あやかしランブル!~蒼澄カンナ伝:私の家がなんかデカい穴に呑み込まれてるんですけど……~   作:吾輩はもぐらである

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第五十六話:仮面

部屋に戻った3人は温泉に入っていた。

 

(あー、気持ちいい。)

 

的当てでもビリヤードでも見事に完敗した身体に湯が染みる。

 

「カンニャ~……」

 

広い湯舟でわざわざカンナに密着し、うっとりした表情でしなだれかかるリン。それを優しく抱き寄せ愛撫するカンナ。

 

(ほんっと仲良いですね、この2人。)

 

職場でも昼休みにカンナが女子とべたべたしているのをよく見る。相手はだいたいリンかアスカだが、ジュソウ事変の後はユメ、リッカ、紅葉もカンナといちゃつき始めた。女性事務員にもカンナを「カンナ様」と慕うファンは多く、カンナは来るものは拒まずのスタンスなので、今後も相手は増え続けるだろう。

 

(何やってんだか……。)

 

カンナに包容力と癒しの力があるのは分かる。自分もカンナと朝の鍛錬をした後、彼女にシャンプーをしてもらったり、髪型を作ってもらったり、マッサージをしてもらったことが何度もある。彼女の大きな手で触られるととても気持ちが良いのだ――

 

「リン、気持ち良い?」

 

「ふぁ?うなー……」

 

いよいよ人語を発しなくなり、救いようのない蕩け顔を晒すリン。

 

(私がカンナさんに髪を触られてる時にあんな顔はしないようにしよう……。)

 

心に固く誓う。

 

(まあ、カンナさんも嬉しそうだし良いか。)

 

この温泉旅行の密かな目的は夜な夜な密かに苦しんでいるカンナを癒すこと。アヤノはリンからそう聞いていた。

 

(カンナさんを癒すねぇ……。)

 

カンナの境遇は本人から聞いている。カンナは自分から身の上話をするタイプではないが、聞かれたことには基本的に何でも答えてくれるのだ。

 

これまで辛い目に遭ってきて、今も毎日がむしゃらに働いている可愛い後輩を労うことにもちろん異論はない。

 

だが不思議なことに、職場で目にする彼女は苦悩とは最もほど遠い人物に見える。マガツヒとの戦い、西賀亮班と飽くなき闘争に明け暮れる内部統制(コンプライアンス)部門の連中との会議という名の舌戦、モラル皆無の同僚たちの尻拭い。どんな無理難題もカンナは「できて当然」といった涼しい表情でやり遂げる。アヤノが2歳年下のカンナに抱く最も強い印象は「強者の余裕に満ちた大人の女」。精神的な問題など全て既に乗り越えて過去のものとし、癒しなど必要としないかのように見える。

 

要するに、問題の根は深いということだ。

 

(こういうのは時間をかけて解決することだし、今回は難しいことは考えずとにかくカンナさんに楽しんでもらおう。)

 

アリサキに数多くある宿の中から三丸を選んだのはアヤノである。かなりの数の宿を比較した結果、ここしかないと判断したのだ。

 

「カンナって何であんなにダーツやボーリングが上手いの?」

 

「友達とよく遊びに行ってた遊技場にボーリングとダーツがあったんだ。」

 

「歌も凄い上手かったね。」

 

「習い事でやってたんだ。おじいちゃんがシジョウの伝統芸能関係の団体の会長やってて――」

 

カンナの好きな遊びは日頃の雑談で把握していた。……さすがにあそこまで上手いとは思いもしなかったが。三丸を経営しているのはアミューズメント系の企業であり、彼女が好む遊びがあることは事前にリサーチ済みだった。これが三丸を選んだ1つ目の理由だが、他にもより重要な理由がある。

 

夕食の時間になり食堂に移動する。

 

「んん!この冷奴、美味しいね!なにこれ?食べたことがない味がする。」

 

「上品な味ですね。」

 

濃い豆腐の味に僅かにキノコの風味が感じられる。

 

「地元を思い出します。」

 

カンナが呟く。そう、三丸ではシジョウの郷土料理が出てくるのだ。これも三丸を選んだ理由の1つ。

 

事前の調べによると、本場のシジョウ料理は「赤舞茸」というシジョウ固有種のキノコをふんだんに用いるらしい。

 

シジョウ料理はシジョウ以外ではなかなかお目にかかれない。赤舞茸は大半がシジョウで消費され、他の街に出回る量が限られている。地元では安いらしいが、他の街での値段は松茸並。毒があるため、調理業務で扱うには免許がいる。シジョウでも年に数十人は赤舞茸の毒で倒れる人が出るらしい。

 

卓には他にも料理が並んでいる。玄米、お吸い物、卵焼き、高原野菜のサラダ、焼きトマト、焼いた鮎、ラム肉と赤舞茸のソテー、野菜の天ぷら、こんにゃくの味噌田楽、生で食べられることで有名な地元のトウモロコシと玉ねぎ、おでん。ありふれた料理が多いが、どれも素材の味が活かされていて個性がある。全体的に味わいが複雑で高級感があり、微妙で繊細な味覚への刺激に自然と意識を集中させられる。

 

「私の実家はお父さんもおじいちゃんも料理が下手で、でも料理には赤舞茸が無いと嫌だって言うから、料理はいつも私が――」

 

家族との食の思い出を語りながら旨そうに器を空にしていくカンナ。自分もリンも大いに美食を楽しんでいる。

 

(料理は完全に当たりみたい。)

 

さて、そろそろ三丸を選んだ「最後にして最大の理由」が登場するはずである。案の定、料理が片付くのを待っていたかのようなタイミングで女将が大きなクローシュを持ってきた。

 

「蒼澄カンナ様の20歳の誕生日のお祝いです。」

 

クローシュの中身は特大アップルパイと、パイに負けじと大きい『カンナ誕生日おめでとう』と大きな字で書かれたチョコプレート。

 

「えっ、えっ!?」

 

滅多に他人に見せない驚き顔のカンナ。これが三丸を選んだ最大の理由。三丸ではシジョウ風の誕生日のお祝いができるのだ。シジョウでは誕生日にパイかクッキーを食べ、ローソクの火を吹き消したりはしない。

 

カンナの20歳の誕生日までまだ2週間ほどあるが、出張が多い式神は祝える日が誕生日会の日である。

 

「こちら、アヤノ様とリン様からお預かりしていたプレゼントです。」

 

ついでに誕生プレゼントも三丸に預かってもらえる。

 

リンからのプレゼントは、夏物のカーディガン、ストール、レギンス。色はどれも青系。肌を晒す服装が嫌いなカンナのために、夏でも使えるファッションアイテムという観点で取り揃えたらしい。アヤノからのプレゼントは、調理用の高級包丁、本革製のブックカバー、ちょっと高級なミント系の香水。カンナの趣味やライフスタイルに合わせた贈り物である。

 

「わぁっ……こんなにたくさん良いんですか?」

 

「3年分、20歳の誕生日だけじゃなくて、カンナさんが独りで誕生日を迎えた18歳と19歳の誕生日もまとめて私たちがお祝いしたいんです。」

 

「ええっ、そこまでしてくれるんですか~。」

 

じわっと破顔し、デレデレした表情を浮かべるカンナ。

 

(成功だね、アヤノ。)

 

(ふふっ、計画通り。)

 

狙いがしっかりと刺さり、リンと密かに目くばせ。

 

大きなパイだったが、こちらは健啖家の女が3人もいる。あっという間に生地の欠片も残さず平らげた。

 

「お酒をお持ちしました。」

 

女将が酒瓶とグラスを持ってくる。シジョウの食文化では食事中に酒を飲むことは無く食後に飲むようだ。

 

「こちらは『青雲麗らか』というシジョウの地酒になります。地元で最もよく飲まれている酒です。濃厚でありながら癖のない爽やかな味わいが特徴です。」

 

「このお酒知ってる。父さんとおじいちゃんがよく飲んでました。」

 

「そういえば、カンナがお酒飲むところって見たことないね。」

 

「お酒は飲んだことないよ。でも20歳になったら飲みたいなとは思ってたよ。」

 

「へぇー。」

 

リンの顔に少し悪戯な笑みが浮かぶ。

 

(酔わせる気だな。)

 

正直、あのカンナが酔って乱れるところを見てみたい気持ちは自分にもある。

 

「それじゃ、カンナの20歳をお祝いしてー」

 

「「「乾杯!」」」

 

透明な液体を口に運ぶ。

 

(んっ、美味しい!香りが良いし、すっきりしてて飲みやすい!)

 

カンナも旨そうにグラスを空にした。

 

「美味しい。」

 

「良い飲みっぷりだね、カンナ。」

 

リンがニヤリと笑って目くばせしてくる。

 

(ほどほどにしてくださいよ。)

 

(分かってるって。アヤノだってカンナが酔うところ見たいくせに。)

 

バレてるようなので、こちらもニヤッと笑みを返す。

 

「ほら、カンナ。お代わり注いであげる。」

 

▽▼▽▼

 

2時間後。

 

「女将さん、次はこのお酒をお願いします。アヤノさんは何か飲みますか?」

 

「えっと……私はもうお酒はいいです。女将さん、お水を人数分お願いします。」

 

女将が「よく飲まれますねぇ」と言いながら卓上の空の徳利を回収する。こちらの飲むペースが早いせいで何度も卓を行ったり来たりさせられて大変そうだ。

 

「Zzz……」

 

自分は程よい良い具合だが、リンは部屋に戻るなり布団に潜り込んで眠りの世界へ旅立った。

 

「アヤノさん、寝る前にまた温泉に入りませんか?」

 

残念ながらカンナが酔うところは見られず。ザルらしく、一番たくさん飲んだのに完全に素面である。酔った姿を見たいと思っていた一方で、鯨飲後も平然としている姿も実にカンナらしいとも思えてしまう。

 

2人で露天風呂に入り、空に輝く星をぼーっと眺める。

 

(あー、気持ちいい……。)

 

風呂の熱気、冷たい夜風、美しい星空。程よい酔い加減で頭がぼーっとし、多幸感に包まれる心地。こんな良い気分になるのは久しぶりだ。カンナも星空を見つめている。

 

(……)

 

アヤノはジュソウでのことを想起していた。

 

(あんなに精神的に追いつめられたのは仕事で初めて……いや、人生で一番きつかったかも……。)

 

戦っている時の記憶は曖昧だが、とにかく気分が悪かったことだけは思い出せる。退院後に体重を測ると、過去に周囲とウマが合わずどれだけストレスを抱えてもキープし続けてきた体重が3kgも落ちていた。

 

泥のマガツヒの空気砲が病院を直撃した瞬間。獣骨のマガツヒに殺されかけた瞬間。脳と神経に「あの瞬間」がまだこびりついている気がする。

 

(あー、やだやだ。)

 

顔に湯をつけて嫌な感覚をごまかす。

 

(この旅行で私もちゃんとメンタルを整えないとな……。)

 

リラックスして初めて気づいたが、姉の子供たちの顔をはっきりと思い出せない。それどころか、仕事中に仲間と何を話したのか、退院後姉と何を話したのか、覚えてはいるが他人事のように実感が無い。取り留めのない出来事が定着しないほどあの瞬間が大きく残っていて――

 

「アヤノさん。」

 

ふと、カンナがこちらを見つめていることに気づく。

 

「アヤノさん、傍に行っていいですか?」

 

頷くとカンナが隣に移動して来る。

 

「……」

 

「……」

 

「お姉さんのことを考えてましたか?」

 

「えっ?」

 

「ジュソウの任務の後、調子良くなさそうだったので。」

 

「……そうですね。」

 

「やっぱり。」

 

カンナの長い腕が伸びてきて肩を抱き寄せられる。こちらも当たり前のように抱かれに行く。

 

「温泉に誘われた時、この旅行はアヤノさんを癒すための旅行だなってずっと思ってたんです。まさか誕生日を祝ってもらえるとは思っていませんでしたが。」

 

「ふふっ……サプライズは成功ってことですね。」

 

「大成功です。本当に気づいていなかったです。今年の誕生日はもう仕事の予定があるので遠征先で独り寂しく20歳を迎える気でいましたよ。」

 

「良かった。」

 

カンナに腰に手を回し、自分の身体を押し付けるようにして体重を預ける。

 

「サプライズのお礼にアヤノさんは私が元気にしてあげますから。」

 

「期待しています。」

 

嫌な感触が収まるまでカンナと身を寄せ合う。

 

風呂からあがってもカンナに甘え続ける。髪を乾かしてもらい、化粧水を互いの身体に塗り合う。明かりを消して一緒の布団に潜り込み、抱きしめてもらい、優しく撫でられる。

 

「今度から辛いことがあったら私に打ち明けて下さい。」

 

「……うん。」

 

「私が知らないところでアヤノさんが独りで苦しんでいるのは辛いです。」

 

「……分かりました。」

 

リンやアスカがカンナに撫でられて惚けた表情を浮かべるのをよく見かけるが、今ようやく理由が分かった。

 

(幸せぇ……。)

 

ただ撫でられているだけ、耳元で語りかけられているだけ。それなのに、どうしてこんなにも心地よく、落ち着くのか。肉体と精神がどうしようもなく緩み、ジュソウで抑えていたものが今になって目からあふれてくる。

 

「……気がすむまでどうぞ。」

 

カンナの胸元に顔を押し付け、更にカンナの手を引き寄せ頬に押し当てる。

 

(カンナさんの手って大きい……。)

 

マガツヒを素手で撲殺する手。自分を、姉を、病院を、仲間を、ジュソウを救った手。この大きな手に包まれていると、涙をそっと拭い去られると、大切に思われ、敬愛され、認められ、守られている気がする。辛いことがあってもまた癒してもらえる、立ち直るまで傍にいてもらえるという安心感を得られる。

 

カーテンの隙間から差し込んだ月明かりがカンナの顔を照らす。絵画の登場人物が抜け出してきたかのような美しく端正な顔立ちだが、ただの美女画ではなく海向こうの宗教画に登場する邪悪な存在を討ち滅ぼす女の姿かたちをした超常の存在――確か天使とか戦乙女とかいったはずだ――そういうものを連想させられる。それは単に顔の造形のせいではなく、彼女の人格や経験によるものだ。10代半ばで家族と故郷を喪い、それでも重荷を背負って戦い抜いてきた者が放つ風格とかオーラとしか呼びようがないものが彼女をそう見せる。

 

英雄。アヤノの目には、カンナが物語に登場する英雄のように映った。

 

「カンナさんって、何だか英雄みたいですね。」

 

カンナに蕩かされ精神年齢が10代前半くらいに若返っているらしい。思ったことがそのまま言葉になって口から零れた。

 

「英雄?何でですか?」

 

「何でって……何となく?雰囲気?」

 

「私が英雄かはさておき、いずれなるのは間違いないですね。何せシジョウを救うんですから。」

 

カンナがニヤッと笑う。

 

「ジュソウの人たちに聞いたんですけど、私たちが村を救った事績を称えるために私たちの名前を刻んだ石碑を建てるらしいです。」

 

「知りませんでした。」

 

「シジョウの人口がジュソウのちょうど100倍くらいなので、ジュソウで石碑ならシジョウだと立派な像くらいは期待できますね。」

 

「本も出るかもしれませんね。」

 

「出ますよ、『蒼澄カンナ伝』。私が穴の向こうにコソコソ隠れてるマガツヒを皆殺しにしてシジョウを助ける英雄譚です。アヤノさんも登場する予定です。」

 

「私?ふふっ、私も登場して良いんですか?」

 

「創作でも伝記でも主人公には師匠がいると思うんですよね。例えば、海向こうに大王って呼ばれてる歴史上の英雄がいるんです。王家の生まれで、若くして王になってから夭折するまで戦いに明け暮れて勝ちまくったから大王って呼ばれてるんですけど、大王は頭も良くて当代最高の賢者を師と仰いで教えを受けていたんです。蒼澄カンナ伝は私が主人公でアヤノさんが師匠で決まりですね。」

 

常人が同じことを言えば冗談か、あるいは愚かな大言壮語にしか聞こえなかっただろう。だが、カンナが言えば違う。自分もカンナがいつか困難を成し遂げることを心の底から信じている。だから――

 

「きっとそうなりますよ。」

 

冗談やお世辞に聞こえないよう短く返す。

 

(眠たくなってきたな……。)

 

カンナに散々可愛がられたお陰で気も鎮まってきた。このままカンナの腕の中で眠りにつきたいところだが、忘れてはいけない、この旅行はカンナのためのものだ。

 

「カンナさん。」

 

「はい?」

 

カンナの目を見つめる。自分を師と仰ぐカンナ。きっとこれからも目的を達するまで走り続けるであろう未来の英雄の力になりたい。

 

「師匠から最初のアドバイスです。」

 

「何ですか、師匠?」

 

「カンナさんのお陰で色々と吐き出せました。ありがとうございます。」

 

「アヤノさんのためならこれくらい当前です。」

 

「カンナさんは吐き出せてるんですか?」

 

「え?」

 

きょとんとするカンナ。目線に「お見通しだ」という意志を込めてやると、「まさか」という表情を浮かべる。

 

「リンから何か聞きましたか?」

 

「カンナさんが思うより色んなことを知ってますよ、私は。」

 

「別に隠してたわけじゃないんですよ?ただ単に自分でもどう相談すればいいのかわからなくて……。」

 

彼女の顔を両手で包み込み深い紺色の瞳をじっと見つめる。今なら傷一つない強者の仮面に隠された彼女の素顔が見える気がした。

 

「『辛いから泣きたい』で良いんです。」

 

「はい。」

 

「今度から辛いことがあったら私に打ち明けて下さい。」

 

「はい。」

 

「私はカンナさんと違って温室育ちですが、式神ですから他人に強さを示さなければならない時があることはわかります。カンナさんがずっとそうやって生きてきたことも察せられます。」

 

「はい。」

 

「私が知らないところでカンナさんが独りで苦しんでいるのは辛いです。リンさんも同じ気持ちだと思いますよ。」

 

「……はい。」

 

部屋が急に暗くなる。どうやら月が雲に隠れたらしい。だが、部屋が闇に覆われる直前のほんの一瞬、カンナの顔がただの年下の女子に見えた気がした。

 

「そろそろ寝ますか。」

 

「はい。あの、アヤノさん。」

 

「はい?」

 

「……抱きしめてほしいです。」

 

カンナの声は震えていた。熱い感情を零し始めた頭を胸元に抱き寄せる。

 

「気がすむまでどうぞ。」

 

▼▽▼▽

 

2泊3日の温泉旅行の成果はリンの期待を大きく超えるものだった。

 

まず、アヤノとカンナの距離が明らかに近くなった。もともと職場で息が合っていた2人だが、たまに仕事を早めに切り上げて一緒に遊びに行く姿を見るようになった。リンも混じって誰かの家に泊りにいくこともたまにある。

 

そして、カンナが感情を表に出すようになった。仕事中は相変わらずポーカーフェイスで飄々としているが、彼女の家に泊りに行くとたまに「泣きたい」と素直に苦悩を打ち明けてくれるようになった。

 

(上手くいったな。)

 

与えられるのではなく与える側、守られるのではなく守る側、奉仕されるのではなく奉仕する側、それがカンナ。生き抜くため、そして他者を生かすため、自らの苦悩を顧みず心の傷を隠して強者を演じ抜いてきたせいで、無傷の強者の仮面を自分でも外せなくなったカンナ。その全てが愛おしかった。彼女が苦悩を共に消化する相手を求めるならその相手は自分であってほしいとリンもアヤノも思っていた。

 

「ううぅ……。」

 

今夜もすすり泣くカンナをアヤノが抱きしめ、リンが背をさすって慰める。暗い部屋でリンとアヤノと一緒に潜りこむ布団の中がカンナの帰る場所になりつつあった。

 

▼▽▼▽

 

「上手くいかないですね。」

 

医薬品の研究開発分野で大陸最大手の企業、新垣製薬の研究施設。潜毒の治療薬のレシピを検討していたスクナビコナに疫学ユニットの主任研究者の地位にある男が弱り切った表情で語りかける。

 

「感染予測シミュレーションの結果が出たんですか?」

 

「予想以上に何も分からないです。」

 

男が差し出した資料の趣旨は『潜毒菌の感染力で現実に起きているようなパンデミックが発生する確率は皆無である』というもの。

 

「潜毒菌の特性値が誤ってるとか?」

 

「考えづらいです。十分な数の標本があるので。」

 

「気候や人口動態は?」

 

「これほどのパンデミックが起きるほどの異常は見つかっていないです。」

 

「うーん、陰謀論みたいだけど誰かが潜毒菌で生物テロでもやってるとか?」

 

「陰謀論者だと勘違いされたくないんで黙ってましたけど、ここまで来るとその確率の方がまだ高いと言わざるを得ないですね。」

 

男とスクナビコナは顔を見合わせて苦笑いした。

 

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