帝都初恋剣戟譚   作:新免ムニムニ斎

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未来救世主とオネーギン

 

 ——八月十二日、午前十一時ごろ。

 

 受験勉強で切らしてしまったノートを補充すべく、僕は外出した。

 

 やはり八月真っ只中なだけあって、外は炎天下だった。ただ歩いているだけで額に汗が浮かび上がり、背筋を雫が伝う感触が増える。

 

 それでも不思議とへばらないのは、去年、夏の暑さの中で撃剣の稽古を散々やったことによって、暑さへの耐性が多少ついたからか。

 

 無事、文具屋でノートは買えた。

 

 目的は果たしたので、あとはまっすぐ家に帰るだけだ。

 

 しかし、僕の足は、家とは全く違う方向へ進んでいった。

 

 買ったノートを携え、額の汗をときどき腕で拭いながら歩き続け、やがてたどり着いたのは——エカっぺの家だった。

 

 二年以上の仲であったにもかかわらず、つい最近にここの存在を知った。しかも初めてこの家を目にしたのは、「帝戦連(ていせんれん)」の連中が乱暴狼藉を働いている現場だったので、目にすると否応無くその時の光景が想起されてしまう。……当然、エカっぺのあの告白も。

 

 一本道沿いに玄関を構える伊藤(いとう)家。その家の門を、僕は離れた場所に伸びる電柱の陰から覗いていた。……今のところ、家へ入ろうとする者も、立ち寄って何か悪戯しようとする人間もいなかった。

 

 そう。僕はあの家がなおも嫌がらせを受けていないかどうか、確認しに来ているのだ。

 

 今日だけではない。ここ最近、一週間に一回か二回くらいの頻度でそうしている。

 

 そうやって目を光らせて、伊藤家を出来る限り守ろうと考えていた。

 

 ……だが正直言うと、それは表向きの理由だ。

 

 本当は、エカっぺの様子が気になるだけ。

 

 見つけたら、声をかけたい。話をしたい。それだけだ。

 

 しかし、声をかけたことは、この見守りを始めてから一度も無かった。

 

 なんて声をかける?

 

 ——この間はまいったね?

 ——色々あったけど、水に流そう。

 ——今日は良い天気だね。

 

 どれも違う。

 何を言えばいいのか、分からない。

 半端な事など言おうものなら、ただでさえ傷ついているエカっぺをさらに傷つけてしまうだろう。だから慎重にならざるを得ない。

 上手い声掛けが思いつかないため、踏み出せない。

 だから結局いつも、こうやって家の門を遠くから眺めるだけで終わる。

 

(……偏執狂(へんしつきょう)みたいだ、僕)

 

 そのように自分の情けなさを自覚したとたん、足が(きびす)を返そうとする。

 

 だが、その足が止まった。

 

 ——玄関前に、人が来たからだ。

 

 僕から見て向かい側の方向から来た一人の女の子が、エカっぺの家の玄関前に来るや、そこへサンダルの爪先を向けたのだ。

 

 峰子(みねこ)かと一瞬思ったが、すぐに違うと判った。

 背中に降りた長い髪、端正だがどこか素朴な感じの抜けない顔つき、白いワンピースから伸びる長い手足。

 そんな特徴を持つ謎の少女は、家のインターホンを押してから、そのマイクに向かって何かぼそぼそ言った。……この距離だと、よく聞こえなかった。

 

(誰だろう? 悪戯しに来たって雰囲気じゃなさそうだし……)

 

 僕が(いぶか)しみながら、その見覚えの無い彼女を遠くから観察していた。自然と前のめりになり、電柱から顔を伸ばしていた。

 

 だがその時——ぐりんっ! と、彼女が勢い良くこちらを振り向いた!

 

 反射的に電柱に隠れた僕。

 

 どっ、どっ、どっ、という自分の心音を他人事みたいに実感しながら、その状態でしばらく待つ。それから再び恐る恐る玄関側を覗き込んだ。……あの女の子は、もういなくなっていた。おそらく、伊藤家の中に入ったのだ。

 

 まさかホラー映画みたいに、誰も居ないと見せかけて後ろからワッと現れたりしないよな……という予想も、振り返って無人だったことを確認したことで予想倒れとなり、安心してため息をついた。

 

(誰なんだろう、あの子は? インターホンを押してから家に入ったってことは、少なくとも客であることは確かだろうけど)

 

 見た感じの年代から察すると、エカっぺの知り合い? もしくはそのご両親の?

 

 エカっぺの知り合いだとしたら、どういう関係なんだろう? 

 

 エカっぺは、僕や峰子以外に友達はいないと言っていた。だとするなら、さっき見た彼女は一体——

 

「…………帰ろう」

 

 自分の思考の気味悪さを自覚した僕は、今度こそ伊藤家に背中を向けた。

 

 エカっぺが、僕の知らないところで誰と仲良くなっていようが、僕には無関係だ。エカっぺにだって、僕の知らない、言いたくない秘密くらいあるはずだ。

 

 いつまで僕は唯一の理解者を気取っているつもりなんだ。

 

 ——彼女の秘めたる想いに気づけなかったどころか、彼女の家の場所すら知らなかった分際で。

 

 重苦しい気分を引きずりながら、僕はとぼとぼと帰ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八月十二日、午前十一時——家を訪ねてきたリュドミラを、エカテリーナは快く迎え入れた。

 

 リュドミラがこの伊藤家を訪れたのは今日で二度目だ。

 

 初めて会った九日、彼女のワンピースを洗って乾かして返した後に「次はいつ会える?」と問うと、リュドミラは今日この日を告げた。だからこうして遊びに来てくれたというわけだ。

 

 ……あの日のリュドミラとの出会いを、エカテリーナはどうしても一期一会(いちごいちえ)にはしたくなかった。

 

 日本では稀有なロシア語話者だというのもある。

 

 だけどそれ以上に、エカテリーナは彼女に(ほだ)されてしまったのだ。

 

 彼女のどこか掴み所が無くふんわりした気風は、今にも重く沈んでしまいそうだった自分の感情を、柔らかく受け止めてくれた。まるでパズルの二片が噛み合うように。

 

 あの柔らかな肌とほんのりした体温、そして小麦みたいな心地良い匂いに包まれながら思いっきり泣いたことで、自分の中に重く溜まった(おり)のようなモノが涙とともに吐き出され、気持ちが楽になった。

 

 差別を受けるだけならまだしも、そこに恋の悩みも付属しているため、親に泣きつくことが出来なかった。親ではないからこそ、それも初対面の相手だからこそ(すが)れることもあるのだと、エカテリーナは初めて学んだのだ。

 

 まだ自分の中には、光一郎への強い想いと、それが叶わない事への鬱々(うつうつ)とした気持ちが残っている。だがそれでも、ここ最近は少し気分が良かった。

 

 最近ほぼ手付かずだった受験勉強に取り組む気力も湧いた。

 

 ——そんな気持ちを自分にもたらしてくれたリュドミラという女の子と、もっと一緒に過ごしたかった。

 

 リュドミラは玄関でサンダルを脱いで裸足で家へ上がるや、開口一番「あの漫画を読みたい」と言い出した。エカテリーナはその要望に思わず吹き出してから、彼女を部屋に案内した。同じく裸足であるエカテリーナの、ぺたぺたという足音がやけに大きく聞こえた。

 

 エカテリーナの部屋へ着くなり、リュドミラは本棚へと直行した。参考書、過去問集、小説、漫画、様々な背表紙が並ぶ中、リュドミラはしゃがみ込んで迷わずその漫画本を手に取った。……ある人気漫画の途中巻だった。

 

「リュドーチカってば、すっかり気に入っちゃったみたいね。それ」

 

 エカテリーナが苦笑気味に言うと、リュドミラはふんふんと二回首肯し、「グリムリーパーじゃなくて(はかま)を穿いた死神というのと、いろんな刀が出てくるのが面白い。台詞回しも秀逸」とやや早口気味に言った。ぼんやりした目もいつもより少しばかり光って見えていて、しゃがみ込んで突き出た小さなお尻に犬の尻尾を幻視しそうだ。

 

 ……その漫画は当然ながら、日本語表記である。

 リュドミラがそれを「台詞回しが秀逸」と評価している。

 それは、その漫画が好き、ということ以外にもう一つの示唆(しさ)を拾える状況だった。

 

 ——リュドミラは、ロシア語だけでなく、日本語も解る。

 

 以前、その漫画を普通に読んで理解しているのを見て、エカテリーナは驚いた。読めるのかと問うと「「先生(ウチーチェリ)」に教わった。ちなみに英語と中国語も喋れる」と簡潔に答えた。

 

 それにさらに驚きながら、エカテリーナは悟る。「先生(ウチーチェリ)」と呼ばれるリュドミラの保護者は、彼女にかなり良質な教育を施していることを。

 

 ぽけっとして不思議な感じのこの少女がそんな上等な存在だと知った時、エカテリーナは素直な称賛の気持ちを抱くと同時に、ほんの一瞬、少しだけだけど……怖い、とも思ってしまった。まるで自分の理解を超える生き物を前にしたような気持ち。

 

 だけど、そんな気持ちで見つめるこちらに対し、ぼんやりした表情のまま小さな頭を傾げるリュドミラを見て、その気持ちは可笑しさで吹っ飛んだ。彼女が理解を超える生き物であったとしても、それはきっと可愛らしい珍獣の類だろう。

 

「……カチューシャ、どうしたの?」

 

 そんな以前の記憶を思い出しながら、気がつくとリュドミラの髪を撫でていた。さらさらしてて気持ちが良い。ずっと触っていたい。ひとりでに口元が(ほころ)ぶのを感じる。

 

「なんでもない。リュドーチカは可愛いなーって」

 

「うん?」

 

 小首をかしげてから、リュドミラは同じ漫画本を一巻ずつ本棚から取り出して手元に集めていく。

 

 今は夏真っ盛りであり、エアコンの無いエカテリーナの部屋ではいささか快適さに欠ける。なのでエアコンのあるリビングへと漫画を持っていって読もうという考えだった。……ちなみに両親は留守だ。なのでしばらく二人きりで楽しく過ごせる。

 

「リュドーチカ?」

 

 そこで、リュドミラの動きが不意に止まったのを見て、エカテリーナは思わず呼びかける。

 

 本棚のうち、漫画本のある段は、水平二列に本が並んでいる。表にむき出しになった背表紙の漫画を抜き出すと、その裏側にまた漫画が並んでいるという感じだ。……リュドミラは自分が抜き出した数冊の漫画本の奥へ手を突っ込み、おもむろに一冊の漫画単行本を取り出した。

 

「あ……」

 

 『未来(みらい)救世主(きゅうせいしゅ)松田(まつだ)』——その題名を見て、エカテリーナは思わず息が詰まった。

 

「これ、面白い?」

 

 リュドミラがこちらを向いてそう問うてきた。

 

 いつもの眠たげな目。彼女からすれば、何気なく見つけた単行本を取り出しただけに過ぎないだろう。

 

 しかし、今のエカテリーナにとって、その『未来救世主松田』の表紙が目に入ったのは、不意打ち(・・・・)だった。

 

「……カチューシャ?」

 

 言葉に詰まっているこちらを怪訝(けげん)に思ったのだろう。リュドミラが少し前屈みになって覗き込むようにして再び訊いてくる。

 

「え…………え、えっとね、面白くなかった、っていうか……あたしには刺さらなかった、かな。実際、ジャムプでも四巻分の話で打ち切りだったし」

 

 取り繕うようなたどたどしさのあるその答えに、リュドミラが軽く頭をかしげた。長い黒髪が微風になびかれた紗のように揺れる。

 

「面白くないのに、全巻揃えたの?」

 

 リュドミラは最終巻である四巻の背表紙を一瞥(いちべつ)し、そう追求してきた。

 

 エカテリーナは胸の奥に痛みを覚えた。心の一番柔らかい部分に、ささくれが刺さったような気分だった。

 

 その不快感を胸にしまっておくのが嫌になり、誰かに聞いて欲しくなり、そして目の前にそれを受け止めてくれるであろう少女の存在を再認識し、吐露した。

 

「……それね、コウが好きだった漫画なの」

 

「コウ……?」

 

 甘えだと分かっていても、止められなかった。

 

「——あたしの好きだった、ううん、今でも好きな人の名前」

 

 リュドミラはそれを聞くと、眼を二回まばたきさせてから、ぺこりと軽く一礼してきた。

 

「ごめんなさい、カチューシャ。嫌な事を思い出させて」

 

「い、いいのよ別に。知っててやったんじゃないんだし」

 

 謝罪に対し、掌をかざしてそれをとどめる。

 

 エカテリーナは『未来救世主松田』の表紙を寂しい気持ちで眺めながら言った。自分でも驚くほどに、弱っていてしおらしい声だった。

 

「……あの人と、同じモノを見たかったの。同じコトをしたかったの」

 

「だから、この漫画も?」

 

 こく、と黙って首肯する。

 

 それから、今度は自分を痛めつけるような揶揄の響きのある口調で、

 

「でも……だからなんなの、って感じ。そんなことしたって、コウはあたしに振り向いてなんかくれない。あたしがどんなに見つめたって、寄り添ったって……彼はこっちを向いてはくれない。自己満足以外の何だって話」

 

「カチューシャ……」

 

「ほんっとにバカみたい。あたし。やっぱりそんな漫画、早々に捨てることにするわ」

 

 自分で言って、なぜか心が痛くなった。それによって自分の未練がましさを再認識し、腹が立ってくる。

 

 それから再び、沈黙が訪れる。息がつまるような沈黙だった。

 

 何か言わないといけないのに、喉元に詰め物をされたように言葉が出て来ない。

 

 対し、リュドミラは『未来救世主松田』を床に置くと、本棚を再び視線で探り、やがて一冊取り出した。随分と年季の入った文庫本。自分の本棚の一冊なのに、ソレが何の本か思い出せない。それくらい、記憶の曖昧な一冊。

 

「——やっぱり、ロシア人の本棚には、必ず一冊はプーシキンがある」

 

 言いながら、リュドミラが見せてくれた表紙には『オネーギン』という題名。

 

 思い出した。そんな本だった。

 

 近代ロシアの文豪、アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンの文学作品。その和訳本だ。

 

 ロシアといえばプーシキン、と言われるほど偉大な作家であり、その作風と表現はのちのロシア文学に濃厚な影響を与えている……と、父ルドルフが教えてくれた。

 

「置いてあるだけよ。パパから貰っただけで、まともに読んだ事はないわ」

 

 この本は、小学三年生の頃、ルドルフから譲られたモノだ。

 

 日ソ戦後、社会の排露的気風の影響で、プーシキンを初めてとするロシア文学の和訳本を多くの店が販売自粛してしまった。そういう理由で今は手に入りにくいため、譲ってくれたというわけだ。

 

放蕩(ほうとう)な貴族の若者オネーギンが、かつて手ひどく袖にした貴族令嬢のタチヤーナに恋に落ちて、だけど今度は逆に袖にされる……簡単に言うとそんな話」

 

 リュドミラは、ただあらすじを説明しただけだろう。

 

 だけど、今の弱りきったエカテリーナの心に、その悲恋の話のあらすじは痛かった。

 

 最初から結末が分かりきった恋ほど、辛いモノは無い。

 

 いっそ、光一郎は螢を好きになる、という未来が最初から分かっていたら、自分は——

 

「……カチューシャ?」

 

 気がつくと、エカテリーナはリュドミラの胸に飛び込んでいた。

 

「ごめん、リュドーチカ……ちょっとの間、こうさせて……」

 

 彼女の背中に回した腕の力を強め、小麦みたいな匂いのする柔らかい体温の中へ顔を埋め込む。ゆっくりとした心音が聞こえてくる。

 

 自分の感覚を彼女の存在でいっぱいにすることで、さっきまで考えようとしていた、嫌な事を忘れようと努める。

 

 ……確かに、叶わない恋だったかもしれない。

 

 けど、だからといって、最初から出会わなければよかった、なんて卑屈な考え方はしたくなかった。

 

 だって……彼は、自分の事を何回も救ってくれたから。

 

 たとえ叶わない想いであっても、彼からもらえたモノはとても多かったから。

 

 家族以外に心を許す経験。楽しく充実した学校生活。同性の友達。尊敬できる剣師。賑やかな日々。そして、将来の夢。

 

 彼との出会いがあったからこそ、あんなに楽しい中学生活を送ることが出来たのだ。

 

 だから、彼と出会わなければよかった、なんて考えは絶対にしないし、したくない。

 

 でも……出会った事を否定しないからこそ、叶わない想いとも向き合わなければならなかった。

 

 それが、辛かった。

 

 ……リュドミラの手が、こちらの髪を優しく撫でる感触。

 

 辛さから逃避するように、エカテリーナは五感いっぱいにリュドミラをしばらく感じ続けた。

 

 

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