都合が悪くば黙り込む、しょうもなくも愛おしい我が弟子へ 作:すかすかのタキ
その時ゼンゼ女史の脳裏には、記憶の引き出しをいくら探っても見つからない、なのにどうしてか胸を焦がすような郷愁を呼び起こす、美しい弦楽の音が湧き上がっていた。
それは、青空広がる平原に吹く、一陣の春風のようであり。
二条の光が螺旋を描いて立ち昇り、天へと至る階段にまで成る如く荘厳なものであり。
そして、まるでその旋律に導かれるかのようにして、彼女が一級魔法使いになってからの思い出が、明朗な形を持って再生されていく。
冷たく突き放しているようでいて、離れた場所からちらちら見守ってくれている、恩師ゼーリエの不器用な視線。
ボコボコにのしてやった日もあれば、ギタギタにのされ返されたことも幾度とある、ゲナウとの緊張感に満ちた模擬戦闘。
魔道書の解読中、頭が休息を欲してる絶妙なタイミングで差し出される、ファルシュのクリームたっぷり特製カフェオレの味。
戦いに生きる中、成す術もなく失った物。平凡な日常の、平凡な積み重ねの中で得られた物。
ささいな喜び。くだらない悔恨。小さな物も大きな物も、この数瞬に人生のあらゆる全てが甦る。
一度に把握出来る訳もない大量の情報が、夜空の星を見上げる如くごくごく自然に目に映る。凍えるような冬の夜、厚い毛布に包まれるようにして、全てを全身で感じ取ることが出来ていた。
───まあ、平たく言えばゼンゼ女史が体感してるのは走馬灯である。
真意を知ったフリーレンは、とっくに彼女へ向けた殺気を解いている。にも関わらず、ゼンゼは自分は絶対殺されるのだと固く強く思い込み、勝手に走馬灯を体感しているのである。
正に狂気。フリーレンが焦りに焦り、軽い恐慌状態に陥ってるのも本当に仕方のないことだった。
───はておかしいな。伝説の英雄には劣ろうと、このわたしゼンゼとて幾多の修羅場を超えてきた一級魔法使いの端くれだ。どのような苦痛でも、粋を尽くした拷問であろうとも、甘んじて受ける覚悟は出来ている。フリーレンさんにもさっきから『ほら早く。殺して。遠慮なんてしなくていいから。殺して殺して。焼いて潰して捻って斬って、害虫みたいになぶり殺して』とリクエストを送り続けてるのに。
魔力にも肉体にも、拘束だけは維持したままで、一向に手を下してくれる様子がない。
分からない。このような従順な獲物を前にして、何の不満があるのだろう。無力な獲物は獲物なりに、形だけでも抵抗を示せ。償いに少しは興じさせろとか、そういう無言のメッセージだろうか。
───は、もしや。
わたしが痛みや苦痛を恐れていないから、そういうのじゃ大した罰にはならないと。フリーレンさんはそんな風に考えてる? あり得るね。ならわたしは、一体何をされちゃうの? 今度こそ受験者達の目の前で、だらしなく緩んだアへ顔を晒すのか? ちっちゃくて幼児体型なのを除けば、あと、迂闊に年齢を口に出しさえしなければなかなか悪くないルックスであると密かに自負しているのだが、そんなわたしでも二度と社会に顔を出せなくなるくらい涙とよだれと鼻水にまみれた発禁確定ダブルピースブサ顔をみんなに披露するつもりなの?
うーん外道。だけどそれもまたわたしにとって、あんまり罰にはならないんじゃないかなあ。だってわたしはこの通り、社会不適合度の極めて高い、最重度コミュ障なのだから。
確かにね、敬愛するゼーリエ様に、今後二度と会うことも指導を受けることもないのだと考えたなら、この胸が弾けてしまいそうになるくらい激しい痛みが湧き上がるよ。弾ける見込みなんて皆無なくらい、見事なまでにぺったんこな胸だけどさ。
けれど、それを除いたのなら。今度こそまともに常識的に、一般社会に溶け込んでウェイウェイ盛り上がって生きるべきというコミュ障の性質を知らない陽で愚昧な民衆からの不毛な圧力とは完全に縁を切り、何処ぞの山奥にでも籠もって一生隠遁生活を送る。その覚悟が、今度こそ完全に決まりきるだけだと思うんだ。
そういう訳なのでほら。フリーレンさん、やっぱりここで殺し殺されてしまうのが、あなたにとってもわたしにとってもベストな選択である筈なんだ。
ね、分かるでしょ? だから殺して。穿って抉って標本みたいに張り付けて、思う存分破壊の限りを尽くしきった後に殺して。殺して殺して。殺して殺して殺して。殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して。
単純な失敗作か、或いは運用中に事故で壊れてしまったゴーレムみたいと言うべきか。ゼンゼが延々同じ台詞を繰り返す、ホラー生命体に成り果てようとしていたその時である。
『───ゼンゼよ。わたしの声が聞こえるか』
狂気に浸り、泥のように弛緩しきっていたゼンゼの精神。それが、女性的で柔らかでありながら、同時に天変地異でも揺るがぬような深い威厳に彩られた声により、瞬時に正気に引き戻された。
───い、今のは! 今、わたしの精神に直接響いたこの声は!
我が恩師にして、偉大なる大魔法使いゼーリエ様の声っ!?
弛緩していた精神が、信頼できる上官を前にした古参兵の背筋そのものに、強く真っ直ぐに伸び上がる。同時に、何故ゼーリエが、どうやって自分に干渉してきたのかが分からずに、ゼンゼの頭は混乱をきたした。
何しろここは、魔法都市オイサーストから遠く離れた未踏破ダンジョン零落の王墓。そこから更に幾層も、地下の深く深くにまで潜っていった、最深部一歩手前の広場なのである。そんな遠距離にまで、精神へ直接メッセージを飛ばすなど、如何な伝説的存在といえ到底不可能であると分かるから。
───だが、声の主にとっては、その混乱こそが絶好の勝機。自身の目論見があらぬ方向へと乱れる前に。そして、変なボロを出す前に少々強引にでも押し切るべく、精一杯の虚勢で以って自分の正体を明かしていた。
『…え、えーと。ゼンゼよ、いいから少し落ち着くのだ。わたしはゼーリエなどではない。お前の傍で、今もお前の心身を拘束してる、さすらいの大魔法使いことフリーレンである』
───その告白に、ゼンゼの裡に今日何度目か分からない新たなる衝撃が奔った。
───え? え? え? えええ? ちょっちょっちょっ、ちょっと待って!? マジで? この声、ほんとにフリーレンさんの声なの!?
まさか、嘘だよ! こんなゼーリエ様そっくりの、低く威厳ある声なんてあり得ない! だって、フリーレンさんはわたしとダンジョンへ潜ってる間、ずーっとぼんやりふわふわ、おっとりした口調で喋ってたじゃんか! ミミックに引っかかったりしてただけじゃない。道中フェルン嬢と一緒になって、だらしなくとろけた顔で、もきゅもきゅドーナツむさぼってたし! 指先の食べかすまでペロペロ舐めて、意地汚いから止めなさいって叱られてたし! フリーレンさんがいくら強い魔法使いであったって、これだけは断言出来る。ゼーリエ様そのものの、威風堂々たる年長キャラってことは絶対ない!
ほら、我が親友たるフェルン嬢も、あなたに隠れて愚痴っていたよ? フリーレン様は魔法については天才なのに、反比例して生活力と自己管理能力ゼロ。放っておいたらすぐ、お店の棚の奥底で、十年以上も埃を被って忘れ去られていたようなくだらない魔道書を、店主と値引き交渉もしないまま言い値で大量に買い漁ってきちゃうって!
これもその内の一つじゃないの!? 知ってる人の声音を真似るとか、陽キャの酒盛りの一発芸にしか使えない、どうでもいい魔法じゃないの!?
わたしはもう、どうなったって構わないよ。既に捨てたこの命、煮るなり焼くなりアヘらせるなり、あなたの好きにすればいい。
だけど、あなたが何を企んでいるかは知らないけれど。例え声だけであろうとも、ゼーリエ様を利用だなんてそんなことは許せない!
んああああああああこんな拘束がなんだ! 伝説の魔法使い? 魔王を倒した実績がある? だからどうしたっていうんだい! 我が魂、あと十秒の後に、灰も残さず燃え尽きようと知ったことか!
この罪を忘れぬよう、あなたの顔に如何なる治癒を施そうとも絶対消えぬ、深く醜い一条の傷を何が何でも刻み込み───
『黙るがよい痴れ者が!!!』
───はいいっ! 生意気言って申し訳ありませんでしたフリーレン様あああっ!
一喝され、ゼンゼの魂が再びじゃきんと伸び上がって硬直した。絶対刺し違えてみせるという、気合いも怒りも霧散して、ただただ次の指示を待つだけの従順な兵のようになっている。
そう。これこそが、フリーレンが敗北の淵で引き出した逆転の一手。
かつて、旅芸団からの依頼を受けて、彼らの護衛を果たした暁に受け取った、『知ってる人の声音を、そっくりそのままコピーする魔法』である。
そしてフリーレンは、ゼンゼの精神を探る内、彼女は師であるゼーリエを、それはそれは熱狂的と言うまでに、激しく敬愛しているという情報を得られていた。
『いいか、よく聞けゼンゼ。これまでお前の見たわたしは、世に溶け込む為の仮の姿だ』
───か、仮の姿でございますか。
『そうだ。わたしも千年以上生きたエルフであるからな。このように素の口調で喋っては、旅の最中で関わった人間に余計な威圧を与えかねん』
───えと、つまり。あのぼんやりふわふわ、おっとりとした話し方は、全て演技であったのだと?
『うむ、その通り』
───な、何ということだ! ならば、ミミックの件もドーナツの件も! フェルン嬢に叱られしょんぼりし、つばと油に汚れた指を成されるがままに拭き清められていた件も! あれもまた、全ては演技であったのですか!?
『う、うむ! 理解が早いな。さすがはゼーリエの愛弟子よ。正しく貴様の言う通り、全ては害無き者として世に自然と溶け込む為の、このわたしによる配慮である!』
───り、理解が早くて頭脳明晰で一級魔法使い中一番の天才とは、なんてもったいなきお言葉を!
そこまで過大評価はされていない。されていないがともかくツッコミは置いといて、両者の精神間による誰にも聞き咎められることのない会話は続く。
ゼンゼはゼーリエを、熱狂的なまでに激しく敬愛しているという事実。ちょっとだけ人間を理解し始めていたフリーレンは、それこそが突破の鍵になるのだと考えた。
ゼーリエの声をコピーして、ゼーリエのように厳しく威厳ある長寿種の演技さえ通せたのなら。今の精神が乱れきっているゼンゼなら、ゴリ押しで自分の前にひれ伏させ、何でも言うことを聞かせられると踏んだのだ。
…尤も、話しかけた頭から『知ってる人の声音を真似るとか、陽キャの酒盛りの一発芸にしか使えない、どうでもいい魔法じゃないの!? 』と、ドンピシャリで看破され、思わず降伏しそうになったフリーレンであるのだが───、素直でマヌケな彼女にしては、ギリのところで踏み止まった。
『黙るがよい痴れ者が!』と、万に渡る人生を送ろうと多分二度と出来はしない、奇跡にして渾身の名演技によって、流れを自分へ引き戻したのである。
『───ところでゼンゼよ。よもや貴様、如何に同等の実力を秘めていようとも、魔物風情の作り上げた人形にこのわたしが劣るなど、欠片でも思っているのではあるまいな?』
───思ってません思ってません! よもやゼーリエン様が敗北などと不敬なこと、砂粒一つ分すらも思ってなどはおりませんっ!
『うむ、ならばゼンゼ一級魔法使い試験官よ。お前は広間の隅に寄っておれ。そして、職務に則り我らが戦いの成り行きを、これ以上一切手を出さず泰然と見守り見届けるのだ。───出来ないとは言わさんぞ?』
───ももももちろんでございます! このゼンゼ、ゼーリエン様の仰せの通りに致しますうっ!
───この瞬間、ゼンゼの身体と魔力に施されてた、厳重な拘束は消え去った。
無論、反撃などはない。彼女は言われた通りに大人しく、広間の隅へ静々と音もなく歩いていって、地面に直接腰掛ける。
フリーレンはそれを見て、デンケンやメトーデを始めとした、受験者達との会議に戻る。シュピーゲルによる、自身の完璧な複製体を、犠牲を出さず確実に撃破する為の。
かろうじて顔に出してはなかったものの、今すぐごろんと横になり、食いしん坊な愛弟子の、むっちむちに育った太ももで膝枕をしてほしい。そう子供返りしたくなる程度には───、ゼーリエンなどという、フリーレンとゼーリエが混じり合った意味の分からない呼び方に気付きもしない程度には、彼女も困憊しきっていた。
まあそれも当然といえる。フリーレンもまた、明らかにコミュ障寄りの存在であり、腹芸などは根っから向かない性格だ。
にも関わらず、ゼンゼの狂気に侵されながらもそれに耐え、出来ない演技を気合いと根性でやり通し、見事彼女を鎮火してみせたのだから。
───こうしてゼンゼは、内心散々暴れ狂っていた割に試験に影響を及ぼすことはほとんどなく。
本来ボスとして対峙する筈だった彼女自身の複製体は、天敵であるユーベル三級魔法使いがダンジョン攻略中に遭遇しこれを撃破。肝心の複製フリーレンとの戦闘中、一級上位の武闘派から挟撃を受けるという最悪の事態を幸運にも防ぎきり。
フェルン三級魔法使い。フリーレンの弟子であり、魔力遮断と速射に秀でた若き才媛。
彼女が勤勉であるゆえに、師の『魔法を使用した後に、ほんの一瞬探知が途切れる』という、数少ない弱点を看破。決死の連携に応えきり、フリーレンの複製体撃破の立て役者に。誰一人として死者を出すことなく、受験者十八名中十二名が二次試験突破という偉業を成したのだった。
尚、ゼンゼ女史の名誉の為に、ここに改めて明記しよう。彼女は最初から最後まで、少なくとも表面上は、表情にも仕草にも言葉にも。
平易平坦、無口無表情型コミュ障らしく、一切の乱れがなかったことはここにしっかりと明記する。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。大体構想の六割完了にして折り返しのポイントです。引き続き完結に向けて頑張るので、ある程度後半部が書きあがるまで、しばらくは潜ります。
…………今思うと、この時点ではまだ三割すらも書ききってはいなかった…