帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
螢さんの黒く澄んだ瞳が、少し見開かれた。
その瞳の中には、馬鹿みたいに嬉しそう微笑む僕の顔。
しばらく無言で見つめ合ってから、螢さんは瞳をいつもの冷静さに戻し、いつも通りの静かな口調で言った。
「……ありがとう、コウ君。でも、ごめんなさい。コウ君のその気持ちには……まだ応えられない」
「分かってます」
「でも」
その「でも」の語気には、慌てて釘を刺そうとするような、
「でも——
僕は息を呑んだ。
顔が一気に熱くなる。
心音がうるさく急加速する。
息が苦しくなる。
掌中にじんわり汗をかく。
甘やかな熱が体の内側から急かし、身の置き所がない感覚。
——同じ感覚だった。
去年の八月二日と、同じ感覚。
初恋の感覚。
僕はきっとこの瞬間、もう一度螢さんに恋をしたのだ。
そんな恋する馬鹿者の右手を、螢さんの両手がそっと手に取り、おもむろに胸の高さまで持ち上げる。
なめらかで、やや冷たい。
柔らかくはあるが、柔弱ではない掌の固さ。
白魚のような美しさでありながら弱々しさの無い、紛れもない剣士の手だ。
右手首には巾着の紐が掛かり、左手首では輪っかになったケミカルライトの棒が光っている。
「コウ君の手、随分変わった」
「そ、そうでしょうか」
「ん。立派になった」
間隔の狭い心音を実感しながら、螢さんの言葉を拝聴する。
「……コウ君の剣は、わたしの剣より、ずっと素晴らしい」
どういう意味だろうか。
少なくとも、強さという面では、螢さんには及ばない。甘めに自己評価するなら……螢さんの足元にようやくしがみつくことができた程度のものだろう。
だからこそ、螢さんが言った「素晴らしい」という言葉は、そういう意味では無いのだとすぐに分かった。
「わたしの剣は、わたしだけを守るための剣でしかない」
螢さんは、そう言った。
「わたしは十一年前、戦地で
斬り殺す、という表現が螢さんの口から出たことに、僕は胸を締め付けられた。
妄言や失言から縁遠く、
「喪失の痛みから目をそらすための逃避行動の意味も込めて、わたしは至剣流の修行に打ち込んだ。その末に、わたしは念願を果たした。火の神カグツチを斬ったイザナギのように、わたしの何もかもを呑み込もうと迫る
僕が螢さんの至剣を見たのは一度だけだが、思い返すだけで凄まじいものだった。
弾丸よりも疾く距離を詰め、木刀にすら最高の切れ味を与えてしまう。
まさしく最強と呼ぶに相応しい一太刀。
畏怖を覚える一方で、思う。
アレは、螢さんの心の傷から生まれた至剣なのだと。
「だけど、至剣を手に入れても、わたしの秘めたる不安は消えなかった。どんな時でも、喪失に対する恐怖がついて回った。また突然、予期せぬ害意が襲いかかって、わたしは力及ばず、また何かを奪い取られてしまうのではないか、と。十一年前の戦争も
だからわたしは、その害意を自分で跳ね除けられる強さを、親しくなる相手に求めた。無抵抗で殺されてしまった両親や周りの人達とは違う、強い人を」
「だから……「自分に勝った人としか、交際も結婚もしない」なんですよね」
螢さんは黙って頷く。
「わたしの剣は、わたしのための剣でしかない。どんなに強くても、それが守れるのはわたしの身だけ。喪失を怖がって、自分の世界に閉じこもっているだけ。十一年前とほとんど変わっていない。——でも、コウ君の剣は違う」
螢さんの両手が、僕の右手をきゅっと強めに包む。
「だって、あなたの剣は、
「螢さん……」
「わたしだけじゃない。お義父さんも、エカテリーナさんも、
あなたのお陰で、わたしは
僕を見上げる螢さんは……嬉しそうに笑っていた。
まるで、ずっと欲しかったモノを誕生日プレゼントとして受け取った子供のような、明るさと甘さに溢れた笑顔で。
「だから——ありがとう。こんなわたしを好きになってくれて。わたしのために、剣を握ってくれて。わたしを……今でも好きでい続けてくれて」
どかんっ、という擬音が似合いそうなくらい、鼓動が爆発した。
心臓が胸郭を突き破って、地の果てまで飛んでいってしまいそうだった。
今まで見せた中でトップクラスの破壊力を誇る想い人の笑顔に、僕は心身ともに硬直した。
何もまとまった考えが出来ず、互いに手を握りあった状態のまま、しばらく時間が過ぎてから、
「……ねぇ、コウ君」
「はひ」
ちゃんと返事出来なかった。
「もう一度、言うけど、わたしはまだ、あなたの気持ちに応えてあげられない。まだ、その勇気が足りないから。でも……」
「でも?」
「でも…………
——気持ちに応える以外なら、許せる。
それはつまり、お付き合いとか結婚はまだダメだけど、それ以外なら良い……という意味ではないだろうか。
僕を見つめる螢さんの顔からは、もうあの眩しい笑みは消えていた。いつも通りの無表情。いつも通りの澄んだ瞳。いつも通りの…………瑞々しい唇。
「……ほたる、さん」
そんな唇が、ゆっくりと僕の視界で大きくなっていく。
なんで?
螢さんは動いていない。
であるなら、僕が動いているからだ。
我が身に動けと命じていないのに、動いているからだ。
唇のかすかな
「あだっ」
背中を軽く打った。どこに? 地面に。
色々状況を分析して……螢さんに転がされたと確信。おそらく帝国制定柔術の崩し技だろう。
「——「それ」はまだ早い。コウ君のえっち」
僕を見下ろす螢さんの目は、少し怒ったように半眼だった。
地面の冷たさが思考に波及して冷静さを取り戻し、自分が無意識とはいえ何をしようとしていたのかを、今更ながら理解した。
「す、すみません。つい出来心で」
「えっち」
「すみません」
「えっち」
「……すみません」
はい。認めます。僕はえっちです。
螢さんの浴衣から伸びるうなじをチラチラ眺めたり、チョコバナナを食べる姿にイケナイ気分を覚えたり、螢さんにチューしようとした、えっちな奴です。
言い訳は致しません。
立ち上がって背中とお尻を叩いて土を落とす僕に、
「——
螢さんは、発光するケミカルライトを巻いた左手を差し出してきた。
いつもの無表情。
だけどその差し出された手は、僕らの心が大きく近づいた、何よりの証だった。
「——はいっ」
僕は喜んで、その手を握りしめた。
祭りは、まだまだこれからだ。
螢はそれからも、
本当に楽しかった。
祭りは嫌いではないし、独りよがりではなく一緒に楽しみたいという光一郎の気持ちがよく伝わってきたので、それが嬉しかった。
だけど、楽しかったからこそ、時間が過ぎるのも早い。
あっという間に夜の八時を過ぎた。
光一郎の「女の人はもう帰らないと駄目ですよ」という勧めもあり、螢は携帯電話でお抱え運転手の
(……手、まだコウ君の感触が、残ってる)
その助手席に座りながら、望月螢は自分の手を眺めていた。
年の近い男の子と二人きりで、それもデートとして遊ぶなんて、初めてだった。
光一郎と遊びに行くのは初めてでは無いが、二人きりというのは初だった。
普段通りの気持ちで振る舞えると思ったが、二人きりである分、思いのほか光一郎の存在を強く感じてしまい、少しばかり調子が狂った。……まして、
自分が去年、あの神社で奉納演武をしなかったら、光一郎と出会うことはきっと無かったのだ。
『僕は今でも、あなたの事が好きです、螢さん。世界中の誰よりも』
あの時、螢は胸が高鳴ってしまった。
あんなにも真っ直ぐ、純粋な気持ちを、真っ向からぶつけられて。
それに応えられない後ろめたさと、それ以上の嬉しさを覚えた。
雰囲気に呑まれてキスをしようとしてきたのは減点だが、その時以外は極めて紳士的だった。
何より、螢と一緒にいて楽しい、という思いが、ところどころから伝わってきた。
きっと自分じゃなかったら、光一郎の告白に、喜んで頷いてしまうだろう。
エカテリーナも、
(わたしみたいなつまらない女に惚れていなければ……コウ君はもっと幸せになれていたかもしれない)
そう思ってから、かぶりを振った。それは光一郎に対する最大の侮辱だと思ったから。
「お嬢様、閣下がいらっしゃらなくても、一人でやれますか?」
後藤が運転しながら、そう気遣わしげに訊いてくる。
そう、義父の源悟郎は昨日、日本を発ってホノルルへ行っている。
しばらくの間、螢は一人暮らしなのだ。
「大丈夫です。ありがとうございます」
若干嘘だった。
自衛の面では心配いらない。特殊部隊が万全の装備で侵入してくるとかでない限り、武芸の達者な螢が後れを取ることは無い。武器も銃火器以外ならたいていのモノは揃っている。
しかし、やはりいつもいる人が一定期間ながらいないというのは、少し寂しい。
……しかし、源悟郎はすでに六十を超えている。
だから、一定期間だけでなく、
けど……もしそうなった時、自分にはすでに新たな「大切な人」が、出来ているだろうか?
静馬のように、作ることが出来るだろうか?
それとも——その時にはすでに、光一郎が隣にいてくれているだろうか?
そうこう考えているうちに、家が見えてきた。
車もそれに合わせて徐行する。
「ん? 誰かいるな」
後藤の言葉通り、望月家の玄関前には、人影が佇んでいた。
暗闇に紛れていたその人影は、車のフロントライトの光を受けて、その姿を見せる。
二人は揃って目を疑った。
「……
腹の読めない能面のような無表情。
百八十に達する全身に墨色の
嘉戸宗家の人間、それも次期家元が、どうしてこんな所に?
……去年『望月派』が勝利を収めた「三本勝負」にて、嘉戸宗家の『望月派』に対する不干渉が約束された。
それを破る愚を、現在の剣術界の最大流派である至剣流の宗家が犯すとは考えにくい。
であれば、いったい何のようで?
後藤が停車したのを確認後、螢はおもむろに下車し、寂尊へ歩み寄る。
「何の用ですか」
いつも通りの静かな口調に警戒のニュアンスが含まれた螢の問いに、寂尊は肩をすくめる。
「ご挨拶だな、望月螢」
「わたし達の因縁を考えれば、むしろ手心を加えた物言いであると自覚していますが。……わたしは、あなた達が
「返す言葉も無い。だが安心するといい。起請文の事は忘れてはいないし、
寂尊は、螢の目を、真っ直ぐ見た。
こちらの眼球を貫き、脳の奥底まで視線を届かせようとするかのような眼差し。……心なしか、その眼は光一郎に似ていた。
おくびにも出さず居心地の悪さを覚えている螢に対し、寂尊は要件だけを手短に述べた。
「話がしたい」
今回の連投はここまで。
また書き溜めてから連投します。
次はいよいよ天覧比剣です。