2年以上紡いできた物語もあと少しで完結します。
どうぞ最後までお付き合いいただけると幸いです。
EP.59 宝石になった記憶
「ねえ隆翔。お花、これでいいかしら?」
「大丈夫だって。希美はそんなこと気にしないよ」
「でも、色合いがねえ……」
頬に手を当てながら、母は生けた花に向かって悩み事を口にした。ただ残念なことに、隆翔には花の良し悪しが分からない。なので、母の悩みに対する抜本的な解決案を持ち合わせていなかった。
「てか、時間大丈夫?」
「……あらやだ、もうこんな時間! あなたも準備してちょうだい」
「分かってるよ」
「あと、お父さんの様子も見てきて」
「はいはい」
うんうんと悩む母をリビングに置いて、書斎にいる父の様子を伺う。
「父さん、入っていい?」
「いいよ」
扉を開けると同時に、父がこちらへ向いた。机の上にはノートパソコンや手帳、電卓などが置かれている。
日曜日の午前中だというのに何故かワイシャツを着ていた。
「会議終わったの?」
「さっき終わったよ。いやぁ、長かった……」
「どこの人と電話してたの? 英語だったよね」
「ああ、アメリカの取引先だよ。向こうは僕がドイツにいると思って連絡したらしいんだけど、生憎だったね。向こうはもう夜の九時だ」
そう言って、両腕を天井に向けて伸ばした。関節がポキポキと小気味良い音を鳴らした。
父は先週、単身赴任中のドイツから約一年ぶりに帰国した。ドイツとの時差は七時間ほどと言っていたが、それでも軽い時差ボケはあるようで、午前中は向こうがまだ真夜中ということもあり眠そうにしていた。
貿易関係の仕事に就く父は、海外の取引先と時差を跨いで連絡を取り合うことも珍しくなく、今日も早朝から書斎に籠って電話会議をしていた。
日本での滞在は一ヶ月程度。これも例年通り。一年顔を合わせていなくても父は父だ。多少前後することはあっても、一人息子である隆翔の誕生日があるこの時期に合わせて帰ってきてくれるから、隆翔は昔から十月が好きだった。
「それよりも、そろそろじゃないか?」
「あ、そうだった。母さんが準備しなさいって」
「了解。よっこらせっと」
そう言いながら父は椅子から立ち上がった。大学までスポーツをしていた父は、隆翔よりも背が高い。だが帰国してから、隆翔の目には父の背中が以前ほど大きく写らなくなっていた。父が小さくなったのか、自分が少しばかり大人になったのかは分からない。
「せめて顔くらい洗わないとね。せっかく、隆翔の彼女が来てくれるんだから」
「別に、希美はそんなこと気にしないよ」
「ははっ、隆翔が言うならそうなんだろうな」
笑いながら洗面所に向かう父を見送った。書斎の本棚には、株式投資や貿易、金融関係の分厚い本が壁一面に敷き詰められ、中には日本語ではない本まである。一角には父の好きな歴史小説や参考書籍が置かれていた。
隆翔には漠然とした不安があった。希美は、父と母を気に入ってくれるだろうか。これから先も一緒にいたいと思った相手が両親に心を開いてくれるかどうか、それを直視することすらも、隆翔の臆病な心を揺さぶった。
「はじめまして。傘木希美と言います。今日はお招きありがとうございます」
「ご丁寧にありがとう。はじめまして、隆翔の母です」
「いつも隆翔がお世話になってます。今日はゆっくりしていってください」
我が家に来た希美は、いつも通りの明るさと笑顔で両親と対面した。玄関先に立つ希美は、白いブラウスに赤みの深いスカートを合わせ、肩には薄いキャメルのカーディガンを掛けていた。明らかによそ行きの装いだが、どんどんと上達するメイクが大人らしさをより一層際立たせていた。
「これ、うちの母からです。つまらないものですが」
「ありがたく頂戴するわね」
早速、希美は母の後ろを歩きながら会話を弾ませている。その様子を見た父が、小声で話し掛けてきた。
「隆翔にはもったいないくらいだな」
「どういう意味だよ」
「あんな良い子、早々見つからないぞってこと。大事にしろよ」
「……分かってるよ」
そう返しつつも、希美が初対面から両親の心を掴んだことに安堵していた。少なくとも余計な心配だったらしい。リビングからは早くも母と希美の笑い声が聞こえていた。
「えっ、隆翔くんって昔そんな感じだったんですか?」
「そうなのよ。今じゃ絶対そんなの認めないでしょうけど」
花瓶に生けられた花を挟んで、希美と隆翔、そして隆翔の両親が普段より豪勢な食卓を囲んでいる。普段は母と隆翔の二人で過ごすこの家に、希美の笑い声が響いている。非日常のはずなのに、希美の存在がこの家を明るく、そして温かくしていた。
「隆翔くんの昔のお話を聞けて嬉しいです」
「あら、そうなの? この子、昔から自分のことにはすごく無頓着だから」
「あははっ、確かにそうですね」
「おい」
自分が話題の中心にいる。それがどこかむず痒くて、隆翔は身を捩った。
「でも、自分のことには無頓着なのに人のことはすごくよく見てるんです。何も言ってないのに気づいてもらったことも何度かあって。そういうところには、結構助けてもらいました。……あと、フルートも本当に上手なんですよ」
少し誇らしげに語る希美から逃げるように、隆翔は手元のグラスへ視線を落とした。両親を前にして自分を立てようと気を遣ったようには見えなかった。取り繕ったところがないことが分かると、胸の奥につかえていたものが自然と解けていった。
希美の言葉を、母は目を細めて聞いていた。やがて隆翔へ一度だけ視線を寄越すと、どこか安心したように柔らかく笑った。
食事がひと段落した頃、父が席を立ってリビングの戸棚から小包を二つ取り出した。そして、希美と隆翔にそれぞれ手渡した。
「二人に渡すものがあったんだ」
「えっ……私にもいいんですか?」
「もちろん。お気に召すといいんだけど」
「お気に召すなんてそんな……嬉しいです。ありがとうございます!」
「どういたしまして。さ、開けてごらん」
同時に包装を開けていく。隆翔の土産は、箱に入った陶器のマグカップだった。ドイツ語だろうか、何と書いてあるのかはさっぱり分からなかった。
「すごい、綺麗……」
希美の掌に収まっていたのは、銀色の金属をU字に象った小さな御守りだった。蹄鉄の下には淡い色の石と数枚の羽根があしらわれ、揺れるたびに光を受けてきらりと輝く。日本ではあまり見かけない意匠に、希美は珍しそうに何度も角度を変えて眺めた。
「これは……馬蹄ですか?」
「よく知ってるね。そう、これは馬の蹄鉄だよ。魔除けや幸運のお守りとして飾ることもあるんだ」
「こんな素敵なお土産……ありがとうございます。帰ったら早速部屋に飾ってみます」
もう一度掌の上で眺めたあと、傷つけないよう慎重に箱へと仕舞った。その様子に、父も満足そうに目尻を下げた。
隆翔にとっては見慣れた父の笑顔だった。それが今、希美にも向けられている。その光景にはまだ不思議な感じがしたが、嫌ではなかった。
「そういえば、お父さんは普段ドイツで暮らしてるんですよね?」
「そうだよ」
「隆翔くんから何度か聞いたことはあるんですけど……向こうでは、どんな生活してるんですか?」
好奇心を隠そうともせず、希美は少し身を乗り出した。
「私、海外って一度も行ったことなくて。ドイツで暮らすって、どんな感じなんだろうって前から気になってたんです」
「そんなに面白いものでもないけどなぁ。基本はアパートと会社の往復だよ」
「そうなんですか?」
「近所に気に入ってるベッカライがあってね。休みの日はそこでパンを買って、コーヒーを飲むくらい」
「あんまり日本にいる時と変わらないわね」
母の挟んだ軽口に対し、「場所が変われば気分も変わるんだよ」と父が反論した。
「ニュルンベルクって、どんなところなんですか?」
「歴史のある街だよ。旧市街には古い建物が残ってるし、お城もある。中心部はそれなりに賑やかだけど、少し離れるとのんびりしてるよ」
希美は父の話を楽しそうに聞いていた。時折「へえ」「いいなあ」と声を漏らすその表情は、知らない土地への憧憬を、ますます膨らませているようだった。そんな希美に、父は穏やかな声で「いつか二人でおいで」と言った。
何気ない『二人で』という言葉に父なりの心配りを感じていた。学生である二人には将来の付き合い方への想像が
膨らみ難い中で、一つの未来が形作られたことは至上の喜びにも近いものであった。いつの日か、未来への約束を叶える時が来たら、この日のことを思い出すのだろう。二人はそれまで、この温もりは大事に取っておこうと決めた。
楽しい時間もあっという間に過ぎ、希美は樟葉家を後にした。帰路、希美は終始「楽しかった」と口にしていた。
普段から自分を偽ろうとしない希美だが、それは今日も例外ではなく、本心から楽しんでいる様子だった。
「今日はお招きありがとう」
「うちの親、ちょっと変だったでしょ。緊張しなかった?」
「最初は緊張したけど、心の底から受け入れてくれてるって分かったから、全然大丈夫だったよ」
「そっか」
帰り際に母から渡された洋菓子と、父からもらった欧州土産の入った紙袋を、今日の思い出まで一緒に持ち帰るように大事そうに提げていた。
「お父さんとお母さんも全国大会を観に行くんだよね」
「うん。奇跡的にチケットが取れたからって」
「じゃあ、名古屋で会えるかな」
「かもね。父さん、全国のあと、またすぐドイツに戻るんだって」
「そっか……寂しくなるね」
「もう慣れたよ」
「でもさ、家族の誰かがずっと居ないって、私には全然想像できないから」
隆翔にはそんな発想すらなかったが、いざ言われてみると確かに異様かもしれない。
父が一年の大半をドイツで過ごす生活は、小学生の頃から当たり前になっている。梓の家のように母と子で暮らす家庭もあれば、樟葉家のように遠く離れていても家族であり続ける家庭もある。家族の形なんてそれぞれだと思っていたし、それ以上深く考えたこともなかった。
しかし、希美が感じた『寂しい』という言葉に、ふと思うことがあった。慣れてしまったことと、寂しくなくなったことは同じではない。それ故に並列する感情として、隆翔は無意識のうちに整理が付いてしまった。
ふいに希美が身を寄せ、隆翔の腕へ自分の腕を絡ませた。そのまま、離したくないとでも言うようにぎゅっと力を込める。
「……私は、隆翔と一緒にいたい。できればずっと」
いつもの快活さを潜めた、しおらしく、萎んでいくような心細げな声だった。
「今日初めて会ったけど、隆翔のお母さんってすごい人だなって思った。あんなに明るくて、料理も上手で、隆翔のこともお父さんのこともちゃんと見てて……。お父さんがずっとドイツにいるんだから、本当は寂しい時だって絶対あると思う。それでも何も言わずに家のことも隆翔のこともずっと支えてきたんでしょ? そう思ったら……私がこれから隆翔との時間をたくさんもらっていいのかなって、ちょっと怖くなった」
そんなことまで考えていたのかと、隆翔は胸の奥を締めつけられた。母の寂しさを想像して、家族の形を変えてしまう怖さを案じている。しかし、その優しさはどうしようもない程に希美らしいもので、絡められた腕の温もりが急に愛おしく思えた。
「俺と希美が付き合い始めたって話した時、一番喜んでたのは母さんだったよ。俺が恥ずかしがるから、それ以上は何も訊いてこなかったけど……今日だって、希美が来るのをずっと楽しみにしてたと思う」
「そうかな」
「きっとそうだよ」
息子の恋人を家に迎える母が、実際どんな気持ちでいたのかまでは隆翔にも分からない。それでも、今日を心待ちにしていたことだけは見ていれば十分に伝わってきた。普段なら飾ることもない花を、わざわざ調べながら見よう見まねで生け、料理もいつも以上に手を掛けていた。
父が遠くにいる寂しさを、母も抱えているのだろう。希美の言うことはきっと間違っていない。だからこそ今日、希美の笑い声が家の中に響いていた時間を母も楽しんでくれていたのなら、それだけで隆翔には嬉しかった。
「いつでも来てほしい。母さんも喜ぶから」
「……やっぱ隆翔は優しいね。うん、私もお母さんともっと話したいなって思ったから、またお邪魔させてもらうね」
しおらしい表情はなりを潜め、太陽のような笑顔が戻っていた。
やがて話は吹奏楽部の話題が中心となった。真由のこと、沙里のこと、そして再オーディションのこと。会えない期間があった分、報告したいことは積み上がっていた。真由のこと、沙里のこと、フルートパートのこと、そして再オーディションのこと。
「ユーフォだけ再オーディションって、結構思い切ったね」
「そのせいで色々あったけどな。沙里の件も大変だったし……」
「沙里ちゃん、手は大丈夫なの?」
「もう絆創膏も取れてたし、痛みも引いたって」
「そっか。前から練習熱心だったけど、あの子を熱くさせたのは隆翔と競えたからだね」
希美にとっても、沙里は単なる後輩というより、半ば教え子に近い存在だった。希美がフルートの主戦力だった昨年、沙里はピッコロを任されていた。それでも練習では希美の吹き方をよく見ていたらしく、フルートへ戻ってからの奏法には、息の使い方や音のまとめ方の端々に希美の影響が滲んでいた。
「結局、希美にソロを聴かせられなかった。ごめん」
「仕方ないよ、選んだのは滝先生だもん。隆翔は精一杯頑張った。それに、納得できたんでしょ?」
「……うん」
「だったらそれで良いじゃん。それに、私は隆翔との約束を忘れたことはないからね」
希美の言う約束とは、いつか同じ楽団で肩を並べ、一緒に音を奏でることだった。希美は一足先に卒業し、高校にいる間、その願いが叶うことはなかった。だからこそ自分も大学へ進み、いつか希美と同じ楽団でフルートを吹く。それは高校の部活動とは一線を引いた、隆翔にとって何より大切な目標だった。
これから先、希美との時間は増えていくだろう。積み重ねてきた努力がいつか同じ舞台で音を重ねる瞬間へ繋がるのなら、それだけで十分に意味があると思えた。
「受験モードになったら全力で支えるから、まずは目の前の全国大会を頑張って」
未来はすぐ手の届くところにあった。中学の頃のように、先の見えない不安に立ち止まることもない。隆翔が思い描く未来には、今やはっきりとした輪郭があった。
希美との未来は、かつて別れていった『かもしれない』の積み重ねだ。常に最適解を掴むほど器用ではないが、時間が許す限りは、出来るだけ先の未来を二人で見届けてみたかった。
◇◆◇
十月も半ばを過ぎ、あと一週間もしないうちに全国大会の本番という時期になった。北宇治の順番は既に発表されており、三番目だった。かなり前の方なので、当然前泊が必要となる。とはいえ、合宿のように一から十まで自分たちで計画するようなこともないので、スケジュールに合わせた行動をすればよかった。
ある日、三時間目の授業時間は学年集会に割り振られた。普段は体育館や校庭に集められるが、今日に限っては中庭だった。学年主任の松本が前に立つと、私語はぱたんと止み、全員が傾注姿勢となった。さすがの威厳である。
「今年度の卒業記念として、桜の木が中庭に植樹されることになった。いま、お前たちの正面にあるものだ」
その言葉通り、中庭の隅には若いソメイヨシノが埋まっている。その枝はまだ若く、強風に曝されれば簡単に折れてしまいそうだった。
「いまはか細く頼りない木も、お前たちが成長して社会に出るころには、立派に花を咲かせるだろう。お前たちには一人ひとり、自分の未来を決める権利がある。十年後、二十年後、月日がたったときに、お前たちの未来が花開くことを願っている」
松本の言葉に、自然と拍手が発生した。学年主任のありがたい言葉で締めくくられ、集会は解散となった。周りではクラスで集まったり仲間内で気のない会話がされていたりと、自由な時間が取られていた。隆翔も例外ではなく、滝井と中身のない会話に興じていた。
「この前さ、好きな女優の写真集が出たんだよ」
「唐突だな」
「で、コンビニで売ってるらしいから学校帰りに行ったわけ。写真集はあったんだけどよ、そこがエロ本コーナーの真横で」
「お、おう」
「たまたま寄ったんだろうな。松本先生に見つかってさ、心臓飛び出るくらいびっくりしたわ」
「それは……あまりにご愁傷様だな。なんか言われた?」
「睨まれたあとでコンビニの外で公開説教された。目当てはエロ本じゃなかったのにさぁ、高校生がどうのこうのとか、受験シーズンに弛んでるとか、ひたすらこんこんとね……」
「まあ、弛んでるのは事実だから仕方ないな」
「おい隆翔ぉ……お前までそんなつれないこと言うなよ!」
「やめろ、ひっつくな気持ち悪い!」
泣きつくように、滝井が隆翔の肩へ頬を押しつけてきた。まとわりつく身体を「鬱陶しい」と必死に引き剥がしていると、そんな二人へ冷ややかな視線が突き刺さった。
「これはどういう状況?」
「北浜、良いところに来た。こいつをひっぺがすの手伝ってくれ」
「嫌よ、勝手にやってて」
「薄情者め。こいつがエロ本買ったの松本先生にバレて推薦取り消されてもいいのか」
「エロ本じゃねーよ!」
「……滝井くん、諦めたほうがいいわね。今からでも一般なら間に合うはずよ」
「だから違うってば」
そんな騒ぎを眺めていたところへ、柔らかな声が割って入った。振り向けば、真由がフィルムカメラを片手に立っている。その隣には、どこか楽しそうな釜屋つばめの姿もあった。
「三人は本当に仲がいいね」
「黒江さん、撮影に協力してくれてありがとう」
「こちらこそ! 私もこういうの大好きだから、参加できて嬉しいんだ」
「それフィルムカメラ? 最後に見たの幼稚園の頃かも」
「珍しいよね。お父さんのお下がりなの」
「写真、なんかに使うの?」
「卒業アルバム制作にみんなの写真が必要でね、真由ちゃんと秋子ちゃんに手伝ってもらってるの」
つばめが指差した先では、吉沢秋子が大ぶりな一眼レフカメラを構え、思い思いに過ごす同級生たちへレンズを向けていた。撮られていることに気づいて手を振る者もいれば、仲間同士で肩を組んで笑う者もいる。
そういえば先日、クラスのグループトークにも、卒業アルバム用に友人同士で撮った写真を募集する旨の連絡が流れていた。
「さっき久美子ちゃんたちも撮ったんだけど、みんなも撮らせてほしいな」
「いいわよ。この三人の方がいいかしら」
「うん! ぜひそうしてほしいな」
三人は顔を見合わせた。修学旅行では同じ班で行動していたし、普段から顔を合わせればくだらない話ばかりしている。それなのに、こうして改まって三人だけで写真に収まるのは、これが初めてかもしれなかった。
少し気恥ずかしさを覚えながらも、北浜に促されるまま隆翔と滝井は肩を並べた。
滝井とは、隆翔が北中の部活へ顔を出さなくなった頃から親しくなった。北浜との関係も、最初は互いの利害が一致したところから始まっている。きっかけだけを振り返れば、とても三年間を共にする友人になるとは思えなかった。
それでも今では、何の用もなく話しかけ、馬鹿なことで笑い合える相手になっている。いつか高校時代を振り返る日が来たなら、きっと真っ先に浮かぶ顔の中に、この二人もいるのだろう。
「じゃあ、撮りまーす。笑顔で!」
「はい、ティンパニー」
カシャリ、とシャッターの降りる音が鳴り響いた。
「ティンパニーってなに?」
「ティンパニーを……知らない……?」
何気なく漏らした滝井の疑問がつばめを傷つけた。肩を落とすつばめの横で、真由がくすくすと笑いながらティンパニーについて説明していた。
「今の写真ってもらえたりする?」
「今度焼き増しするね。ちょっと時間掛かるかもしれないけど」
「お願いするわ。樟葉くんも欲しい?」
「折角だし貰おうかな。あとさ、みんなで写真撮らない?」
「いいわね。釜屋さんと黒江さんも」
「えっと……じゃあ、一枚だけ」
真由は一瞬だけ視線を泳がせたが、以前のように身を引くことはなく、自分からその輪に加わろうとした。『気の置けない友達』というのは当たり前に存在しない。いつか真由がこの写真を眺めた時に、少しでも良い思い出として写ってくれることを、フレームの先にある未来に託した。
◇◆◇
全国大会まで、あと四日。
放課後の音楽室には、スネアドラムの細かな刻みと、それを押し退けるようなトロンボーンの音が響いていた。徐々に熱を帯びていくアンサンブルを、滝の手が鋭く制する。
「ストップ」
一斉に音が止んだ。
授業が終わってから使える時間など、たかが知れている。この頃になると、楽器を出して基礎合奏をして、それから曲へ──などと悠長なことはしていなかった。音楽室へ入ればすぐに合奏隊形を作り、必要なところから片っ端に詰めていく。全国へ持っていく演奏を、一分一秒でも長く磨くためだった。
隆翔は膝の上にフルートを置いたまま、壇上の滝を見つめた。
「トロンボーン、アクセントの位置をもう少し意識してください。そこだけ、もう一度」
「はい!」
金色のスライドが一斉に前へ伸びる。次の瞬間、太く揃った音が室内を震わせた。
上手くなった、と隆翔は素直に思う。
誰か一人が突出していても合奏は成り立たない。上手い人、そうでない人、その中間にいる人、それぞれの特性を殺さずに一つの音楽にするのは、気の遠くなるような時間が必要だ。この半年あまり、同じ曲をひたすら練習してきた。それだけの時間を要しても、きっとこの曲の完成系には届かないのかもしれない。
それでも答えを出すことはできる。この半年間で作り上げた一つの答えが、北宇治の色を決めるのだ。
あと四日。
背後の黒板にチョークで書かれた日数が、隆翔たち三年生が部活へ参加するカウントダウンでもあった。
「フルート、次全員でいきます」
『はい!』
滝の指示に返事をして、隆翔はフルートを構えた。
◇◆◇
「では、今日のレッスンはここまでとします」
音楽教室の講師水谷が、パン、と手を叩いて練習終了の合図を出す。各々が「ありがとうございましたー」と挨拶したあと、再び全員へ語りかけた。
「それと、みなさんと一緒にレッスンしてきた高橋沙里さんは今日までとなります。沙里ちゃん、前へ」
学校からそのままレッスンに参加した沙里は、北宇治の制服のまま指揮台へと立つ。緊張しているのか、その頬が僅かに紅潮していた。
「えっと……私、高橋沙里は、今日でこの教室を辞めることになりました。まだ何も分からなかった私を迎えてくださった水谷先生、それから一緒に練習してきた皆さんには、本当に感謝しています。ここで教えてもらったことや、みんなと一緒に頑張った時間は、私にとって大切な思い出です。これからは今までみたいにフルートを吹ける時間も少なくなると思いますけど、ここで学んだことは絶対に忘れません。三年間、本当にありがとうございました!」
最後まで言い切った沙里が深く頭を下げると、教室いっぱいに大きな拍手が湧き起こった。
全国大会を終えたら教室を辞めると話していた沙里だったが、本来最後になるはずだったレッスンの日が志望校の説明会と重なってしまったらしい。そのため、全国大会まであと三日と迫った今日が、予定より少し早い最後のレッスンとなった。
退会することを前もって知っていた隆翔や立華の西条姉妹も、どこか感慨深そうに拍手を送っている。中でも吉田は隠しきれないほど目を赤くしながら、先輩の門出を見つめていた。
「サリサリー! 寂しくなるよぉ……!」
「うわああ、花音痛いってば!」
挨拶を終えて指揮台を降りるや否や、花音が待ってましたとばかりに沙里へ抱きついた。頬までぐりぐりと押しつけられ、沙里は迷惑そうに悲鳴を上げる。それでも振りほどこうとはせず、最後には困ったように笑いながら花音の背中へ腕を回した。
「花音やめなよ。でも、本当に寂しくなるわね」
「……うん。美音も今までありがとう。一年生の頃からずっと一緒だったものね」
「そうね。沙里ったらどんどん上手になるから、花音より見てて面白かったわ」
「ちょっと美音、それはひどくない? 私だって見てて面白くなる演奏してたんですけど!」
「上達の仕方が、って意味よ! 花音はすぐ変なことやりたがって、先生に怒られてたでしょうが」
「ああ、そんなこともあったね」
昔話を肴に、三人は楽しそうに笑い合っていた。これまで何度も見てきた光景が、今日ばかりは少し違って見える。受験が差し迫ると、こうして同じ教室に集まることも当たり前ではなくなるのだ。
隆翔はその輪を少し離れたところから、吉田と並んで眺めていた。隣に立つ後輩の瞳には、まだ涙の名残が残っている。
「……先輩もいつかはいなくなっちゃうんですよね」
「そうだよ。それに続けたところで大学生は時間も違うし、会える機会はほとんど無くなっちゃうから」
「一年ってあっという間ですね。先輩たちとの時間が濃すぎて、まだ出会って半年しか経ってないのに、何年も一緒にやってた気分です」
時間は誰しも平等に流れる。何をどれだけ頑張ったか、充実させたかなんて自分自身で評価するしかない。
センチメンタルな気分に浸る吉田の前に、餞別のブーケを手にした沙里がやってきた。
「短い間だったけど、巧美ちゃんと一緒に演奏できて嬉しかったよ。巧美ちゃんがいるから、先輩の自覚を持てた気がするよ」
「先輩……そんな、わたし、わたし……」
「ちょっとちょっと! 大丈夫?」
「はい、ずみまぜん……」
とうとう涙腺が決壊した吉田を前に、沙里は完全に狼狽えた。助けを求めるようにこちらを振り向く。
隆翔も困ったように眉を下げると、両手を胸元まで上げて小さく肩をすくめた。泣き止ませる妙案など、こちらにもあるはずがない。
なんとか吉田を落ち着かせ、沙里は再び隆翔と向き合った。
「隆翔くんも……今まで、本当にありが──」
「ちょっと待って。それはまだ早いよ」
別れの言葉を口にしかけた沙里を、隆翔はすぐに制した。今日で音楽教室を去る彼女にとって一つの区切りであることは間違いない。けれど、隆翔と沙里の三年間までここで締めくくるには早すぎた。
二人には、まだ最後にやり遂げなければならないことが残っている。
「その言葉は全国が終わってから言ってよ」
「……そうだね。ごめん、ちょっと早とちりだった」
「そうだよサリサリ! 私たちの分まで、全国金賞獲ってきて!」
「ここまで来たんだから、あとは沙里らしく吹いてくれば結果もついてくるよ」
二人から向けられた言葉に一度だけ目を伏せ、それから晴れやかな表情で顔を上げた。
「ありがとう。美音と花音もマーチング頑張って!」
「終わったら打ち上げしましょう」
「いいね。美音ナイスアイデア」
今日、沙里は三年間通った場所に一つの区切りをつけた。けれど、あくまで区切りだ。本当の終わりや別れはまだ少し先の未来だった。
いつかここで過ごした時間も記憶の片隅に置かれる日が来る。精一杯やり切ったからこそ、この三年間に価値が生まれた。
全国大会まであと三日。積み重ねた膨大な思い出と共に、隆翔たちは奇跡の演奏を夢見ていた。
【つづく】