帝都初恋剣戟譚   作:新免ムニムニ斎

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紫雲

 地下を出ると、空気に湿っぽい熱が宿った。

 

 雨は上がっており、割れた雲の隙間から夕空が覗いていた。

 

 薄暗い通りから出て、道玄坂(どうげんざか)を降り、駅前まで訪れると、林立するビルの向こう側で、赤紫色に染まった雲の群れがあった。

 

 紫雲(しうん)——それは、吉祥(きっしょう)をあらわす雲であると同時に、念仏を唱えて臨終(りんじゅう)する僧を迎えるために仏が乗ってやってくる雲でもある。

 

 僕はその紫雲から目をそらし、電車に乗る。

 

 ——確かに、村正(むらまさ)は、死んだ。

 

 それによって『呪剣(じゅけん)』の呪いは消えると、村正は言っていた。

 だけど、もしも、そうはならなかったら?

 至剣は謎が多い。使い手ですら、その至剣を用いる時の体の動き方などを説明できない。

 もしも、村正の言っていた「自分が死ねば呪いが解ける」というのが、本人の勘違いや単なる予想だとしたら?

 そもそも、その言葉自体が、僕を欺くための嘘であったら?

 

 渋谷から九段下まで、電車ではそう遠くない。しかし九段下まで着くまで、僕はずいぶん時間が経ったような感覚だった。……螢さんの病室へ到着するのを、僕が拒んでいるからか。そこへ行けば、否が応でも現実を突きつけられてしまうだろうから。

 

 しかし、僕は螢さんと同門だ。今日逃げたって、彼女の安否に関しては遅かれ早かれ嫌でも耳に入ってくる。今逃げることに意味は無い。

 

 僕は九段下の駅を降りるや、螢さんの入院している病院へ向かう。道のりは頭に入っている。

 

 自動ドアをくぐり、病院のロビーへ訪れた。あの異様に清潔な匂いが空気に宿る。

 

 壁にある時計を見ると、午後六時を過ぎたばかりだった。それでも空がまだ夕方なのは、真夏であるため陽が長いからだろう。

 

 見ると、僕が三時まで座っていた場所には、置き忘れた竹刀と面と小手がまだ残っていた。それらを刀袋と一緒に右脇に抱えて回収してから、僕は螢さんのいる入院棟三階へ向かった。

 

 そしてとうとう——螢さんの個室の引き戸までたどり着いてしまった。

 

 「面会謝絶」という札は、まだ外されていない。その事に一抹の不安を覚える。

 

 それでも勇気を出して、防具と竹刀と刀袋を抱えていない左手で、引き戸を開けた。

 

 そこには、

 

 

 

 

 

 病室のベッドに座って窓ガラスの外を見つめる、螢さんの姿があった。

 

 

 

 

 

「ほ、たる、さん」

 

 震えた声は、僕のものだ。

 

 螢さんはこちらを見ず、ただ窓の向こうに広がる紫色の雲を見つめながら、

 

「——見て、コウ君。綺麗な紫雲」

 

 いつもの、あの、銀の鈴が鳴るみたいな声を、聞かせてくれた。

 

 ゆっくりと振り返り、あのいつもの美しい無表情を、見せてくれた。

 

 真っ黒で澄んだ瞳が、ぱちぱちと瞬きする。

 

「……コウ君、どうしたの?」

 

 その瞳には、今にも泣きそうな僕の顔が映っていた。

 

「よ、よかった…………螢さんっ…………よかったよぉぉぉ……!!」

 

 ていうか、泣いた。

 

 みっともなく、泣いた。

 

 今まで堪えていたモノが溢れ出したように、泣いた。

 

 あまりの安堵感で全身から力が抜けた。床に両膝がガクッと落ち、抱えていた防具や竹刀、刀袋が床に散らばる。

 

 螢さんがベッドから降り、素足で音も無く僕へ近寄る。

 

 膝をついて子供みたいに泣く僕の前で正座し、吸い込むような自然さで僕の頭を胸の中に抱き寄せた。

 

 ミルクみたいな螢さんの体臭に包まれ、全身がさらに緩む。僕の一番好きな匂い。

 

「心配かけて、ごめんなさい」

 

「ううんっ……!」

 

「わたしは、もう、大丈夫だから」

 

「うんっ……!」

 

 いつもの丁寧な態度と言葉遣いを忘れて、幼児的な返事をしてしまう僕。

 

 いい匂い。柔らかい。そして……あったかい。心臓の音が聞こえる。

 

 螢さんは、ちゃんと生きてる。

 

 それをもっと感じたくて、僕は螢さんの背中に両腕を回す。

 

 螢さんは、それをいっさい拒まなかった。

 

 ひとしきり、そうやって抱き合っていると、

 

「——コウ君、なんでしょ?」

 

 そんな事を言われて、思わず身を一瞬震わせる。

 

 はっきりしない訊き方だが、螢さんがいったい何を尋ねたのか、僕には分かった。

 

「……何の話、ですか」

 

 だけど、僕は()()()()()()()()()をした。

 

「わたしは、『呪剣』に呪われた。……その呪いを解いてくれたのは、コウ君、なんでしょ?」

 

「……違い、ます」

 

 嘘をつく。

 

 だって、それを認めてしまったら、螢さんは自分の回復を喜ばないかもしれないから。……自分の不始末のために、弟弟子の剣を穢してしまったと。

 

 あるいは、それをした僕を、軽蔑するかもしれない。

 

 だから「理由は分からないけど回復した」といういい加減な結末として、螢さんの中では終わらせて欲しかった。

 

「コウ君の、その格好は何? それとその左手の傷はどうしたの? その袋に入っているのは、刀でしょ? あと……(はかま)(すそ)に、血の跡がある」

 

 だけど、それはやはり無理だったようだ。この人を、誤魔化せるわけがないのだ。

 

「——わたし、()を見たの」

 

「え……?」

 

「存在そのものを吸い込まれそうな、深い闇。

 その中で、わたしは一人ぼっちだった。

 その暗闇から出ようとどれだけ歩いても……抜け出せないの。

 出口も、果ても無い、深い深い闇の中」

 

 僕の背中に回された腕の力が、強まった。

 

「だけど、そこに一匹の……金色に光る蜻蛉(トンボ)が、現れたの。

 その蜻蛉は、黙ってわたしを案内してくれた。こっちだよ、って……コウ君と同じ声で。

 わたしはそれについて歩いて……しばらくしたら、光の差す場所が見えたの。

 蜻蛉はそこに向かっていって、わたしも同じようにそこへ向かっていったら——この、病室だったの」

 

「螢、さん……」

 

 僕の髪を、さらりと撫でる螢さんの手。

 

「話して、コウ君」

 

 静かな、しかし決然とした響きを持った声だった。

 

「何を聞いても、わたしは絶対に軽蔑なんてしない。あなたが、その剣をどのように穢したのかを、わたしに全て教えて欲しいの。……その穢れを、わたしも共有したいから」

 

 僕は、返事をしなかった。

 

「…………鴨井村正(かもいむらまさ)は……死にました。僕の、目の前で。だけど……それは、僕が殺したわけじゃ、ありません。……自分で、自分を刺したんです」

 

 代わりに、すぐに全てを語り始めた。

 

 僕の剣が積み重ねた、修羅と、穢れを。

 

 ——螢さんは、それをただただ黙って聞いてくれた。

 




 今回の連投がここまで。

 次はエピローグを投稿して、この「呪剣編」は完結とさせていただきます。
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