その日は風が強く吹いていた。
南から湿った空気が北上し、九州や沖縄では前線が発達しているという。その影響で、関西地区は雨は降らずとも強い風に曝されていた。
なびく髪を押さえながら、隆翔は宇治市の中心部に構える文化会館にやってきた。ここは市内で最も大きなコンサートホールが併設しており、毎年コンクールが近づくと本番を想定した予行練習で使用していた。
先週の今頃は全国大会に向けたオーディションの真っ最中だった。それからの一週間は、高校に入学してから最も濃密な時間だったと言える。充実と記せば聞こえは良いが、一つも解決しないまま今日を迎える可能性もあった状況は、好転せずともギリギリなんとかなったという表現が相応しいだろう。
兎にも角にも、今日このホールでユーフォニアムのソリストが決まる。
このオーディションに意義があるのか。北宇治が全国大会金賞を獲るために必要なことなのか。そして、沙里が手を痛め、涙を流した価値があったのか見極めたかった。
すべての準備が整った。
通常、舞台には指揮台を境にして扇形に椅子が設置される。しかし、今は合奏に不相応な白い幕が舞台の半分を占拠している。こうして見ると壮観に思えたのは、少し楽観的なのだろうか。この異様な光景が、ホールの中の緊張感を底上げしていた。
「なんか、時代劇っぽいね」
沙里がぽつりとつぶやく。
隆翔はなるほどと首肯した。しかし同時に違う感想も抱いた。
「確かに。特に切腹する場面にちょっと似てる」
「えぇ、そんなふうには見えないけど……」
「そうかな。白い幕といい、見守る俺たちといい、結構、的を射てる気がするんだけど」
「なにそれ。じゃあ、ソリになれなかった方が切腹するってこと?」
「そうなるね」
「うわ、ちょっとえぐいかも……」
本来、切腹には腹を掻っ捌く当人以外にも、苦しみを長引かせないため、息の根を止める介錯人が存在する。投票の権限を持った各部員の選択次第では、自分がそうならないとも限らなかった。
引っかかったのは、この機会を黄前が提案したことだ。
はっきり言ってしまえば、黄前は人望だけで勝てるだろう。幕を取っ払ってしまえば、黄前は追い求めた高坂とのソリを奪還することさえ難しくない。まだ仮定の出来事ではあるが、黄前自ら負けるための条件を作ったとも思えて仕方がなかった。もし彼女が敗れるのだとしたら、それは黄前自身が求めた公平さの結果となる。
「皆さん、準備はよろしいですか」
『はい‼︎』
「それではこれより、ユーフォニアムソリパートの再オーディションを行います」
滝の号令により、場の空気が一気に引き締まった。
息が詰まるような緊張感が、もう引き返すことは不可能であることを証明していた。
運命の鐘が鳴る。もし、もし、北宇治が全国に行けていなかったら。もし、真由が北宇治に来ていなかったら……いや、もし隆翔があの時希美と出会わなかったら、今日という日は来なかったかもしれない。誰かが必ず傷つくだろう。その行く末を見届けなければならなかった。
壇上の高坂が、白幕を一瞥した。
その向こうには、一番手の奏者が楽器を構えているはずだ。
「それでは高坂さん。タイミングはお任せします」
「はい」
「では一番の方、お願いします」
金色に輝くトランペットに、息吹が送り込まれる。
目を閉じて、二人の演奏に耳を澄ました。
第三楽章のテーマは秋。まさに今の季節だった。秋の夜長。闇夜に輝く満月が、朗々と湛える水面に反射する。煌びやかな月の光を表すトランペットの旋律に、ユーフォニアムが揺らぐ水面で出迎える。
言うまでもなく、素晴らしいユニゾンだ。文句の付けようもない。高坂との完璧な掛け合いに、隆翔は思わず溜息を漏らした。そして、ソリストとしての強い意志を感じた。
一番手の演奏が終わる。観客席の部員の表情は人それぞれだ。皆、あまりに良い演奏に感嘆を漏らしている。
「では、二番の方お願いします」
再び高坂のトランペットが響き、ユーフォニアムが支える。ただ、今回は僅かな違いがそこにはあった。
──高坂のトランペットが、さっきよりも上手い気がする。
当然、高坂はこの部活の誰よりも技術がある。そして自他ともに認める説得力もある。しかし、今この場では、先ほどと寸分違わぬ音が鳴り響いている。それなのに、なぜこうも際立って聴こえるのかが不思議だった。
ユーフォニアム特有の、優しく、甘やかな音色に包み込まれる。決して前に出ず、かといって存在感が無いわけではない。一段と鮮やかに聴こえる高坂の音の奥で、どっしりと構えるユーフォニアム。そして、言わずもがなその音色は文句の付けようがなかった。
隣では、沙里が目を見開いて「凄い……」と小さく漏らしていた。
「ありがとうございました。お二人は前へ」
二度の演奏が終わった。
白幕の奥から、演奏を終えた黄前と真由が現れる。
「どちらも素晴らしい演奏でした。ですが、ソリは一名しか吹くことができません」
そう、この場は講演会ではない。自らの判断で、北宇治の演奏に責任を持つオーディションなのだ。
正直言って、この演奏に白黒付けるのは気が引ける。滝が甲乙付け難いのも頷ける。
「滝先生、恨むぞ……」
周りに聞こえないよう、隆翔は小さく呟いた。
「では、これより選出に入ります。一番がソリに相応しいと思った方は挙手を」
躊躇いながら、ぽつぽつと手が上がる。
周囲の様子はあまり分からない。だが、誰もが自分の意志を持って手を挙げていることは容易に理解できた。
「ありがとうございます。続いて、二番と思った方は、挙手を」
隆翔は二番の演奏に賭けた。
しかし、これもほぼ直感だ。ただ、これが黄前の演奏だと言われても納得するだろう。
「音だけで決める」というのは黄前の願いだ。
隆翔は最後、その願いに託してみようと思い直した。
「二、四、六───えっ……」
「どうしましたか?」
「えっと……二番が四十四人です」
「では、一番は?」
「四十四人、同数です……」
集計していた一年生部員からもたらされた結果。
北宇治は部員総数九十一名。ユーフォニアムの二人を除いても八十九名だ。集計するなら、奇数にならねばおかしい。滝もこの事態に首を傾げた。
そして、最後の手が挙がる。
「まだ、私が挙げていません」
最後の一人は高坂麗奈だった。僅かな諦めと腹を括った強い意志を瞳に宿しながら、ただ真っ直ぐ前だけを見つめている。
高坂を除いた部員間の投票では、綺麗に二分された。それだけでもオーディションを行った意義があった。この審査が公平、公正に行われたことはこの場にいる全員が証人となる。誰もが自由意志のもと、音のみで判断したのだから。
「決まりましたか?」
滝の微笑みを額面通りに受け取った者は、誰一人としてこの場に存在しない。かつてこの場所で、トランペットの再オーディションを目撃した三年生たちは、その一票が何を意味するのか知らないはずがなかった。
高坂は介錯を請け負った。
そして、その
「二番です!」
躊躇うことなく、二言を許さない声量で高坂は迷いを断ち切った。
「では二番の方は、前へ」
最後のソリストが決まろうとしている。
人望が厚く、一年間この部を率いて全国大会出場を決めた黄前久美子か。強豪校で培った度胸と練習に裏付けられた技術を持って、関西大会でソリを務めた黒江真由か。
沈黙が流れる中、一人の奏者が歩み出た。
照明に照らされ、ユーフォニアムを胸元に抱えて痛々しいまでに怯えを押し殺した凛々しさを醸し出す彼女は、それでもなお相応しくあろうとしていた。
その気概と気高さが溢れたこの光景を、隆翔は一生忘れないであろう。
◇◆◇
二番目の奏者が歩み出ると、ホールは騒然とした。
二年前とは違い、一人ひとりが信念と希望を持って手を挙げた。そして、最後の最後で一票差という僅差になったのは、北宇治が強豪校として歩んできた道程の証左なのだろうか。
兎にも角にも、二人の横に立つ高坂は、選ばれた奏者をチラリともしなかった。当然、彼女も誰が先に吹いていたかなど知らされているはずがない。しかし、動揺すらしない様子から誰を選んだかは理解しているようであった。
たとえそれが、高坂自身の願いを覆すものであったとしても。
「では、全国大会のユーフォニアムのソリは、黒江真由さんに決定します!」
滝の宣言により、遂にオーディションの幕が降りた。皆、思うことがあるのだろう。しかし、それでも選んだのは自分自身。当然、異議など唱えられるはずがない。
真由は唇を引き締めて、この裁定を受け入れようとしている。しかし、そのゆったりとしたシルエットは小刻みに震えていた。ああ、また自分が選ばれてしまった。不幸な結果をもたらしてしまった。そんな声が聞こえてきそうなほどに。
せっかく繋ぎ止めた真由を、再び追い詰めるわけにはいかない。成り行きとはいえ、ソリストを選んだのはこちら側なのだ。これで受け入れないのはあまりに不誠実だ。
これは信念の闘いだ。
誰もが全国大会への道筋で描いた想いや呪い、それをすべて引っくるめて、人の業が生み出した信念のぶつかり合いだった。
隆翔は無言で立ち上がった。そして、真由へ向けて盛大な拍手を送った。
自分たちで選んだエースが、栄光の旅路を歩めるように。
隣で行く末を見守っていた沙里も、隆翔に倣って拍手を送る。それが伝播して、ここにいる全員が真由をはじめ、真剣勝負の末に敗れた黄前、そして願いを曲げて信念を貫いた高坂に向けて賛辞を贈っていた。
舞台の上の真由と目があった。最初は面食らった表情をしていたが、徐々に大きくなる拍手に、身体の震えも治っていた。
もう誰も、真由に対して隔たりを抱くことはないだろう。北宇治が悲願の全国大会金賞を獲るために、一丸となって突き進んでいけるはずだ。
「これが、今の北宇治のベストメンバーです! ここにいる全員で決めた、言い逃れのできない最強のメンバーです。みんなで決めたこの最高のメンバーで、最高の演奏をして、一致団結して、必ず全国大会金賞を獲りましょう‼︎」
人は成長する。最初から完璧な人間など存在しない。
人前に立つのが苦手で、自分の意見を言うことが怖くて、人と違うことに抵抗感を覚える。それが隆翔の知る黄前久美子だった。
しかし、黄前は変わった。そこに立つ彼女は敗者の顔をしていなかった。
そんな黄前を、再び大きな拍手が包み込んだ。
率いる者としての覚悟、矜持。大きく揺れ動いたあとでも、自分だけは揺るがずにどっしりと構える姿がそこにはあった。
真剣勝負を経て二人の関係は融和したのだろう。緊張の糸がほぐれた黄前は、柔らかな表情で真由に語りかけた。二人が何を話したのかは、客席からでは読み取ることはできない。ただ、それが真由の琴線に触れた一言であったことは、彼女の瞳から流れる滂沱の涙で察することができた。
「終わったのかな……」
「そうだね。ようやく整った」
拍手の間で、沙里がぼそっと呟いた。
思えば、隆翔が入るよりもずっと前から、この部は揺れ動き続けていたのかもしれない。その体験者の一人である沙里の「終わった」という一言は、想像以上に重い意味を孕んでいた。
二年前、このホールで行われたトランペットの再オーディション以降、北宇治の変革という波は場所を変え、人を変えながら脈々と受け継がれた。その変遷の行く末は、かつて引導を渡す役を請け負った高坂によって終止符が打たれた。彼女らによる、万里の波濤を蹴って辿り着いた一つの答えだった。
◇◆◇
オーディションを終え、正式に確定したメンバーによる練習は夕方まで時間いっぱい行われた。
後片付けの最中、人目を避けながらホールを後にしようとする部員を見かけ、隆翔は背中を追った。
「高坂、帰るのか?」
誰にも見られていないと思っていたのか、隆翔の声かけに肩をビクッと揺らしてこちらを振り向いた。
「…… 先に帰るって伝えてあるから、ほっといて」
話し掛けてくれるなと全身で訴えながら邪険な態度を取った高坂は、黒い髪を靡かせて隆翔を一瞥した。しかし、いつもの刺々しさはなりを潜め、明らかに元気がない。
「黄前と話をしたのか?」
「……アンタには関係ないでしょ」
「つれないこと言うなよ。心配してんだから」
「どうして樟葉に心配されなきゃいけないのよ。そんな筋合い無いくせに」
高坂は呆れと溜息が混ざった苦笑いを浮かべた。
「……やっと終わったな、オーディション」
「そうね」
「あれで良かったと思う。というか、どっちに転んでも正解だったよ」
「もしかして、同情してくれてる?」
「そんなわけないしその必要もないだろ、特にお前には」
「ふふ、そうね」
こんな関係でも付き合いは長い。腐れ縁のようなものだが、高坂の性格は他人よりかは知っていた。
「良い演奏だった。俺は一年生の頃のオーディションを知らないけど、本気で吹かないと分からないこともあるんだって気付かされた」
「アンタは良かったの?」
「何が?」
「ソロよ。高橋さんのことは説得したみたいだけど」
「ああ、そのことね。説得には骨が折れたけど、沙里は
「そういうものなの?」
「そういうものなんだよ。それに、全員がお前みたいなタイプだったら収拾つかないだろ」
高坂は何も言わず、ぷいっと顔を背けた。
「アタシには、そういうの無かったから……」
「今じゃなくても、そのうち現れるんじゃないか?」
「…………」
「アメリカ、行くんだろ。上を目指せばお前より上手い人は当たり前のようにいる。もしかしたら、今日みたいな勝負になることもあると思うし、もっと理不尽な目に遭う可能性
だってある。その時にどう振る舞うかはお前次第だから、俺は責任持てないけどさ」
高坂はアメリカの音楽大学へ留学する。同じ学年から海の向こうを目指す人が現れるのだ。噂にならないはずがない。
ただ、とても高坂らしいと思った。
北宇治で、京都で、ひいては日本の高校生では右に出る者がいないほどの実力があっても、一切の妥協は許さない姿勢で常に高みを目指す。かつて孤高のトランペッターだった彼女は、北宇治という組織を最上位へと押し上げた。その努力が結実した暁には、彼女はこの国が狭く感じるのかもしれない。
隆翔は虚空に手を伸ばした。
一メートルにも満たない短い腕を伸ばしたところで、届く場所などたかが知れている。だが、それでも伸ばし続けた先に何かがあるのなら、その正体を知ることができる高坂麗奈の未来を、隆翔は期待せずにはいられなかった。
「……不思議。久美子にも言えないようなこと、どうして樟葉には言えるのかしら」
「知らん。ただ、お前とは性格は真反対でも、考え方は似てると思う」
「それはそうなのかもね。でも勘違いしないで、貴方のことは大嫌いだから」
「勘違いなんてお門違いもいいところだ。俺だってお前は大嫌いだし、一生克服できないくらい苦手だよ。今だって引き留めるんじゃなかったって後悔してる」
「なにそれ。相変わらずいい加減で優柔不断で、矛盾まみれなのね」
「そういうお前は人の感情になると途端に不器用になるよな。アメリカに行く前に、黄前から色々教わった方がいいんじゃないか」
「……久美子。そうね」
と、呟いたところで高坂は再び顔を伏せた。
いつもと比べ、明らかに様子がおかしい。艶やかな長い黒髪をだらりと垂らし、胸を抑えながら消し飛びそうな声で呟いた。
「おい、高坂?」
「……でも、もう久美子と友達でいる資格はないわ」
「……は?」
「軽蔑するわよね。だって、分かってて黒江さんを選んだんだから。全国は久美子と吹くつもりだって何度も何度も言っといて。アタシに選ぶ権限があったのに……結局、久美子を選ばなかった」
「…………」
「久美子、きっとアタシを恨んでるわ。顔も見たくないって思ってるはず。当然よね、アタシは裏切ったんだから」
「……誰を?」
「久美子に決まってるじゃない……」
聞き返した言葉は、思いの外はっきりとした輪郭を描いて返ってきた。高坂の言葉は嘘ではないだろう。この曲を練習する最中も、何度も何度も合わせている姿を見てきたし、それ以前から、高坂と黄前は何かきっかけが無くてもアンサンブルを奏でていた。二人が言葉以上に通じ合っていたのは、曲げようのない事実だった。
「高坂は一番目が黄前だって分かってたんだな」
「……そうよ」
「流石だな。俺でもある程度しか分からなかったのに」
「当然でしょ。ずっと一緒に吹いてきたんだから。でもそれも……今日でおしまい」
「それは、黄前がお前のことを嫌ったって認識でいいのか?」
「それ以外にないでしょ。アタシは久美子の想いを踏みにじったのよ」
「……はぁー、バカだなあ」
隆翔は大きな溜息と共に、高坂から引き出した言葉を完全否定した。
「高坂と黄前は、そんなことで壊れる友情なのか? というか、どうせ黄前とも碌に話してないんだろ。そうやって昔みたいに他人の気持ちを決めつけるのは、お前の良くない癖だ」
「うっさい......! アンタにアタシたちの何が分かるのよ!」
「お前こそ、あいつの気持ちをこれっぽっちも理解してないだろ。黄前を裏切った? 他でもないお前がそんな勘違いしてるなら、覚悟を持ってオーディションに挑んだ黄前が報われないだろ。それに、黄前は自分が落ちる可能性があると分かった上で、音だけで選べってみんなに言ったんだ。それなのに、お前が裏切ったなんて言ったらあいつの覚悟はどうなるんだよ」
綺麗な髪が乱れるのも厭わず、高坂は首を横に振りながら顔を覆った。まるで、見たくないモノから目を逸らすように。
「前に俺に言ったよな、音楽には正直でいたいって。今日、お前が真由を選んだのは、紛れもなく音に正直に従ったからだろ? 違うのか⁉︎」
「……違わない」
「だったらそれでいいだろ」
「よくない! それでも久美子を傷つけたことには変わりないでしょ」
「そうだよ」
隆翔は吐き捨てるように答えた。
「そうしたのは、お前自身だ」
「…………」
「だったら逃げるなよ。それで崩れる友情なら、お前たちはその程度の関係だったってだけだ。それが嫌なら、黄前から逃げずに向き合え」
やがて、堪えきれなくなった高坂の瞳から大粒の涙が零れ落ちたが、隆翔は手を差し伸べることはしなかった。ただ黙って、その傍らに立って見守った。
高坂を見送った後、ロビーの外へ走る黄前と遭遇した。しかし、互いに目を合わせることはなく、ただ無言で横を擦れ違った。高坂との一件は、二人でどうにかするべきだ。わざわざ隆翔が伝えることもないだろう。
黄前との間には遺恨が生まれた。再オーディションがこのような結果になってしまった以上、黄前からしてみれば、隆翔と沙里が暗躍したような構図となった。それを彼女がどう解釈するかは隆翔の知るところではない。隆翔も振り返ることなく、撤収準備へと戻った。
やがて、黄前は泣き腫らした久石を伴ってホールへ帰ってきた。全員へ指示を出すその姿は、どこか吹っ切れたような清々しささえ感じ取れた。
風が強く吹いた日、北宇治高校吹奏楽部は最後のソリストを選択した。
人の感情は嵐の如く変化し、他人を巻き込みながら突き進む。それでも前へと進むから人生は面白い。そしてそれを『人間らしい』と評することができる。巻き込んで、巻き込まれて。傷ついて、傷つけて。その先に吹く順風を信じて足掻き続けていくのだった。
【つづく】