帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
「鮮やかなほどの手のひら返しよね……」
七月十日、木曜日。昼休み。
僕と一緒に購買前の列に並んでいた
いつもは早起きしてお母さんと自分のお弁当を作っているらしい峰子だが、今朝はお母さんがいつもより早めに出勤してしまい、なんだかお弁当を用意する意欲も湧かず、今日はこうして購買頼りというわけだ。
「まぁ、こういう扱いには前から慣れてるけど……ここまで激変するなんてね」
僕はそう言いつつ、ため息を漏らす。
今ちょうど峰子としているのは——
学校というのは狭い社会だ。噂など簡単に広まる。栗山くんとの一件はあっという間に学内に波及し、その日のうちに変化が訪れた。悪い意味で。
ちょっと前まで僕のことをもてはやしたりしていた周囲の生徒が、一転して僕を冷めた目で見るようになった。その態度は三日経った今なお続いていた。現在僕に比較的好意的なのは、かつて撃剣部で一緒だった生徒くらいである。
……まぁ、
しかし、エカっぺに対する陰口を諌めた程度で、ここまで評価が急転してしまうと、さすがに戸惑いを禁じ得ない。
——僕がエカっぺと仲良くしていることは、前から周知だったはずなのに、どうして今更こんな。
峰子がからかい半分な笑みで、
「女の子にモテモテじゃなくなって、ショックだったり?」
「そ、そんなわけないじゃんっ。だって僕は——」
「
「ご、ごめんなさい……配慮が足りませんでした」
峰子は「よろしい」とおすまし顔で言う。
列が進む。購買が近づき、忙しそうにパンを売っているおばさんの姿の片鱗が見えてくる。
「——
独りごとめいた峰子の発言に、僕は「うん……」と応じた。
……政治にそこまで明るくない僕でも、これだけ
日米高度戦略連携協定。
その名の通り、日米の軍事的関係を深化させるという二国間協定。
理由はひとえに——「日本側の軍縮」が、条件の中に入っているからだ。
ソ連から軍事侵攻を受けたことが記憶に新しい日本人にとって、軍縮というのは受け入れがたいものだった。
国家主義団体ならびに愛国団体が先鋒となった軍縮反対派が、帝国に剣を捨てさせてはならじとこれまで以上に活動を激化させた。
宝田さんが就任してすでにひと月が経つが、いまだに永田町にて抗議運動を続けている。警官隊と乱闘したことも一度や二度ではない。
内堀通りを南へ歩きながら「大軍縮反対」「媚米政策反対」などと訴える活動家の人達を、僕も目にした。
——そんな物騒な「世情」は、その世情特有の俗説を醸成させてしまう。
「『アメリカとロシアは、ともに白人種多数派の大国!! その両国首脳陣に
「望月先生もそれ言ってた。あと『政治や軍事の話に、無闇に人種問題を持ち込むべきではない。話の性質が変わってしまう』って」
「そうね。それをやってしまうと「国家間問題」から「人種間闘争」に話の性質が変化してしまうもの。日露戦直前の明治政府も「アジア人対白人」という図式として日露関係を捉えられることを最も恐れて、そうならないよう外交努力を惜しまなかったから。そうなっていたら、日露戦争でイギリスの協力を得られなかったかも知れないわ」
峰子はため息をついてから続ける。
「そう、荒唐無稽。だけどそれを信じてしまう層も一定数いて、その一定数の行動が活発化しているのが昨今の現状よ。陰謀論や俗説というのは馬鹿にできないわ。時として社会を破壊する力も得てしまうもの。ナチのユダヤ陰謀論みたいにね」
僕は、思わず下を向く。年季の入った薄汚れた床と、それを踏んで立つ僕の両足。
「……でも、たとえその話が本当でも嘘でも、エカっぺは関係ないじゃん。むしろエカっぺは……」
「そうね、光一郎が正しい。だけど、やっぱり日本はソ連から侵攻されてまだ間も無いのよ。であれば、ロシア人を見る目が厳しくなり、心証が悪化しやすくなるのは必定だわ。……私が、
「今は違うんだっ?」
僕の顔に思わず明るい笑みが浮かんだ。
峰子は、まるで失言を自覚してしまったように目を見開き、それから顔を僕から背けて、
「……別に。今でもあの女への評価は変わらないわ。ケツと態度がデカくてムカつく女ってだけよ」
「そんなこと言ってぇ。この間ウチに来た時も、泣いてるエカっぺに寄り添って背中をさすってあげてたじゃない。自分で気づいてなかった? あの時の峰子、すごい優しい顔で笑っ——いてっ」
「蹴るわよ」
「もう蹴ってるじゃんっ。あ、ちょっと、みねっ、やめ、やめてって」
げしげしと僕の足をリズミカルに蹴ってくる峰子。……そっぽを向いていても、真っ赤な耳と頬が見えた。
「ほ、ほら! もう購買すぐそこ! 早く行かないと後続の人に迷惑だよっ?」
僕が目前に迫った購買を指差して必死に訴えると、峰子は舌打ちをして先に向かった。僕も続く。
お互いにパンを二つずつ手早く買って、購買を後にする。
「カチューシャにさっきの話したらまた蹴るから」と峰子に釘を刺されながら、今度は自販機前の列に並んだ。
無言で順番を待ち、僕らの番になった。
僕が「先にどうぞ」と促し、それに頷いた峰子が自販機に小銭を入れて、ボタンを押した。缶のミルクティーである。
がこん、という落下音を立てた取り出し口を開き、缶を取り出すが、
「——って、なんで
ボタンとは全く違った商品が出てきたことに、峰子はぷりぷり怒りながら言う。
「あ、それじゃあそのオレンジジュース、僕のこのお金と交換しよ? 峰子はこのお金でまたミルクティーを買ってみるといいよ」
僕はそう持ちかけて、用意していたお釣りを峰子に差し出す。彼女が買おうとしていたミルクティーと同じ額だ。
きょとんとした顔で「いいの?」と確認してくる峰子に、僕は「ん」と頷く。なんだか
「……じゃあ、お言葉に甘えようかしら。ありがと」
峰子は困惑っぽい笑みを浮かべると、僕との交換に応じた。僕の小銭がオレンジジュースになる。
受け取ったお金をまた自販機に投入し、缶ミルクティーのボタンを再度押す。今度こそミルクティーの缶が出てきた。峰子がそれを自販機から取り出す。
「……って、あれ?」
今のやり取りに
「どうしたの、光一郎?」
「ああ、いや…………
前、といってもそれはもう二年以上前の話だ。……僕とエカっぺが出会った日。この中学の入学式での話だった。
その日、エカっぺは今の峰子みたいに、押した自販機のボタンとは全く別の飲み物が出てきて、苛立たしげだった。
彼女が同じクラスであることは承知していた僕は、これから一年間一緒なのだから仲良くしておきたいなと思い、話しかけた。
飲み物を同じ額の小銭と交換しようという僕の名案(当時はそう思っていた)に、エカっぺは少し可笑しそうに一笑し、応じてくれた。
——それが、エカっぺと僕の出会いだった。
(……時間が経つのは、あっという間だなぁ)
過ぎた思い出に浸りながら、僕は峰子とともに自販機を後にし、階段を登り始めた。
三年一組の教室へ入り、エカっぺの机まで向かおうとして……足が止まる。
——窓の外の快晴を見つめる、エカっぺの横顔。
この教室に今座って存在しているというのに、ひどくその存在が希薄に思えるような、儚げな表情。
今にも、その眺めている窓の外へ吸い込まれてしまいそうな。
そして、いなくなってしまいそうな。
「——エカっぺ!」
そんな非現実的な焦りに突き動かされ、僕は思わず声を張り上げてしまった。
すると、エカっぺはびくっと身を震わせ、僕を見つめた。
「あ、コウ、峰子。戻ってきたんだ! ほら、とっととメシ食おー!」
……そして、何事も無かったかのように明るい笑顔となり、そう手を振った。
それを見て、僕は胸がずきりと痛むのを実感した。