帝都初恋剣戟譚   作:新免ムニムニ斎

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カチューシャは歌う

 

 ——八月九日、午後三時。

 

 エカテリーナは今年は受験生だ。それも難関である陸軍士官学校の試験を控えている。

 

 普通ならば……こんな風に、扇風機の生温い風に吹かれながら、ベッドで横になっている場合ではないはずなのだ。

 

 勉強しないといけないはずなのに、ここのところ、ほとんど勉強に身が入らない。

 

 この、常に綿の中に閉じ込められているような暑気のせいではない。……心理的な理由だった。

 

「いいかげん、ふっきれろっつーのよ……」

 

 そんな自分に嫌気が差し、エカテリーナは思わずぼやく。

 

 しかし、体は地面に根を張っているかのように、起きるのを拒んでいる。

 

 このままずっと寝ていたい、いやいっそこのまま地の底まで沈んで、そこで永眠してもいいくらいだ。どうせ、このまま生き続けてたって、何かいいことがあるとは思えない。であるなら、陸士なんか目指したって何になるというのだ。だったらいっそ、もう消えてしまった方が、自分のためにも、世の中のためにもなる……

 

 陰が極まって陽へ転ずる。退廃的な思考は、逆に「そうはなるまい」という気力を湧き上がらせた。

 

 エカテリーナは勢いよくベッドから起き上がり、家を出た。理由など無い。ただの気分転換だ。家の中にゴロゴロし続けていたら、心も腐り果てて本格的に立ち直れなくなりそうで怖かったからだ。

 

 家を出る直前、まるで習慣のようにポストの中を覗いた。……生ゴミも、ネズミの死骸も入っていなかった。

 

 空にはまばらに散った雲と、痛いくらいに日差しを発する夏の太陽。すでに時刻は午前十一時で、暑気も本格化しつつあった。

 

 しばらく外を歩いてから、ようやく自覚する。装いが、パジャマとして着用しているシャツと短パンのままだ。父譲りの金髪も、くしけずっていないため少しボサボサだった。思わず羞恥心を抱いたが、すぐに気にしなくなった。……どうせどんなに着飾ってたところで、あたしに対して向く目は変わりやしない。

 

 額に浮かんだ汗を拭いながら歩き、駄菓子屋に到着。その軒下のベンチに座る先客の女の子の存在をぼんやりと認識しながら、店に入る。

 

 ゴリゴリ君のコーラ味を選び、カウンターで会計を行おうとすると、

 

「あら、エカちゃんじゃないの。今日は光一郎(こういちろう)ちゃんは一緒じゃないの?」

 

 店主のおばあちゃんに何気ない感じにそう問われた。

 

「え、ええっと、うん。今日は一人なんだ。これちょうだいね、おばちゃん」

 

 ズキリと走った心の痛みを努めて無視して笑みを作り、ゴリゴリ君の会計を手早く済ませ、外へ出た。

 

 大きく息を吸い、そして吐いた。……なおも胸にズキンズキンと脈打つ痛みの余韻。

 

(そういえば……コウとよく一緒に来たわよね。ココ)

 

 それだけではない。

 

 忘れもしない、一昨年の八月三日。

 

 光一郎はここで、(ほたる)に惚れていることを告白したのだ。

 

 それを告げられた時、エカテリーナは頭が真っ白になった。

 

 あの時は関心の無い風を装っていたが、心の中ではショックを受けていた。

 

 高嶺の花どころじゃないからやめとけ、と気だるげに言った時も、必死に「諦めてほしい」と願っていた。そんな人放っておいて、また自分だけを見ていて欲しいと。

 

 ——だけど、光一郎は、諦めなかった。剣を取ることを決めた。

 

 その上で、自分を頼ってくれた。学校で唯一仲が良く、そして剣がそれなりに立つ自分のことを。

 

 エカテリーナは、それを突っぱねず、頷いてしまった。

 

 悔しいけど、惚れた弱みというやつだ。好きな人に頼られたことが嬉しかった。それに、ある種の罪滅ぼしもあった。光一郎が学校で孤立していたのは、ひとえに自分と仲良くしているせいだったからだ。

 

 それから、光一郎は剣の道へ邁進した。

 

 光一郎には、天賦の才があった。それを劇的に開花させ、数段飛ばしの勢いで強くなっていった。

 

 そして……螢に手が届く時が、着実に近づいている。

 

 彼が剣を握った日からずっと見守ってきたエカテリーナだからこそ、分かる。

 

 光一郎はきっと——螢に打ち勝ち、彼女と一緒になるだろう。

 

 自分を置いて、いなくなってしまうだろう。

 

 そう考えた瞬間、一度は沈静化していた悲しさが、徐々に活性化してきた。

 

 目に、必要以上の潤いが浮かび上がる。視界が水中のように大きく揺らぐ。

 

 その潤いが涙滴としてこぼれ始める。

 

 本格的に泣き出しそうになった、その時だった。

 

 

 

 

 

「——расцветали яблони и груши(林檎と梨の花が咲き)」

 

 

 

 

 

 声が、聞こえた。

 

 小さな、しかし途切れることなくエカテリーナの耳に入ってくる、歌声。

 

 

 

 

 

「——Поплыли туманы над рекой(川の水面に霧が漂う)」

 

 

 

 

 

 その声の聞こえる方向へ向く。

 

 ベンチに先んじて座っていた女の子の口からだった。

 

 

 

 

 

「——Выходила на берег катюша(カチューシャが岸に出てきた)」

 

 

 

 

 

 俯いているため、垂れている長い黒髪のせいで顔がよく見えない。

 わずかに見える唇が小さく動き、洞窟の隙間風のように、儚げな歌声が流れてくる。

 

 

 

 

 

「На высокий берег на крутой(高く険しい岸に)」

 

 

 

 

 

 エカテリーナが——()()()()()()がよく知っている歌を。

 

 

 

 

 

「Выходила на берег катюша(カチューシャが岸に出てきた)

 На высокий берег на крутой(高く険しい岸に)」

 

 

 

 

 

 気がつくと、「その次」を、()()()()()()が口ずさんでいた。

 

「Выходила песню заводила(出てきたカチューシャは歌い始める)」

 

 ()()()()()()が、「カチューシャ」を歌う。

 

「Про степного сиэого орла(草原の薄墨色の鷲の歌を)」

 

 先ほど流そうとしていた涙を忘れ、歌っていた。

 

「Про того которого любила(愛する男の歌を)」

 

 歌声を止めてこちらを見つめる女の子と目が合う。

 

 静かな、墨色の瞳だった。

 

 ()()()()()()は、ただ歌う。

 

「Про того чьи письма берегла(大切な手紙をくれた人の歌を)」

 

 止まっていた少女の口も、そこから一緒に動き出す。

 

『——Про того которого любила(愛する男の歌を)』

 

 同じ言語と歌詞を紡ぐ異なる声が、調和する。

 

『——Про того чьи письма берегла(大切な手紙をくれた人の歌を)』

 

 そこで、歌は止まった。

 

 女の子と、そして()()()()()()は、ただ口元に微笑を浮かべて見つめ合っていた。

 

 ……心の中には、久しく晴れやかな気分が訪れていた。

 

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