──全国大会、前日。
北宇治高校吹奏楽部が一年間追い求めてきた舞台も、とうとう明日に迫っていた。振り返れば、府大会も関西大会もつい昨日のことのように思い出せる。まさに光陰矢の如しであった。
それでも不思議なことに、隆翔の心は思った以上に落ち着いていた。
「着替えと歯ブラシと、あと、えっと……楽譜とか大丈夫?」
「母さん、俺が何のために昨日のうちに準備したと思ってるの?」
「でも……出る直前になって、あれがないこれがないって気づくこともあるでしょう?」
「大丈夫だってば。もう行くけど、父さんは?」
「ちょっと待ってね。あなたー! 隆翔、もう出るって!」
母が家の奥へ声を張ってからしばらくして、父が書斎からのそのそと姿を現した。昨夜は遅くまで仕事をしていたらしく、まだ目は半分ほどしか開いておらず、頬から顎には薄く無精髭まで残っている。
「随分早いんだな」
「楽器の搬入とかあるから」
「そうか。父さんたちも夕方ごろ名古屋へ向かうよ」
「車の運転、気をつけろよ。ここはドイツじゃなくて日本だからな」
「ははっ。ついに親の心配までしてくれるようになったか。随分余裕あるじゃないか」
「ここまで来たら前に進むしかないからね」
「それだけ腹が決まってるなら十分だ」
「うん。じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
父の言葉が少ないのはいつものことだ。むしろその距離感がありがたい。母は玄関を出る直前まで忘れ物がないかと気を揉んでいた。正反対の二人だが、どちらも自分なりのやり方で送り出そうとしてくれているのだろう。
その心配を今は素直に受け取り、隆翔はトランクバックを肩に掛けた。
学校に着くと、隆翔も部員たちに混じって楽器の搬入を手伝った。大型楽器は手分けしてトラックへ積み込み、ケースが動かないよう慎重に固定していく。普段から扱いには細心の注意を払っているが今回は全国大会だ。そう思うと、いつも以上に手元へ神経が集中した。ここで何かあっては、笑い話にもならない。
すべての楽器を積み終えると、部員たちは校門前に停まっていた大型バスへ乗り込んだ。荷物を足元へ収め座席へ腰を下ろす。いよいよ名古屋へ出発する。
バスが動き始めると、窓の向こうで出勤していた教師や、朝練に来ていた他の部活の生徒たちが手を振っていた。隆翔たちも窓越しに手を振り返す。
北宇治高校にとっても、全国大会出場は悲願だった。まして今年は最高位の金賞まで期待されている。学校を挙げて送り出してもらえることは、素直に心強かった。
隆翔以外の三年生は、この光景に何を思ったのだろう。あの頃の吹奏楽部は弱く、全国どころか、こうして学校中から期待を背負う存在になるなど想像もしていなかった。三年前にはなかった期待が、今では確かに自分たちの背中へ乗っていた。
やがてバスは住宅街の細い道を抜け、高速道路へと入った。車窓の向こうを、見慣れた宇治の景色が少しずつ後方へ流れていく。明日の夕方にはまた戻ってくるはずなのに、なぜか今日は、長い旅に出るような名残惜しさが胸に残った。
◇◆◇
「では、最初から通します!」
名古屋へ到着した北宇治は、そのまま借りていたホールへ移動し最後の練習に入った。夏休みに臨時コーチとして指導してくれた橋本と新山も合流し、明日の本番を前に全員が揃う。
この日の合奏練習は、課題曲と自由曲を通しながらテンポや入り、音量のバランスといった細部を一つずつ確かめていく。滝からも時折指示が飛んだが、そのほとんどは微細な修正に留まっていた。一年かけて作り上げてきた北宇治の演奏が明日で遂に結実する。滝は指導という指導を今日までに完成させたかったのだろう。
冷静。いや、冷徹な一面も併せ持つ滝だが今日はその限りではなかった。
「春、皆さんが決めた目標を覚えていますか?」
「全国大会金賞です!」
「そうですね。皆さんの願いを叶えるのは皆さん自身です。まさか、今になって叶ったらいいな、と弱気なっていたりしませんか?」
その言葉に、皆の視線が一つになる。ここにいる誰しもが、北宇治こそが一番上手い演奏をする。それだけの練習を、時間をかけてやってきた。想いの籠った眼差しを受けた滝は、満足した様子で笑みを浮かべた。
「その眼差しを忘れないでくださいね」
『はい!』
信じれば叶う。そんなありきたりな言葉では言い表せないくらい、滝から賜った指導は尊い時間だった。
いよいよ、明日。
終わってほしくない、もっと続いてほしい。きっと、このホールにいる誰もがその想いを胸に秘めている。ただ、どうしようもなく時計の針は絶えず動き続ける。誰にも止めることなどできない。その虚しさと遣る瀬なさを越えた先に未来が待っているのである。
隆翔も含めた五十五人。万感の想いを持って、明日の本番を迎えることとなる。
宿舎へ戻ったあと、夕食までの自由時間にフルートパートの後輩たちから声を掛けられた。ちょうど全員が揃っていたこともあり、そのまま一室へ集まる。
「私から、先輩方に渡したいものがあって」
「みんなで書きました」
次期パートリーダーを務めることになる江藤香奈を先頭に、後輩たちが四人の三年生へ一枚ずつ色紙を差し出した。色とりどりの文字が所狭しと並び、その隙間には特徴をよく捉えた似顔絵まで描かれている。
「すごい……みんな忙しかったでしょ? 似顔絵まで描いてくれたんだ。ありがとう!」
「いえ、私たちにできることはこれくらいなので」
「明日の本番、頑張ってください!」
沙里が嬉しそうに声を上げると、それまで緊張していたらしい後輩たちの表情が一斉に緩んだ。
隆翔も自分の色紙へ目を落とす。練習中の出来事、何気ない会話、演奏指導への感謝。そこに書かれた一つひとつが、後輩たちと過ごした時間を思い起こさせた。
夕食前のちょっとした歓談だったはずが、いつの間にか空気はしんみりとしていた。そんな雰囲気を察したのか、沙里が色紙を胸元に抱えたまま後輩たちへ向き直った。
「……あっという間に全国大会まで来ちゃったね」
一度呼吸を整えてから、沙里は後輩たちと顔を合わせた。
「私、自分が頼りになるパートリーダーだったとは今でもあんまり思ってないんだ。上手く言えないことも多かったし、みんなに助けてもらったこともたくさんあった。でも、それでも今日まで一緒についてきてくれて、本当にありがとう」
後輩たちは黙って話を聞いている。誰もが沙里から受け取る最後の言葉だと理解しているのか、表情は真剣そのものだった。
「明日ステージに立つのは、三年生とつみきちゃん、巧美ちゃんだけど、私は香奈ちゃんも、成美ちゃんも、陽向ちゃんも一緒に吹くつもりでいるよ。私からみんなに何か残せたのかは分からないけど、一つだけ言えるとしたら……やるなら、最後に『もっとやればよかった』って思わないくらい頑張ってほしい。私も明日でコンクールが終わるけど、ここまでやってきたことには後悔してないから」
この代のフルートパートで、沙里がエースであることに異を唱える者はいなかった。誰よりも練習し、結果を求めた。そして後進の育成に対する積極性が、彼女の立場を確立した。その背中を見てきたからこそ、皆も彼女についてきた。尤も、その強さがいつも正しい方向へ向いたわけではない。ソロを巡って追い詰められた時には、隆翔への思い遣りと意地が噛み合わず、自分自身を傷つけるところまで行ってしまった。だからこそ、沙里が口にした「後悔していない」という言葉には、ただの強がりではない重みがあった。
「みんなの分も、私たち頑張るから! 明日は金獲って帰ろう!」
『……っ、はい!』
パートリーダーとして最後に贈られた言葉に、江藤と平石は堪えきれないように肩を震わせた。小田も唇を結んだまま俯き、中野は目尻に浮かんだものを指先でそっと拭っている。そんな空気の中でも、沙里だけは少し照れくさそうに笑っていた。
◇◆◇
夕食の時間は終始賑やかに過ぎていった。明日は九時台の演奏ということもあり、体を慣らす時間を取るため起床時刻は五時となった。従って、消灯時刻は二十二時が厳守となった。普段なら起きている時間だが、有無を言わさない形相で伝えてきた高坂に逆らおうと思う者など一人もいないだろう。
しかし、眠れないものは眠れない。男子部員は同じ部屋に固められ、隣の布団ではちかおが間の抜けた顔で夢の中にいる。各所から上がる寝息の音から、起きているのは隆翔だけのようだった。
体を起こして部屋を出た。廊下の照明は落とされ、暗がりの中では非常口を示す誘導灯だけがぼんやりと緑色の光を放っている。喉も渇いていたことだし、夕食前に見つけていた自動販売機まで行こう。そう思い、隆翔は足音を忍ばせながら廊下を進んだ。
角を曲がろうとしたところで、不意に人の気配を感じた。見回りだったら面倒だ。隆翔は反射的に壁際へ身を寄せ、そっと先を窺う。
自動販売機の明かりだけが浮かぶ薄暗い廊下に、人影が一つだけ立っていた。どうやら先客がいるらしい。ゆっくり視線を上げると、見覚えのある癖毛が見えた。
「……黄前?」
「わっ……ひゃっ!」
暗がりから突然声をかけられた黄前は本気で驚いたらしく、胸元に構えて身をすくませた。
「なんだ、樟葉かぁ……心臓が飛び出るかと思った」
「こんな時間に何してんだよ」
「それは樟葉もでしょ」
「俺は眠れないだけだよ」
「それは、私もだけど……」
黄前はばつが悪そうに視線を逸らした。寝つきが悪いのだろうか。思い返せば、合宿の時にも夜中に目を覚ましていたことがあった。
「何か飲む?」
「えっ、悪いよ」
「いいって。ほら、早く選んで」
「じゃあ……これで」
財布から取り出した小銭が、じゃらじゃらと音を立てて自動販売機へ吸い込まれていく。黄前が指差したボタンを押すと、ほどなくして取り出し口へ缶が落ちた。
手に取って渡そうとした瞬間、掌にじんわりと熱が伝わる。
「ホットココア?」
「そうだけど、悪い?」
「いや。そんなに寒いのかなって」
「明日本番なんだから、身体冷やしたくないだけ」
「そっか」
自動販売機の脇に置かれていたベンチへ、二人並んで腰を下ろした。
特に何を話そうと決めていたわけでもない。隆翔は買った麦茶を一口飲む。冷たさが喉を通り抜けると、眠れずに浮ついていた頭が少しだけ冴えていくような気がした。
隣では黄前が「あちち」と小さく呟きながらプルタブを起こし、慎重にココアへ口をつけている。
「黄前って結構神経質だよな」
「うるさいな。気にしてるのに」
「しかも幽霊とか苦手だろ」
「……樟葉には絶対教えない」
「それは肯定してるのと一緒だよ」
思わず隆翔が笑うと、黄前も呆れたように息を漏らした。少し前まで二人の間にあった居心地の悪さは、くだらないやり取りの内に少しずつ薄れていった。
黄前との関係は、一言で表すことはできない。幼馴染みの親友という至極微妙な立ち位置の彼女は、隆翔の私生活に深く入り込むことはなかった。それは当然、隆翔も同じだった。
気がつけば、二人は赤の他人とは呼べないほど長い付き合いとなっていた。まして今年は、部の運営を巡って何度も意見をぶつけ合った。少しばかり因縁が深すぎる。
「いよいよ明日かぁ……」
黄前がぽつりと呟いた。
「まさか本当にここまで来るとは。本当、すごいよ」
「私じゃなくて、麗奈とか滝先生のお陰だよ。私はあんなに厳しくはできなかったし……最後まで嫌われ役を麗奈に背負わせちゃったのは、ちょっと申し訳なかったなって思う」
「それも含めて、あいつが自分で選んだことだよ」
「そうかもしれない。でも、だからこそ麗奈と滝先生には報われてほしいんだ」
そこで会話が途切れた。
自動販売機の低い駆動音だけが、やけに耳につく。隆翔は麦茶のボトルを弄びながら、次に何を話すべきか考えた。しかし、先に沈黙を破ったのは黄前だった。
「私、樟葉に謝らなきゃいけないと思ってた」
「……どうして?」
「マネージャーを辞めてもらったこともそうだけど……ううん、それよりもっと前」
黄前は膝の上のココアへ視線を落とした。
「中学の時、樟葉が苦しんでたのに、私何もできなかった。樟葉が部活を辞めたあと、梓ちゃんもすごくつらそうだったし……梓ちゃんに助けてもらったことが何度もあったのに、あの時は自分から何かしようとしなかった」
一度言葉を切ってから、黄前はゆっくり息を吐いた。そうやって、出そうとする言葉をゆっくり噛み砕いていた。
「怖かったんだと思う。余計なことをして、もっと悪くなったらどうしようって。それで結局、何もしない方を選んだ。でも、マネージャー撤廃を伝えた時に高橋さんに看破されて思った。やっぱり、私たちはそこから逃げられないんだなって。だから……ごめんなさい」
思いがけないほど真っ直ぐな謝罪に隆翔は閉口した。彼女に返す言葉がすぐには出てこなかった。
中学の頃から今日まで、二人の間に積み重なった濁った記憶を、まとめてここで整理しようとしているように見えた。
再オーディションのあと、黄前は部員全員の前で「これが北宇治のベストメンバーだ」と言い切った。真由に対しても、自分の敗北から逃げずに向き合った。何が彼女をそうさせたのか、隆翔には分からない。ただのわがままではない。意地を通すことへの責任感がそこにはあった。
「……それを言われたら、俺も謝らないとな」
「樟葉が?」
「ずっと黄前のやり方に噛みついてただろ。今思えば、ただの逆張り野郎みたいだった時もあったし。悪かった」
「……本当だよ」
「おい」
思わず顔をしかめると、黄前が小さく笑った。
「でも、悪かったとは思ってないよ」
「どっちだよ」
「樟葉が反対してくれたから、考え直せたこともあったし。それに……樟葉と高橋さんがいてくれたから、真由ちゃんもちゃんと北宇治の一員になれた気がするから」
黄前は手の中の缶へ視線を落とし、僅かに微笑んだ。
「真由ちゃん、ずっと私に投げかけてくれてたんだ。私がどうしたいのか、本当は何を望んでるのかって……誤魔化さずに言えば、麗奈とソリを吹きたいって気持ちを知ってから、ずっと。でも、私は実力で正々堂々と勝負するべきだと思ってたし、今も間違ってないと思う。だから結局、自分の願いを真由ちゃんに押し付けて、最後まで付き合わせちゃったようなものなんだ」
「そうかもしれないけど、真由も最後まで本気だったと思わないか?」
「うん。だからこそ、私が未熟だから最後まで真由ちゃんの本当の想いと気遣いに気付けなかった」
真由は真由なりに、黄前の本心へ手を差し伸べようとしていた。もう誰も傷つけたくないという真由の願いがある一方で、黄前にもどうしても譲れない思いがあった。麗奈と吹きたい。それでも、北宇治は実力主義を貫くべきだ。二つの願いと信条がぶつかり合ったからこそ、互いに心を削るほどの軋轢が生まれてしまった。
だからこそ、隆翔にはずっと気になっていたことがあった。
「……じゃあ、どうして再オーディションであの形を提案したんだ? はっきり言って、お前くらい人望があれば、姿が見えてたら勝てた可能性は高かったと思うけど」
黄前は隆翔の言葉をゆっくり噛み砕いた。隆翔も、彼女のパンドラに踏み込んだ実感があった。傷つくくらいなら答えなくてもいい。ただ、納得してくれさえいれば。
「……なんかね、それじゃ正しくない気がして」
「正しくない?」
「私、正しい人になりたいんだ」
それは決意に満ちた言葉だった。考えながら動くことが多い黄前にとって、珍しく迷いのない声だった。
「誰に対してもできるだけ平等でいたいし、頑張ってる人のことはちゃんと応援したい。正直、再オーディションをするって決まった時点で、私にも勝てる可能性はあると思ってたよ。でも、人間関係とか、部長だからとか、そういうので選ばれるのは嫌だった」
「高坂とのソリを失っても?」
「うん。結局負けちゃったし、死ぬほど悔しかった。でもね、後悔はしてないんだ」
隆翔はようやく腑に落ちた。
再オーディションのあと、真由を勝者として受け入れ、「このベストメンバーで全国大会金賞を獲ろう」と宣言した。あれは敗者の弁ではなかった。黄前は最初から正しさを追い求めたやり方で戦い抜いたのだ。
「もう、あんな形のオーディションは嫌だな。お前も、高坂も、真由も、それを選んだ俺たちも、滝先生も。みんな傷ついた」
「そうだね。でも、やらなきゃいけない時が来たら、私はもう一度受け入れると思う」
「どうして?」
「……麗奈なら、多分そうするから」
「そうか……」
黄前の根っこの部分にあるポリシーは、高坂と出会った時に生まれたものだろう。高校で黄前と初めて話した時、隆翔は思った。中学の頃とは似ても似つかない、まるで別人のような彼女のオーラに。
「麗奈のことも、ありがとう」
「ああ……あいつな」
隆翔は思わず苦笑した。
「本当に手のかかるエースだよ。再オーディションのあとなんて、『黄前を選ばなかったから、もう親友でいる資格ない』って泣いてたからな」
「樟葉、また麗奈のこと泣かせたの?」
「言い方! 俺が泣かせたみたいに言うなよ」
「だって樟葉、麗奈相手だと容赦ないもん」
「あいつも俺には容赦ないだろ」
「でも、なんか分かるなあ」
「何が?」
「樟葉と麗奈って、考え方とか……根っこのところ、結構似てるから」
そこには隆翔も思う節があった。だから否定はしなかった。
「……まあ、それは俺も思う」
「でしょ?」
「お互い嫌いだけどな」
「そこまで似なくてもいいのに」
黄前は「あはは」と、どこか呆れたように笑った。
「金賞、獲れるといいな」
「だね……ううん。絶対に獲りたい」
黄前は迷いを打ち消すように言い直した。
「獲ったらどうするんだ?」
「え?」
「秀一だよ。一応、君たちの恋のキューピットなんですけど」
「なにそれ。ちょっとキモいんですけど」
「失礼だな。大体、お前が変に保留なんかするからだろ。あれだけ待たせたんだから、いい加減ちゃんと答え出せよ」
隆翔は麦茶を一口含んだ。
「まあ、あいつのことだから……今でも大事に持ってると思うけど」
去年の合宿で、黄前と秀一は一度関係に区切りをつけた。その時、黄前が秀一へ預けたものを、彼は今でも肌身離さず持ち歩いている。
それを知っている吹奏楽部員は、おそらく隆翔くらいだった。
「……私、また告白してもいいのかな」
「何、自信ないの?」
「だ、だって……私のわがままで一回フッてるんだよ?」
黄前はココアの缶を両手で包み込み、所在なさげに視線を落とした。
「まあ、上手くいくにしろ、そうじゃないにしろ、秀一なら黄前の気持ちを無下にはしないだろ」
「根拠は?」
「あいつも大概、お前のこと好きだからだよ」
「……そうかな」
「そうだって。そんなに気になるなら、待たせた詫びでもすればいいだろ」
黄前は何やら言いにくそうにしながら、言葉を探しているようだった。
「樟葉って希美先輩と……その、結構進んでるんだよね」
「え、そっち系の話?」
「違うよ! 真面目に聞いてるのに」
「悪い悪い。で、何が聞きたいんだ?」
「いや……こういう時って、どうしたらいいのかなって」
揶揄う隆翔に反して、黄前の表情は思いのほか真剣だった。助言を求めるような視線を向けられ、今度は隆翔もきちんと考える。
「俺は希美とそこまで大きな喧嘩はしたことないから、模範解答みたいなものは出せないけど」
「うん」
「まあ……待たせたご褒美に、キスくらいしてやれば?」
「はぁっ!?」
黄前の顔がみるみる赤くなった。
「するわけないでしょ!? 何言ってんの!」
「あははっ、ごめんごめん」
「絶対面白がってるでしょ!」
「いや、半分くらいは真面目だよ」
「半分だけじゃん!」
どうやら本番前夜に投げる冗談としては、刺激が強すぎたらしい。耳まで赤くして抗議する黄前に、隆翔は堪えきれず声を殺して笑った。
◇◆◇
その日は、太陽が昇るより早く目が覚めた。
起き抜けにつけた部屋のテレビでは、中部地方の天気予報が流れている。予想気温は十八度。空には雲一つない、快晴の予報だった。
制服に着替えると、まずは部員たちと手分けして楽器をトラックへ積み込んだ。
昨日も消灯間際まで個人練習の音が響いていた。根を詰めすぎるのは良くないと言われても、ここまで来れば話は別だ。自分が納得するまで確かめたい。明日の自分が後悔しないために、できることは全てやっておきたかった。
父と母は昨日のうちに車で名古屋へ入り、駅前のホテルに泊まっている。OBやOGも続々と駆けつけるらしく、希美からは、みぞれ、優子、夏紀と一緒に始発電車で向かうと連絡が入っていた。
──名古屋国際会議場、センチュリーホール。
全日本吹奏楽コンクールの会場は、朝早くから独特の緊張に包まれていた。
「どう、全国の会場は」
バスの車窓の先に、二本の白い塔がそびえている。
音楽室に飾られていた、二年前の全国大会の写真。その中に写っていた建物が、今は現実の景色として目の前にあった。
二年前、この場所で演奏した沙里は、いま何を思っているのだろう。
「……頑張らないとな」
「そうだね……これが、みんなと演奏する最後の大会だから」
沙里は膝の上で拳を固く握った。その瞳には、静かな熱を宿している。
二年前の雪辱を胸に抱く者もいる。昨年の悔しさを知る者もいる。もちろん隆翔だって、今日まで漫然と楽器を吹いてきたわけではなかった。
関西大会で一つの雪辱を果たしてから、長くまとわりついていたものは消えていた。その後の文化祭や依頼演奏でも、以前のような重圧に押し潰されることはなかった。
終わってみれば呆気ないのかもしれない。だからこそ、初めて足を踏み入れたこのホールで、積み重ねてきたものを証明する。
「案外、プレッシャーはないかも」
「それは私もだよ。最後だっていう実感もないし、明日も明後日も部活がある気がする」
「俺も沙里の図太さが伝染ったのかな」
「図太いんじゃありません。場数が違うんです〜」
隆翔が笑うと、沙里は口を尖らせて抗議した。
調子はいい。気持ちは不思議なほど落ち着いている。
今日こそ、これまでの集大成と呼べる演奏をするに相応しい日だった。この日のためにすべてを懸けて練習してきた。ただ一つの結果だけを見つめ、瞳に宿る炎はその色を捉えて離さないだろう。
「いよいよ来たね。芽衣子、蕾実」
「本当だね」
「私、あまり実感湧かないや」
朝日に照らされ、白く輝く騎馬像の前で、三人は感慨深そうに息を吐いた。ここに帰ってくる。その旅路は長く険しいものだった。小田と中野には、隆翔の知らない二年前の記憶がある。沙里にもまた、この場所でしか思い出せないものがあるのだろう。
黒羽色の髪を風に揺らしながら、沙里が隆翔たちを振り返った。
「芽衣子も、蕾実も、それから隆翔くんも。今日まで支えてくれて、本当にありがとう。正直、先輩からパートリーダーを任された時は、全然器が足りないと思ってた。どうしても荷が重くて最初は断ろうともしたんだ」
「そうだったの?」
「うん。でも、この四人でアンコンをやれて良かったって、今は思ってる」
沙里は目を細めて懐かしんだ。
「私、多分、無理にでもそういう立場にならないと自覚できない人間だから。みんなは私をリーダーに相応しいって言ってくれてたけど、自分ではそう思えなかった。だからこそ、あのアンコンでみんなが私をリーダーにしてくれたんだよ」
思いがけない告白に、小田も中野も隆翔も黙って耳を傾けた。
「今日、絶対に金獲って帰ろう」
沙里の声が一段と強くなった。
「それが、私から三人への恩返し。……それと、私のソロ、ちゃんと聴いててね」
穏やかな口調だが、その奥にある意志は痛いほど伝わってきた。
「今日を一生の思い出にしようね」
「もちろん」
「沙里のためにも、全力で吹くよ」
隆翔がそう返すと、沙里は満足そうに口角を上げた。
北宇治高校吹奏楽部という一艘の船は、三年前に初めて本気で全国大会を目指した。一度は出場し、結実したかに思えた目標は、その更に上にある輝かしい功績に目を奪われ、再び
昨年、北宇治は改めて全国大会金賞に照準を合わせた。しかし残念ながら、関西大会で潰えることとなった。
みぞれの羽ばたきに一度は心折れながらも彼女を完璧に支えた愛する人。そして志半ばで後輩にその未来を託した優子と夏紀。四人の夢想の果てに今日という日がある。その願いを叶えるなら今日しかない。ここまで来て、後輩たちに託そうなどと弱気になる三年生はいない。
今まで無為に捨ててきた時間を拾い上げて、隆翔は相棒のフルートと共に北宇治という船に乗り込んだ。二年前に託された願いを知らない隆翔は、この部に募った悔恨にいまいち共感を得られなかった。しかし、それも過去のことだ。紡がれた想いと繋いできた時間、記憶は、隆翔にも受け継がれていた。
視界は良好。もう誰も「獲れたらいいな」などと弱気になる人はいない。数々の荒波に遭ってきた。その度に乗り越える力を蓄えた。
練習は嘘をつかない。それは真実だろう。しかし、これまで何度、望まぬ結果を手にしてきたか。
だからもう取り逃がさない。目の前にある栄冠を手中に収めるために、何千回と練習を繰り返してきた。
そんな今の北宇治に、妙に似つかわしい言葉があった。
───天気晴朗ナレドモ浪高シ。
晴れ渡った視界の先にある栄冠、そしてそれを掴むだけの練習量。どんなことがあっても、今の北宇治なら動揺はしない。
胸の内に立つ心臓の高鳴りは鬨の声だ。
航海の最終局面がいま、幕を開けようとしていた。
【つづく】
ユーフォ最終楽章後編、見届けて参りました。
物語の堂々完結と言っても良いのではないでしょうか。
偶然にもこの物語と時間を共にし、終幕へ向けた歩みを一層感じ得た次第でございます。
──次号、全国大会本番。
お楽しみに。