帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
成人済みの若い男の声。がなりたてる感じではない、抑制を感じさせる静かな声。
他の人間の放つざわめきもあるのに、静かに発せられたはずのその声は、そんな障壁など無いかのように強く響いた。
「し、
年齢は二十代を確実に抜けていない、線の細い男だった。
ゆるい弧を綺麗に描いて顎先まで続くシャープな細面。その中に浮かぶ目鼻立ちには歪みが無くすっきりとしていて、目元からも理性のもたらす緩みが強く感じられる。しかしその瞳には、闘気と敵意が丸く凝縮されていた。
白い長袖ワイシャツを肘まで
「何よ。あんたも後ろの烏合の衆のお仲間?」
エカテリーナが悪ぶった笑みで問うと、それに答えるかのように、途中で転がっていた木刀を蹴り上げ、左手で掴む。……無言だが、雄弁な返答。
(こいつ……かなり
歩くという所作だけで、白鳥と呼ばれたその男の実力の高さが判ってしまった。……普段から稽古で
冷や汗を一筋かきながらも、エカテリーナはことさら強気に煽りかかる。
「やんの? あたしと。あんたもこいつらと一緒に雑魚寝したいんだ?」
「——無理に悪に徹しようとしなくてもいいぞ、
落ち着いた、しかし敵意が小さくささくれ出たような声。
図星を突かれて思わず押し黙るエカテリーナ。
白鳥はエカテリーナの遠間で立ち止まると、予想外の言葉を放った。
「
「は……何て?」
「休ませてやると言った。ここまで戦ったのだから、疲労もしていることだろう。今すぐ叩きのめしても構わないが、あえて貴様を休ませて、万全の状態にした上でやってやる」
「……意味分かんないんだけど。なんであたしを利するような真似をするわけ?」
「勘違いするな。これは慈悲などではない。——万全の貴様をも叩きのめして、己の剣への自信を失わせてやるためだ。剣はこの大和の
その物言いにカチンと来るのと同時に、少なからずの不安を覚えた。
まるでこちらが万全の状態でも、己の勝利が揺るがないというような物言い。
しかし、この周囲で悶絶して横たわっている連中をやったのはエカテリーナだと、この男も判断できているはずだ。その上での、今の言葉。……己の剣に対する自信が垣間見えた。
情け無用と突っ込んでいきたい衝動に駆られるが、大きく息を吐いてその気持ちを沈下させる。
「……後悔しても知らないわよ」
「しないという確信があるから言える」
エカテリーナは鼻を鳴らし、立ったまま呼吸を整えて小休止し始めた。どうせなら座り込みたいところだが、そこまでこいつを信用できなかった。
小休止は一分少々だけで済ませた。休み過ぎると、直前までの戦いを経て冴えていた身体感覚までもが
エカテリーナは「正眼の構え」を取り、中段にある木刀の剣尖越しに
白鳥もまた「正眼の構え」……かと思いきや左足で一歩進むと同時に「陰の構え」となり、さらに右足で一歩進んで「陽の構え」、左足で進んで「裏剣の構え」、右足で進んで「正眼の構え」……一歩のたびに構えがコロコロ変わる。しかもそれらの変化は流水のように滑らかで柔らかく、ぎこちない感じがしなかった。
エカテリーナが「正眼の構え」を保って後退し、白鳥が構えの変更を交えて進む。それがしばらく続き——やがて白鳥が「裏剣の構え」から
『
……そう。エカテリーナは確かに、あらゆる想定をしていた。
しかし、ただ一つ、想定をしていなかった点があった。
それは——白鳥の発する剣の
「かはっ——!」
暴力的に加速して、瞬時にアーチを描いた白鳥の剣。それを上段に構えた剣で受け止めたエカテリーナは、木刀ごと全身をバラバラにされるような凄まじい衝撃を浴びた。
その一太刀に宿る、巨人の
アスファルトを数回転がり、柔術の稽古譲りの受け身を取って体勢を整える。そのまま立ち上がろうとして、先ほどの衝撃の余韻で悲鳴を上げた関節が痛み、止まった。
己の木刀を見て、息を呑む。……受け止めた箇所が、浅く潰れていた。
エカテリーナは、遠くの白鳥を見上げる。剣を深く振り下ろしたその姿勢は『波濤』にそっくりだが、エカテリーナにはそれが『波濤』ではないことを判っていた。
「まさか、それ……『
それを聞くや、白鳥は感心したように眉根を持ち上げ、直立に戻って一笑する。
「よく分かったじゃないか。そう、今のは『波濤』ではなく『迦楼羅剣』だ」
『迦楼羅剣』——『
それら一つ一つをそのまま学べば、ただの数ある剣術型の一つに過ぎない。
だが至剣流宗家
まさか、この男は嘉戸宗家と
「去年からだな。急にこの『迦楼羅剣』が、このような
「……『あの方』ってのは誰よ?」
「この俺が敬愛し、崇拝してやまぬ人物だ。あの方も血の
次第に熱を帯びていく白鳥の口調に、エカテリーナは気後れのようなものを覚える。尊敬すらも超え、神聖視すらしているような、浮世との強い隔たりを感じたからだ。
「そして露寇。貴様らはこの帝国の豊かさと安寧を脅かす害虫だ。この「剣」を以て、貴様ら全匹帝国から除いてくれよう」
だが、白鳥はすぐに射殺すような視線を剣尖とともにエカテリーナへ向け、明確な敵意を再び示した。
エカテリーナは、刃の部分が一箇所潰れた木刀を一瞥する。潰れた箇所から手前へ、ほんの小さなヒビがわずかに進んでいるのが見えた。
……おそらく、白鳥の『迦楼羅剣』が「高級剣技」としての威力に達したのは、ただの偶然だ。
かつて、
村正が学んだのは、嘉戸宗家の至剣流だ。本来
そんな不純物入りの『嘉戸派至剣流』でも、村正のように至剣を体得する者はごく少数いる。しかしそれは、剣に人生を捧げるくらいの姿勢で修行に臨まなければ得られない。……事実、村正は「剣以外は
——そして「高級剣技」もまた、自分一人では存在にすら気づけないようなモノだ。何故ならば、嘉戸宗家の秘匿状態である『四宝剣』を基盤とする剣技だからだ。
「高級剣技」を無自覚や偶然であれ身につけたということは……つまり、至剣流の深奥にそれなりに進んでいるということだ。
思わずエカテリーナは問うた。
「……あんた、目録持ち?」
「無論。
中伝目録。至剣は身につけていないが、それでも
普段ならば迷わず逃げるところだが、それは出来ない。
だって、今の自分には、いろんな意味で逃げ場が無いのだから。
帰るべき家を襲われている以上、座視するわけにはいかない。相手が誰であれ、剣を構えなければならない。
それに……自分はもう、この国で生きていくと決めたのだ。
エカテリーナは大きく息を吸ってから、気合いを入れて立ち上がる。損傷した木刀を取り替えるべく、少し離れた場所に転がっている別の木刀——敵の一人が取り落としたものだ——へ近づこうとした瞬間、白鳥の姿が急迫した。
「っ……!」
白鳥の振り放った一太刀を、エカテリーナは今の木刀で受け止めた。
思いっきりの脚力で飛び退くが、白鳥もまた身を素早く進めてくるため、距離が作れない。
(この野郎、あたしに木刀を交換させない腹づもりか……!)
エカテリーナが木刀を中段に構えながら再び後退すると、白鳥は猿のごとき軽快な運足で前進し、右下段後方に構えていた木刀を円弧に振り放った。その一太刀はエカテリーナの木刀を「かぁん!」と叩いて横へ弾くと同時に刃の向きを俊敏に翻し、大きく踏み込みながらの二太刀目を右へ振り抜いた。至剣流『
(間抜け! そう来ると思ってたわよ!)
だが、白鳥は
急いで木刀を取り替えようと考え、しかしすぐに嫌な予感を覚えて身をサッと翻した。それと同時に、前に構えた木刀に白鳥の円弧の一太刀がぶつかった。整った太刀筋の中に細く圧縮された衝撃を木刀越しに受け、全身がこわばる。
「——
それを聞いてエカテリーナは確信する。この男は、こちらが『浦波』の二太刀目の瞬間にすれ違おうとするのを読んでいたのだ。「木刀を取り換えたい」という心理を利用され、危うく『浦波』からの変化の太刀に打たれるところであった。……今の一撃を受ける直前に、反時計回りに身を翻して木刀を円弧に発するのが一瞬見えた。おそらく、外した『浦波』の二太刀目をそのまま『旋風』に繋げたのだ。なんという応用力。
一つの目的に固執すると危険だ、臨機応変に動かなくては——続けてやってくる白鳥の連撃に、エカテリーナはそう思いながら応じていく。
一対の木刀と、二人の立ち位置が、とどまることなく変化し続ける。
切り結ぶ快音が、何度も響く。
(やっぱこいつ、強い……!!)
素早くも整った身のこなし。そこから発せられる剣が、整然と虚空を滑る。受け止めるたびに、研ぎ澄まされた衝撃が下半身まで響く。
攻め込もうにも、どこへ攻めていいのか分からない。隙が無さすぎる。
(——落ち着け)
剣だけでなく、心でも圧倒されかけていたのを自覚し、それを制する。
どれほど凄腕であろうと、剣を交え続けていればいつか必ず隙を大なり小なり見せると。
そして、剣士として未熟であろうとなかろうと、同じヒトである以上、刃が通れば等しく死ぬと。
(あたしは頭の良い女なんだ。考えなさい、賢いカチューシャ。どうすれば、こいつに一発ぶち込む隙を生み出せる?)
認めざるを得ない。
どんなにムカつく差別主義者でも、白鳥は剣士としてこちらより格上だ。
白鳥だってそれを分かっているはずだ。
だからこそ、単純な剣の腕で追い込み続ければ、いつかは勝てる。
こちらがいつか負ける事前提で、攻撃し続けている。
その未来を疑っていない。
ならば——