帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
時をやや
成人男性の上背を少し超える程度の塀に囲まれたその広い敷地の中心には、武家屋敷を思わせる巨大な邸宅が鎮座していた。さらにそこから外側へ根を張るようにして渡り廊下が数条伸び、周囲にいくつもある別館へと通じている。
その別館のうちの一つである茶室。夏や冬であっても、冷暖房完備で、しかもそれが目立たない場所に設置してあるため、春夏秋冬いつでも快適かつ風情を壊さず茶の湯を楽しめる。
程よく冷えたその空間に、しゃきしゃかと茶を練る音だけが控えめに響く。
それが止む。
茶の湯を交わした父子は、大人と子供ほどの体格差があった。小柄なのは父である唯明の方だが、その小柄な体に宿る深奥なる武力を、息子である寂尊はよく知っていた。
寂尊が弛緩した一息を入れると、唯明はやや見上げて視線を合わせてきた。細い眼差しの奥には、労いの意思の光があった。そのままおもむろに告げてきた。
「——長旅、ご苦労であったな」
「いえ。旅行とでも思えば楽なものです」
寂尊が静かに応じると、唯明は疲れたような鼻息を出し、
「強がらずとも良いぞ。
「……本音を申し上げるならば、少し、悪い変化が見られました」
素直にそう言った寂尊。
……日本で百万人以上、世界で三十万人ほどの門弟を抱える至剣流剣術。それを宗家として統べる嘉戸一族の人間は、国内外の宗家認可道場へと短期指導をすべく
現家元である唯明の次男の
バージニア州リッチモンドに、アメリカで最も大きな宗家認可海外道場が存在する。寂尊はそこで短期集中稽古をしていたのだが、
「門弟の数が、以前より大きく減っておりました」
「ふむ。なるほど……
「ついでに申し上げると……CIA所属だと名乗っていた門弟も去っております」
「……ほう?」
その細い目を興味深げにやや開く唯明。
「彼らはかつて、自分達がCIAだと名乗った上で稽古に参加しておりました。その目的は十中八九、『余計な真似はするな。マーシャルアーツ・ジムとしてのみ振る舞え』という、至剣流と嘉戸一族に対する無言の威圧。彼らはおそらく、至剣流という巨大流派を利用した、嘉戸宗家の「情報網」の存在を知っている。だからこその威圧。
……そんな彼らがいなくなった。まるで、もう何をしてもいい、と言わんばかりに。あるいは、
唯明は、見開いた目を再び細めた。普段以上の鋭さに。瞳の奥には針のような眼光。
「……なるほど。連中、我が流派をバージニアから叩き出したいわけか。
「今はまだ過程の域を出ませんが、おそらくは。——アメリカの反日運動は、リッチモンドでも起こったそうです。『
「だからお前からストッパー役を外して泳がせて、
「少なくともソ連の
唯明は大きく息を吐き、目元をやや緩めて寂尊を見た。
「そうか……改めて言うが、ご苦労であったな。急激な周囲の変化にも動じずに、冷静に物事を見極め、不要な行動を省く。ブレ無く研ぎ澄まされた一太刀のごとき振る舞い。やはりお前こそ、わしの後継に相応しい」
「ありがとうございます」
寂尊がおもむろに一礼。
唯明が手を突き出し、茶碗を寄越せと無言で告げる。寂尊が浅く一礼しながら手渡すと、再び多めに抹茶を入れ、鉄瓶の湯を少なめに注いでから、茶筅で練り上げる。それを半分飲み、残りを寂尊が飲み干す。
二度目の
「——望月閣下が、「
寂尊は「はい」と即答し、少し意外そうな声で、
「……
「十中八九、あのロシア混じりの小娘絡みであろうな。あの方もなかなか身内には甘いようだ。その甲斐あってか、「帝戦連」のロシア狩りは沈静化こそしたようだが……もっとも、それで今の帝国を取り巻く問題全てが解決するほど、状況は簡単ではなかったようだがな」
その通りだ。
源悟郎の苦言は、「帝戦連」を大人しくさせただけである。
帝都における反米、反軍縮の気風は、今なお盛んに燃え上がったままだ。
現在、この燃え上がりを助長させている要素は、主に二つ。
一つは、
もう一つは、
「『米露共謀説』か……なんとも無理矢理こじつけた感じの否めぬ俗説であるな」
「同感です」
「白人種が
特に、ロシア白人が西洋人の仲間であるかというのは、西洋側では賛否ある。なぜならロシアが西洋化したのは、ピョートル大帝がロシアの西洋化を急進させようとした十八世紀からであるためだ。そういった歴史的経緯ゆえに、西洋人は「西洋社会の辺境民」のようにロシア人を扱う傾向がある。
だが、少なくともその問題の外にいる一般の日本人の理解はそこまで進んでいない。顔が白ければまとめて「西洋人」という雑な認識が大半であろう。
何より、現在の世情。
「溺れる者は
はい、と寂尊。
「ところで、わしもお前にちょっとばかり、土産話がある」
「と、おっしゃいますと?」
「——『米露共謀説』の
寂尊は姿勢を正した。
唯明は話し始めた。
「陰謀論や俗説というものは、必ず
「面白いこと、ですか」
「うむ。それらの団体が『米露共謀説』を唱え始めた日は、
唯明は寂尊から翡翠の碗を受け取ると、再び茶を練り始めた。その作業をしながら口を動かす。
「無論、公に『米露共謀説』を唱える前に、各団体同士が『米露共謀説』を教え合った可能性もある。なのでもう少し深く潜って調べてみた。個々の団体の掲げる主義や思想、構成員やそれらの素性など、いろいろとな」
「何か判りましたか」
唯明の茶筅が一瞬止まった。同時に発せられたのは、たった一言。
「——
思わぬ単語が耳に入り、寂尊はおくびにも出さないながらも驚く。
茶筅が再び抹茶と湯を練り始める。唯明の口も動く。
「調べた団体は、みな『枢剣教』の信者を多く抱えていたのだ。……お前も知っていよう。枢剣教を」
「はい。去年の末に生じた、新しい宗教団体ですね」
「左様。神懸かりを起こして
「枢剣教についても、掘り下げられましたか?」
唯明はかぶりを振った。
「信者の中には、至剣流の門弟も多かった。その者らの師範経由で話を伺ったが……「開祖は素晴らしいお方だ」「あのお方の力は本物だ」「彼女こそ、この国を再び平らげてくださる剣神の化身」。連中の口から出てくるのはいずれも開祖への褒め言葉のみ。全員まとめて、開祖に心酔しきっている様子だ。情報源である門弟がこれでは調査にならん」
「ならばせめて、『枢剣』についても、調べられましたか?」
「それも無理だった。なんでも「『枢剣』はみだりに
唯明は茶を練るのをやめて茶筅を置くと、空いた右手の指で虚空にぴっぴっと軌道を幾度か描く。
「
んんっ、と咳払いする唯明。
「話を戻そう。『米露共謀説』についてだが、やはり枢剣教においても
「どういった人物なのですか?」
「常に
「他には」
「
唯明は遺憾と言わんばかりに溜め息を差し挟み、
「——わしの調査は、今のところはこの吾妻という男の段階で行き詰まっている状態だ。だがそれでも、分かった事がある。この『枢剣教』という団体……妙に
「開祖の持つという「神の剣」についても気になります。本当に、そのような力を持っているのでしょうか?」
「分からぬ。何せ、信者がその「神の剣」とやらで得たらしい『枢剣』を、頑なに見せるのを嫌がっているからな。実物を目にしない限り断定は出来ん。だが……仮に『枢剣』が実在するとしたら」
「少々面倒なことが起こりますね。枢剣教自体がどのような組織的性質を持っていたとしても、放置することはできなくなってくる。まして、帝室にゆかりの無い者の神秘性で成り立った組織が大きくなれば、国体護持を重んじる内務省にとって脅威となるでしょう」
「いずれにせよ、今の所、我々に出来ることは無い。どうなるか、もうしばらく静観しようではないか」
唯明は翡翠の碗の茶を半分飲み、次に寂尊が残りを飲み干した。
三度目の濃茶で心身を整え、また次の話題へと転ずる。
「寂尊。もう一つ、お前に土産話がある」
「何か」
短く問うと、唯明は面白がるような、呆れたような、そんな笑みをニタリと浮かべて告げた。
「——明日、
今回は単話投稿です。
連投分をこれから書き溜めます。