帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
七月二十五日金曜日から、とうとう中学最後の夏休みが始まった。
去年までは剣術漬けの夏休みだったが、今年ばかりはそうはいかない。
受験があるからだ。
なのでこの夏休みは、望月家へ
そして、夏休み開始二日目にして、最初の土曜日でもある今日、七月二十六日。
「——トッ!!」
細く鋭い気合が、望月家の稽古場に響く。それを反映したように、僕の木刀の切っ尖が火花のごとく俊敏に
そんな僕の『
だが、彼女の剣は、僕の剣と打ち合って十文字の関係となる。『風車』が来る直前、右足で前へ出ながら、剣を左耳隣で垂直に構える「陽の構え」へ素早く変化させたからだ。
僕はさらに打ちかかる。反時計回りに旋回しながら彼女の左隣へ回り込み、一周と同時に剣で弧を滑らかに描く。至剣流の『
打ち合う音。両剣が切り結ぶ。
間近で見つめ合う僕ら。僕の方が背が高いはずなのに、競り勝てる気が全然しない。まるで地面と一体化した巨大な鉱物と押し合っている気分だ。
最深部まで澄み切った泉を思わせる黒い瞳。優しく整然と透き通った鼻筋。花弁みたいな薄桃色の唇。透明感と瑞々しさを備えた白い頬。黒いシルクのように柔らかくうねる綺麗な長髪。ほのかに鼻をくすぐるミルクっぽい
……螢さん。僕の同門であり、姉弟子でもある女性。
そんな人と、僕がこうして剣を交えている理由は、彼女が僕にとって同門や姉弟子以上の存在だからだ。
僕はこの人が好きだ。女性として。
だからこそ、彼女の隣に立つべく、彼女に剣で勝たんと欲している。
剣を始めたばかりの頃は一瞬で負けてばかりだったが、近頃はそこそこ長めに食い下がることが出来るようになってきていた。
しかしながら、それでもまだ螢さんの方がずっと手強い。僕の攻め手も、反撃も、全て彼女の剣と身のこなしによって無力化される。守勢を固めて「後の先」を狙おうとしても、まるで布へ染み入る水のごとく剣が容易くかいくぐって入ってくる。
一度だけ「影響の連鎖」を掴むくらいにまで持ち堪えたことがあるが、すると彼女の動きもまた変化した。一太刀一太刀の威力がものすごく重くなり、受けただけで体勢を崩すほどになった。「影響の連鎖」が分かっていて、それによって螢さんの次の動きを予測できても、その時にうまく動けなければ避ける事も攻める事もできなくなる。そうしてあっという間に負ける。
——僕は確かに腕を上げたが、まだ螢さんには遠く及ばない。
この一戦が何回目、いや、何十回目なのか、もはや数えていない。分かっているのは、これまで全て負けているということだ。……そして、この一戦も、おそらく勝てない。
それでも僕は、螢さんに挑み続ける。
螢さんの隣に、立ちたいから。
だからこそ——僕は、
自分のことを、ずっと密かに好いていてくれていた女の子。
その気持ちに、僕は応えることができなかった。
それだけならばまだしも、あの子の心に、浅からぬ傷をつけてしまった。
あれだけ「守る」「助ける」と言ったのに、それができなかった。
だけど、考えてみたら、当然ではないか。
僕のこの剣は、螢さんのためにあるのだから。
そうである以上、あの子の事は、どこまでいっても「ついで」でしかない——
「っ!?」
うじうじとしていた僕の思考が途切れ、半ば自動で剣と体が動いた。螢さんが僕の左側面へ抜けざま、剣を左から右へ水平に放ったからだ。それを僕は大きく右後方へ飛び退き回避。
螢さんはすぐさま進路を変えて僕へ急迫。その過程で、右下段後方から渦巻くように振り放った『
僕がそれを反射的に剣で受けた瞬間——とても『旋風』のモノとは思えぬほどの凄まじい衝撃で、僕の剣が右へ弾かれた。
「ぐ——!?」
『旋風』と『石火』——用いられる
僕の体勢も、強く弾かれた剣に引っ張られる形で右へ崩れた。重心がもたつく。
すぐに重心の安定を取り戻したが、その時にはすでに——螢さんの木刀の刃が僕の首筋に触れていた。
僕はそこで剣と足を止めた。真剣であれば、首を斬られている。
「ま、参りまし——たむっ?」
僕のほっぺたがムギュッと内側に圧迫された。螢さんのひんやりすべすべな右手が、僕の顔を両側から掴んでいたからだ。
螢さんは僕を見上げて言った。……いつも通り静かに澄んだ瞳。しかし今はその周囲の
「——コウ君、いま、
その声も、いつも通り平坦なようで、しかし硬さを帯びていた。
怒っている……そう確信した。
僕が、全く別の事を考えていたから。
「……すみ、ません」
血の気が引くのを実感しながら、掠れた声で謝罪を口にする。
僕の顔を掴んでいた螢さんの右手が離れる。少し和らいだ静かな声で問うてきた。
「エカテリーナさんのこと?」
「……はい」
ここまで来たらもう隠しても仕方がないので、僕は素直に認めた。罪を告白するような気分だった。
「何があったのかまでは、問わない。だけど……」
螢さんは、ずいっと僕の間近まで顔を近づけた。
キスが出来そうなほど距離が近く、おまけにミルクっぽい良い匂いがする。僕は少しドキリとした。
「——少なくとも
さっきと同じ、静かながら張り詰めた口調で、彼女はそう厳しく告げた。
僕は改めて、己の非礼を強く実感した。
この勝負は、螢さんに勝つためのものだ。
勝って、彼女の隣に立つためのものだ。
それなのに、僕はそんな愛すべき彼女とは別の女性の事を頭に浮かべながら、剣を振るっていた。
……それを、螢さんは怒っている。
複雑な事情を抱えていて、それに悩んでいるのは分かる。だけど、自分との勝負の時だけは、せめて自分のことだけを見ていて、考えていて欲しいと。
僕のさっきまでの勝負への姿勢は、螢さんのそんな女性としてのプライドを傷つけかねない非礼だったのだ。
「…………すみません」
僕は再び、自分の失礼をお詫びした。
しかし、そう言っている側から、気がつくとあの子の——エカっぺの顔が脳裏をよぎっていた。