帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
午後一時——
髪を後頭部で一つに束ねる大きなラメ入りビーズの髪飾りが、陽光をギラギラと眩く反射していた。手で拭い損ねた額の汗が数滴、耳元から首を伝い、胸元へ流れていく。紺色を基調とした裾の長いワンピースは、襟元は鎖骨が全て隠れているが、反面、片口から指先までが秘めずすっきり晒されていた。片手には、やや重みのある手提げ鞄。
目の前には、一軒家がある。その家の門前に峰子は立っていた。
表札には「伊藤」という文字。その近くには、インターホン。
ごくりと喉を鳴らし、そのスイッチをおもむろに押す。
ぴん、ぽーん、という簡素な二拍子の電子音が鳴ってから、しばらくして応答が入る。
『……どちら様でしょうか』
聞き知っている女性の声が、インターホンのスピーカーから返ってくる。電子化された音声であっても、その声音に宿る堅い緊張は簡単に察せた。……つい最近まで、ロクな訪問者がいなかったのだから、無理もない。
「う、卜部です」
峰子が上ずった声で応じると、その女性——
『あら、峰子ちゃん? どうしたのかしら?』
「あっはい。その、カチュ……エカテリーナさんに用があって、参りました」
『そうだったの。……あれ? だけどあの子、峰子ちゃんが来るなんて言ってなかったわねぇ』
「こ、断りなく来ました。その……迷惑であれば、帰りますが」
『う、ううんっ。峰子ちゃんなら大歓迎よ。だけど……今来ても、あの子には会えないかもしれないわよ?』
「構いません」
『分かったわ。ちょっと待っててね』
インターホンからの通話がブツリと切れてから、すぐに門の向こうの玄関ドアが「カチッ」と鳴った。開いた隙間から顔を出した雪菜が「どうぞいらっしゃい」と、童顔に柔らかい笑みを浮かべて招いてくれた。峰子は一礼し、謹んで家へ入った。
「暑かったでしょう? 冷たい麦茶でも出すわね」という雪菜の計らいに甘え、冷房のきいたリビングのダイニングテーブルにて冷えた麦茶をいただく。炎天下の中を歩いて熱を宿した体がひんやりと奥まで冷やされ、心地よかった。遠慮がちに少しずつ飲もうと思っていても体は正直で、あっという間に飲み干してしまった。
向かい合って座った雪菜ととりとめのない世間話を幾度か交わしてから、峰子は本題に入った。
「……あの子の様子は、どうですか?」
その問いに対し、雪菜は黙って首を横に振る。……それだけで、状況の芳しくなさがよく伝わってきた。
「ご飯はちゃんと食べてるんだけどね……私達とも、あんまり喋ってないわ」
「そうですか……」
峰子は胸に痛みを覚えたが、それでもここまで来た意味を少しでも残さんと、鞄を持って立ち上がった。
リビングを出て、その部屋——エカテリーナの私室の前へ訪れた。
閉じられたドアの向こうからは、ふぁー、という小さなプロペラのような音が継続している。扇風機だろう。
峰子は意を決し、呼びかけた。
「……カチューシャ、聞こえる? 私よ」
ドアの奥から、ぎしり、とベッドの軋みがかすかに聞こえてきた。
言葉が返ってこないことに早速怯みを覚えるが、気負けせずに続けた。
「その……勉強、一緒にやらないかしら。ほら、私達、進路が一緒でしょ?」
言いながら、相手が見てもいないのに手提げ鞄を軽く掲げる。その中には筆記用具と、陸士一般試験の過去問集が入っている。
幾秒か跨いでから、寝起きのように重めなエカテリーナの声が扉越しに聞こえてきた。
「……あたし、呼んでないんだけど」
「ご、ごめんなさい。私が事前の断りも無く、勝手に来たの」
前もっての許可を得ようとすると、電話の段階で断られてただろうから——そんな言葉を飲み込む。
「迷惑だったわよね。ごめんなさい。だけど……どうしても、貴女の様子が、気になって」
自分の声が、先細りになっていくのを感じる。
再び、沈黙が訪れる。回っている扇風機の音すら遠く感じる。外界と隔絶されたような、二人だけの重い静寂の世界。
しばらくして、エカテリーナがその沈黙を破った。ことさらに柔らかくしたような声音で、
『……峰子、ありがとね』
「え……?」
出し抜けな感謝の言葉に、峰子の声が思わず裏返った。
『
——とっとと失せろ!! これ以上、私の
先日、「帝戦連」からエカテリーナを庇いながら口にしたその発言を思い出し、峰子は顔がかぁっと熱くなる。夏の暑気よりも分厚い熱が頬に宿るのを実感した。
「あ、あれは、そのっ……!」
慌てて否定しようとして、やめた。
エカテリーナが、嬉しいと言ってくれたから。その気持ちを壊して、ただでさえ落ち込んでいる彼女をさらに落ち込ませたくない。
なにより……あの時の峰子の言葉は、偽らざる本心だったからだ。
自分は、自分で思っているよりもずっと、このドアの向こう側にいるロシア混じりの少女を、好きになってしまっていたのだから。
だから、こうして足を運んだのだから。
『あたしもね……峰子のこと、大好きよ。友達だって思ってる』
「……そ、そう」
顔に宿る熱がさらに高まる。手のひらがじんわり汗ばむのを感じる。
ものすごく恥ずかしい。だけど、悪い気はしなかった。
それに、エカテリーナの明るめな言葉選びを聞いて、少しでも立ち直れる可能性があるんじゃないかとも思った。一緒に勉強できるくらいには余裕がある、と。
だけど次のエカテリーナの言葉を聞いて、それが甘い見通しであることを思い知った。
『……でも、ごめんね。いまは、誰とも会いたくないの』
「カチューシャ」
『お願い。しばらく、来ないでくれるかな』
気を遣った口調の中で、拒絶の響きが軋んでいるように聞こえた。
峰子は思わず怯んでしまった。
同時に……まだ駄目だ、と確信する。
「……分かったわ」
そう、返す他なかった。
峰子はドアに背を向けて歩き出し、しかし見えなくなるまで視線をドアに向け続けた。
「そのうち……また来るからね」
†
「……ほんと、ごめんね。峰子」
遠ざかっていく足音を切ない気持ちで聴きながら、エカテリーナはぽつりと独りごちた。
すでに夏の暑さであるため、窓は開け放たれて網戸となっており、ベッドの近くの扇風機はずっと回り続けている。それでも涼しいではなく
網戸から外気とともに入ってくる光が鬱陶しい。エカテリーナはベッドの上で身を転がし、差し込む陽光から顔を隠す。懐にもたらされた小さく薄い闇に、ぼんやりと浸る。
すでに夏休みに入り、まして今日は土曜日だ。いつもなら、とっくに望月家へ剣の稽古に出ているところだ。
しかし、今はあそこには行きたくなかった。
(先生のところに行けば……コウと顔を合わせなきゃいけなくなる)
エカテリーナの体が、胎児のように丸まった。装いは半袖に短パンという、夏仕様の寝間着のままであった。そこから伸びる長い四肢と、この身に流れる血に由来する
「……コウ」
白い肌すらも黒く見える狭い闇にすがりながら、その名を思わず口にする。
世界で一番好きな男の子の名前。それを形どった己自身の声で己自身の耳朶を揺らし、己自身の心に染み渡らせた。そして……後悔と悲しみを想起し、涙が浮かんだ。
「コウぅっ……!」
嗚咽とともに、涙が二滴三滴と次々溢れ出した。
——自分の「初恋」は終わった。それも酷い形で。
己の無力感に苛立ち、それに任せて駄駄を捏ねる形で、想いを吐き出してしまった。
そのくせ、彼の
……分かっていたのだ。自分の「初恋」は、実らない初恋なのだと。
それでもなお、自分は光一郎が好きだった。凍っていた自分の心を溶かしてくれた、陽だまりみたいな彼のことを愛していた。
叶わなくてもなお、彼を想い続け、彼の側に居続けようと決めた。
決めたはずなのに……いざ「叶わない」という現実を思い知らされるのが、こんなにも辛いだなんて。
この懐の闇の中に、身と意識を吸い込まれてしまいたかった。この辛い気持ちごと、この世から消滅してしまいたかった。
「やだぁぁっ…………! コウぅっ……やだよぉっ…………!」
欲しい。彼の全てが。
あげたい。自分の全てを。
またあの頃みたいに、ひまわりみたいな笑顔を向けて欲しい。夏休み直前の学校で向けてきた、あんな気遣わしい顔は嫌だ。
彼の手を握りたい。肌と触れ合いたい。体温を共有したい。
彼と唇を合わせたい。その唇を耳元まで持ってきて「愛してる」って何度も言い合いたい。
彼と自分、二つの存在を一つにしたい。
……でも、それは叶わない。
自分が今まで受けてきた、どのいじめや嫌がらせよりも、輪をかけて苦しかった。
(……そういえば、嫌がらせ、受けなくなったな)
ふと、そこに思い至る。
現在、七月二十五日。今月初旬から受けてきた伊藤家に対する苛烈な嫌がらせの数々が、今では嘘みたいに収束していた。
理由は、教えられずとも分かる。……
先の日ソ戦でこの国を護った「英雄」の言葉の威力は絶大だった。その後、ほどなくして伊藤家の嫌がらせが収まった。そしてそれは今なお続いている。
まだ警戒は必要だが、この家の問題は解決したと見ていいだろう。
だけど……どうして源悟郎は、公で「帝戦連」を批判したのか?
源悟郎はエカテリーナの剣の師だ。
しかし、家への嫌がらせの件を、その剣師には伝えていなかった。
「一人でなんとかしたい」という気持ちが強かったのも理由だが、前より体の弱っている源悟郎に無理を強いたくなかったのだ。……実際に戦争を戦った身なのに、ロシアの血を引く自分を嫌な顔一つせず受け入れてくれた、どこか光一郎に似た雰囲気のある師に。
それなのに、源悟郎は公に苦言を発し、結果的に自分を助けてくれた。
それも、この家への嫌がらせがさらに激化していた、あの絶妙なタイミングで。
——きっと、光一郎が進言し、助力を請うてくれたのだ。そうとしか考えられない。
(やっぱり……コウはどこまでいっても、コウなんだね)
あんな醜態を晒した自分を、なおも陰ながら助けてくれた。
どんなに気まずくなっても、彼のやることは変わらない。
だけど……その優しさと暖かさが、今は痛かった。
彼の意思をより身近に感じてしまい、苦しかった。
だからこそ、今この懐には、
一年生の頃、彼が自分にくれた絵。
「エカテリーナに持ってて欲しい」とくれた絵。
毎朝、その絵を光一郎だと思って、軽くキスしていた。
気持ちが沈んだり、切なくなった時は、それを抱きしめていた。そのまま一緒に寝たりもした。
あの絵があるだけで、どんな過酷にも耐えられそうだった。
けど、今はあの絵を見るだけで、切なくなる。
だから懐に抱きしめないどころか、額縁ごと壁から外している。
そのまま捨てられれば楽なのに、それを机の引き出しの、普段開かないところに隠している。
それが、自分の中途半端さと、未練がましさを体現しているようで、ひどく情けなかった。
「馬鹿みたい……あたし」
涙の混じった声で、エカテリーナは自嘲する。
今の自分は、きっと、光一郎と出会う前よりも弱くなっている。
光一郎への恋は、自分を強くしたのだと思っていた。
しかし、逆なのかもしれない。
この「初恋」は、きっと、自分を弱くしたのだ。
こんなに、弱くなってしまうのなら、いっそ——
その先は、口にするどころか、考えることすらしたくなかった。
——コウと出会わなければよかった、なんて。