帝都初恋剣戟譚   作:新免ムニムニ斎

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ある「ヤポンツィ」の少女

 ——少女は、曇天のモスクワを、目的も無く歩いていた。

 

 全てのきっかけは、去年の極東戦線であった。

 

 「西側の帝国主義の魔の手から、極東の小国を解放すべし」という謳い文句のもとに行われた、対日()()()()

 

 世界に冠たる強大なソビエト軍が、西側の危険思想に冒されたサムライの群れを鎧袖(がいしゅう)一触(いっしょく)で蹴散らす結末を、多くの者が疑わなかった。

 

 しかし、結果は予想を悪い意味で大きく裏切る、暗澹(あんたん)たるものだった。

 

 電撃的に「解放」した土地は、あっという間に日本軍に奪われ。

 それが知られたことで、ソ連の力の低下を悟ったウクライナやカザフやバルト三国などの構成国が、次々と独立。東独の壁も破壊された。

 さらには当時の、そして党最後の書記長であったヴィークトル・ヴォロトニコフの暗殺を皮切りに大きな政変が起こり、ソ連という国はあっという間に地球上から姿を消した。

 

 ソ連が倒れた後、新しく興った新ロシア連邦は、かつての敵であった西側の政治や制度を積極的に取り入れた。

 一党独裁を捨て、民主主義(デモクラーチァ)となった。

 国が生産と供給を全て決める計画経済から、市場経済へと切り替わった。

 長らく国営だった企業の数々が民営化された。

 

 しかしそんな変化は、多くのロシア人を幸せにはしなかった。

 

 拙速にもたらされた自由主義は、責任も秩序も皆無な犬畜生の自由と化した。餓狼の群れのごとき富の奪い合いが起こり、これまでほぼ無縁だった貧富の格差が生じ、治安も急激に悪化した。

 さらにはオリガルヒという財閥や、数々の犯罪組織が生まれた。それらが政界と癒着し、汚職が相次いだ。

 集団農場(コルホーズ)から独立して富を得た個人農家が「富農(クラーク)」と罵倒され、農地が燃やされた。「平等に助け合う社会」という感覚が抜けきっていない人々は、個人農家の一人勝ちが許せなかったのだ。

 

 ——この時点でまだ六歳であった少女も、そんなロシアの変化とは無縁ではいられなかった。

 

 少女の父は、地上軍の兵士だった。

 

 極東戦線で日本軍と戦い、そして生還した、いわゆる「極東帰還兵(ヤポンツィ)」だった。

 

 「ヤポンツィ」とは、蔑称だ。

 西側帝国主義の子分ごときに敗北して大祖国の崩壊に一役買い、その上おめおめ生きながらえ、戦後にはウォッカや薬物に溺れて治安を悪化させる迷惑な熊へと成り下がった。そんな連中は、敵国人である日本人(ヤポンツィ)と同類——そんな侮蔑と失望がこもった呼称。

 

 父もそんな「ヤポンツィ」の例に漏れなかった。

 戦場で味わった苛烈なストレスのせいで、帰還してきた時はすっかり人が変わってしまっていた。

 易怒(いど)(せい)が高まり、すぐ癇癪(かんしゃく)を起こしたり、暴力を振るうようになった。

 ウォッカに多くのお金を費やし、常に酔っていた。

 酔いながら、日本人に対する悪罵をいつも吐き続けていた。

 

 ……ロシアというのは、昔も今も離婚大国だ。少しでも「やっていけない」と思ったら、すぐに離婚する。三回の離婚を経験しているおばさんも知っていた。

 

 母は変わり果てた「ヤポンツィ」の父をすぐに見限り、家を出て行った。

 

 少女は、父のもとに残された。

 

 それからは父の癇癪の捌け口にされた。少女は父親似の顔だが、父から見ると母親の面影もあるらしかった。だからこそ、自分を捨てた妻を連想させる少女が憎く思ったのだろう。

 

「お前までっ、あの女と同じ目で、俺を見下しやがって!! 俺がどんな思いで、日本人と戦ったと思ってやがる!? 雌犬(スーカ)の娘がぁっ!!」

 

 酒に酔った父に、何度も殴られた。毎日のように顔に痣を作った。

 

 いよいよたまらなくなった少女は、家を飛び出した。

 

 しかし、父から逃げたところで、どこに行けばいいのだろう。

 

 自分を置き去りにした母が、今どこにいるのかも分からない。

 

 ——目の前には、気候も人心も冷め切ったモスクワだけが広がっていた。

 

 曇天の空の下には、色々な、しかし総じて暗い、人々の営みが見られた。

 

 路上で眠る人々、

 店からパンを強奪する、自分より少し上くらいの男の子、

 常に路肩に立ち、車が通るたびにスカートをたくし上げる若い女性、

 潰れた民営銀行の前でため息をつく老人、

 

 自分もいずれ、あの寂れた風景の一部を担うのだと、自然に受け入れられた。

 

 そして家出して二日後、自分もひもじくて店からパンを盗んでしまい、それを店の人に見つかってしまった。

 

 少女は逃げる。最初は大きく差をつけていたが、大人が相手であるためどんどん距離を詰められていく。

 

 どうにか路地裏に隠れてやり過ごし、盗んだパンをがつがつと喰らった。一瞬で無くなった。

 

 路地裏では、野良犬がゴミを漁っていた。

 

 自分もいずれこうなる。そう思った。

 

 だが、その時——大きな人影がヌッと差した。

 

 店の人が来たのかとビクリと振り向いたが、違う人だった。

 

 顔の造作は、曇天からの逆光でよく見えない。だが、大人の男の人だと判った。

 

 その人は、よくわからない目でこちらを見下ろし、感情のこもっていない声で言った。

 

「——『ダーチャ』に来るか、このまま街娼(がいしょう)にでもなるか、好きな方を選ぶといい」

 

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