帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
五月三日。木曜日。
昨日あんなにずぶ濡れだったから風邪の一つも引くかと思われたが、全然そんな事は無く、あたしはいつも通りピンピンした調子で学校へ行った。とりあえず、今着ている二着目のセーラー服は、一着目のクリーニングが終わるまでは絶対に濡らしたり汚したりするものかと心に決めた。
今日はうざったいくらいの快晴。太陽がジリジリと輝いている。しかも雨天翌日なためどこか湿っぽい。
……今日のあたしと
それどころか、お互い目が合った途端、同時に逸らした。
あたし達の関係は、着実に自然消滅へと向かっている。
(……これで、いいのよ)
あたしは自分に言い聞かせる。
あたしなんかに構ってたら、あいつはマトモな青春を送れっこない。一度しか無い学生生活だもの。あいつにはもっとその時間を有意義に使って欲しい。……あたしなんかのために、無駄にしないで欲しい。
独りには慣れてる。だから「独り」はあたしが引き受けるべきだ。
そう、思ってるはずなのに。
どうして……こんなに胸がキュッとするんだろう。
おかしい。「独り」には慣れてるはずなのに。
こんなにも、心細い気分になるなんて。
それだけ、秋津と一緒にいるのが、当たり前だったという認識だったのか。
それだけ、あたしは秋津のことを——
(違う。急な変化に戸惑ってるだけだ。すぐに慣れる)
あたしは心の声にかぶりを振った。
今日ウチに帰ったら、絶対にあのオニヤンマの絵を細かく破いて捨ててやる——そう心に決めて、それ以上の思考を打ち切った。
そうして今日一日も過ぎていき、あっという間に放課後となった。
わらわらと出入り口から廊下へ流出していく制服の群れ。……すでに秋津の姿は教室には無かった。
あたしはそのことに安堵し、そしてそんなふうに秋津の所在をなおも気にしている自分を嫌に思いつつ、教室を出た。
階段を降りていく。
踊り場から三階へ下ろうとした、その時だった。
「えっ……」
三階へ降りてすぐのところで、秋津が立っていた。
あたしは思わず踊り場へ身を引っ込め、秋津の姿を隠れて覗き込む。
さらによく見ると、秋津は周囲を取り囲まれていた。
女子が一人、男子が四人……しかも全員木刀を持っている。
「……あいつらって」
秋津を取り囲む五人のうち二人の顔に、あたしは見覚えがあった。
一人目は、女子生徒。……入学二日目の日、あたしと秋津に注意の
そしてもう一人は、なんとウチのクラスの男子だ。あたしが初めての撃剣授業で叩きのめした奴。
そいつら二人を含む五人は、秋津と一緒に三階の廊下へ歩き始めた。逃げられないようにとばかりに、秋津を囲った状態を維持しながら。
明らかに、物騒な感じがする。
——放っておこう。
あたしと秋津は、もう縁が切れたのだ。あたしがあいつの様子を伺う義理なんて無い。
あいつがあの五人にどういう目に遭わされたとしても、あたしにはもう何の関係も無いのだ。
翌日、殴られて顔の形が変わっていようが、気にも留めることなく、週刊少年ジャムプを読んでいられる。あたしはそういう人間だ。
日本人なんか、助けてやる義理は無い。
——そんな最悪な事をわざとでも考えている自分に、あたしはひどく腹が立った。
少し考えれば分かることだろう。
あいつが今のタイミングで何かに巻き込まれるとすれば、それはあたしに関連したことが原因だ。
そして……あたしは秋津を突き放したのは、秋津に安全に過ごしてもらいたかったからだ。
ここで見て見ぬ振りをすることは、その目的に沿う行動なのか?
「……あぁもうっ」
こうなったら責任を持って、何が起ころうとしているのか見届けてやる。あいつと縁を切るのはそれから考えよう。
あたしは秋津達の後をこっそりと
金髪は目立つため、鞄で頭を隠しながら。
この
秋津達が向かったのは、屋上まで続く方の階段だった。
そしてそこへわざわざ向かったからには屋上へ連れていく気なのだろうと思ったが、案の定その通りだった。
屋上なので覗き見る窓とかは周囲には無いし、おまけに基本的に立ち入り禁止であるため、人目を忍ぶにはもってこいの場所だ。愛の告白とか、悪巧みとか。
そして秋津を連れてきた五人は、告白とかみたいな色っぽい理由でここへ来たわけじゃないみたいだ。
屋上のドアの隙間から、あたしはそいつらの言動と行動をしっかり捉えていた。
「——あんた、一体どういうつもりよ」
剣呑な女の声が、うっすら朱の混じった青空の下で響く。
秋津の胸ぐらを掴んでそう詰問したのは、紅一点である丸山だった。
秋津より、丸山の方がちょっと背丈が上だった。丸山の剣幕も相まって、秋津は女子相手であってもすっかり萎縮した表情。
「ど、どういうつもりか、と聞かれましても……それは
秋津の右肩を、小島がどんっと強く張り手した。
「……お前さぁ、今日の昼休み、
あたしは驚きの声を漏らさないことに必死だった。
秋津は、全部知ってたっていうの……?
スケブを、焼却炉に隠されたっていうのを……?
あたしはさらに連中の会話へ耳を傾ける。
「小島君の、お姉さん……?」
秋津が怯えと驚きの混ざった声で言ってから、今なお自分の胸ぐらを掴んでいる丸山へ視線を戻す。それからまた小島を見る。
丸山は秋津の胸ぐらをさらに強く締め上げ、軋むような声で言った。
「——
目を瞬かせて驚きを示す秋津。
あたしも同様に驚愕していた。
思わぬ偶然もあったものだ。新入生歓迎会の日にあたしに悪態ついてきた女と、撃剣授業の時にあたしに因縁つけてきた男が、実は兄弟だったなんて。
「……丸山、先輩。何度でも言います。僕のスケッチブックを隠したのは……あなたですよね」
秋津は強張った口調で話題を変えた。本題に戻るという意味もあるだろうし、これ以上この兄弟の事情を追求すまいという配慮でもあるのだろう。こんな連中にまで気を遣うなんて、どこまでもお人好しだ。
「
昨日の二限目後の休み時間、気になって用務員さんに聞きに行ったら、
手足が震える。
なんだか落ち着かなかった。
まるで、あたしの内面を、どんどんこじ開けられて覗かれている気分だった。
「普通なら、五階の教室にある僕のスケッチブックが焼却炉の中に移動するなんて、あり得ない。まして焼却するその日になんて。人の悪意を感じる。そして伊藤さんが僕にそっけなく態度を変え始めたのは……一昨日、スケッチブックを返した時からだった。
最初はどうしてか分からなかったけど……用務員さんの証言を聞いて、分かった。
——あの子は、僕を庇おうとしてたんだ。あの子に手を出せないからって、弱い僕を狙おうとする、あなた達みたいな人から」
あたしはそれを聞いて、泣きそうになった。
どうしてなのか、あたしにも分からない。
「黙りなさい。もう喋るな」
丸山は苛立った様子で秋津の胸ぐらごと引き寄せ、低く恫喝した。
しかし秋津は、口を止めなかった。
「スケッチブックが消えた時間として考えられるのは……一昨日の、
だから僕は昨日の昼休み、その「無人の時間帯」に、誰か僕らのクラスの教室に入った人はいなかったかを、近くの教室のクラスの人達に聞いて回った。そして……女子生徒が一人来てたって聞いた。証言してくれた人は、授業中にお腹を壊してトイレに行った帰りに目撃したそうです。
制服の校章は水色。つまり三年生の女子」
「黙れって言ってんでしょ……!」
「次に僕は……三年教室に行って、話を訊いて回りました。
一昨日の「無人の時間帯」に、誰か教室から出て行った女子がいなかったかどうかを、三年生の全クラスに。
……二人、いたそうです。一人はこじらせていた風邪が悪化して早退。もう一人は生理痛だと言って保健室に行ったと。
その保健室に行った女子の名前は——」
「黙れっ!!」
丸山は秋津を乱暴に放り出し、蹴りを入れた。
「っ……いったっ……!」
苦痛に顔を歪めて尻餅をついた秋津を見て、あたしは駆け寄って助け起こしたい衝動に駆られる。
丸山はそんな秋津へ木刀の先端を向け、心の中の
「ああそうよ!! 私よ!! あんたのスケッチブックを隠したのは私!! でもね、
私はね、ただ制裁を与えただけなんだよ!!
日本人のくせに、十年前にこの国に侵略してきて、私達家族までもめちゃくちゃにしたロシア人なんかと馴れ馴れしくしてる裏切り者にっ!!」
——あたしは、心臓を直接打たれたようなショックに襲われた。
あの女の言動から、強く感じたからだ。
極めて純度の高い、憎悪を。
「私と
その先の言葉を言いたくないのか、
しかし濁されたって分かる。嫌でも
——おそらく、
『北方帰り』とは、十年前の日ソ戦争を戦い、生還した軍人を指す俗語だ。北方帰還兵とも言う。
国を守るために戦い、それを果たした彼らは、当時の帝国陸海空軍大将「三傑」と並んで、英雄として世間から認知されている。
政府や
……けど、そんなふうに英雄視されている一方で、問題もあった。
それは『北方帰り』による薬物・アルコール中毒や、家庭内暴力だ。
戦場というのは究極にストレスフルな場所だ。その強烈なストレスにさらされ続ければ、精神を病んでしまう兵士も必ず出てくる。第一次大戦のシェルショックが有名な例だ。
『北方帰り』にも、当然ながら戦場由来のストレスで気を病んでしまった兵士が少なからず存在した。気の優しかった人間が戦争から帰ると人が変わっていて、衝動的に酒や暴力に走ってしまうことがよくあったという。
それによって家庭崩壊を起こした件も、探そうと思えば簡単に見つかる。
……余談だけど、この問題は日本だけでなく、戦後ロシアでも起こったそう。
十年前の戦場から生還してきたロシア兵は『ヤポンツィ』などと呼ばれているらしい。
だけどこれは『北方帰り』とは違い、侮蔑と
戦争というのは、勝った方にも、負けた方にも、深い傷を残す。
目の前にいるこの兄弟も、その傷を負っているということだ。
「親無しになった私達兄弟は、親類縁者の家に引き取られることになった…………だけどどこの家にもすでに子供がいて、私と太一を両方引き取る余裕はなかったの!! だから私達は、離ればなれになるしかなかった!! 同じ帝都に住んでて、会おうと思えばすぐに会えるけど……それでもっ!! 両親の命と、兄弟一緒に暮らすっていう当たり前の日々は奪われた!! 他でも無い、ソ連とっ、ロシア人にっ!!」
血を吐くような怨嗟。
「あいつは、あの女はそのロシア人だ!! この帝国における有害な異物なのよ!! あの女に、この国で幸せになる権利なんか無い!! 幸せになるなんて許さない!! 幸せにしようとする奴も許さない!!」
……あたしは、少なからずショックを受けていた。
ロシア人だから——あたしはそんな理由で、今まで多くの日本人から忌まれ、嫌われ、蔑まれてきた。
そいつらの多くが、
だけど、中には「そうじゃない」奴もいる。
戦争で家族を失った者、人生を狂わされた者、そんな奴はこの帝都を探せばすぐ見つかる。
戦火に直接見舞われた北方に関しては言うまでも無い。
村人総出のゲリラ戦によって守り抜かれた『
……そういった「そうじゃない奴」の純粋な憎悪をぶつけられ、あたしは陰ながら震え上がった。
こいつらは、
だからこそあたしは、少し「怖い」と思ってしまった。
いじめなんかするような、
「おい、
怒号を発しまくったせいで息を切らせている姉に代わり、弟である小島が秋津に冷ややかに告げた。
「姉貴は来年卒業だが、俺は違う。お前やあの露助と同学年だ。少なくとも、あの露助の在学中は、あいつには
あいつに近づくお優しいクズ共は、誰であろうと、どんな手を使ってでも不幸にしてやる。徹底的にあの女を、疫病神に仕立て上げてやる。俺や姉貴と同じ至剣流道場にいるこの三人みたいに、賛同者もいる。——次はスケッチブックで済むと思うなよ」
脅しだった。
これ以上あたしと関われば、さらにいじめの手口をエスカレートさせてやるという脅し。
……終わった、わね。
あたしが終わらせようとするまでもなく、あいつらが終わらせてくれる。
秋津との関係を。
ここまで脅されたら、秋津だって頷くしかなくなるだろう。
秋津がどういう答えを出したって、あたしは秋津を恨んだりしない。
だけど……その「答え」を、秋津の声として、あたしの耳で聴きたくはなかった。
あたしの爪先が、反対方向を向こうとした、その時。
「——確かに、僕の親は『北方帰り』じゃない」
秋津が、静かにそう言い始めた。
あたしの足が止まる。
秋津の語りは続く。
「僕の家族の誰も、十年前の戦争で死んでない。戦争の影響で、家庭崩壊なんかもしてない。全くの無傷だ。そんな僕に……君達の苦しみは、察しきれない」
ここから逃げたいのに、逃げられない。
——違う。
ここにいたいと、心の奥底から聞こえる。
秋津の言葉を、声を、もっと聴きたいと。
秋津の姿を、もっと見ていたいと。
もっと——秋津の側にいたいと。
「でも、
秋津が、そう言ってくれた。
「
目頭が、熱くなる。
「たったそれだけなのに——無理じゃないのに、無理にしようとするなよ!! できるのに、できなくしようとするな!! 君達の憎しみを、僕にまで押し付けるな!!」
あたしの目から頬に、何かが一滴伝う感触。
「僕は——あの子ともっと一緒に過ごしたいんだよ!!」
秋津の喝破に、小島が木刀を突きつけて怒号した。
「お前、それでも日本人かぁっ!!」
「そうだよ!! だけどそれ以前に僕だ!! 旧会津藩士の末裔、秋津光一郎だ!!
ばぁん!!
重々しい金属音が、屋上に響いた。
それは、あたしが屋上のドアを蹴り開けた音だった。
屋上に踏み入るやあたしはトップスピードで突っ走り、手近な男子へ近寄り、手元を下から蹴り上げた。その手にあった木刀が宙を舞う。
あたしという闖入者に呆気にとられている周囲の隙を利用し、あたしはジャンプして、空中でその木刀を掴み取る。
それから着地し、木刀をぶん回して周囲を散開させながら秋津へ近寄り、背後にした。
「……伊藤、さん」
「ごめんね、秋津。本当にごめん」
謝りたい事がたくさんあり、含有する意味の多い「ごめん」であった。
「謝ることないよ。伊藤さんが、優しかっただけだから」
背後にいる秋津は、穏やかにそう言ってくれた。
……あたしは優しくなんかない。優しいとすれば、それはきっと、あんたに対してだけだわ。秋津。
「この、露助っ……!」
憎々しげにそう唸ったのは、丸山だった。
他四人のメンツも、
五対一。人数的には、あたしが明らかに不利。
だけどあたしは、不思議と怖くなかった。
「ねぇ……伊藤さん、お願いがあるんだけど、いい?」
背後の秋津が、不意にそう話しかけて来た。
あたしは「なによ」と軽く応じる。
「僕……弱いよね」
「そうね」
「う……即答するね。まぁいいや…………弱いからさ、僕じゃ一方的にやられると思うんだよね」
「そうね」
「この状況を抜け出した後もさ、僕、また狙われかねないと思うんだ。スケッチブック隠されるみたいな陰湿なやり方だったり、もしくは暴力に訴えられたりとかさ」
「確かにそうだわね」
「うん。だからさ……」
秋津は、恥ずかしそうに、しかしどこか嬉しそうに言った。
「伊藤さん、どうか僕の事を、守ってくれないかな?」
あたしは数秒きょとんとして、そして大笑いした。
「ふっ————あっはっはっはっはっはっはっ!!」
マジかこいつ。
男のくせに、女のあたしに「守ってくれ」とか。
格好悪い。
だけど面白いし、合理的だ。
そして——すごく嬉しい。
あたしと秋津は、ようやく今、対等になれたような気がした。
「——承知したっ!!」
あたしは威勢良く言うや、右足と木刀を後方へ引いて構えた。「
「秋津、
そう。
秋津はあたしに「守って」と言ってくれた。
つまり、暴力の類を、あたしに
あたしの暴力を、あたし達の関係を守るための
それは、ここであたしの剣の抑止力たる
「上等じゃない」
あたしは、笑顔だった。
たとえ、これが真剣を使った勝負だとして、ここで果てたとしても、それでいいと思っていた。
——あたしと一緒にいたいと言ってくれた秋津のためなら死んでも構わないと、今のあたしは間違いなく思っていた。
「……何勢いづいてるのよ。この人数差で、勝てる気でいるわけ?」
冷ややかな笑みと口調で、丸山はそう告げてくる。
あたしも同じような冷笑を浮かべた。
「なら、その数並べてもあたしに敵わなかったら、あんたら大恥ね。同胞にも笑われるわよ」
「っ……口の減らない奴っ!!」
あたしの煽りにすぐに余裕を失った丸山は、弟や仲間と一緒にあたしへ襲いかかってきた。