時は既に春が訪れ、暖かな風が吹き始めた四月。
新たな始まりを告げる心地好い空気は、人々の眠気を誘い、また眠る人の意識を深く沈める。
「――くみ、拓海。起きて、朝よ」
「ん……んんぅ……」
揺り動かされながら、聴こえてくる鈴のような心地いい声音によって、拓海の意識がようやく浮上する。
未だに襲いかかる睡魔に抗いながら薄目を開け、いつものように眼鏡をかけると、揺らしていたその人を見上げる。
そこで眼に映ったのは拓海にとって見慣れた、簡素な青い髪飾りを差す長く伸びた黒髪の少女だった。
艶やかで細い髪を耳にかけながら、起きた拓海に綺麗な黒い瞳を細めて、柔らかに微笑む。
その姿は万人の眼を引く鮮やかな花をさらに彩ったかのように可憐で美しく、いつもことながら一瞬見惚れてしまう。
身を包む白シャツ紺ネクタイと、その上に前ボタンのない、ジャケットのように着た黒いブレザーと白いスカート。
黒の濃いストッキングで透き通る白い肌をさらに覆い隠し、添えるように着るエプロンは、家庭的だからこその魅力を与えている。
「……はよ、真里華」
「おはよう、拓海。もうすぐご飯出来るから、仕度したらすぐ降りてきてね」
「んー」
拓海の適当な返事に苦笑しつつ、彼女は――
拓海の住むこの家は、一人で住むには寂しいくらいに広い、二階建ての一軒家だ。
玄関には二階に上がる階段と、洗面所にバスルーム。
前の扉を開けるとキッチンありの広いリビングがあり、その右手に洗濯物が干されたベランダ、その反対にはトイレと個別の茶の間がある。
二階に上がれば個室が四つあり、一つは勿論、拓海の部屋。
もう一つは両親の部屋で、後二つは客室として拵えた空き部屋となっている。
そんな家に住んでいる拓海は、こうして家に来る真里華の存在が本当にありがたく思っている。
閑話休題。
少しぶかぶかな黒いブレザー、黒ズボンの男子制服に袖を通した拓海は、鞄を持って自室を出る。
一階に下りてくるとまず洗面所で顔を洗い、伸びた前髪を下ろして根暗セットを作って準備完了。
扉を開けた先のリビングで待っていたのは、エプロンを脱いでソファーに座る真里華と、良い匂いを香らせる朝食だ。
誘う手に応じるように、拓海は彼女の隣に腰かけて、二人揃って「いただきます」と朝食を口にする。
「ん、今日も美味い」
「ありがと」
寝起きもあって短いやり取り。それでも、真里華は嬉しそうに口角を上げる。
彼女は幼少の頃からの幼なじみで、長い間留守にしている両親の代わりに、広い家を一人で住む拓海の世話をしてくれているのだ。
おかげでさっきのように真里華に起こされる事で、今日も朝が来たのだと、実感する体になってる。
「………………」
「………………」
そして沈黙。二人は黙々と、テレビを観ながら食事を進める。
だがそこに、気まずさはない。
拓海も真里華も、自分から率先して会話しようという性格ではないというのもあって、こっちの方が俄然安心する。
「あっ、そうそう」
「ん?」
だから思いついたように話し出す真里華にちょっと驚いた。
彼女へ耳を傾けながら箸を口に運び、
「何時まで起きてたの?」
「」
かけられた言葉に、思わず手を止めた。
――バレている。
なぜ、どうして――恐る恐る真里華の顔をチラ見してみると、彼女は満面の笑みを浮かべていて……。
(キレてる――――!?)
「えっ、と。どうして、そう思ったのでしょうか?」
冷や汗を垂らしながら問いかけると、真里華は目元をトントンと叩く。
「目元、隈ある。あと微妙にだけどふらついてる」
「……なるほど」
それはバレますね、はい。
「それで、どうなの?」
今一度催促が来る。
……さて、どうしたものか。
夜更かしをして怒られたのは、今回が初めてじゃない。
なんなら最近怒られたばかりだし、その前回でついに飯抜きという罰を執行されてしまった。
ぶっちゃけ自炊はできなくはないが、素直に答えたらもう二度と真里華のご飯を食べられなくなるかもしれないと思うと、背筋が凍るほど恐ろしい。
――よし。
(誤魔化そう)
我ながら情けない決心を下す。
真里華に嘘をつくのは忍びないが、背に腹は代えられない。
というわけで、
「あっ、もし嘘ついたら本当に晩御飯もう作ってあげないから」
「すいません! 二時半くらいです!」
あえなく撃沈した。仕方ない。
「二時半、って……もう、拓海! 趣味に没頭するのは良いけど、バイトの時以外でもしっかりとした生活を送らないと、それで困るのは拓海なのよ!」
「はい、すいません……」
プンプンと怒る真里華。
ごもっともなので正座で謝る他ない。
「まったくもう……ほら、もういいから。時間も時間だし、早く食べていきましょ」
「お、おう」
真里華の言葉を受けて、止めていた手を動かし掻き込むようにご飯を平らげる。
「……ふう。ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様でした。食器サッと流してくるから、先に鞄持って玄関行ってて」
「了解です」
「その変な態度は明日のご飯いらないってことでいい?」
「ごめんなさいそれはまじで勘弁して」
じゃれ合い交じりに(こっちとしては本気)各々動き出し、拓海は言われた通り、二人分の鞄を持って玄関に向かう。
その後すぐに真里華がやってきて、鞄を渡しながら靴を履く。
「いってきます」
そして扉を開き、外へ出ながら、返ってくることのない一言を、誰に言うわけでもないのに呟いた。
◇
私立
拓海達が今向かっている、ここ
御剣市は特殊で、娯楽・住宅・スポーツ・店舗・医療などきっちりエリア分けされており、中央部にあるこの住宅エリアには文字通り住宅以外殆どない。
現に周りにある店は、コンビニみたく気軽に寄れる店くらい。
視線を他へ移すと、あるのは住宅と、添えるように少しばかり彩られている緑ばかりだ。
その代わり、他エリアとの距離は比較的近いのだが、学校に通う際の寄り道には少し遠い。
特に拓海達の住む辺りは、他エリアとの距離が長く、どこかへ遊びに行くにはちょっと不便だ。
(まぁ、そのかわりこういう真里華との時間が長くなるから、良いんだけどな)
と、何気なく思ったことに頬が熱くなる。
「どうしたの、拓海?」
「い、いや、なんでもないっ」
キョトンとする真里華を誤魔化しつつ、赤信号となっていた横断歩道の前で拓海は足を止めようとして、
「――――おっと、ごめんね」
そのまま横へ踏み出した足は渡ろうとしていた子供達の道を遮り、その道を車が横切った。
最悪の事態を防げたらしいと、痛いくらい高鳴る心臓を抑えながら、だらだらと流れる汗を拭う。
「こら、君達危ないでしょ!」
『ごめんなさーい!』
良い顔をされなかったが、真里華が怒鳴ると素直に頭を下げて謝る。
信号が青になったので横にズレると、子供達は我先にと言わんばかりに走り去っていった。
「……全く反省してないよね、あの子達。しかも一瞬拓海を睨んだりして。……大丈夫?」
「大丈夫。まあ子供相手だし、良いんだよ、別に。気にしてもないしな。それより行こうぜ」
「むぅ」
そんな拓海に何か言いたげな様子だが、それ以上何も言わないでくれる事に感謝しつつ、学校へと足を進める。
数分後、未だムッとした表情のままな真里華に苦笑していると、見慣れた校舎が見えてくる。
そこでふと、スマホのロック画面を見る。そろそろいかないとマズい時間だ。
「さて、今日も用事あるし、先に行くな」
「今日も? 三日前もそう言って学校行ってたのに?」
「……ごめん。でも、もうちょっとで全部済むはずだから」
「…………分かった。なら、また下校の時に、ね」
と、真里華は不満そうな表情で送り出そうとする。
どこか寂しげな真里華に、思わず校門まで一緒行こうかと悩むが、待たせると彼が何をしでかすかわからない。
そう思うが、だからと言ってこんな顔させたまま一人にするのは少し思うところがある。
まだ真里華の友達の姿は見えないし、どうしたものか。
「兄貴の悩み、僕ちゃんがスパッと解決してやーんよ」
「はっ?」
そう悩んでいる時、たまに聞く冗談交じりの声が、拓海の耳元で囁かれる。
「せーんぱい!」
「えっ!?」
次の瞬間、先ほどの元気いっぱいな声と、真里華の驚く声がして、振り返る。
するとそこで目にしたのは、袖で手が隠れる程ぶかぶかな拓海と同じ男子用制服を着る、真里華に抱き着く〝灰色〟に染まった天然パーマの小柄な
男装に関しては彼女の家が古い家系のもので、女子が生まれた際は、男の服装を身に纏うしきたりがあるから。
萌え袖なのは趣味だろうが、それよりも問題なのはその上、頭の髪色だろう。
(ここは二次元じゃないんだけどなぁ)
元々普通の黒髪であった筈なので、今の奇抜な髪の色に目が行く。が、彼女のセンスが時々独創的になるし、恐らく高校生デビューとかそんなところだろう。
中学で知り合って以来、相変わらずで安心する。
同じく高校デビュー効果であろう元は黒かった緑の瞳と目線が交わり、ウィンクを一つ。
「やっほー、兄貴。早速だけどこれ、貸し一つね」
「それが目的か、トキ」
その言葉に〝弟分〟である彼女――
「トキちゃん!?」
「やほ、先輩。今年からまた、学校でもよろしくね」
「うん、よろしく……じゃなくて! いきなり後ろから飛び付いてきて、危ないでしょ!」
「次から気を付けまーす。あっ、言い忘れてたけど兄貴もよろしく」
「はいはい、よろしく」
悪びれもしない態度に、二人は思わずため息を一つ。
彼女は拓海を「兄貴」、真里華を「先輩」と呼んでくれているのだが、呼び名とは裏腹に慕うような様子はない。
それでも別に良いのだが、どこか釈然としない。
「……まあ良いや。さっきの話だけど、それで良いから頼む」
「ほいほい、積もる話はまた今度ねー」
「おう。……せっかくの入学だっていうのに、悪いな」
「なーに、御安い御用ってね。でも今度、色々コキ使ってやるからセーゼー震えるが良いぞい」
「そんときはとことん付き合うよ。それじゃあ後で、真里華」
「ええ」
二人に軽く手を振って、真里華を時亜に任せて拓海は走り出す。
するとすぐに後ろから二人のはしゃぐ声がする。その声に、先ほどの寂しさは感じられない。
またいつものようにからかわれているのだと察せられる様子に、拓海は変に思われない程度に笑みを浮かべた。