帝都初恋剣戟譚   作:新免ムニムニ斎

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いつか一人になったとしても

 放課後、光一郎(こういちろう)峰子(みねこ)に「一緒に帰ろう」と誘われるよりも早く、エカテリーナは学校を飛び出した。

 

 校門を出てもしばらく走り、それから後ろを振り返って二人の姿が無いことを確認すると、エカテリーナは速度を緩めた。走った熱が思い出したように頭頂部まで伸び上がり、すっかり長くなった夏の陽光も相まって汗が額に浮き上がる。それを腕で拭いながら、帰路を一人歩く。

 

 家に近づくにつれて、自分の足が重くなっていくのを実感する。

 

 これまで自分にとっての一番の安息地であったはずの自宅に、今は帰るのを嫌がっている。

 

 親と喧嘩したからとか、両親の仲が悪いとか、そういう理由ではない。……むしろ、そっちの方が、まだ()()だったかもしれない。

 

 重い足が、自宅の玄関前にたどり着いてしまった。

 

 十何年も見慣れた我が家の玄関であるはずなのに、まるで別の家のようだった。

 

 「呪われた家」「露寇の尖兵」「ロシア人と寝た売女」「出ていけ悪魔」「洋夷退散」……あらゆる悪罵の書きなぐられた張り紙が、玄関ドアを埋めるように無数に貼られていた。

 

 奥歯が自ずと強く噛み合わさる。強い憤りと、やりきれない思いが、胸焼けのようだった。

 

 小さな門扉を開けようとして、異臭が鼻についた。ポストを隙間から覗くと、やはり生ゴミが詰め込まれていた。()()()()飽きないものだ。あとで片付けておかなければ。

 

 ドアの無数の張り紙を乱暴に引っぺがし、憤りの(おもむ)くままグシャグシャに丸めて、エカテリーナは合鍵で家に入った。

 

「ただい——」

 

「——ふざけないでっ!!」

 

 入るやいなや、耳を刺すような声が聞こえてきた。——母親である、伊藤雪菜(いとうゆきな)の声であった。

 

()()()()()()()なんてことくらい、昔から覚悟の上なんだから!! 覚悟の上で、私はあなたと一緒にいるって決めてるの!! それなのに……離婚しようって何よ!? 私を馬鹿にしないで!! 甘く見ないでよ!!」

 

 憤怒と、それを上回るほどの悲痛さを感じさせる叫び。聞こえてくるのはリビングからだ。

 

「もういい!! あなたなんて知らない!! 勝手にすればいいっ!!」

 

 リビングの扉が乱暴に開かれ、そこから母の雪菜が駆け出てきた。……すれ違いざま、目元に涙の浮かんだ横顔を一瞥(いちべつ)した。

 

 靴を履きかけのまま玄関を飛び出していった母をぼんやり見送ってから、エカテリーナはリビングへ入った。カーテンを閉め切っているのに、電灯の一つも点けていない。なので薄暗かった。

 

 入ってすぐ、父であるルドルフを見つける。少し赤みを帯びた左頬に手を添えながら、背中を丸めて座り込んでいた。大きく頼りがいのありそうな体が、今は随分と小さく見える。

 

 ……さっきの母の台詞と、今の父を見るに、二人がどういう話をしていたのかは簡単に察せた。

 

 切なく、歯がゆい気持ちを覚えながら、エカテリーナは父に歩み寄り、その巨体を背後から抱きしめた。

 

「……パパ。あたしね、大丈夫だよ」

 

 耳元に、ことさら安らかな声でささやく。

 

「学校では、コウとか峰子が一緒にいてくれるおかげで、いじめられてないし、独りぼっちでもない。家でどんなに酷い目にあっても、パパとママがいてくれれば我慢できる。なのに……そのパパとママが割れちゃったら、あたしが困っちゃう」

 

 かつてのようなロシア語ではなく、()()()()

 

「あたしは……この国で生きてくって、もう決めたの。だから、大丈夫」

 

 父のすすり泣くが聞こえ、エカテリーナは抱きしめる力を強めた。

 

「だからね……ママにごめんなさいしてね?」

 

 無言で頷く父。

 

 しばらくそうやって寄り添い合ってから、エカテリーナはゴミ箱に紙屑を捨てて、自分の部屋へ向かう。

 

 部屋に入り、ドアを閉めた途端、鞄をその場で手放して床に落ちるに任せ、壁に掛けられた額縁を手に取った。……鉛筆で緻密に描かれた、オニヤンマの絵が収められている。

 

 ベッドに座り、その額縁を抱きしめながら背中を丸める。

 

 ——このような「嫌がらせ」を受けるようになったのは、名倉惟正(なくらこれまさ)の自刃から五日後からだった。

 

 あの自刃によって、国民の軍縮反対の気風はさらに高まった。反対運動の音頭を取っている国家主義団体や愛国団体は何をか言わんや。

 

 それだけならまだしも、名倉の言い残した単語……「洋夷(ようい)」という単語のせいなのか、余計な陰謀論が生まれてしまった。

 

 『米露(べいろ)共謀説(きょうぼうせつ)』。

 

 日米間の問題なのに、なぜかそこに関係の無いはずのロシアまで加えられたその陰謀論は、しかし世間に燎原(りょうげん)の炎のごとく広まり、エカテリーナの伊藤家にまで延焼した。

 

 連日続く嫌がらせの数々。

 先ほどのような張り紙や、ポストへの悪戯。

 無言電話や脅迫電話。

 さらには伊藤家の出したゴミ袋だけが回収されず、「ソ連製化学兵器」とマジックペンで書かれて玄関前に戻されたり。

 ……それらが続くことによって、どんどん暗くなり、今のように揉めたりする両親。

 

 伊藤家は、ゆっくりと、しかし確実に精神を擦り減らしつつあった。

 

 さっき父にああは言ったものの、それは強がりでしかない。

 

 大人である二人ですら()()なのに、子供の自分がなんとも思わないわけが無い。

 

 エカテリーナもまた、気持ちが摩耗しつつあった。……時々、鳥にでもなって、人間社会のしがらみなど忘れて飛んでいきたいと思うほどに。

 

「……コウ」

 

 腕の中にいる秋津(トンボ)の存在を感じながら、その名前を呟いた。自分が一番好きな名前。

 

 何かあったら、僕に相談してね——こちらが少しでも浮かない顔をすると、光一郎はすぐにそう言ってくれる。昔も、今も。

 

 光一郎はずっと優しい。

 

 それに強くなった。優しいまま、とても強く。

 

 峰子も、そっけないように見えて、常にこちらの事を気にかけてくれているのが分かる。受験勉強によく付き合ってくれるし、この間泣いた時も、泣き止むまでずっと寄り添ってくれていたのだ。

 

 二人とも、大切な友達だ。

 

 優しくて、あたたかくて、頼りになる二人。

 

 ……すがってしまいそうなほど。

 

 でも、()()()()

 

 すがってしまえば、光一郎は間違いなくその剣で自分を助けてくれる。

 

 すがってしまえば、峰子は渋々といった顔をしながらもとことんまで付き合ってくれる。

 

 だけど、今回は「相手」が大きすぎる。

 

 学校で嫌がらせをしてくる悪ガキなどではない。

 

 大人の集団、ひいては今の社会そのものに等しい。

 

 二人とも剣は立つが、それだけでは到底及ばない相手だ。

 

 下手をすると、二人の身だけでなく、その家にまで(るい)が及びかねない。

 

 ——それに、そんな二人だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だって、自分と二人の関係は、中学校という場所ありきなのだから。

 

 もう三年生だ。来年の三月には卒業し、それぞれの進路に進んでバラバラになる。

 

 光一郎とは、間違いなく離ればなれになってしまう。

 

 峰子とは進路こそ一緒だが、だからといって未来永劫一緒である保証はどこにも無い。正式に軍へ入り、そこの人事如何によっては、別々の場所に飛ばされるだろう。

 

 ……結局、独力で問題と向き合わなければならない時が、必ず訪れる。

 

(コウと峰子に、いつまでも頼ってちゃ駄目だ)

 

 自分は、この国で生きると、もう決めたのだ。

 

 茨の道を、あえて進むことを決意したのだ。

 

 ロシアか日本か——両親に昔から与えられていた選択肢を、もう選んだのだ。

 

 であれば、独力で自分を最低限守れないで、どうするというのだ。

 

 ……しかし、今この目の前にある問題にどう対処すればいいのか、今のエカテリーナには分からなかった。

 

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