倒すのに何のためらいもない。
そして自分をずっと縛り付けているあの日との決着をつけなくてはならない。
その意味ではおあつらえ向きの舞台だ。
「踊りましょう、貴方のために」
赤いドレスをはためかせ、クリスタルの剣を煌めかせて飛び込む。
それらしい姿をしていても《キャスト》の劣化コピーである彼らに負ける道理がない。
斬っていくたびに闇色のインクが飛び散り、サンドに纏わりつく。
数が多いのであれば一撃でまとめて巻き込んでしまえばいい、とばかりに剣先から発せられる衝撃波が次々と敵をなぎ倒していく。
「次ッ!」
太陽と月の双剣に込められた魔力には時間制限がある。
だが手加減してはこちらがやられるから全力投球で、先へ先へと階段を駆け上る。
長い長い階段の果て、本物の舞闘会であればまだ遠く実力の及ばない高さまで行く。
その途中には黒いインクが散らばり、誰がいるのか予感させる。
フロアの頂点、独り立つ、白い肌の男の姿。
――来たか。
――見つけた……ッ!
男の隻眼とサンドの眼が合ったとき、言葉にならない声が交錯した。
そして。
一歩を踏み出したとき、足場が消えた。
(えっ?)
まるで《不思議の国のアリス》で縦穴を落ちていく場面のようにサンドリヨンの身体が闇へと落下していく。
(いやだ)
心に絶望感が広がる。
(また、届かないなんて)
針を刺した指先に滲む血のよう、紅いドレスの彼女が下へ下へと落ちる。
上にいる闇吉備津の姿が遠く……ならない。
この男もサンドリヨンを追うかのように底の見えない闇へと飛び降りていた。
(どうして?)
わざわざ自分を追う理由なんてないだろうに。
弱い者は去れと、彼にとって自分なんて取るに足らない存在だろうに。
――だから、強くなりたかった。
吉備津彦の仇をとるために、彼に背負われてばかりの弱い自分と決別するために。
そのまま、ふたりとも混沌の闇の底へ。
意識が閉じる瞬間、悪意に満ちた声が聞こえた気がした。
*
シンデレラダヨ……。
ナマイキダヨ……。
オ・マ・エ・ノ・ドレス・ナ・ド、
ヒキサイテヤル!!
*
「う……ん」
目を覚まし確かめるとそこは真っ暗な地下で、城の一部ではあるようだ。
壁にはところどころに松明が設けられているものの、その灯りはほとんど役に立っていない。
サンドリヨンが見上げると落ちてきた穴は小さな点のようにしか見えず、どれだけの深さにいるのかを感じさせる。
近くにいるはずの闇吉備津の気配は、しない。
こんな地下は《シンデレラ》の物語には現れない。
改めてここが異界であると思い知らされる。
見渡すと一本道で奥へと繋がっているようだ。
救援が期待できないならば迷うだけ時間の無駄だ。
太陽と月の双剣に残った魔力残量を確かめてから走り抜けていく。
何もなくただただ続く道であったが、その途中に布切れが落ちていた。
最初は単なるゴミだと思い無視していたが、進むにつれてその数は増えより細かく刻まれていることに気づく。
どうしても無視できなくなり拾い上げると、もうハンカチにもならない布の破片なのに一目で何なのかが分かった。
若草色の上質な生地。
一年前に消えてしまったドレスの一部分だ。
何故ここに?と握りしめると、さらに先から音が聞こえてきた。
ガキン、カキンッ。
(剣……いえ、太刀の音?)
サンドリヨンやアシェンプテルが扱う軽量化された剣とは音が違う。
吉備津が使っていた日ノ本の太刀のものだ。
何度も修練で共にしたサンドには分かる、彼の剣戟のだ。
(生きていたの?)
一片の希望へ縋るように駆ける足が早まる。
奥は大部屋になっており、そこで戦いが行われている。
松明の灯りはやはり頼りないままで、誰かが動いている影しか見えない。
その誰かの姿を求めて飛び込むようにサンドは抜けていく。
周りの暗さがじれったくて、魔力を回して剣を発光させ灯りとする。
クリスタルの剣からの光が照らし出したのは、
青白い肌から黒いインクを滴らせる白夜叉――闇吉備津と名乗った男。
引き裂かれた若草色のドレス。
そして、踵と爪先が削げたまま踊る巨大な闇の獣、ヴィラン。
新たな役者の登場にサンドリヨンの中で撃たれたような衝撃が走った。
*
頭が痛い。
記憶の断片が氾濫する。
――いやすまない、その、見惚れていた。綺麗だ。
――何でも自分が引き受けようとしたらいけませんよ、もう。
――ヴィラン殺しのヴィラン。それの出た跡には黒いインクが散っていると聞いております。
――斬っていくたびに闇色のインクが飛び散り、サンドに纏わりつく。
――その白い肌から黒いインクを滴らせる白夜叉。
インクの持ち主は《キャスト》だけでない。
近しい属性を持つ闇の軍勢からも滴り落ちる。
自ら斬った闇の者の返り血ならぬ返りインクならば。
――でも、単に着飾ったお人形ではありません。戦場で踊る姿も見ていてくださいね。
――おねえちゃんのドレス、みたかった……。
――ヒキサイテヤル!!
――会場の方はまだ何も現れていないものの、悪しき存在の気配は城全体を包んでおります。
――これまでか。弱き正義など、哀れなものよ。
本来の悪が、この《シンデレラの義姉》をモチーフとしたヴィランならば。
シンデレラのドレスを引き裂いて城に潜んでいた闇ならば。
最初から城に闇が存在していたのならば。
――我は既に、全てを捨てた。敢えて名乗るならば、闇、吉備津……
そもそも、何故この男は吉備津彦の名を借りているのか?
――剣……いえ、太刀の音?
何故この男の剣を吉備津彦の剣と勘違いしたのか?
答えは単純で。
最初から、勘違いでなかったから。
*
「吉備津さま……」
その答えが唇から零れる。
白夜叉の男の肩が揺れた。
正面にいるヴィランと対峙しているから背中しか見えないが、その表情は見ないでも分かる気がする。
「吉備津さま!!」
「……」
返事を待たず、双剣を構えて並ぶ。
闇吉備津はもう否定しない。
敵のヴィランは悠長に待つこともなく、長大な腕を振り回してくる。
一時的に分断させられるが、華麗に飛び退いて反撃に転じる。
「澄み渡る、刹那の一撃!」
剣を振った先からクリスタルが斬撃となって生まれ、ヴィランの腕を切り裂く。
ヒトを模したヴィランの片腕を痛めつけたがまだダメージは足りていない。
自らも難なく躱していた闇吉備津はその姿を見ていた。
「……強くなった」
「やっと、見つけましたから」
その言葉はサンドリヨンに聞こえていたが振り返らなかった。
一年前に地下室で悔しさと悲しみに咽び泣いていたときのよう、また泣きだしそうだったから。
そんな自分を律するべく剣を構え直す。
「真実よ、この足に宿れ!」
ブーツにも魔力を送り、女性らしからぬ足回りを得る。
ただしこの効果はそう長く続かないし、双剣に回す分の魔力も消費している。
短期決戦を挑むつもりでいたが、思わぬ増援が現れる。
部屋の隅の暗闇からサンドリヨンと闇吉備津を模した《闇》がぬるりと這い出す。
「雑兵ハ……失セ……ヨ」
「トド……ケ……ヒカリ……ヨ……」
繰糸で操られる人形のようにヒトとしてありえないような角度にかくかくと揺れながら詰めてくる。
中途半端に自分たちに似せられてると余計に嫌悪感を掻き立てられ吐き気がしそうだ。
全部を戦闘の興奮で覆っていくよう自分を律して斬ってかかろうとするが、闇吉備津がそれを制する。
「え?」
「あの木偶は他と違う」
尋常でない力で抑えられ、絶対に行くな、という意思を感じさせる。
「斬ればインクが散る。闇の軍勢の目的はあくまで世界の破壊であり、」
ぼそぼそとして声で、だが一言一言伝えようと誠実に、言葉が紡がれる。
「それを阻む《キャスト》をその原典たる《物語》の改変で抹消するという手段」
低音が効いていて、可能ならばずっと傍で聞いていたくなる吉備津の声と同じ声だ。
「本に染みを落とすよう、あれを浴びれば《キャスト》が変質する。我のように」
「……私のドレスが盗まれたのは、そのためですか。ドレスを失ったシンデレラこそ本来おびきだされるはずだった……」
あの日。
サンドリヨンの代わりに地下を訪れた吉備津の前に現れた敵を、彼は躊躇いなく斬った。
そして返り血としての黒いインクを浴び、その罠に堕ちた。
改変させられたのは、《戦いの果てに自らが鬼になった桃太郎》。
ずっと孤独に、その驚異的な精神力で自我を保ちながらヴィランを斬り続けていた。
今日。
この卑劣な罠を仕掛けたヴィランはあくまで《シンデレラ》を仕留めるまで諦める気はなかった。
サンドリヨンを引き込んだ異界、罠まみれの舞台に闇吉備津もまた飛び込んできた。
それがこの物語の真実。
[newpage]
真相はどうあれ、残りわずかな魔力を放出する状態になり、タイムリミットが設けられた。
しかし剣士であるサンドリヨンも闇吉備津もあの敵と戦えばどうあってもインクを浴びる。
「それでも、私は諦めませんから」
強い光を瞳に宿して敵を睨む。
全てが知ってもう迷いはなくなった。
何より、彼に認めてもらえたのだから。
「苦難を超え、栄光の時を刻むのは今です」
剣先を突きつけ、そう叫んだとき、まるでその剣から放たれたように一条の光が走っていった。
まるで矢のように――いや、矢が闇のサンドリヨンの胸を射抜く。
正確に急所を撃たれた《闇》はその場で溶けるように崩れていった。
足元にはわずかなインクだまりが残るばかりだ。
『サンドリヨンさま! そちらに矢は届きましたか!』
「ロビンさま!?」
驚いて振り返ると、破れたページのように空間の一部が裂けてそこから声が聞こえる。
『直接その異空間に乗り込むことはできませんが、貴女の心の光が私の矢を導きます。気をしっかり!』
遠距離攻撃に特化したロビンの援護を得られるのならばこれほど心強いものはない。
突破口が見えてきた。
「キサマ……二……ミチナド……ナイ……」
元いた世界側からロビンが矢を射掛けるが、来ると分かっている射撃にはそうそう当たってくれない。
強烈な突進とその斬り上げで切り払いそのままサンドリヨンに迫ってくる。
それに応戦するサンドリヨンもまた、双剣を振り上げ重たい一撃を捌く。
「もう、あの日のように負けません! そのために私は変わったのですから!」
ただ守って捌くのではなく、そのまま振り上げた剣を袈裟懸けに下ろして刻みつける。
一年前のサンドリヨンには無かった剣技に闇吉備津を模した《闇》の動きが止まる。
絶好の瞬間を逃すわけがない。
「今!」
『いいでしょう。――真実を射抜く力を、ここに!』
次の一本が放たれ、寸分違わずに射抜いた。
やはりその場でどろどろと崩れてただのインクだまりに変わっていく。
こんな芸当ができるのならばもっと早くに援護してほしかったが、きっとそういうことではない。
サンドリヨンが真実に到達したときにやっとこの条件は整ったのだ。
「残るはあやつだけ。ここまで追い込むのに年月を重ねた」
「《シンデレラ》の物語に因縁の深いヴィランです。決着をつけます!」
剣士たちと弓兵の一斉攻撃が始まる。
これまで本体はこれまで城に潜伏し続けていたという性質から予想していたうちだが、このヴィラン自体はさして強くない。
世界への侵攻はフロスティやクロノダイルのような攻撃的な者に任せ、自分は陰湿に《キャスト》を冒すことに徹していたのだろう。
それより厄介なのが、部屋の片隅から次々と生まれる小粒の兵たちだ。
今さらこんなものに遅れを取らないが、タイムリミットは着々と迫っている。
「此処が最後の場となろう。……死の境へと行こうか」
誰が、誰と、とは言わない。
闇吉備津が剣を掲げると彼を中心にして、地獄からの招き手のような長い幻影が何本も現れる。
それは音もなく闇吉備津の周囲にいた敵兵に絡みつき、だが幻なので見た目には何の影響もないように見えた。
しかしその敵へ闇吉備津が斬りかかると、一撃であっけなくインクとなり散っていく。
「――ただ一撃で葬ってみせよう」
幻影たちは次の獲物を求めて這い回り、取った敵を闇吉備津が更に斬っていく。
「殺戮の宴だ!」
一対多の戦いを元から得意とするサンドリヨンも手を貸し、湧き出るよりも早いペースで敵兵を殲滅していく。
全力でかかってくるふたりの《キャスト》とその支援の矢に、あっけなくヴィランは倒れた。
*
戦いが終わると、床に残った大量のインクだまりも、切り裂かれていた若草色のドレスも消えてしまった。
サンドリヨンの誇らしい紅いドレスには汚れはない。
静寂が場を包むようになったところで、闇吉備津が突然膝から崩れる。
「……ぐっ……!」
「えっ?」
慌ててその肩を支えるが、力の入っていない身体は重い。
そして触れて初めて気づいた、ぞっとするほどに冷たい。
闇吉備津は剣を床に突き立てなんとか身体を支えようとするが、腕はぶるぶると震えサンドの介助がなければそのまま倒れそうだ。
「ふ、言っただろう……我は吉備津彦が変質した者だと。そして覚えておろう、かつてそなたを襲ったのを」
そんなこともあったし、その出来事ゆえにサンドリヨンはこの闇吉備津が、本物の吉備津を討ったものだとこの一年間ずっと思い込んでいた。
考えてみれば彼が《吉備津彦》ならばサンドリヨンに敵対する理由は無かったはずだ。
「闇の軍勢の手で変えられ、ヴィランに堕ちていて同然の状態で共闘できたのが奇跡で、その負荷が……限界に……なったと……」
辛うじて倒れないでいたのが、ここで一気に力が抜けて支えられなくなった。
そして、先まで敵を絡め取っていたあの幻影の手が、今度は闇吉備津に一本一本絡みついていく。
「何を」
戦いの最中は数本であったその幻影が、更に増えて数十本、数百本へと増えていた。
サンドリヨンを無視して闇吉備津だけを包み込んでいく。
「やめて、やめて、やめて!」
嫌な予感がしたサンドリヨンは彼に被さって庇うようにするが、幻影たちの抱擁は止まらない。
繭のようになった彼が――いつの間にこんな縦穴が開いていたのか――地下室のさらに地の底へと連れて行かれる。
「行っちゃ嫌!」
もう二度と失いたくない。
夢中でそれを追いかけていった。
*
そこは草木も生えない荒野であった。
すぐに追いかけていったはずだが、一瞬の間に彼の姿は見えなくなっていた。
地下だったはずなのに乾いた風が吹きすさぶ。
「どこにいるのです、闇吉備津さま」
声を上げながら深部へと駆けていく。
そこは坂道になっていて、きっとその下の方だという確信があった。
下っていくと声が聞こえた。
「我を追ってきたのか」
奇妙なことに確かに聞こえているのに、右なのか左なのかどこからなのか全く判別できない。
「そうです」
「我はもう闇の住民ぞ」
「違います」
「我はもう囚われたモノぞ」
「だから来ました」
「我は」
「もう嫌なのです」
ずっと堪えていた涙がはらり、はらりと零れる。
乾いた地面に透明な染みを作る。
すぐに吸われて痕は消える。
「貴方は全て自分で背負ってしまう。貴方は私より強い。貴方は私の先を行ってしまう」
どこにいるか分からないから虚空に向かって語り続ける。
「奇跡を起こすのがお伽噺なのです。どうか私に奇跡をください」
「…………」
「私は貴方と一緒にいたいのです」
どこか、ずるり地を這うような気配がする。すぐ近くだ。
這うものから声がする。
「……己の力だけではそちら側に行けなさそうだ」
「なら私が手を貸します」
「悪鬼たる姿を見られたくない」
「なら私は見ません」
地を這うモノに一切目を向けない。
「どうしたらいいですか?」
「――《黄泉比良坂》。決して誓いを破らず、連れ帰ってくれ」
誓い、というと今さっき言った『姿を見ない』ことを指すのだろう。
サンドリヨンは右手をそれに対して差し出す。決して見ない。
恐る恐るといった風にそれの手も伸びる。金属質の感触がした。
初めて一年前のあの日以来、サンドリヨンは右手から剣を手放した。
*
来た道を登り始める。
下っていたときはあっという間のことであったのに無限に続くようだ。
(見てくれましたか、戦場で戦う姿もこの紅いドレスも)
地下なのに空があって、月が昇っていた。
魑魅魍魎の視線を感じた。
(ああ、近かったから、よく見えた)
坂の天辺は見えなかったがひたすら登り続けた。
最初は何もない場所だったが、林が見えてきた。
(どうでしたか)
日ノ本特有の編み方をした綱を据えた柱が立っていた。
大きな岩が道を塞ぐように置かれていたが、少し苦労しつつも踏破した。
(見惚れるくらいに綺麗だったな)
坂の果て、ページが破れたような亀裂――ロビンが矢で援護してくれたそれと似たものだ――があった。
ふたり一緒に、くぐり抜けた。
*
ようやく帰ってきてサンドリヨンは泣いた。
声を上げて泣いて、人目も憚らずに目の前の胸で泣いた。
戦士であれと自分に言い聞かせてきた傭兵がひとりの娘に戻った。
――そのドレスの真紅は、彼の人の鎧の色。勝利を誓う最高の衣装。
Fin.