或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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黄前久美子、高坂麗奈、佐々木梓、高橋沙里の四人から見た、最後の関西大会の一幕。


【幕間】それぞれの関西大会

正しい資質(ライト・スタッフ) ─黄前久美子─

 

 ガラス窓に映る自分の顔は、思っていたよりも落ち着いて見えた。

 しかし、実際はまったく違った。胸の奥はずっとそわそわしているし、イヤホンから流れてくる音だって半分も耳には入ってこない。何度も何度も聴いた音源なのに、今日だけは音の輪郭が遠く感じた。

 

 自由曲『一年の詩 〜吹奏楽のための』。

 この曲を聴くたびに最初に思い出すのは、幹部三人が一緒に滝先生に呼ばれた日のことだった。滝先生は候補曲を三つ提示して、今年の自由曲を選んでくださいと言った。あの時から今年一年が始まったようなものだ。

 春の訪れを喜び、燃えるような夏で弾み、秋を静かに迎え入れ、寂しさが募る冬の先にまた次の春がある。そういう曲を、今年の北宇治が吹くことには意味があると思った。

 私たちが入ってから北宇治は実力主義に舵を切った。学年関係なく全員が同じ土俵に立つ。そうして強い北宇治を作ることを目標にしてきた。綺麗事だけでは済まないけれど、それでもこの曲は北宇治に合っている。

 そう思ったことに、今でも後悔はない。

 

 ただ、イヤホンの中で第三楽章の旋律が近づくたびに、喉の奥が少しだけ苦しくなった。

 今日、麗奈とソリを吹くのは私じゃない。

 

 バスがトンネルに入る。窓の外が暗くなり、ガラスが急に鏡みたいになった。前の座席で眠っている一年生の頭。通路を挟んだ向こうで目を閉じている秀一。少し後ろの方には、真由ちゃんの姿が映っていた。

 真由ちゃんは、楽譜を見ていた。

 揺れるバスの中で譜面なんて見て、酔わないのかな。最初に浮かんだのは、そんな間の抜けたことだった。でも、すぐにその考えは消えた。真由ちゃんの指が、膝の上で静かに動いている。

 

 その指の動きは知っている。

 知りすぎているくらい、知っている。

 

 何度も何度も麗奈のトランペットを頭の中で鳴らして、そこに自分のユーフォを重ねた。息の入り、音の終わり、どこで麗奈を待って、どこで自分が少し前に出るか。楽譜を見なくても、指の動きだけで分かってしまう。

 トランペットとのソリ。

 私が吹きたかった場所だった。

 

 真由ちゃんは上手い。そんなことは分かっている。認めないなんて無理だ。彼女の音を初めてちゃんと聴いた時から、私はどこかで分かっていたのかもしれない。あの子は、北宇治の中に普通に混ざっているようで、音だけで簡単に空気を変えてしまう。

 

 だから滝先生は真由ちゃんを選んだ。

 上手い人が吹く。それが今年の北宇治の方針だ。その方針は変わらない。けれど、受け継いだのは私たち幹部で、私もそれをより北宇治らしい形だと思った。

 学年や過去の実績ではなく、今一番ふさわしい人が選ばれる。そういう場所で全国金を獲りたいと思った。

 

 

 なのに、その結果が自分に向いた途端、心がぐらついた。

 真由ちゃんが何度も辞退してもいいと言った時、私は受け入れてはいけないと思った。受け入れたら、今年の北宇治がやろうとしていることが全部嘘になる。上手い人が吹くべきだ。真由ちゃんが選ばれたなら、真由ちゃんが吹くべきだ。

 そう思うたびに、別の自分が顔を出した。

 

 

『本当に辞退してくれたら』

 

 

 その気持ちは、真由ちゃんの実力を知れば知るほど大きくなった。自分でも嫌になるくらい、静かに膨らんでいった。真由ちゃんが悪いわけじゃない。彼女はただ上手くて、ただ選ばれただけだ。なのに私は、部長の顔をしながら心のどこかで彼女が辞退してくれることを期待していた。そう思ってしまったことは誤魔化せない。最低だと思った。

 

 

 合宿のあと、滝先生に聞こうとしたことがある。

 

 ──どうして、真由ちゃんを選んだんですか。

 

 その一言を、私は最後まで口にできなかった。聞けば、きっと楽だったと思う。滝先生の口から真由ちゃんと私の差を説明してもらえたら、負けた理由に名前を付けられた。

 でも、結局聞けなかった。

 今思えば、それで良かったのだと思う。

 聞かなかったのは、たぶん私の意地だった。滝先生の言葉で自分の負けを整理したくなかった。真由ちゃんとの差を、誰かの言葉で決めつけられたくなかった。

 

 全国へ行けば、もう一度チャンスがある。

 もう一度、真由ちゃんと競える。

 次こそは、と思っている自分は、まだちゃんと生きている。

 オーディションで選ばれなかったのは初めてだった。私が踏み潰してきた人たちの気持ちがようやく理解できた。

 部長としても奏者としてもぐちゃぐちゃになって、人として最低なことも考えて。皮肉なことに、それでも火は消えていなかった。

 

 麗奈は教えてくれていた。

 合宿の時、私のソリが危ないことを。はっきり言葉にされたわけではない。でも、麗奈の視線や間の取り方でなんとなく分かっていた。麗奈は音に嘘をつけない。だから、私を励ます時でさえ、どこか言葉を選んでいた。

 それなのに私は、自分に都合のいい解釈で見ないふりをしていた。

 発表の瞬間まで、選ばれることを疑わなかった。真由ちゃんが上手いことを知っていたのに自分が選ばれると思っていた。三年間積み重ねてきたものがあるから。麗奈と一緒に吹きたい気持ちは誰にも負けないから。そういう気持ちが、最後には勝つのではないかと思っていた。

 正直言って、すべてが甘かった。

 

 私が落ちただけならまだよかった。

 よくはない。全然よくない。でも、それなら奏者として悔しがれば済む話だった。問題はその先にあった。

 メンバーが決まってから、部の空気はどんどん悪くなった。真由ちゃんにどう接していいか分からない人が増え、滝先生に対する不信も広がって、幹部への不満も見えないところで膨らんでいた。麗奈は麗奈で正しいことを言っているのに、その正しさで周りを傷つけていた。

 

 部長なのにそれを止められなかった。

 もっと早く言葉にしていれば違っていたかもしれない。真由ちゃんが孤立しないように動けたかもしれない。麗奈に、正しさだけで推し進めても届かないものがあると伝えられたかもしれない。

 けれど実際の私は、迷って、逃げて、どちらにもいい顔をしようとしていた。

 

 バスがトンネルを抜ける。窓の外に光が戻って、真由ちゃんの姿は消えた。イヤホンの中では自由曲が進んでいる。秋が過ぎ、冬へ向かう旋律。終わりの先に、また始まりがある曲。

 私は膝の上で手を握った。

 

 ここで終わらせるわけにはいかないんだ。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 和歌山市内の会場に着くと、突き刺すような日差しに目が眩んだ。見慣れない制服が行き交う光景に、大会のプログラムが進んでいることを嫌でも痛感した。大阪三強の名前は意識しないようにしても耳に入る。記憶に強くこびりついている龍聖の制服も見えた。

 

 ここにいる全員が、どこかの県の代表だ。

 弱い学校なんて一つもない。

 足元から弱気が這い上がってくる。去年、あと少しのようで全然届かなかった全国。その記憶が、会場の空気に混ざっていた。

 

 ──しっかりしろ。

 心の中でそう言った。

 私は部長として、荷物と楽器の確認について指示を出す。搬入口の位置、大きい楽器の動線、控え室への移動。事前資料を散々読み込んだから。やることは頭に入っている。秀一がすぐに男子をまとめてくれて、麗奈も必要なところに目を配っていた。こういう時、二人がいてくれることに何度も助けられている。

 それでも、頭の片隅ではずっと別のことを考えていた。

 本番前に、何を伝えたらいいのだろう。

 まず謝りたい。

 そして背中を押したい。

 不甲斐ない、ダメダメな部長だけど、それでも全国に行って金賞を獲りたい。みんなの努力が、それに見合わないなんてことは絶対にない。今日までの練習はきっと裏切らない。

 

 でも、それは一昨年も去年も同じだった。

 努力は裏切らないかもしれない。でも、それが求める結果に繋がるとは限らない。

 私は去年、その事をこの身をもって痛感した。

 

 綺麗な言葉で鼓舞しても、きっと届かない。全国金を獲りたいと言えば、それはただの私のわがままに聞こえるかもしれない。ただ、思いをぶつけることには変わらない。

 

 

 チューニング室に入ると、外のざわめきが扉の向こうへ遠ざかる。フルートの細かいチューニング。金管が短く音階を重ねる音。低音が床を揺らすように唸る音。私もユーフォニアムを構えて、楽器をゆっくり温めるようにして息を入れた。

 

 滝先生が前に立ち、冒頭部分の確認をする。

 北宇治の音は、綺麗だった。

 ちゃんと仕上がっていた。まず、そのことに安堵した。

 みんなが練習してきたものが、音になってそこにあった。響きも悪くない。滝先生が求めてきた音に、ちゃんとなっていた。

 このまま舞台に出ても、綺麗な演奏はできるだろう。金賞も獲れるかもしれない。

 でも、それでいいのだろうか。

 私はいつも、肝心なところで動きが遅い。

 ぎりぎりになって、逃げ場がなくなって、ようやく自分の本音に気づく。もっと早く言えたらよかった。もっと上手くできたらよかった。そう思うことばかりだ。

 

 あの日、樟葉の言葉がまだ耳に残っている。

『部長としての自覚がない』なんて、自分が一番痛感しているのに、それでも一番言われたくない時にそういう言葉を言ってくる。正直腹が立った。

 好きか嫌いかで問われたら、きっと樟葉のことは好きにはなれない。でも、樟葉には不思議と人を惹きつける力があった。それはきっと私も自覚していて、中学で辞めさせてしまったことへの後ろめたさなんかが、私たち幹部の中には残っている。

 樟葉に言ってやりたかった。分かってる、分かってるから苦しいんだよって。

 でも、言われた言葉は何一つ間違ってなんかいなかった。

 私はもう一年生指導係でも、黄前相談所でもない。北宇治の部長なんだ。

 前に立たなければならない。嫌われても、間違えても、自分の言葉で部の前に立たなければならない。

 樟葉の言い方は遠慮がなかった。あの無遠慮な態度に、救われたなんて思いたくなかった。

 滝先生の言葉が終わる。本番まで、もうあまり時間はない。

 ここで言わなければ、もうみんなに伝えられる機会はない。

 

 言葉はまだ綺麗にまとまっていなかった。

 でも、そこまで待っていたら間に合わない。

 なんとかなるのを待つんじゃない。

 なんとかするんだ。

 

 伝わるかどうかなんて、分からない。私の言葉はいつだって不格好だし、たぶん今日だって綺麗にはならない。途中で詰まるかもしれないし、泣くかもしれないし、何を言っているのか分からなくなるかもしれない。

 

 隣に座る真由ちゃん。部屋の後ろで見守ってくれる奏ちゃん。一年生の佳穂ちゃんには、先輩として不甲斐ない背中ばかり見せてしまっている。

 でも、麗奈がいて、秀一がいて、三年間頑張ってきた同級生も、私を部長と慕って付いてきてくれた後輩たちもいる。

 私は完璧な部長じゃない。

 でも、完璧じゃないから何も言えないなんて、そんなわけにはいかない。

 

 

 息を吸った。

 私は、少し震えるその手を挙げた。

 

 

 逃げ道がなくなった。

 

 自分で逃げ道を閉じた。

 

 部長として立つだけの資質が、自分にあるのか確かめるために。

 

 

 

 

 

ほどけない未来 ─高坂麗奈─

 

 最初の一音は、狙った通りに出た。

 自由曲『一年の詩 〜吹奏楽のための』第三楽章。譜面には「淋しげに」と書かれている。それは弱く吹くという意味ではない。音の芯を失えば、ただ頼りないだけの音になる。

 滝先生が求めていたのは、秋の空気に一本の線を引くような凛とした寂しさだった。

 

 息を入れる。唇に触れたマウスピースの感触も、指先に伝わるピストンの重さもいつもと変わらない。照明の熱が頬に当たり、見えない人たちの気配がホールの奥でじっとこちらを待っていた。

 

 怖さはない。

 少なくとも、音を出す瞬間にそんなものは邪魔だった。

 

 トランペットの音はホールへ真っ直ぐ伸びた。

 狙った場所に、狙った強さで、狙った色のまま届いた。

 

 私は、自分の音に自信がある。

 それは慢心ではない。積み上げてきた時間への、最低限の礼儀だと思っている。

 経験に裏付けられた自信。この自信を得るために、これまで何千時間もトランペットに費やしてきた。

 

 その音に、ユーフォニアムが重なった。

 黒江さんの音が溶け込んだ瞬間、私は少しだけ驚いた。

 私の音を掴む順応性。こちらがほんの僅かに息の速度を変えただけで、すぐに対応してくる。少なくとも、並みの演奏技術ではない。

 練習の時から、その片鱗はあった。

 合宿のオーディション前、私は久美子に黒江さんのことを話した。滝先生の求めている音を素早く的確に表現できる巧さと勘の良さ。そう言った覚えがある。あれはただの評価ではなく、久美子への注意喚起でもありアドバイスのつもりだった。黒江さんを軽く見てはいけないと、私なりに伝えたかった。

 久美子がその言葉をどう受け取ったのかは分からないが、今、私の音に合わせているのが久美子ではないという事実だけが残った。

 

 私は黒江さんの実力に気付いていた。

 気付いていたはずだった。

 あまり本番中に思うことではないけれど、今まで吹いてきたソリの中で一番心地が良い。

 演奏に長けた人と吹くと、自分まで上へ引っ張られることがある。相手に合わせようとしているのに、合わせること自体が窮屈ではない。むしろ、次の音へ進むための余白が自然に生まれる。こちらが少し息を深く入れれば、相手も同じだけ響きを広げる。音の終わりを細くすれば、リリースまで一緒に整えてくる。

 黒江さんの音には、一切の迷いがなかった。

 自分一人では届かないところまで、隣の音が背中を押してくる。こちらもそれに応えたくなる。もっと細く、もっと深く、もっと遠くへ。譜面に書かれた音楽記号の先にあるものを、二人でなら探しに行ける気がした。

 

 黒江さんとのソリは終盤に差し掛かっている。

 府大会で、久美子と吹いた時のことを思い出した。

 演奏中に余計なことを考えるのは良くない。けれど、思い出そうとしなくても浮かんでしまった。あの時の久美子は緊張の糸が張り詰め、それでも頑張って寄り添っていた。

 私と一緒に吹きたいという想いの丈が、音の端々に滲んでいた。

 

 久美子と吹くことは、私にとってずっと特別だった。

 久美子のユーフォニアムは、私にとって特別だった。

 

 だから私は、久美子と吹きたかった。

 

 黒江さんの音と久美子を比べたいわけじゃない。

 滝先生が直に聴いて、最高のメンバーを選んだ。先生にとって、黒江さんのユーフォニアムは、今の北宇治に必要だった。

 

 このソリが寂しく聴こえるということは、正しく演奏できているということだ。

 その寂しさが、私自身のものと少しだけ重なった。

 黒江さんに過不足があるわけではない。滝先生が悩む理由も今なら理解できる。黒江さんは選ばれるだけの技術を持っている。

 ただ、久美子と吹きたかったソリで、私の音を一番自然に支えているのが久美子ではない。その事実は、演奏中の私の心に静かに沈んでいった。

 

 第三楽章が終わった。

 考えるのは後でいい。今はまだ舞台の上だ。演奏している間は久美子への寂しさも、黒江さんの実力の核心に触れてしまったことも、全部後回しだ。

 

 北宇治の演奏は素晴らしかった。完成度だけで言えば、一年生の関西大会で全国への切符を獲った時の演奏に近い。

 ホール全体が揺れるような拍手だった。息を整えながら、私は滝先生を見ていた。指揮台の上で、滝先生の口元がほんの少しだけ緩んでいた。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 関西大会は通過点だ。私たちの目標は全国金賞であって、ここで満足するわけにはいかない。それでも、北宇治高校の名前が呼ばれた瞬間、頬が勝手に緩んだ。

 派手に叫ぶこともなければ、周りみたいに崩れるほど泣くこともなかった。ただ、身体の奥に張っていた細い糸が、少しだけ緩んだ。

 

 なんとか扉が開いた。

 そう思った。

 

 演奏後に滝先生が浮かべた笑み。あの時点で、先生はこの結果をどこかで分かっていたのかもしれない。少なくとも、自分たちが全国へ届く音を出したことは、誰よりも正確に分かっていたはずだ。

 滝先生が認める音を引き出せた。その事実は、私にとって何より大きかった。

 

 この関西大会という舞台で、立華が金賞を獲ったことには正直驚いた。

 もちろん、立華が弱いと思っていたわけではない。元々マーチングだけの学校ではないし、関西に来るほどの実力がある学校だ。それでも、ここ数年関西大会では銀賞に留まっていた立華。それを、佐々木さんは金賞まで持っていった。

 北中の同級生として、少し誇らしかった。彼女は昔から人を引っ張る力があった。明るくて、強くて、自分が前に立つことを怖がらない。たぶん、立華でも同じように立ってきたのだと思う。一昨年と去年の結果を、今年の立華は超えた。

 でも、全国へ行くのは北宇治だった。

 音楽は嘘をつかない。

 これは信念のぶつかり合いだった。

 

 

 会場の外で集合写真を撮ったあと、優子先輩が駆け寄ってきた。

 相変わらず感情の出し方が真っ直ぐな人だと思う。

 

「高坂、遂にやったわね」

 

 その言葉に、すぐには返せなかった。

 去年を超えた。それは、優子先輩たちが届かなかった場所へ進んだということだ。もちろん、全国金を獲るまで何も終わっていない。でも、今この瞬間にだけ許される感情があるはずだった。

 全国への道は繋がった。

 そして、その前にもう一度オーディションがある。

 今日の演奏で、自分の音が全国の舞台に立つべき音であることを証明した。慢心ではなく、客観的に見てそう思った。

 

 問題は、ユーフォニアムだ。

 久美子か、黒江さんか。

 どちらが吹く未来を想像しても、答えは出なかった。

 久美子と吹きたい。その気持ちは消えない。消えるわけがない。

 私は久美子と全国へ行きたいし、久美子と全国でソリを吹きたい。あの子がどれだけ悔しかったかも、どれだけ今日の演奏に複雑な気持ちで向き合っていたかも、分かっているつもりだ。

 ただ、私にも分かっていた。黒江さんの技術に目を背けることは、奏者として正しいことではない。それは私だけでなく、部員全員、もちろん久美子にもその現実が突きつけられた。

 音に正直でいること。それは奏者として、きっと正しい。

 滝先生も、きっとそう思っているはずだ。

 

 優子先輩は、私が答えを探していることに気づいたのかもしれない。けれど、それ以上は何も言わなかった。ただ、少しだけ柔らかい顔をして、私の返事を待っていた。

 私は短く息を吐いた。

 

「……ありがとうございます。でも、目標は全国金なので」

 

 

 

 

 

スタンドバイミー ─佐々木梓─

 

『───三校目、最後の学校です』

 

 その瞬間、私は息の仕方を忘れた。

 壇上に立つ私の足元が妙に頼りなく感じた。スポットライトが熱い。暗い客席の中で、立華の座る場所だけははっきり見えた。

 私が部長として連れてきた大事な仲間たち。祈るような仕草に、大袈裟だなぁなんて呑気な言葉が浮かんだ。

 

 

『十八番、京都府代表北宇治高等学校』

 

 

 その瞬間、客席の一角が爆発した。

 歓声、拍手、誰かが泣きながら叫ぶ声。全部が一度に押し寄せてきたのに、私の耳には遠く聞こえた。

 

 負けた。

 自分でも驚いている。こんなにあっさり、負けを認めるなんて。

 

 仲間たちは肩を落とし、顔を伏せて口元を押さえ涙を流している。隣の子にしがみつく子もいる。何が起きたのか理解できないみたいに、前を見たまま固まっている子もいた。

 そんな顔をさせて、ごめんね。

 もっとホールで演奏したかったよね。

 全部全部、私の力不足。でも、全国大会の扉に触れることはできた。その鍵を持っていたのは、私の横で胸を撫で下ろす親友の久美子だった。

 ふと、久美子と塚本と目が合う。久美子はどうしたらいいか分からないようだったから、私から口パクで「おめでとう」と言った。

 二人は眉を顰めながら笑っていた。

 

 不意に、涙が溢れてきそうだった。喉の奥が熱くなって、目に水が溜まるのが分かった。今すぐ顔を覆ってしゃがみ込みたいくらいだった。けれど、ここは舞台の上だ。賞状とトロフィーを受け取って、堂々としなければならない。

 私は泣くわけにはいかない。あの子たちの演奏まで全部否定するみたいになってしまうじゃないか。

 胸を張った。たとえ虚勢でも、堂々として見えるように。

 その奥では、何かが音を立てて壊れていた。

 

 

 自由曲『青銅の騎士』は素晴らしい演奏ができた。あそこまで仕上げるのに、どれだけ大変だったか私が一番知っている。

 過去二年、関西大会の後にはどこか暗い空気があった。立華は伝統的に生徒間での指導がメインだ。当然、私は部長としてタクトを振る機会も多く、関西大会銀賞続きの部活を全国クラスに押し上げるためにはと苦心続きの毎日だった。時に顧問の熊田先生とマンツーマンで頭を捻りながら、マーチングとの二足の草鞋に取り組んできた。最初こそ伸び悩んだものの、夏を本格的に迎える頃には満足のいく演奏になっていった。

 

「マーチングでは全国クラス。でも座奏はイマイチ」

 

 その悔しさは、部内に染みついていた。誰も口にはしなくても、コンクールの舞台に立つ時、どこかで「今年も駄目かもしれない」と思っている空気があった。

 そうして迎えた府大会。でも、今年は違った。

 ともすれば演奏のクオリティは北宇治以上。あの男子ばかりの龍聖にも引けを取らない。三人の顧問から受けた評価は、どれも賞賛一色だった。

 勢いに乗った立華は無敵だ。今日の演奏も胸を張れるものだった。座奏でも全国を狙える音が、確かに響いていた。

 ほんの数分前、金賞を獲った時は心が奮い立った。ここ数年、越えられなかった壁を越えた。立華は座奏でも関西で金賞を獲った。その事実は、間違いなく誇っていいものだった。

 みんなで描いた夢が、手の届くところまで来ていた。

 それなのに、足りなかった。

 私たちが欲しかったのは、その先だった。

 

 明静と龍聖が呼ばれて、残り一枠。

 その時、私の中ではもう、ほとんど北宇治との一騎討ちになっていた。

 

「どっちが行っても恨みっこなし」

 

 隆翔に言った言葉は本心だった。北宇治も立華も、全国へ行くために万全を期してここまで来たんだ。

 同じ中学を卒業した吹奏楽部員による最高の舞台での一騎討ちは、北宇治に軍配が上がった。立華は最高の演奏をした。北宇治も最高の演奏をした。

 

 目の前に表彰状が差し出される。

 笑わなきゃ、と思った。

 私は笑顔を作った。上手く笑えていたかは分からないけど。

 

 北宇治の演奏は、正直悔しいくらい良かった。高坂さんとユーフォの子のソリは会場の空気を変えた。府大会では久美子が吹いていたパートだったけど、知らない三年生の子になっていた。ただ、どこかで見たことのある雰囲気を纏っていた。なんせ、あまりに上手すぎたから嫌でも印象に残る。

 そして、隆翔がいた。

 舞台の上で、北宇治の一員としてフルートを吹いていた。それだけのことなのに、目頭が熱くなった。

 中学二年生の時に、一度だけ一緒にコンクールに立った。その光景が一気に蘇ってきた。

 隆翔のフルートが好きだった。

 もう二度と聴けないと思っていた。

 フルートを勧めたのは私なんだぞって、少し自慢したかった。

 そんな自分が嫌になるくらい、心の中もぐちゃぐちゃだった。

 最後は、もしかしたら隆翔への情が勝ったのかもしれない。そんな馬鹿みたいなことまで考えた。審査にそんなものが入るはずないのに、そう思わないと立っていられないくらい、私は何かのせいにしたかったのかもしれない。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 表彰式が終わり、会場の外へ出ると夕方の空気が肌に触れた。

 バスの前に集まった立華の部員たち。みんな目を真っ赤にしていた。なんか、不思議な感じだ。去年の冬に部長になってからもう半年以上経過しているのに、今日だけは私に目が向くことがおかしく見えた。

 言葉は自然と口から出てきた。

 

「みんなお疲れ様でした。一言言わせてもらうと、座奏でこんなに興奮した演奏は初めてでした!」

 

 突然褒め出した私を、みんな不思議そうに眺める。

 でも、顔を上げるのにはこれが一番効果的なのを知っている。

 

「普段の練習より、府大会より、今日の演奏が一番良かったです。たくさんの時間を使って、去年以上に練習の精度も上げて、厳しいこともたくさん言いました。そしてみんながたくさんの汗と涙を流してきたことを私は知ってます。みんなのお陰で、関西大会で金を獲ることができました! これははっきり言って快挙です。みんなありがとう!」

 

 私を中心に広がる輪に向かって大きな拍手をした。

 最初こそ戸惑いつつも、三年生を皮切りにみんながみんなを讃えて手を叩いている。

 

「残念ながら代表には選ばれなかったけど、今日までやってきたことに無駄なことは一個もない。あっていいはずがない。悔しくて仕方がないと思う。私だってそうだもの」

 

 誰かが嗚咽を漏らした。

 見ないふりをした。もらいそうだから。

 

「でも、今年の立華はまだ終わったわけじゃありません。明日からマーコンに向けた練習に集中していきましょう。狙うは全国金、ただひとつ!」

『はい!』

「連覇を狙っていきましょう。今日の悔しさも、明日の糧にして」

 

 段々と、みんなの瞳に闘志が戻っている。切り替えが早いのは、優秀な証拠だ。

 多分、私が一番切り替えられていないんだろうな。

 でも、切り替えなければならなかった。でなければ、今日の負けに飲まれる。悔しさは、抱えたまま歩くしかない。

 

「もう一度言わせてください。最高の演奏をありがとう!」

 

 夕焼けに映る私の顔は、みんなからどう見えているのだろう。

 虚勢でもいい。みんなが前を向いてさえくれたら、私はなんだって良かった。

 

「では、いつものやります!」

 

 その言葉で、全員が肩を組んで輪になった。

 何度もやってきた掛け声。今日ほど、その言葉が重かったことはない。

 涙声をかき消すくらい、私は大きく息を吸った。

 

「笑顔じゃなければ!」

『立華じゃない!!』

「We enjoy!」

『Music!』

「We love!」

『Music!』

「We are!」

『立華!!』

 

 みんな声を出していた。嗚咽で途切れそうになりながら、それでも叫んでいた。水色の制服が夕方の光の中で揺れる。目元を赤くした後輩たちが、泣きながら笑おうとしている。

 最高の仲間と、まだまだ演奏していたい。

 この時間が一生続けばいいのに。

 なんてことを、心の片隅で思っていた。

 

 

 

 

 帰りのバスでは、酔いやすい後輩に席を替わって後ろの方に座った。

 隣には美音がいた。通路を挟んだ向こうでは、花音がもう眠っている。信じられないくらい早かった。あんなに泣いていたくせに、今は口を少し開けて熟睡している。

 私は眠れなかった。

 車内は静かだった。泣き疲れた子たちがあちこちで眠っている。誰かの鼻をすする音が、時々小さく聞こえる。タイヤが道路の継ぎ目を踏むたび、座席が小さく揺れた。

 窓の外はすっかり夜の帳が下り、景色はほとんど見えない。その代わり、窓には自分の顔が映っていた。やっぱり、少し疲れが出ている。

 

「梓」

 

 美音が小さく呼んだ。

 

「なに?」

「あれから、ずっと無理してたでしょ」

 

 思わず笑った。

 

「いきなり何」

「ホワイエで樟葉くんと話してた時も、バスの前でみんなに話してた時も。梓、すごく普通に見せようとしてた」

「普通だったでしょ」

「普通に見せるのが上手かっただけ」

 

 美音は、変なところで鋭い。

 普段は少し控えめで、花音の隣にいることが多い。強く前に出るタイプではない。けれど、こういう時だけ逃げ道を塞ぐようなことを言う。

 

「……美音、今日はよく喋るね」

「梓が喋らないから」

「部長としては、今日はいっぱい喋ったんだけど」

「部長じゃない梓を見なかったから」

 

 その言い方はずるいと思った。

 私は窓の方を見る。暗い窓に映った自分と目が合う。部長じゃない私。そんなもの、今日はどこに置いてきたのだろう。

 美音は、この夏に私の周りで起きたことをだいたい知っていた。隆翔のことも、私がそれをどう片づけたのかも、今日ホワイエで普通に話したことの意味も、たぶん分かっていた。

 だから、隠しきれなかった。

 

「今日の演奏、すごく良かった」

「……うん」

「梓が引っ張ってくれたからだよ」

「そんなことないよ」

「あるよ」

 

 美音が少し強めに答える。

 

「……私たち、ずっと梓におんぶに抱っこだった。梓が前に立って、笑いながら大丈夫って言うから自信を持てた。でも、それがすごく歯痒かった」

「……美音?」

「今度は、私たちが支えるから」

 

 らしくない。そう言って茶化すつもりだった。

 美音がそんな熱いこと言うなんて珍しいねって、笑って返すつもりだった。

 でも、言葉が上手く出てこなかった。

 美音の言葉が、最後まで残っていた仮面に触れた。触れたら響く、心の琴線を優しく撫でるように。

 

「……ずるいよ、美音」

 

 美音は何も言わずに、少しだけ身体をこちらに寄せた。

 私は美音の腕にしがみついた。顔を伏せる。誰にも見えないように、美音の肩に額を押し当てる。

 部員たちは眠っている。今、この顔を見ているのは美音だけだった。

 最後の意地で、声だけは出さないようにした。

 でも、喉の奥で詰まった息が、ひゅっと変な音になった。

 

「っ……」

 

 我慢しようとした。歯を食いしばって、息を止めて、涙だけで済ませようとした。

 けれど、それも呆気なく決壊した。

 

「ん、っ……く……」

 

 嗚咽が漏れた。

 小さく押し殺して、誰にも聞こえないように。けれど、自分でははっきり分かるくらい、情けない音だった。

 

「くやしい……っ、くやしいなあ…………」

 

 何に対してなのか、正確な答えを知る人はいない。

 私でさえ分からない。

 ただ、私のてのひらに残ったのは、二度も負けたという事実だけだった。

 

「っ、う……ん、っ……」

 

 美音の制服に涙が落ちる。止めようとしても止まらなかった。肩が震え、息が上手く吸えない。泣き声を飲み込むたびに、喉が痛くなる。

 それでも声を上げることだけはしなかった。

 誰にも聞こえないように。誰にも気づかれないように。部長だったものの名残みたいな意地だけで、私は美音の肩に顔を押し付けた。

 

 美音は何も言わなかった。

 ただ、私の背中に腕を回してくれた。

 その手が優しかったから、余計に涙が溢れた。

 部長としての顔なんて、もうどこにも残っていない。

 

 ただの佐々木梓は、頼れる同級生の胸を借りながら、子どもみたいに大泣きした。

 

 

 

 

 

十二進法の夕景 ─高橋沙里─

 

 北宇治の名前が呼ばれた瞬間、私は叫んだ。

 何を叫んだのか、自分でも覚えていない。喉の奥から勝手に声が出て、視界が一気に滲んで、隣にいた隆翔くんの手を痛いくらい強く握っていた。

 客席が揺れている。誰かの泣き声か、悲鳴みたいな歓声。いろんな音が一度に押し寄せてきて、何が何だか分からなくなった。

 

 全国。

 本当に、全国へ行ける。

 

 そう理解した途端、身体の奥に張り詰めていたものが一気に抜け落ちた。胸のあたりが熱くなって、息がうまく吸えなくなる。近くで誰かが泣いている。前の席の子が振り返っている。普段静かな芽衣子が何かを叫んでいて、蕾実も目元を押さえていた。

 私は隆翔くんの手を離し、二人の方へ身体を向けた。

 

「やった……やったよ、私たち……!」

 

 声が震えていた。自分の声じゃないみたいだった。

 芽衣子が私の肩を抱いて、蕾実がその上から腕を回してきた。後ろから香奈ちゃんが泣きながらしがみついてきて、成美ちゃんと陽向ちゃんも顔をぐしゃぐしゃにしていた。巧美ちゃんは泣きながら笑っていて、何度も「全国、全国ですよね?」と確認している。そのたびに誰かが「そうだよ」と言って、また泣いた。

 私たちはぐちゃぐちゃの一つの塊になっていた。

 

 関西大会から編成が変わって責任が増えた。自分が崩れたらこのパートごと崩れるんじゃないかと思ったこともあった。

 最後のソロを任されて、希美先輩に最高の音を聴かせると舞台袖で言った。その言葉が、本番前の私の背中をずっと押していた。

 ずっと、平気な顔で過ごせていた。

 舞台袖でも、演奏中でも、きっと私はいつも通りだったと思う。緊張しなかったわけじゃない。でも、音を出す時に怖がっても仕方ない。怖いなら、その分だけ準備すればいい。そうやってずっと吹いてきた。

 それでも、結果が出た瞬間、身体の奥に張っていた糸がぷつんと切れた。無自覚に張り詰めていたのか、身体中の力が抜けた。

 私は席のあいだにしゃがみ込んで、膝を抱えるようにして泣いていた。息がうまく整わなくて、喉の奥で詰まって、えずくような音になる。芽衣子と蕾実が「沙里、大丈夫?」と何度も覗き込んできた。

 正直、大丈夫じゃなかった。

 嬉しすぎて死にそうなほどに。

 

 少し落ち着いた頃に、背中に手が触れるのを感じた。

 隆翔くんの手だった。彼の温かい手で、ゆっくり背中をさすってくれる。優しさの中に、僅かな迷いを見せながら。

 私は顔を上げられなかった。

 その手の持ち主だけが、どこか別の場所にいるみたいだった。

 巧美ちゃんは勢い余って隆翔くんの肩を何度も叩いていて、彼は苦笑しながら「痛い痛い」と言っていた。

 嬉しくないはずがない。

 彼だって今日までずっと苦しかったはずだ。私よりも、もっと面倒なものを抱えていたことも知っている。二年生の一件から黒江さんのこと、更には幹部にも手を差し伸べていた。

 それなのに、彼はまだ泣いていなかった。

 私の背中をさすりながら、みんなの喜びを少し外側から眺めているように見えた。

 そのことが、少しだけ気になった。

 

 

 

 会場の外に出た頃には、夕方の光が広場に薄く広がっていた。

 集合写真のあとも、私たちはなかなか落ち着かなかった。目元は泣き腫らして熱いし、笑うたびにまた涙が滲んだ。

 その輪の中に、希美先輩がやって来た。

 姿を見つけた瞬間、私は思わず背筋を伸ばした。制服の袖で目元を拭う。そんなことをしても泣いた跡が消えるわけじゃないのに、何となくちゃんとした顔で立ちたかった。

 希美先輩は、いつものように優しい声で私を呼んだ。

 

「沙里ちゃんのソロ、すごく良かったよ」

 

 その一言で、また泣きそうになった。

 結果発表より、その言葉の方が胸の奥に深く入ってきた気がした。ああ、聴いてもらえたんだと思った。

 届いて良かった。ただ、それだけだった。

 

「ありがとうございます……」

 

 それだけ言うのが精一杯だった。

 希美先輩は笑って、私の肩に軽く手を置いた。後輩たちにも声をかけている。香奈ちゃんと成美ちゃん、つみきちゃんは特に先輩を慕っていた。この再会に感無量の様子だった。

 

 希美先輩のことは、嫌いになれない。

 嫌いになるには、あの人はあまりにも眩しかった。

 私にとって、ずっと大きな背中だった。私が届きたいと思った人で、超えたいと思った人で、今日のソロを聴いてほしい人だった。

 

 

 そして、隆翔くんの恋人だった。

 

 大好きな先輩が、私の恋敵だった。

 この矛盾した気持ちは、不幸にも共存してしまった。

 そんな自分の心が、時々どうしようもなく面倒だった。

 希美先輩が後輩たちと話している間、私はふと周りを見た。フルートパートの輪の中に隆翔くんはいなかった。さっきまで近くにいたはずなのに、気づけば少し離れた場所へ行っている。広場の喧騒の端で、誰かと話すわけでもなく、空を見上げているように見えた。

 

 今日くらいみんなの真ん中で笑えばいいのにと、そう思った。

 彼は時々、輪の中にいるはずなのにふっと外へ出ていく。誰かに席を譲るみたいに、自分だけ少し離れた場所へ行ってしまう。

 

 追いかけようかと思った。

 でも、やめた。

 たぶん今の隆翔くんに必要なのは、私じゃない。

 そう思ったら、また少しだけ胸が痛んだ。でも、その痛みを知らないふりをして、私はみんなの方へ向き直った。

 

 

 

 

 帰りのバスでは、行きと同じように隆翔くんの隣に座った。

 車内はひどく静かだった。窓の外はもう暗く、時々道路灯の光が流れていく。タイヤが道路の継ぎ目を踏む音とエアコンの低い駆動音だけが、一定の間隔で耳に届いた。

 隆翔くんは眠っていた。

 イヤホンをしたまま、窓側に少しだけ身体を預けている。

 深く眠っているようだった。

 眉間に力が入っていない安らかな寝顔に、私は少し嬉しくなった。

 

 隆翔くんがこんな顔で眠れるなら良かったと思った。どこかでまだ心が張り詰めたままなのではないかと気になっていたから。

 目元が少し赤い。

 最初は光の加減かと思ったが、まぶたの際がほんのり腫れていて涙の痕跡が残っていた。

 

 

 やっと泣けたんだ。

 

 どこで泣いたのかは聞かなくても分かっていた。

 隆翔くんは、そういう人だと思う。弱いところを見せるのが下手で、何でも一人で抱えようとして、そのくせ本当に大事なところでは、選んだ人の前でしか表情を崩さない。

 いじらしいな、と思った。

 同時に、少しだけ虚しくなった。

 

 私は、彼のすぐ隣にいる。こうして隣に座っている時も、フルートを吹いている時も、軽口を叩いている時も、誰より近くで彼の横顔を見る。それなのに、彼が本当に心を開く時はそこにいられない。

 その線を、隆翔くんは絶対に越えない。

 希美先輩を選んだ以上、私に不用意に寄りかかったりしない。寂しさの埋め合わせに私を使ったりしない。そういうところが好きだった。

 好きになってしまったから、苦しかった。

 

 

 隆翔くんは、私の初恋だった。

 もう終わったことだ。けれど、傷が消えたわけではない。

 親友でライバル、という距離に落ち着いた。私はその関係を大事にしている。

 

 でも、彼の近くにいること自体が、私にとっては未練そのものだった。

 誰かのせいにできたら楽だった。

 希美先輩がいなければ。

 もっと早く好きだと言えていたら。

 隆翔くんが、もう少しだけずるい人だったら。

 そんな風に考えたことがないと言えば、嘘になる。

 

 結局、恋人にはなれなかった人の隣で、親友みたいな顔をして座っている。ライバルみたいな口を利いて、同じパートの仲間として笑っている。

 そして黒江さんに手を差し伸べる彼を見て、自分から共犯者になった。

 彼は時々、誰かのために自分の手を汚す。正しいかどうか分からないことにも踏み込む。自分が嫌われるかもしれない場所に立って、それでも誰かを放っておけない顔をする。

 

 あの時も、きっと似たようなことをしていた。誰かを救うなんて大げさな言葉は似合わない。ただ、放っておけなかった。だから動いた。今回、彼が黒江さんにしたことも、たぶんそういうことなのだと思う。

 

 舞台袖で、私は隆翔くんに行ってきたらと言った。

 

 ホワイエで、黒江さんに「黒江さんがソリでよかった」と言った。

 

 どちらも本音だった。

 隆翔くんが引き出そうとしていた黒江さんの音を私も肯定した。

 全部自分で選んだことだから、この痛みを誰かのせいにはできない。

 

 

 隆翔くんのイヤホンから、かすかに音が漏れていた。

 私は少しだけ迷ってから、彼の片耳からイヤホンを外した。起こさないように、そっと。

 自分でもずるいことをしていると思った。でも、これ以上のことはしない。できないし、したくない。

 ただ、同じ音を聴いてみたかった。

 

 恋人みたいに手を繋いだりすることは許されない。

 彼が希美先輩に見せた顔を私が知ることはない。それならせめて、眠っている彼の隣で、彼が聴いている音楽を片耳だけ借りるくらいは許されてもいい気がした。

 

 イヤホンを耳に入れると、ギターの音が小さく流れ込んできた。

 少し荒くて、乾いた音がした。夕方の空に無理やり引きずり出されるような音だった。明るい曲ではない。終わったものを終わったままにできず、どこかでまだ針を進めようとしているみたいだった。

 隆翔くんが好きそうな曲だと思った。

 そして、少しだけ嫌になるくらい、今の自分にも似合う曲だと思った。

 スマートフォンの画面に映った曲名を見て、その感覚はいっそう強くなった。

 

 窓の外に、もう夕焼けは残っていなかった。

 私はイヤホンのコードを指で軽く押さえながら、隆翔くんの肩にそっと頭を預けた。

 優しいから私との間にある一線を、彼は私より正確に知っている。

 だから今だけでいい。

 片耳だけ借りた音楽と、眠っている彼の肩。

 恋人ではない私に許されたものは、それくらいで十分だった。

 十分だと思うことにした。

 

 ギターの音が、バスの低い走行音に混ざっていく。

 私は目を閉じた。

 

 

 この痛みを誰かのせいにできないまま、隆翔くんの隣で、静かに眠った。

 

 

 

【つづく】




ここまでお読みいただきありがとうございます。

無事、久美子三年生編の関西大会まで書くことができました。
この次はもちろん全国大会編へと突き進んでいきます。

現在、鋭意執筆中ですので次の回までお待ちいただけると幸いです。
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