帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
——ごめんね。コウ。
エカテリーナは、心の中で、想い人にそう謝った。
昼の一件ではああは言ったものの、本心では
こんな状況になっても、彼は自分を助けようとしてくれた。
みんなに嫌われることを承知の上で、剣を抜こうとしてくれた。
やっぱり光一郎は、今でもなお光一郎だ。
……自分の初恋が彼で、本当に良かった。
自分の人を見る目は確かだったのだと思い、自信が持てる。
だから、もう——それだけで十分だ。
ここで彼や
自分を助けたばっかりに、二人が不幸な目に遭うなんて、とても耐えられない。
これは大袈裟ではない。
今朝のあの連中……「
あいつらに憎まれ、石を投げつけられるのは、「ロシア人」である自分だけでいい。
それに……自分だって、もう昔とは違うのだ。
自分だって強くなれた。変われた。
光一郎が、峰子が、他の人達が、自分を強くしてくれたのだ。
自分にとって生きづらいこの国で生きていくという選択ができるくらいの「強さ」をくれたのだ。
だから、もう甘えなくたって大丈夫だ。
——この程度の過酷くらい、自分の力でなんとかしてみせる。
帰りのホームルームが終わって放課後となった途端、エカテリーナはすぐさま教室を飛び出し、昇降口まで全速力で到着。下駄箱の錠前を外し、上履きから靴を交換してからまた閉じて閉錠。駆け足で校門を出てなおしばらく走って、ようやく速度を緩めた。途端、セーラー服の下の素肌に噴き上がる大粒の汗を実感する。早く帰ってシャワーを浴びたいと思った。
慣れた帰り道を一人で歩き、家が近づく。さて今日はどんな汚い張り紙が貼られているのか、と重い気持ちを無理やり楽しみに変える。
……ざわめきが耳に入る。
エカテリーナが家に近づくにつれて、その騒がしさは増していく。
疫病神、悪魔、地獄に堕ちろ——聞くに堪えない罵詈雑言の数々が、それを作り出しているのが解るようになってくる。
「——まさか」
気がつくと、走り出していた。
残り少ない帰路を一気に埋めていき。
——自宅の前に、人集りが出来ているのが見えた。
どろどろとした熱気が、辺りを支配しているのを感じる。
それを裏付けるように、各々の手元には木刀などの武器が握られていた。
「この国から出ていけ、
「ましてここは
「消え去れ露寇野郎!!」
「侵略者の片割れが!!」
人数は軽く目算して二十人以上。顔ぶれは老若男女さまざまだ。しかし、
「我々「帝戦連」は、お前達のような存在を断じて認めないぞ!!」
エカテリーナは目を見開く。……「帝戦連」。家まで来るかもしれないとは思っていたが、まさかもう。
「——もういい加減にしてっ!!」
さらに、耳をつんざくような、悲痛な怒声が響いた。
「……ママ」
エカテリーナは思わず呟く。間違えようはずがない。母の
「私達家族がっ、一体何をしたっていうんですか!? ただここに住んで、普通に暮らしているだけじゃありませんか!!」
続けて発せられた雪奈の強い訴えに、「帝戦連」の連中の誰かが反駁する。「嘘つけ!! ロシア人が千代田にいるんだ!! 何か企んでいるんだろう!?
「そんなことしていません!!」
「嘘をつくな!!」
「嘘じゃありませんっ!! 戦争中もっ、
「これから何かするつもりなんだろう!? ロシア人は侵略のために何でも利用する!! 外国人すら諜報活動に利用できるんだ、外国に住む同胞を操ることなんて朝飯前だろうよ!! アメリカとも随分
「だから違うって言——っ!?」
母の訴えが、苦痛で呻くような声で中断される。
「黙れ!! その穢らわしい口を閉じろ!!」
「死ね、露寇の情婦!!」
「恥を知れ
「地獄に堕ちろ!!」
罵声がさらに膨張する。
母の声も、聞こえなくなる。
このままでは、この圧倒的な憎悪によって、母の存在がかき消されてしまうのではないか。そんな予感を抱いた。
それに駆られるまま、エカテリーナは鞄を置き、家の門前で群がる「帝戦連」の連中へ突っ込む。
いきなり突っ込んできた存在に、「帝戦連」は誰もが反応が遅れ、エカテリーナに蹴散らされていく。
強引に人集りを突っ切り、玄関ドアの前まで抜け出た。——小柄な母の前で、木刀を振りかぶっている大柄な男の姿が目に映った。
エカテリーナは氷のような殺気を冴え渡らせ、男の背後へ瞬時に滑り寄る。着ているシャツの襟首を掴みながら尻を踏むように蹴り、
「カ、カチューシャ……あなた……!?」
「ママ、説得なんて無駄。こいつらはいっぺん思い知らせてやらないと理解できないのよ」
戸惑った雪菜の声に、エカテリーナは振り向かずにそう早口で答えた。
自分への痛罵ならいくらでも受け流せたが、今回ばかりは許せなかった。
よりにもよって、母を傷つけようとしたのだ。
エカテリーナとて、剣を抜かずにはいられなかった。
木刀を中段に構える。至剣流「正眼の構え」。
剣尖越しに、憎悪に取り憑かれた群体生物を見据える。
「おい、こいつ、この家の娘だ!!」
「悪魔の血を引くガキめ!!」
「舐めやがって!!」
慣れ親しんだ構えに、意識が冴え渡る。
奪った木刀を握る両手に、気力がこもるのを感じる。
「——来なさい、みっともない大人ども。英雄仕込みの剣、見せてあげるわよ」
孤独な戦いが、始まった。