あやかしランブル!~蒼澄カンナ伝:私の家がなんかデカい穴に呑み込まれてるんですけど……~ 作:吾輩はもぐらである
第一話:陰陽寮への旅路#1
早朝、冬の山中。
(距離は……南西にちょうど1kmってところか。)
目を開けず、精神を研ぎ澄まし、マガツヒが放つ瘴気の位置を探る。マガツヒはこちらではなく東へ一直線に移動しているようだ。徘徊しているのではなく、目的を持って移動している速度だ。
(人を追っているな。)
マガツヒが何か目的を持って行動するとしたら、それは殺人以外にあり得ない。つまりこの山のどこかに、不運にもマガツヒに目を付けられた誰かがいるのだ。
寝袋を飛び出し、裸足で走り出す。
(追いつける。)
小石を踏み砕き、行く手をふさぐ植物のツルを蜘蛛の糸のように引き千切り、氷柱が垂れ下がる木の枝を弾き飛ばしながら、瘴気を感じる方向へ最短距離で疾走する。距離は少しずつ縮まっている。500m……400m……。
(無事でいて——)
稜線を一気に駆け上がると、生い茂っていた藪と木が消え、視界が開けた。目の前に広がる崖の下から何か聞こえる––
▽▼▽▼
早朝、冬の山中。
(この調子なら昼には山を下りられる。夕方にはスクナビコナさんのところに着くな。)
予定を一日以上巻いている。駿馬を高値で借りた甲斐があったようだ。
「父さん、左の崖に何かいるよ。」
大型の馬二頭に曳かれる屋根付きの荷台から息子の
「ん?」
荷馬車は今、左右を岩壁に囲まれた谷間の道を進んでいる。後ろを振り返り左手にそびえ立つ険しい岩壁を見やると、確かに中腹の突起した岩の上に四足歩行の真っ黒な何かがいる。
「熊か?」
「冬なのに?」
「たまに冬眠に失敗するやつがいるんだよ。」
「へぇー。変な場所にいるもんだね。」
「……一応用心しておくか。近づいてきたら父さんが撃ってやるから、正一、操縦代わって。」
「わかった。」
馬を止めて操縦台を降り、正一と入れ替わりで荷台に乗る。荷台には彼が経営する『藤野生薬』の社名が刻印された薬草箱が防水シートを被せた状態で積み付けられている。その他には馬用の飼い葉が三箱、それに旅に必要な装備と飲食物を詰めた大型のリュックサックが荷物が暴れるのを防ぐ固定具に固定されており、荷台の入り口近くは畳二枚分ほどのスペースを空けてある。そのスペースに腰を下ろし、リュックサックから銃と弾丸を取り出し、手際よく射撃の準備を整える。
(こんな時期に熊を撃つことになるとはな。)
予想しなかった出来事だが、焦りは無い。射撃と狩猟は20年に及ぶ趣味であり、熊やイノシシを仕留めた経験は数えきれないほどだった。揺れる馬車の荷台からでも迫り来る熊を撃ち追い払える自信がある。
「正一、銃の準備はOK。」
「出していいかな?あらっ、熊が崖を下り始めてるよ。」
「大丈夫。こっち来たら父さんが撃つからな。」
「……ん?あっ、ああっ!」
突然、正一が叫び声をあげる。
「正一、どうした?」
「父さん、すぐ出すよ!」
「良いけど、どうした?」
「あれは熊じゃない!マガツヒだ!」
藤野正一がそう叫ぶのと同時に——
「ぎいいいいいいいぃぃっ」
金属の摩擦音を連想させる、この世の生物が発したとは思えない不快な叫び声が谷中に轟く。
(マガツヒだと?)
まだ状況を呑み込めていなかったが、マガツヒと聞いて心の臓がギュッと縮こまる。
「掴まって!」
正一が馬に鞭をやる。二頭の馬が力を合わせて荷台を曳き、徐々に加速し、走り出す。崖の上の例の黒い姿を再確認しようと後ろを振り返った瞬間——
「きいいいいいいぃぃぃ」
耳をつんざく甲高い咆哮が響き、僅かに遅れて高熱を帯びた気流が皮膚の表面を舐めるのを感じる。
「うわっ!」
危険を感じ、脊髄反射で荷台の上に腹ばいになり頭部をリュックサックでかばう。次の瞬間、先ほどまで荷馬車が停止していた位置が爆炎に包まれる。
「おおおっ!?」
身体を芯から震わせる「どごん」という轟音。爆風が地表を走り、低い弾道で吹き飛ばされた石やら何やらが荷馬車の後部を激しく打ち、空高く打ち上げられたものは荷台と操縦台の屋根に降り注ぐ。
(何だ、何だ!?)
混乱のあまり腹ばいの姿勢のまま20秒ほど動けなくなったが、息子の安否への懸念で冷静さを取り戻す。
(正一は?)
「ぶひっ」
動揺してパニック寸前の馬の嘶く声がする。
「落ち着け、いいから走れ!あれに追いつかれたら終わる!」
「びひぃっ!」
正一は無事だった。驚愕で足を止めた馬を走らせることに必死の様子だが、少なくとも生きている。馬の操縦台の屋根が降り注ぐ石から身を守る盾となったらしい。二頭の馬も混乱しているが、奇跡的に無傷だ。
「正一!」
「父さん、大丈夫?」
「こっちは大丈夫だから、とにかく急いで馬を走らせて。」
緊迫した親子の精神を互いの無事が多少和らげる。正一が握りなおした鞭で馬を打つと「ぱしーん」と快音が鳴り響き、落ち着きを取り戻した馬が再び足を回し始め、荷馬車が再び加速する。
(俺がしっかりせんと。)
正一の命、積み荷、そして自分の命。今ここに何一つ失っていいものは無い。危機的な状況だからこそ最善の判断を下さなければならない。
(しかしさっきのは何だったんだ。)
最初に黒い姿を見た崖の中腹に視線をやるが、もはやそこには何もいない。ならばアレはどこに?と訝しんだ次の瞬間、後方の爆炎の中から「それ」が悠々と黒い巨体を現す。
それは彼が最初に見間違えた通り、熊のような姿をしていた。ただし、それは四足歩行の姿勢でも馬の成獣よりも体高の高い、異様な巨体の熊だった。頭部は不気味な形状に歪み、頭頂部には耳が無く、顔には目も鼻も無く、顔面全体を十字に裂けた口だけが覆っていた。全身からどす黒い瘴気を発し、口内からメラメラと真っ赤な炎をこぼす様は、正に地獄の獣そのものだった。
「じいいぃっ!ぎいいぃやあああぁぁっ!」
マガツヒは悍ましい咆哮と共にこちらへ猛突進してくる。
「くそっ、正一!バケモンが追ってくるぞ!」
銃を構え、マガツヒへ3発の銃弾を放つ。恐怖による震えで2発が外れたが、1発がマガツヒの前腕に命中した。しかしマガツヒは全く怯まない。
「やっぱり普通の武器じゃ歯が立たん!」
マガツヒに対抗できるのは超人種、アヤカシの霊力の込もった一撃のみである。ヒト(アヤカシでない人間)に打つ手はない。子供でも知っている常識だが、それでも何かせずにはいられない。銃を構え、更に3発撃つ。今度は全弾が命中したが、やはり何の足止めにもなっていない。
「父さん、落ち着いて撃って!」
「さっきから当ててるよ!だけど全然効いてない!」
「どうする!?」
どうすると聞かれても、それを知りたいのはこちらも同じだった。
(どうする?)
藤野真は頭の回転が早い人物であり、動揺しながらも状況を整理し、自分たちが詰んでいることを既に理解していた。殺意むき出しで猛追してくるマガツヒの駆ける速度は荷馬車よりのそれを若干上回っている。しかもこの道の行く先は荒れた岩場のはずだった。荷馬車は今の速度を到底保ち得ないが、一歩踏み出す度に衝撃で地を砕くあのマガツヒが、岩場ごときに駆け足を鈍らせることは期待できない。奇跡的に岩場で追いつかれなかったとしても、無限の持久力を持つマガツヒとの追いかけっこでは馬の方が先にへばるのは目に見えている。
(……どうする?)
正一の命、積み荷、そして自分の命。何1つ失っていいものは無い。だが、全てを救う手立てが無いことはもはや明白だ。
(どうする?)
会社経営と同じだ。決断するべき時に決断し行動を起こさなければ、全ては失われる。一部を活かすために何を犠牲にするか、選択の時だ。
(……やるぞ。)
「父さん、飛び降りるなよ!」
正一が操縦台からの怒鳴り声で、こちらが今まさにやろうとしていたことを制止した。
「……他に手はない!父さんがマガツヒの注意を反らすから、正一はその隙に荷台を切り離して馬で逃げろ!遺言書は父さんの書斎の仕事机の引き出しにある!」
藤野真が思いついたのは、自分が犠牲になって時間を稼ぐ隙に正一に馬を荷台から引き離させ、身軽になった馬で正一を逃がすことだった。荷馬車は構造上、馬を走らせたままでは荷台を切り離せないが、今馬を止めようものなら即座にマガツヒの餌食である。だから誰かが馬と荷台を切り離す時間を稼ぐ必要があった。……もっとも、荷を捨てたからといってマガツヒから逃げ切れる保証などは無い。結局はマガツヒに追いつかれる可能性が高いが、他に妙案が思い浮かばなかった。
「荷物は!?薬草はどうする気だよ!僕らだけの命じゃないだろ!」
「阿呆!2人とも死んだらどうせ荷物なんて運べないだろうが!それなら正一だけでも生き残った方がどう考えてもマシだろ!」
「僕は嫌だよ!……そうだ、誰か、誰かいませんか!助けて下さい!ほら、父さんも無駄口叩いてないで、大声出して!」
「何してる、こんな山奥に人が居るわけないだろ。」
「飛び降りても意味ないからな!父さんが飛び降りたら僕も飛び降りて無理やり荷台に引きずり込む!」
「ふざけんな!おい、正一!」
「マガツヒだ!マガツヒに襲われてるんです!誰か助けて下さい!」
正一はこちらを無視して助けを求めて叫び始めた。
(くそっ。本当にマズいぞ。)
自分が飛び降りたところで、正一が思惑通りに動かないならただの犬死にだ。だが、犬死を恐れて行動を起こさなければ、やはり2人ともマガツヒに追いつかれて死ぬ。今すぐにでも行動を起こさなければ……。
「ぐおおぉっ!」
マガツヒの雄たけびがより近くに聞こえる。先ほどから20mほど距離を詰められている。恐怖を具現化したような形相を前に、自己犠牲の覚悟が削られていく。
(どうすればいいんだ?)
犬死に覚悟であの悪魔の前に身を投げ出し、勝ち目の薄い賭けに打って出るべきだろうか。それとも父子揃って八つ裂きにされるのか。どちらを選ぶにせよ、死の運命はすぐそこまで迫っていた。